どっちつかずモラトリアム
「あぁー……っ……」
ガシャコッ。ガシャコッ。と音が鳴る度、ちょっとの振動が滲む手汗をくすぐる。
そっちは慣れ切っているからどうでもいい。けれど、スキニー越しのお尻が蒸れてきたのは、気になって仕方がない。
ずっとビニール椅子に敷いてきたもんだから、しっとりしてきて気持ち悪い。
出来ることなら、今すぐにでも席を立ちたいけれど――、
「出てるもんなあ……大当たり」
――そう、出ちゃったものは仕方がない。
CRなんちゃら。詳しい名前までは見ていないけれど、きっと今流行りのアニメか何かなんだろう。おっさんだらけの場所を避けたかっただけだから、この台に座っていることにそれ以上の意味はないし、興味もない。
実際、横に座ってるのもオタクなんだかチャラチャラしてるんだか、どっちつかずの冴えない奴だ。何だその似合わないハット。こんなとこに着飾ってきてもヤニ臭くなるだけだろうに、張り切る意味がわかんない。
つかちらちら見てくんなよ、気持ち悪い。
「お、また当たった」
あたりにたゆたう煙をかき消すように、目の前の電光板が鬱陶しいくらいに明滅した。これで七連続確変だ。
さっきタバコに火を点けといて良かった。ここらで来そうな気がしてたんだ。
「いいねいいね」
ガーッと右打ちで流せば、アタッカーに入った玉がどんどん勝ち分に換算されていく。
そうして増えていく持ち玉を見ていると、ひとえにあの穴は私の財布に直結している。そんな気がした。
じゃあこの玉は一体なんだと訊かれたら、上手い例えは出てこなかった。
・・・
「やー、勝ちもうしたー」
騒々しい店内を抜ければ、そこはうんざりするような寒空の下。もう十二月も半ばで、本格的に冷え込んできた。
汗ばんだお尻を冷たい風に撫でられて、ちょっと嫌気が差す。
昼過ぎでこれなんだから、夜はと思うと、ああ辛い。
「まあ、私はこれで心の暖をとれるからいいけどね」
肥えた財布に思いを馳せる。
突っ込んだ額と差し引きして、収入は二万とちょっと。
これはしばらく、いい思いができそうだ。
「あ、そうだ」
三時のおやつに、さっきの余り玉でもらった飴でも舐めとこう。
そうしてころころ甘い思いをしていると、ふと思いついた。
「そういえば昼飯まだだったなー。何か食べにいこ」
駐輪場から抜けていくときに、喫煙所の吸い殻入れを蹴り倒してるおっさんを見た。
やーい、負けてやんの。
高いお金が入っても、そんなに奮発はしなかった。
というか、できなかった。
お昼を誘うような友達もいなかったし、何よりお高くて気取った店なんか、身に余って居心地が悪いし。
結局、関の山はファストフードのメガサイズだった。
「あー……食べきれるかなこれ」
正直それでさえ、身というかお腹に余る感じがあった。
空回りもいいとこで、ちょっぴり切なくなった。
と、そこで。
「あれ?」
そんな、後ろから聞いたことのある声がした。
直後に、横から覗き込まれた。
「あー、やっぱりだ! 加波ちゃんだ! 久し振り!」
右耳に目いっぱい、元気溢れる声が響いてくる。
これだけで日々が楽しそうだって伝わってくるんだから、若い女子の自己表現能力って凄まじいものがあると思う。
いやまあ、同期だけどさあ……。
「あー……ご無沙汰だね、佐良ちゃん」
嫌々――という感情が漏れないように、なるべく愛想を持ってその子に向き直った。
……うっ。
佐良ちゃん香水キツくなったなあ……。
服装も、ちょっと……うん。
何というか、奇抜になったなあ……これが俗に言う大学デビューか。
「わー、嬉しい! 覚えてくれてたんだ!」
「そりゃ、まあ……」
半年前まで同じクラスだったし……そりゃ覚えてるでしょ。
「てか髪染めたんだね! 最初分かんなくって、加波ちゃんだって分かったときびっくりしたよ! 雰囲気変わったね!」
そういう佐良ちゃんこそ、以前より随分とはしゃいだ雰囲気になっていた。
「あ、ねえねえ、ここ座っていい?」
「ん? あ、ああ、いいよ」
訊いておきながら、佐良ちゃんのその手は既に椅子に掛かってた。
会釈みたいなものって分かってるけど、どうもなあ……節々に漏れてる素直さというか、厚かましさというか……やっぱりこの子苦手だなあ。
てか、今更この子と何を話せばいいっていうの……。
「でさ、加波ちゃん加波ちゃん、いきなりでアレなんだけどさ、聞いて! この前ね、あたし彼氏できたんだ!」
「へえ……」
うわあ……凄いなあ、この子。まず自分のことから話すんだ。
というか、それがわざわざ、私に声を掛けてまで話したいことなんだ。
「良かったね。それで、今日は彼氏さんと来てたり?」
「んー、残念だけどそうじゃないんだよね。サークルで一緒になった人だから、地元も離れてるし。ってか他県でさ、気軽に会えなくって辛いのー」
「あー、残念だねー」
「うんー。あ、でもね聞いて! 全然悪い人じゃないし、むしろ一緒にいてすっごい楽しいんだよ!」
交際距離の話からどうして人柄の話に繋がるんだ、どれだけ男の話がしたいんだと言うのは、あまりにも野暮だろうか。
「良かったね、いい人に巡り会えて」
それは私なりの、最大限のおべっかだった。
こんな状況に付き合わされているやるせなさと帰りたさを極力心の隅に追い遣った、とても澄んだ言葉だったと、自分でも感じていた――けれど。
――ピロン!
「あ、ごめんLINE来た」
そんな情緒豊かな声音は、無機質な通知音に切り捨てられた。
何、この自分勝手な奴。
「ごめんね、どうでもいい連絡だった。で、何の話だったっけ」
どうでもいい割には二分近く掛かった気がするけど、一体何がどうでもよかったんだろう。私のことの方がどうでもいいんじゃないの。
もう、テキトーに相槌だけ打って帰ろう。
「ほら、あれだよ。佐良ちゃんの彼氏さんの」
「あー、そうだそうだ。いやでももういいよこの話、加波ちゃんつまんないでしょ?」
「……え?」
「見てたら分かっちゃうんだよねー。態度というか、その人の眼を見れば。あたし、空気読めない子にだけはなりたくないからさ」
何だこいつ。
人のこと馬鹿にしてんのか。
「あー、いやそんなことないよ。別につまんないだとか――」
「もう、そういうのいいから! 変に気遣うのとかやめてほしいんだけど!」
何がどうしてこうなってるのか、全く分からない。
口角がひくひくしてきた。
「それにさっきからさ、ずっとタバコの匂いするんだよね……ここ禁煙席なのにさ」
言葉を、返せない。
「もしかして加波ちゃん――いつも吸ってたりする?」
私は――何も言わずに店を出た。
・・・
正直、声を掛けられた時点で半ば察しはついてた。
高校時代に比べてくすんだ髪の色に、漂うタバコの臭い。
きっとあの子は、声を掛ける前から私のことを見下していたと思う。
だからあんな居丈高な態度で、第一声に自慢話なんて始められたのかもしれない。
何だか被害妄想染みてきたけど……けれど実際に。
自転車を出す時に、ガラス越しの店内が――あの子の顔が、それを暗に示していた。
人が勝ち誇った後に見せる、優越感に満ちた顔が。
本当に、やめてほしかった。
その顔が見たくなかったから、話したくなかったんだ。
「はあ……」
最近、玄関のノブが重く感じる。
筋力の衰えだとか、馬鹿げた話であってほしい……けれど、そんなものじゃない。
これはきっと、良心の呵責だ。
日がな勉強もせず、名目だけは予備校に通っていると着飾った、情けない浪人生の心情だ。
「お帰り。もうご飯できてるよ」
母は、その言葉を信じて疑わない。
いや、きっと分かってはいるんだろう。
でも、私がどれだけ衣服をヤニ臭くしようと、どれだけ荒んだ装いを見せようとも。
あの人は、私に優しいままだ。
それがありがたくもあって――同時に、心が痛くもなる。
「今日も、妙に遅いが――またふらついてたのか?」
「……予備校の、自習室に残ってたんだよ」
「ふん、どうだか」
父は、それほど甘くない。時たま私を怒鳴る。
それも最近は減ってきて、今では親子の会話も少なくなった。
夕飯は、とても居心地が悪い。
会話もなく、数分で済ませてから、自室に逃げ込むように帰った。
リビングに響くバラエティ番組の笑い声が、パチンコ店の喧騒より耳障りだった。
・・・
枕に顔をうずめながら、佐良ちゃんのことを思い返してみる。
話し方。ファッションセンス。更に言えば見た目も。
どちらかというと、私の方が勝ってる自信はある。
現に、話していてもそういうとこばかり目に付いて仕方がなかった。
でも、でも、ただひとつ。
明らかに一つ、私は負けてた。
何よりも、学歴が、足りてなかった。
浪人してからこっち、こんなことばっかりだ。
卑しくも、周りの欠点ばかりを探してしまう。
自分が勤勉に、真面目になれないからって、大したこともない手持ちの札と他を見比べて、自分を甘やかしていく日々だ。
仲良くもなかった元クラスメイトの自慢は、気持ち悪くて仕方がなかった。
でもそれを必死に蔑もうとしている私が、何より、誰より。
見るに堪えなかったのを、嫌になるほど感じた。
学歴は全てじゃないとか、別に高卒でも死ぬわけじゃないとか。
そういう話だってもちろん聞く。
でも、今の私にはわからない。
レールから落っこちて、ダメになったばかりの私には。
まだそうやって開き直ることができない。
今は、ただ切に。
諦めがついてくれる日が、一日でも早く訪れますように。
明日の授業の予習もできていないけれど、私は寝た。
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