第六章 乱れ

松原のこと

 慶応元年の秋まで、時を先に進めたい。読者諸氏は、序盤にチラリとだけ名の出た、松原忠司まつばらちゅうじという男を覚えているだろうか。

 新撰組がまだ壬生浪士組であった頃に入隊し、伊東が加わってからは四番組の組長をしている。温厚な人柄で、僧兵のように坊主頭に鉢巻という出で立ちの他はあまり目立たぬ男であったが、剣も薙刀もでき、更に柔術も得意であったため、新撰組になってからは柔術師範になっている。一説によれば、というより子母澤寛先生の創作の産物であろうが、斬った長州浪士の女を囲い、その責を負って自刃したという。


 その長州浪士を斬ったとき、十一番組も同時に出動しており、久二郎と彰介もそこにいた。この頃になると、幕臣によって組織された見廻組がかなり力をつけ、新撰組と巡察の区割りなどをし、手柄を競っていたから、新撰組では一度に巡察に出る人数を増やし、取り漏らしなどのないよう工夫をしていた。

 二組が同時に、黒い羽織を着て街を歩くと、なかなかの威圧感がある。その様を見ると、新撰組が来たとして浪人どもが血相を変えて逃げた。それを、松原と久二郎は協力して追った。二人は、特別仲が良いわけでもないが、壬生浪士組の頃からの馴染みだから、連携は上手くいく。

 四番組、十一番組それぞれの死番の隊士が追いすがって斬り込み、逃げる五人の浪士のうちの二人を斬った。死にはしないが、痛手を受けた浪士は地に転がる。それに、ほかの隊士がすかさず縄をかける。

「綾瀬さん、あちらの一人を。私は、二人を追います」

 数でいうと、新撰組は、十数人である。それが、五人の浪士を追い回すわけだから、捕り漏らす方がおかしい。十一番組に一人を任せ、自らは二人を追うあたり、松原という男がよく見える。確か天保五年の生まれであったから、歳は久二郎より十も上ということになる。しかし年下の久二郎にも敬語を使い、滅多なことでは怒らず、いつも穏和で沈着で、真面目であった。

 二手に分かれて逃げる敵のうち、久二郎はすぐに一人を捕らえた。それを隊士に任せると、すぐに松原の方へ駆けた。一人は、既に縄をかけられて転がっている。もう一人と、松原が対峙している。その若い浪士が、秋の空気を切り裂くように、刀を振り下ろした。なかなかの手練れらしい。手練れであったがために、つい、松原の身体が相応の反応をした。

 若い浪士の刀がぬるりと流れたと思った次の瞬間には、その腕がおかしな方に曲がっている。

 温厚な松原が、戦いのときにだけ発する、気合いの声。片手に握った剣が、閃く。

 浪士は、腹からはらわたをこぼし、倒れた。

 しばし、沈黙。

「ああ、斬ってしまった」

 松原は、その男の前に膝をついた。

「済まぬ。こうするしかなかったのだ」

 久二郎はその背を見ながら、刀を納めた。


 捕らえた浪士は、小物ばかりであった。長州に繋がりは持っていたものの、どこの出とも知れぬ使い走りであった。拷問にかけても大した話が出ぬため、ぼろぼろになった四人を放り込むようにして奉行所へ突き出した。

「これから、また、獄吏に、身体を責められるのだ」

 大した詮議もないまま、獄に入れられるのであろう。そこで、取り調べと称し、想像を絶する苦痛を与えられ、そして死ぬ。

「これならば、あのとき松原さんに斬られた者の方が、まだ良かったのかもしれませんね」

 誰にともなく助けを乞う憐れな声を上げる四人の浪士を見送りながら、久二郎は呟いた。松原が、うつ向いた。

「済みません。おかしな物言いを、してしまいました」

「いえ、構いません。あの浪士には、可哀想なことをした」

「我らもまた、命をかけているのです。悔やむことはありません」

「女が、いたそうです」

 監察方が、それを探り当てていた。

「きっと、今も、あの男の帰りを待っているのでしょう」

 久二郎は、春のことを思い出した。自分が死ねば、春も、帰らぬ人を待つことになるのだ。だから、余計に、相手を斬ってでも生き残らなければならない。

「可哀想に」

 女など持ったことのない謹直な松原は、ただ憐れんでいるらしい。

「松原さん。そんなことを言っていては、戦えませんよ。人には、必ず、親もいれば待つ人もいる。それを押してでも、守らねばならぬものがある。だからこそ、我らは働いているのではありませんか」

「わかって、いる。ただ、あの男と、残された女のことを悲しんでいるだけです」

 松原は、少し瞑目した。

「さあ、戻りましょう」

 西本願寺の屯所に、二人で戻った。


「彰介」

 伍長である彰介は、一人部屋である。

「久二郎」

 今は二人だけなので、組長、とは言わない。

「どうした。奉行所に、行ってきたんだろう」

「ああ、行った」

「何かあったか」

 彰介は、最も心を許したお幼馴染みの組長に訊いてやった。

「松原さんのことだが」

「松原さんが、どうした」

「先日の浪士を斬ったことを、かなり気にしているらしいのだ」

「斬ったことを?」

 新撰組が、敵を斬ったことを気にするなど、聞いたこともない。

「女がいて、それが可哀想だと言うのだ」

「女は可哀想だが、言っても仕方あるまい」

 そういえば、彰介はこのところ、以前に比べて多弁である。昔は、もっと無口で、問いかけても表情だけで答えるようなことが多かった。

「そうだ」

 と、さいきん、新たに話すということを覚えた、この大男は言った。

「松原さんが、その女の面倒を見てやればよいのではないか」

「馬鹿な」

「少なくとも、松原さんの気は休まるのではないか」

「しかし、彰介。斬った相手の身内の面倒までいちいち見ていては」

「そもそも、何故、松原さんがそれほどまでに、このことを気にするのかが、分からん。この話のかなめは、そこだろう。分からんものを、俺達がいちいち論じても、仕方あるまい」

 久二郎は、やはり違和感を禁じ得ない。以前の彰介なら、あり得ぬような話の立て方である。べつに嫌ではないが、違和感は違和感である。

「松原さんに、話してみる」

 ああ、とだけ言い、彰介は久二郎によって中断させられていた書見を再開した。


「松原さん」

 久二郎は、松原に声をかけた。

「やあ、先程は」

 と、いつもの温厚な表情を崩さない。

「あの浪士のこと、気にかかりますか」

「もう、よいのです」

 松原は、屯所の宿営として、西本願寺の門の奥の建物の、まだ白木の匂いのする柱に手をかけ、外を眺めた。踏んでいる廊下の板もまだ黒っぽくならず、足の裏に乾いた感触がある。

「このところ、不思議に思うのです」

 松原は柱に手をかけたまま言った。

「何故、我らはここにいるのかと」

「何故、とは」

「我らがまだ壬生浪士組であった頃といえば、もう二年も前になりますか。あの頃は、良かった」

 危ないことを言う、と久二郎はひやりとした。

「あの頃は、毎日、何かすることを探して、会津様から与えられた役割があれば、必死でそれに応えようと皆が躍起になっていた」

 同意したくても、かんたんにはできぬ危うさがある。

「しかし、今はどうです。放っておいても重大なお役目とやらが局長などには舞い込んできて、私達は、その地固めのため、敵を、そして仲間を斬るばかりではないですか」

「松原さん、やめて下さい」

「いいえ、相応の覚悟をもって、私は言っています。斬った相手にも、生きてきた道が、これから生きるはずであった道が、あったのです。それを、新撰組のためとして私の手で閉ざしてしまっても、よいものなのでしょうか」

 柱から手を離し、縁側を降りた。鴨川のものか、比叡山の山麓の白川のものか、白い砂利が敷かれ、松が植えられている。もし何かあればこの白い砂利の上に幕が引かれ、その中で松原は腹を切り、砂利はその血を吸うであろう。

「松原さん」

 久二郎は、おそるおそる言った。苦悶の表情の松原が、振り返った。

「女の面倒を見てやればよいのではないか、と言う者もいます。その方が、松原さんの気も休まるだろう、と」

「女の面倒を?確かに、香典くらいは包んでやってもよいとは思いますが。そうか、罪滅ぼしというわけですか」

 松原は、少し笑った。

「考えてみます。私は、何をすべきなのかを」

 その表情を、久二郎は注意深く観察した。

 その夜、松原は、一人で屯所を出た。監察の山崎に、女の家の場所をそれとなく聞いてから、出ている。

 山崎は、何の気なしに、女の家の場所を教えた。「京」と呼ばれた区域から外れた、こんにちでは京都市左京区の南西部に位置する白川村。教えてから、山崎は考えた。考えて、部屋を飛び出し、土方のもとへ直行した。

 

 松原は、背後の気配を聞きながら、歩いている。旅の格好をしながら。

 このまま、逃げるつもりである。ただ、その前に、女に会い、一言詫びを入れてから、行くつもりであった。

 背後の気配は、逃げたことを察した新撰組が放った追っ手かと思ったが、殺気はない。それで、気配の持ち主が誰なのか分かった。その気配の消し方の上手さも、その持ち主のことを、松原に教えていた。

 松原は、それを気にも止めず黙々と今出川通りを歩いた。下鴨神社のただすの森が左手に黒々と浮かんで見える木橋を通り、鴨川を渡る。更にしばらくゆくと、畑が左右に広がる道の先、ぽつりと灯る明かりが、女の家の位置を知らせていた。

 家の中を少し窺ってから、声をかけた。しばらくして戸が開き、女が出てきた。どうやら、この家で間違いないらしい。旅装の笠を取り、深く一礼をし、何かを差し出す。

 女は、それを拒んでいるらしかった。それでも、松原はその包みを押し付けるように渡した。少しのやり取りの後、ゆるゆると滑る戸が閉まりきっても、まだ、松原は頭を下げていた。

 頭を上げ、女の家からさらに東に十歩ほど歩いたとき、松原は立ち止まった。

 松原が歩いてきた畑道の闇から、久二郎の姿が滲み出した。

「何も言いません。このまま、戻りましょう」

 松原が、振り返った。

「戻りません」

「あなたは、斬った浪士のことを気にかけ、今夜、ただ、香典を渡しに来たのだ。それでよいではありませんか」

 松原が、吹き出すのが分かった。

「このような夜更けに女の家をいきなり訪れ、香典を渡す者がありますか。私は、そのような話を信じてもらえるほど、分別のない男と思われぬよう、振る舞ってきたつもりです」

 なるほど、藤堂や原田ならともかく、松原ほどの常識人が、そのようなことをするはずがない。香典を贈るなら、隊に話を通し、昼間、渡す。

「綾瀬さん、もう、決めたことなのです」

「今からでも、遅くはない」

「私をここで逃がせば、山南さんが死んだことも、無意味になる。あなた達の新撰組のため、あの人は死んだのです」

「松原さん。あなたが死んで、何になるというのです」

「もとより、死に、意味などありません」

 松原は、腰を落とし、体を開いた。

 抜くのか。抜けば、すべてが終わるというのに。

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