かくれんぼ

 文久三年の春は更に深まり、そして終わろうとしている。

 探し方も相変わらずだから、未だに千の行方は分からない。顔のわりあい広そうな瞬太郎も気にはかけてくれているらしいが、やはり有力な情報はない。

 世話になっている道場主の大政為二郎は、このところめっきり寝込みがちで、久二郎と彰介で身の回りの世話をあれこれしてやっている。

 初夏の風の吹く四月の末になった頃、伏せる大政が言った。

「あれが、私の、最後の剣だったのだ」

「どういうことです」

 久二郎が、訊いた。

「お前たちが、道場を訪れたとき、見せた剣が、だ」

 確かに、大政は道場主とは名ばかりで、老いのせいか一向に稽古もせず、道場も久二郎らがきれいにするまでは、埃の被るままに任せてあった。

 この当時、道場というものは神聖なものである。神武天皇の十八年に創建されたと伝わり、日本書紀に記される大国主命オオクニヌシノミコトの「国譲り」の際に登場する布津主フツヌシを祀り、東国の武家政権がお決まりのように慕ってきた香取神宮の香取大明神も祀られており、普通、道場といえば朝にはその榊の水を換え、念入りに拝んでから一日の勤めを始めるものだが、大政はそのようなものには頓着しないのか、蜘蛛のしたいようにさせているのである。

「剣を用いずして、勝つことができぬものか、とずっと考えてきた」

 思い返すようなことを、大政は言った。久二郎は、大政のためにそれを嫌ってやった。

「そのようなこと、今は関わりありません。もう、お休みになった方がよいのでは」

「いや、聞いてくれ」

 久二郎は、なにか悲しいものがここにやって来ているような気がして、しかし、それをしっかりと受け入れなければならぬようにも思えて、正座の膝を大政に向けた。

「私は、若い頃から諸国を漫遊し、あちこちの武芸の教えを受けた」

 この時代、士分は、勝手に国を移動してはならないことになっている。しかし、久二郎のような士分でない者はもちろん、浪人者や出自のはっきりしないにわか武士も多い時代であるから、刀を差して関所を通る度に見咎められるようなことはなく、手形さえあれば通行は簡単であった。手形は、住む地域を治める藩の役所などに申請をすれば、わりあい安易に発行される。こんにちで言えば、自治体の役所で書類を申請するようなものである。

 剣術や武術の修行は、その正当な理由として認められていた。諸国を漫遊し、あちこちで武芸に触れ、剣を用いずして勝つ剣を探すとは、大政はひょっとすると、古い宮本武藏や、塚原卜伝、伊藤一刀斎などの人物に少年のような憧れを持っていたのかもしれぬ。

「だが、そうするうちに、世の中はますます乱れた。私がどれだけ剣を用いずして勝つ剣を探そうとも、このところは、剣で相手を制する手合いばかりが増えてきた」

 それを、久二郎らに語って、どうするというのか。彰介もこの場にいて、久二郎の後ろで長く伸びた影のように大柄な体を縮めている。

「お前たちは、違う」

「どう、違うのです」

 薄く粗末な布団を、胸のあたりまで引き上げてやった。

「お前たちは、殺すためでなく、守るために、剣を使えるはずだ」

「どういうことです」

「お前たち、人を斬ったろう」

 大政の眼が、急に光を帯びた。久二郎らは、少し硬直した。

「なぁに、見れば分かるさ。俺は、若い頃なんかはそれはもう、真剣でも木剣でも、果たし合いを何度もしたもんさ」

 大政の口調が、突然、強い東国訛りになった。ひょっとすると、東国の生まれで、若い頃はこのような話し方をしていたのかもしれぬ。

「だが、何人倒しても、俺の剣の曇りは取れなかった。いや、違うな。斬れば斬るほど、俺の剣は曇っていったんだ」

「剣が」

「そうだ。お前たちには、まだ分からぬかもしれん。だが、剣は、使い方を誤れば、それは間違いなく自分の身を斬ることになる」

 何があったのか、詳しく聞こうとは思わない。大政は、自らの体験そのもののことを話そうとしているのではなく、それを通じて得たものを伝えようとしているのだと思ったからだ。

「それが、一度だけ見せて頂いた、あの剣なのですか」

「いや、違うな。あれは、俺の生を懸けてやっとこさ、出来損ないだ」

 久二郎は、この道場を訪れたときに見た大政の剣を思い出した。打った、と思ったら大政はそこにはおらず、自らが打たれたことにすら気付かぬうちに打たれていた。

「違う違う。太刀筋は、どうでもいいんだ」

 と、大政は、久二郎が自らの太刀筋を頭の中で追っているのを察したのか、言った。

「俺の剣で、あのとき、お前の手首から先は吹っ飛んだ。しかし、剣なんて、どう振ったって構わねぇ。静かに、ただ静かに、相手を映す」

 その意味が飲み込めず、久二郎は訝しい顔をした。

「お前らにゃ、今は分からんだろうさ。だが、お前らなら、分かる。分かるようになる。そういうもんだ」

「なぜ、私たちが」

「お前たちの眼は、人を斬った眼だ。だが、曇っちゃいねぇ。それは、守るために、斬ったからだと思う」

「たしかに、生まれた村が襲われ、村のため、妹のため、剣を振るいました」

「そこよ。何かのために、必ず剣を持て。自分のために、持つな。剣を振ること自体を、決して目的にするな」

 大政は、疲れたのか、深く息を吸い、吐いた。老いた匂いが、あたりに漂った。

「それだけ知ってりゃ、十分だ。あとは、自分で何とかしな」

 くく、と大政は喉を鳴らし、笑った。

「それこそが、円慶えんけい流になるさ」

 流派に属さず、まともな剣術も知らぬ久二郎らが箔を付けるため、生まれた村の生臭い和尚の名を拝借したにわか流派の名を用いた。無論、そのような流派などどこにも存在せず、久二郎らが剣術においては素人であることを大政は一目で見抜いている。しかし、剣は、術ではない、と大政は言う。

「はい」

「疲れた。もう、眠ることにさせてもらうよ」

 大政は、いつもの穏やかで静かな老人に戻った。久二郎らは、部屋を出ようとした。その背に、大政が付け加えた。

「それと、もう一つ」

 久二郎らは、振り返った。

「明日になったら、出ていってくれるか。寝床や飯の世話をしてやれぬようになるのは、申し訳ないのだが」

 半身を廊下に出していたが、それを戻し、久二郎は言った。

「なぜです」

「私は、もう死ぬからだ。死ぬ前に、やっとまともな弟子に出会ったからだ。それが、剣というものを見定めてくれると、確かに思えたからだ」

「そんな」

「いや、死ぬ。多くの、人の死を見てきたのだ。自らの死もまた、分かる」

「では、そのときまで、お世話をさせて下さい」

「気持ちは、うれしい。だが、私のような者に、構わないでくれ」

 透き通るような笑顔になった。

「死に構うな。生きることに、構え」

 久二郎の心に、なぜかその言葉は不思議な音律をもって吸い込まれるようだった。

「頼む。一人に、してくれ」

 久二郎は、何も言えない。彰介は、もともと何も言わない。大政は、床の間に立て掛けられたままの大小の刀を、視線で指した。

「お前に、脇差をやる。持ってってくれ。彰介にも、一本やる。物置にあるはずだ。好きなものを持っていくように。今夜、瞬太郎に会ったら、同じように伝えてくれぬか」

「——わかりました」

 とても静かな物言いで、なおかつ久二郎らに取っては承服しかねるような頼みなのに、嫌と言えぬ力があった。それは、抑え込んでくるような力ではなく、染み込んでくるようなものだった。この老人を放置して、朽ちるに任せておくのに十分な力であった。

 久二郎は、大政のいていた脇差しを手に取ると、深く一礼をし、退室した。


「なんだって?爺さんが?」

 瞬太郎にそのことを伝えた。勿論、瞬太郎も驚いた。

「そういうことなら、仕方ないな。世話になってる人に、宿のことは相談するか」

 三人で、蔵を開いた。驚くほどの数の刀が、収蔵しまわれていた。

 瞬太郎は、あれこれ吟味し、刀を抜いてみたり、軽く振ってみたりして選んでいるが、彰介は手近な一本の脇差しを手に取り、一度だけ抜いて、すぐに鞘に戻し、腰に押し込んだ。

 選んでいた瞬太郎が大小の刀を一本ずつ手に取り終わると、三人で蔵から出て、その戸を閉めた。

「久二郎」

 久二郎は、視線を瞬太郎に向けた。

「見たか。蔵の刀、ほとんど全部、血や脂の曇りがあった」

「ほんとうですか」

「俺も、色々刀を使うことはあるが、どうしたら、あれだけの本数の刀を、あんなに汚せるんだ」

 刀とは、言わずもがな高価である。諸国を放浪しているような者に、あるいは貧乏な道場の経営者に、そう何本も求められるものではない。

 それは、大政が戦った相手の数を意味しているのかもしれない。確かなことは分からないが。

「斬って、斬って、斬りまくった先の世界に、あの爺さんはいたのかな」

 大政がした話を、久二郎は瞬太郎に伝えた。瞬太郎は、腕を組み、黙っている。

「ばかに親切な爺さんだと思っていた。俺は、好きだった。だけど、俺は、迷わないぜ」

 顔を上げ、堂々と瞬太郎は言った。

「何かのために、剣を振る。俺には、大義がある。そのためなら、この身はどれだけ汚れても、たとえ死んだとしても、構わない」

 明るい、笑顔であった。

「お前たちは、どうする。なんなら、俺が世話になっているところに、口をきいてやってもいい」

「いえ、私たちは、千を」

「探すんだな。まあ、無理にとは言わないさ。気が変わったら、俺を訪ねて来な」

 どこに、とは言わない。ただ、

「俺は、もう行く。達者でな」

 瞬太郎は、もともと用いていた粗末な大小を手握りにして新しい刀を差し、夜のうちに去っていった。

「また、会うことがあれば、酒でも飲もうや」

 と言い残して。あっさりとしたものである。

 夜が明け、久二郎らはあてがわれた部屋を綺麗に整え、出た。大政は、自室で眠っている。

 障子越しに、その寝息に向かって、二人は深く一礼をした。


 道場を出たまま、南に向かった。以前、藤堂に出会ったぜんざい屋に向かってみる。同じ、他国からの流れ者である藤堂に会えれば、今後についての助言を得られるかもしれぬと思ったのである。

 ぜんざい屋を、おそるおそる覗いた。見覚えのある若い女が、おいでやす、と声をかけてくる。

「あの」

 と久二郎は、その女に、おそるおそる話しかけた。

「藤堂さんという人を、ご存じありませんか」

「藤堂さん?さぁ」

 女は、若い。久二郎らと同年代くらいであろうか。しかし、やはり愛想がない。

「春先に、私とこの大男の三人で、ここで汁粉を食べたのです」

「おぜんざい、ね」

 女は、いちいち訂正した。

「覚えていらっしゃいませんか」

「ああ、あの人。あの人、藤堂さん言うの。いっつも西の方から来はるんやけど、何かいっつもいやらしい眼で見て来はるし、嫁になれ言うて、ひつこい(しつこい)し、会うたら、もう来んといて言うといてもらえません?」

「どちらの方かは、ご存じないのですね」

「知りまへん。おべんちゃら(軽口)ばっかり言う人は、うちは好きまへんさかい」

「ありがとうございました」

 暖簾をくぐり、店を出た。西の方から来る。以前、藤堂と出会ったときも、やはり彼は西の方に帰っていった。

 それだけを頼りに、四条通りを西へ。大宮通りを越え、坊城通りまで来ると、南西角に春日神社という神社がある。堀川四条からそう離れた場所ではない。

「もういいかい」

 男の声がする。かくれんぼをしているのだろうか。


 誠にどうでもいい話ではあるが、かくれんぼの起源は唐代の中国に遡ることができ、宮廷の官人が広い宮廷の中で互いを探し合うという遊びがはじまりとされる。それを、我々の祖先は平安時代に輸入した。当時は、「迷蔵」という、仰々しい名で呼ばれていたらしい。

 時代が降るにつれ庶民の間にも広まってゆき、特に農民などの間では薄暗い森の中などに女が隠れ、探し当てた男と関わりを持つという妖しさに溢れた、文字通り大人の遊びとして用いられていたこともあるらしい。

 久二郎らの時代では、さすがに子供の遊びとなり、子供が隠れるから「隠れん坊」という呼称も定着しているが、今、もういいかい、と呼ばわっているのは、明らかに大人の声であった。

 覗くと、けやきか何かの木に向かって、すらりと背の高い男が腕で目隠しをしている。

 ぱっと振り返り、目が合った。

「見ぃつけた——って、あなた方、どちら様ですか?」

 明るい声であった。歳は、久二郎らと同じか、少し上か。背が高く頭が小さい。もともと血色が良くないのか陽に焼けたせいか肌は青黒い色をしており、間抜けにも見える平べったい顔をしているが、目鼻は整っており、その意味では美男であった。

「人を探していたもので。すみません」

 この大小を差しながらかくれんぼの鬼をしている変わった男とわざわざ関わりを持とうと思ったのは、男が、もう夏前だというのに、すり切れた綿入れを着ていたからである。

 藤堂と、同じような服装である。

「へえ。誰を、探してるんですか」

「藤堂という人なのですが、ご存じありませんか。眉の吊り上がった、凛々しい顔立ちで、背は私と同じくらい、ご自身で伊勢様のご落胤らくいんと仰って——」

「ああ、それなら、うちの平助だ」

 と言って、男は笑った。

「来て下さい。今、屯所にいますよ」

 とんしょ、という言葉に、久二郎は漢字を当てることができなかった。とりあえず、

「あの」

 と子供のように駆けだそうとしていた男を呼び止めた。

「いいんですか、かくれんぼ」

 男は思い出したように手を一つ打つと、一緒に探して下さい、と言って、境内を走った。驚くほど、身のこなしが軽い。何故か、久二郎も彰介も、男に付き合って子供を探す羽目になった。

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