第12話 『北の王者』

 やがて枝葉を折って姿を現したのは、眩い白銀の毛皮を持つ一匹の狼だった。

 だが、その大きさは普段見慣れてるものとは大違いであり、全長は恐らく5メートルはある。それだけなら、ただ少し巨大なだけの狼で済むが、目の前の獣はそんな思いを見事に裏切り、全身から冷気のようなものを発している。

 明らかにこちらに向けられている敵意も合わさって、一気に2人の体感温度は下がる。それを見て、獣の正体に確信を持ったカイトの額に、薄っすらと汗も浮かんだ。


「おいおい……迷子の迷子の子猫ちゃんならぬ、狼さんってか? ―――ホワイトウルフ」

「ほ、ホワイトウルフ……!? それって、『北の王者』って言われてる……!?」


 年中空を厚い雲が覆い、晴れる事などごく稀という、全てが雪と氷に包まれた北の領土。世界の約半分を収める帝国の領内にそれはあるが、その過酷な環境故に自ら身を置きたいという者はいない。

 そんな極寒地獄とも評すべき土地に棲息する魔獣の中で、『出会ってしまえば命はない』と恐れられる存在が2体いる。それぞれに『災厄』と『王者』という物騒な名称を付けられている時点で、その脅威が分かるというものだろう。

 誰もが恐怖に慄き、絶対に遭遇したくないと言わしめる魔獣。その最恐の脅威の片割れが、今カイト達の前に立っている。人も獣も自然と首を垂れてしまうほどの力を持ち、分類的には中型でありながらA級と危険度が定められた、『北の王者』―――ホワイトウルフが。


「見た感じまだ子供だけどな。しっかし、こんなのが出てくるって……D級の依頼じゃねぇだろ。そりゃ無事に帰ってきた奴が少ないから、正しい危険度の判定は出来ないだろうけどさぁ……」


 魔獣の討伐依頼は基本的に、出現する魔獣の危険度によって階級ランクが決まる。

 ホワイトウルフの危険度はA。よって、本来ならこの依頼もA級に認定されているべきもの。今回は碌に正体を見た者がいないので仕方ないとも思うが、こんなものが出てくるとは、流石のカイトも予想していなかった。


「ったく、ギルドの連中もちゃんと仕事しろよ……」

「そんな事言ってる場合ですか!? 明らかに私達の手には負えません! ここは一度引くしか……!」

「おう、ビビりはとっとと帰れ。そんで全身から垂れ流した変な汁を洗い流せ」

「何か卑猥に聞こえますけど汗ですから! 冷や汗!! っていうか、この状況でよくふざけてられますね!?」


 逃げる事を選択するフェリスに対し、カイトは何処までもマイペースだ。こんな状況でも軽口を叩けるなど、もはや一種の尊敬の念すら覚えてしまう。もっとも、的確にツッコミを返した彼女も彼女だが。

 緊迫した状況の中で大声を上げ、『はぁ、はぁ……』とフェリスの呼吸も荒くなる。そうして彼女が肩で息をする一方で、カイトはいつもの不敵な笑みを浮かべ、


「まだまだ元気そうで何より。ブルって今にも漏らしそうに見えたが、それなら大丈夫そうだな」

「あ……」


 言われて気付く。恐怖によって震え、動かなかった足。

 逃げ出そうとしたが、実際は一歩も前には進めなかった。その硬直が、今は解けている。


(身体が……動く!)


 一つの動作が可能になると、呼吸も落ち着いてきて、心臓の早鐘も収まってきた。

 人間は突発的な事態に陥ると、冷静な思考が出来なくなり、思いもよらない行動を取ったりする。普段は出来ている作業が、急かされると出来なくなったりなどが良い例だ。

 まさか先程の軽口は、彼女の緊張をほぐそうと思っての事だったのだろうか。


(この人、何処までが本気で、何処までがふざけてるの……?)


 真剣に挑むべき時には真面に取り合わず、かと思えばその行動には的を射ている部分がある。本当にこの男は、掴みどころがない。

 そんな事を思っていると、2人の様子をうかがっていたホワイトウルフも痺れを切らしたらしい。ドンッ! と轟音がなるほどの力で大地を蹴り、爆発的な勢いで彼等に襲い掛かる。


「チッ! さっさと行け!」


 相対するようにカイトも前に飛び出し、振り上げた剣によって、自身を噛み砕かんとする牙を間一髪で食い止めた。


「っつう……!?」


 人間の倍以上はある巨体の為、鍛えていてもかなりの衝撃がその身を襲った。

 それでもカイトは、相当の重量があるはずの巨体を押し返す。そんな些細な反撃など全く意に介さず、ホワイトウルフは空中でくるりと一度回転すると、難無く地面に着地した。


「この野郎……! 『余裕ですが何か?』みたいなツラしやがって。その全身の毛、一本一本丁寧に引っこ抜いてやろうか……!?」


 そう吐き捨てながら、改めて剣を構える。臨戦態勢に入った事を悟ったらしく、ホワイトウルフの方もその眼光をより鋭く刺せた。

 だが、今の攻防で学んだのか、いきなり突進を仕掛けてくる事はなかった。ダン! と跳んだ先にあるのは、無数に立ち並ぶ木々の内の一本。それに足を付けると、再び跳躍して別の一本へ。それを延々と繰り返す様は、カジノで見るピンボールのようだ。


「ハッ! スピードで翻弄するつもりか? 芸がないな!」


 口ではそう言うが、本当は少々厄介だ。

 ホワイトウルフを含めた幻狼型の魔獣は、総じて速度を武器としている。カイト自身、これまでも何度か同じ戦法を目にしており、本来ならあまり脅威にはならない。

 だが、この狼は身体から発する冷気を利用して、時に空気を凍らせる事で摩擦を極端に薄くし、加速してくる他、時に空中までも凍らせて足場としている。前者だけならまだしも、空中に足場を作られたのでは、軌道の予測がしづらい。


(だったら……!)


 左手の手甲を一瞥すると、彼はその腕を振り上げ、叩き付けるように地面に拳を振るう。

 そして、まさにその腕が接しようとした瞬間、


「―――《一群の椋鳥ベヴィ・スターリング》!」


 先に逃がしたはずの、少女の鋭い声が響く。

 思わず地面に向けていた手が止まるのと同時、今度は風が吹き荒れる。だが、ただの風ではない。空気が収束された、小さな竜巻のようであり、それでいてムクドリの形を持つ無数の弾丸だ。

 カイトには当たらないように放たれたそれらは、豪雨の如く周囲に降り注ぎ、蹂躙していく。流石に辺り一帯に満遍なく撃ち込まれる攻撃には不利を悟ったのか、一際大きく跳躍し、ホワイトウルフは絨毯爆撃の範囲外へと一旦退避する。

 一方で、カイトはある一点に視線を向けた。そこには予想通りの人物が立っていた。金髪を靡かせる、風の魔術師―――フェリスが。


「何してんだ!? 下手に挑発して、お前まで狙われるぞ! あの野郎のおやつになりたくなかったら……!」

「嘗めないでくたさい」


 逃走を促すカイトの怒号を、フェリスはあっさりと一刀両断する。

 その瞳からは先程までの恐怖の感情を消え失せ、強い戦意が滾っていた。


「私は元々、アイツを倒しにきたんです。そう簡単に引き下がれますか」


 それに、とフェリスはこの状況の中、気丈に口角を吊り上げ、


「自分の為だけに戦う傭兵に庇ってもらうほど、私は弱くありません」


 その宣言に、緊迫した状況にも拘わらず、ポカンと一瞬カイトは間抜け面を晒してしまう。 勇気と無謀を勘違いした、猪突猛進な少女とは思っていたが、まさかここまでとは。


(けど……嫌いじゃねぇな、そういうの)


 家族を始めとした全てを懸けた上で死地に向かうのならば、一々口を出したりしない。周囲をその程度にしか見ていない者にどれだけ言葉で説いたところで、時間の無駄に過ぎないのだから。

 だが、守りたいものの為に全力を尽くす姿勢は、無謀とは分かっていて嫌いにはなれない。


「……ハッ! 漏らしても代えの下着なんてねぇからな。俺のでいいならあるけど」

「履きませんよ!? それに貴方が女物の下着持ってたら変態です!」

「ハハッ! そりゃそうだ!」


 今朝までやっていたような、軽口と羞恥の声が入り混じった2人の掛け合い。とても命のやり取りをしているとは思えない彼等の言動に、ホワイトウルフさえも興味深げに視線を向ける。

 その、ほんの僅かな時間生じた隙。まるで意趣返しのように、地面を強く蹴ってカイトは標的へと肉迫した。


「―――《追啄の鳩ホーミング・ピジョン》!」


 彼の後に続くように、更にフェリスが魔術を起動。一瞬魔方陣が展開されると、次いで風が渦巻き、5羽の鳩を顕現させる。

 その光景に、ホワイトウルフは今し方受けたばかりの絨毯爆撃を思い出す。巨体を貫くほどの威力はないだろうが、何十発と食らえば流石にダメージは受ける。故に、王者は再び後方へと跳ぶ。これなら、あの風の鳥達は地面を穿つだけで終わるはずだ。

 だが、それは先程の技の話。新たに生み出された鳩達は、退避を試みたホワイトウルフの下へと群がる。


「ッ! グゥウウウゥゥ……!」


 横に、前にと走るが、何処まで行こうと鳥達は付いてくる。帰巣本能を持つ事で有名な鳩だが、その姿は獲物に追い縋る肉食獣にしか見えない。

 いい加減鬱陶しく思ったのか、ホワイトウルフはその長い尾を振るう。その狙いは鳥達ではなく、周囲に並ぶ木々だ。巨体に見合う大きさの尾の一撃は、大抵の事では折れるはずのない太い木の幹を、いとも容易く破壊していく。木々が突然倒れた事で鳥達の軌道は塞がれ、簡易的な盾となって行く手を阻んだ。

 しつこい追跡から解放され、ホワイトウルフは小さく喜びの声を漏らす。―――まだ、その背を追う者がいる事にも気付かず。


「―――背中もらい」


 安堵したところで聞こえてきた、新たな虫の羽音邪魔者の声

 鳩の追跡に集中していた隙を突き、枝葉の影に隠れながらずっと後を追い続けていたカイト。枝を蹴って大きく跳躍すると、がら空きの背中に向けて深々とその刃を突き刺そうと降下する。

 だが、それが届く寸前に、ホワイトウルフの尾が叩き付けられた。それはさながら、蠅を追い払う動作を彷彿とさせる。

 何の足掛かりもない空中で、受け身など取れるはずもない。彼の身体はあっさりと吹き飛ばされ、地面に叩き付けられる―――はずだった。


「にゃろ……! 俺は蠅じゃねぇんだぞ」


 忌々しげに吐き捨てるカイト。その手は、自分に向かって振るわれたホワイトウルフの尾を掴んでいる。直撃にも拘わらず、ダメージなどないかのように、貪欲に獲物にしがみつく姿は標的である狼よりも獣らしいかもしれない。


「―――《禄存ろくそん》」


 足先に魔力を集中。ホワイトウルフのように氷が出来る訳ではないが、そこには確かに足場が作られる。尚も尾を掴んだまま虚空を強く踏み付けると、弧を描くようにカイトの身体は宙を舞った。

 そして跳んだ先に待つのは、王者の背中。

 四足歩行を行うその体格から考えて、そこには狼の爪も牙も届かない。尾で払い落そうとしても、そこには今カイトがしがみついている為、意味を成さない。

 再び彼は自分の足に魔力を集める。だが、それは移動の為のものではない。攻撃に移る為のものだ。


「吹き飛べ」


 魔力による肉体強化だけでなく、遠心力も加えられた蹴り。それは吸い込まれるようにホワイトウルフの背中へと向かい、―――ゴッ!! とその巨体を、宣言通り吹き飛ばす。


「グゥオォォオオオッ!?」


 まるで小石のように軽々と飛ばされ、苦悶と驚愕が入り混じった咆哮が上げる。

 その光景を目にしたフェリスは、魔術師でもないのに自分以上に相手にダメージを与えているカイトの実力、そして魔力の流れに目を奪われた。


(そうか、あの人……。魔力は少ないけど、扱い方が凄く上手いんだ……!)


 恐らく彼が持つ魔力の総量は、常人より少し多い程度。それをただぶつけるだけなら、中型、それも上級に位置付けられる魔獣と真っ向から渡り合える訳がない。だが、『塵も積もれば山となる』という言葉がある。

 血管の中に直接魔力を流し、身体能力を向上を図るのが肉体強化魔術の仕組み。故に、本来魔力の少ない人間が使っても得られる恩恵は微々たるものだが、それも使い方次第。全身に施すのではなく、状況に応じて身体の一点に集中させる事で、通常とは比べ物にならない威力を出しているのだ。

 もっとも、口で言うほど簡単ではない。元々血管という肉眼では見えないものを利用しており、全身という事で細かい魔力制御をせずとも扱う事が出来ている。だが、一点集中となれば、どれだけの魔力を流すか、どの部分に流せば良いかを把握しなければ、最悪許容量を大幅に超えて血管が破裂する事すら有り得る。

 ほんの一瞬の手違いが死を招くほどの高等技術を、戦闘の中で実行しているのだから、カイトの実力が伺えるというものだ。

 そんな風に感心をされているなど露知らず、カイトは高く跳び上がり、丁度視界に映る天地が逆転したところで虚空を踏み付けた。


無頼覇刀流ぶらいはとうりゅう・三の型―――雷霆らいてい


 ドンッ!! と空気を蹴る音が、世界を震わせる。あくまで簡易的な足場であったにも拘わらずだ。

 切先を下に向け、標的へと一直線に突撃して繰り出される突き。その姿はまさに、天上から降り注ぎ、全てを容赦なく破壊するいかずちの如し。

 それは未だ蹴りの痛みが抜けずにもたつく王者の下へ飛来し、―――ドズン!! と大地を割るほどの衝撃を起こし、土煙を巻き起こす。


「畳み掛けろ!」

「ッ! ―――《一群の椋鳥》!」


 まだ仕留めきれてはいない。カイトの怒声でそれを察したフェリスは、直ぐに両手に魔力を込める。

 そして、無数のムクドリを生み出すと、一斉に発射。面を制圧するのではなく、標的という点だけに向かって集中砲火を浴びせる。

 10秒ほど経っただろうか。その短時間でも、50以上の鳥達が襲い掛かったはずだ。


「……やりましたか?」

「ンな訳ねぇだろ。相手は『北の王者』、これで終わるようなら雪の上で転げ回るワン公と変わらねぇよ」


 物量に物を言わせた攻撃にフェリスは期待を持つが、対するカイトはそれをあっさりと否定する。

 それを待っていたかのように、土煙の中心から巻き起こった突風で、一気に視界が開けた。

 その視線の先にいたのは、煙が薙ぎ払われた時点で分かってはいたが、彼等の標的―――ホワイトウルフだ。


「な?」

「殆どダメージがないなんて……! 少し甘く見過ぎてましたよ」


 一応脇腹に抉られたような傷が付いている為、カイトの突きが当たった事は分かる。彼として貫通させるつもりだったので、その程度で済んだのは直前で身を捻ったからだろうか。

 雷のように光速とまではいかなくとも、常人の目では追えない速度は出ていたはずだ。それでも致命傷を避けてみせた相手の動きに、顔には出さないがカイトも驚いていた。


「なら、今直ぐ切り替えろ。じゃないとその甘~い脳ミソ、蕩ける前に潰されるぞ?」


 結果を受け入れずに呆けても仕方ない。フェリスに言っているようで、自分にそう言い聞かせる。やはりA級魔獣相手に真正面から挑むべきではないと、カイトは改めてそれを実感した。

 動きながら考えるか……、とカイトは新たに行動を起こそうとするが、その前にホワイトウルフの方が動く。牙を剥き出しにして唸る姿からは、王者と呼ばれる自分が、矮小な人間にいいようにやられたのが気に食わないという、分かりやすい感情が見て取れる。

 今までは2人を嘗めてかかっていたようだが、完全に怒らせてしまったらしい。闘志、否。殺意を滾らせた瞳を輝かせ、鋭い牙が並んだ巨大な口を大きく開いた。


「ッ!? 避けろ!」

「むぎゃ!?」


 横に立っていたフェリスを蹴り飛ばし、それとは反対方向にカイトも跳ぶ。

 直後、今の今まで彼等が立っていた場所を、が荒れ狂う。


「「ッ……!?」」


 それが吹いたのは一瞬の事。だが、終息した頃には、景色は一変していた。

 先程まで見ていたのは、木々が生い茂り、所々に花も咲く緑豊かな大地だった。だが今は、その全てが白に染まり、凍り付いている。

 今の吹雪、そして元は雪国に住まう魔獣がいる時点で、誰がそれをやったかなど明らかだ。


「森が……!?」

「いよいよ本領発揮ってか?」


 パキポキ……! と指を鳴らし、身構えるカイト。相手が油断していた時は、まだ隙を見て逃げる手もあったが、もうそうはいかない。

 だが、それを悪い方向に捉えはしない。逃走という選択肢が消えたという事は、その分自分も余計な事を考えず、行動を攻撃一択に絞る事が出来るのだから。

 彼の戦意を読み取ったのか、ホワイトウルフの方も、一直線に彼の下へと駆け出した。


「何だワン公。そんなに俺と遊び……―――ッ!?」

「えっ……!?」


 だが、ホワイトウルフは彼の傍まで来ると急速に方向転換。棒立ち状態だったフェリスの方へと突っ込む。


(コイツ……! 的がいくつあっても、スピードで強引に捻じ伏せるから関係ないってか!?)


 近接戦のカイトに、中距離戦のフェリス。急造のタッグなので2人のコンビネーションは覚束ず、どちらかが攻撃を仕掛け、距離を取ったら後の一人が追撃するというスタイルを取っている。

 故に、一方が攻撃している間は、必然的にもう一方の動きは止まってしまう。その弱点をホワイトウルフは突いており、最初にカイトを狙う事でフェリスをフリーにした。彼女の魔術は後方支援向きなので、急に自分の下に向かってきた事も含め、即座に対応するのは不可能に近い。

 それでも咄嗟にフェリスは人差し指を向け、魔術を発動させる。


「―――《貫穿の雀ピアッシング・スパロー》!」


 指先から直線的に飛び立つ、一羽の雀。その嘴部分には風が渦巻いており、いかにも貫通力がありそうだ。加えて、曲線を描かずに真っ直ぐに進む為、最短最速でホワイトウルフの頭部目掛けて飛んでいく。

 だが、相手はその身を以てフェリスの放つ魔術の威力を知っている。精々が身体にあざを付ける程度。致命傷には至らないと判断し、躊躇いなくそのまま直進した。

 避けようともしなかったので、当然それは直撃。他よりも貫通力があった為、着弾箇所から僅かに血が飛び散るが、それだけだ。迫り来る巨大な獣の足を止めるには至らない。


「ガァアアアアァァァアアァアアアアアアッ!!!」

「ひッ……!」


 攻撃が利かなかった上、間近で聞く咆哮に足が竦み、フェリスの動きが完全に止まる。

 そして、数多の獲物を貪ってきた牙が、また新たに命を噛み砕こうと迫り、


「―ったく! 世話が焼ける!」


 助走を付けてから剣を地面に突き刺し、カイトは棒高跳びの要領で宙を舞う。そして《禄存》を発動し、空気を蹴って一気にホワイトウルフの下へと向かう。幸い、フェリス獲物に意識を集中させており、その接近には気付いていない。

 瞬く間に距離を詰め、彼の身体は王者の眼前に躍り出た。

 カイトとホワイトウルフの目が、互いの姿を捉える。距離を取ったはずの人間が目の前に現れた事に、一瞬獣の動きは硬直し、対するカイトは不敵な笑みで応える。

 僅かとは言え動きを止めた相手に向け、彼は右腕を振るい、―――ブシャッ……! と気持ちの悪い音と共に、ホワイトウルフの片目が潰れた。 


「ギャルルァアアァアアアアッ!?」

「そう咆えんなよ。お前が今まで食ってきた連中の痛みに比べりゃ、数倍マシだろうよ」


 痛みに悶えるホワイトウルフの目に刺さっていたのは、一本の小さなダガー。もはや十八番とも言える、カイトが全身の至るところに仕込んだ暗器の一つだ。

 だが、片目を潰したからと言って、喜んではいられない。寧ろ予測出来ない行動を取る分、怒り狂った獣の方が厄介だ。

 それを証明するかのように、ホワイトウルフは前足を地面に叩き付け始めた。同時に、沈み込んだ大地に冷気が流れ込み、次の瞬間には先端の尖った巨大な氷柱が生える。恐らく地面に亀裂を作って地下水の通り道を作り、噴き出す瞬間を狙って凍らせたのだろう。

 不規則に立ち上がる攻撃で碌に前に進めず、2人は後退を余儀なくされた。


「ッつう……!?」

「クソがッ!!」


 そこへ新たに生まれた氷柱がフェリスの足を掠め、僅かに血が飛び散る。掠り傷にも見えるが、移動の要をやられた状態では、戦闘に参加させるべきではない。

 即決したカイトは、今度は左腕を振るう。その袖から飛び出したのは、ごく小さな黒い球体。一見すると武器には見えない、視認すら難しいそれに、未だのた打ち回るホワイトウルフが気付けるはずもなかった。

 それが相手の白い体毛に接触した直後、―――キュガッ!! と一瞬の閃光の後、黒い爆煙が吹き荒れる。

 その正体に気付いたフェリスは、平然とカイトがそれを手甲に仕込んでいた事に驚きの声を上げた。


「火薬……!? そんなの仕込んでたんですか!?」

「備えあれば憂いなしってな。これでアイツの鼻もしばらく利かねぇえだろうし、木の陰に隠れて―――」


 やり過ごす、とまで言おうとしたが、出来なかった。

 唐突に、2人の足下から地面が消えた。その代わりに眼下には、大量の水が溜まった池らしきものが見える。恐らく枝葉や蔓に覆われていた為、崖の存在を見逃してしまったのだろう。

 だが、今それについてはどうでもいい。重要なのは、ここから下の池までは、―――約10メートルはあるという事だ。


「は……!? うっそだろぉぉおおおおぉぉぉおおおおおおおおおッ!?」

「きゃあぁぁあああぁぁぁぁあああああああぁあああッ!!?」


 仲良く悲鳴を上げながら自由落下する2人。それでもカイトは咄嗟に、自分の胸に押し付けるようにフェリスを抱き込んだ。

 そして固く目を瞑って衝撃に備えたのと同時、バッシャァアアアアッ!! と派手に水飛沫を上げながら、彼等は着水した。


「クッソ、何だよこの地味なトラップ……! あ゛ー、背中痛ぇ……!」


 幸いにもそれなりに池が深さがあった為、硬い地面に激突する事はなかった。もっとも、それなりの高さから落下したので、水面に落ちてもそれなりの痛みは襲うのだが。


「だ、大丈夫ですか!?」

「いいから、さっさとそこ退け。重いんだっつうの……!」


 折れてはいないようだが、標的と離れた事もあって、何処かで一度休みたい。

 そう思ったカイトは、自分の上に乗るフェリスを退かそうと手を上に挙げ、―――ふにゅ……、と柔らかい何かに触れた。


「ひぅ!?」

「あ……?」


 突然妙な声を上げたフェリスに、カイトは眉を顰める。丁度逆光になっていて分かり難いが、これはもしかすると……。

 嫌な予感を覚え、彼はもう片方の手を目元に当てて光を遮る。それによって見えてきた光景は、予想通りであり、外れてほしかったもの。

 自分の手が、この世のものとは思えないくらい柔らかな感触を持つもの―――フェリスの胸に触れていた。


(……は? え、ちょっ……! 俺、コイツの、む、むむむ胸に……!?)


 女性と関係を持つ気はなくとも、やはりカイトも思春期の男子。途中から、自分でも何を考えているか分からなくなってしまった。

 直ぐに放せばいいとも思うのだが、手に伝わってくる体温と柔らかな感触の所為で、理解は出来ていても行動には移せない。

 一方で、フェリスの方は状況が理解出来ず、わなわな……! と震えていた。未だ彼女の胸に手を置くカイトだが、流石にこのままではマズいと思い、


「え、え~と……何か、ひがんでだみたいだけど、意外と胸あるじゃん!」

「ッ……!」


 サムズアップしてみせたが、それが止めを刺してしまった。

 彼女はゆっくりと右腕を天に向けて掲げると、その掌を固く握り締める。


「ちょ、待っ……!? 落ち着け! 悪かった! だから、その拳は収めて……!?」

「この……変態傭兵!!」

「くれがっ!?」


 慌てて謝罪するカイトの顔面に向け、交じり気のない本気のパンチが振り下ろされた。

 はっきり言って、ホワイトウルフの突進を受け止めた時よりも痛い。


「テッメ……!? 命の恩人の顔面にグーパンチってのはどういう了見だ!?」

「がっつり人の胸揉んだ上、変な事言うからでしょ!? この変態! 不審者! 露出凶! 強姦魔!」

「何勝手に罪状増やしてんの!? 前の2つはまだしも、後半は全く身に覚えねぇよ! 俺にそんなアブノーマルな性癖はないし、女には興味ないって言ってるだろうが!!」

「じゃあ、ホモ! 男色家! 同性愛者!」

「オーケー! その油が乗っててペラペラとよく回る舌、今直ぐ煮込んでタンシチューにしてやるよ!!」


 先程までの動揺ぶりなどなかったかのように、カイトとフェリスは舌戦を繰り広げる。

 一触即発で、今にも取っ組み合いに発展しそうな雰囲気だが、それは崖の上から聞こえてきた唸り声によって中断された。


「ッ……! 騒ぎ過ぎたか……」


 直ぐにフェリスの手を引いて崖の下まで連れていき、その口を塞いだ。


「ちょッ……!?」

「少し黙ってろ」


 人差し指を立てて静かにするように告げた後、周囲の音を聞き分ける為に意識を集中させる。

 聞こえてきたのは、自分達の上にいるホワイトウルフの唸り声。足音から察するに、うろうろと動き回っているようだが、あまり意味はないだろう。片目を潰されて視界が半分塞がれている上、火薬を使った事で彼等の匂いも追えないのだから。

 しばらくすると諦めたのか、ズン、ズン……! と足音は遠ざかっていった。


「……行ったな。火薬の匂いで上手く誤魔化せたか」

「あの、そろそろ退いてもらっても……」

「あ? あぁ、悪い」


 標的の気配が消えた事を確認すると、思い出したようにフェリスから離れる。

 一瞬彼女は悔しそうな視線を崖の上に向けたが、直ぐにそれを逸らす。今までの攻防から、やはり正面からでは敵わないと悟ったらしい。

 だが、あれほど仕事の達成に拘っていたカイトも引いた事は意外に思った。


「追わないんですか?」

「元々化け物相手に真正面から挑む気はねぇよ。徹底的に罠で削りまくってから仕留めてやる」

「……何か、意外ですね。傭兵ってもっと……」

「血生臭い直接戦闘だぁ~い好きな脳筋とでも思ったか? ま、確かに真正面から潰す方が性に合ってるけどな」


 ローブを脱いで水を絞りながら、カイトは岸に向かって歩いていく。

 濡れた所為で服が身体に貼り付き、彼の鍛え上げられた背中がはっきりと見えた。筋肉は一つ一つの線が浮き出ており、村に住む同年代の少年とはまるで身体つきが違う。

 それだけ引き締まった肉体を持っていながら、真っ向勝負ではなく策を練る事を選ぶカイトを疑問を思う。そんな彼女の心情を読んだのか、続きを語り出した。


「けど、戦場ってのは罠や裏切りのオンパレード、ドス黒い欲望や下種な策謀がひしめくワンダーランドだ。そこで生き残るには、それを見抜き、裏をかく頭も必要って訳。あんま嘗めてると痛い目見るぜ?」


 身体つきだけでなく、その思考も同年代には思えなかった。

 確か16歳と言っていたか。成人になったばかりの少年が、一体どんな生き方をすればそのような考えを持つようになるのか。想像も出来ないような過酷な環境を生き抜いてきたであろう目の前の少年に、フェリスは身震いする。

 そんな畏怖の念を抱く彼女に、カイトは清々しい笑顔を向け、


「ってな訳で、資料寄越せ。罠張るのに使うから」

「何かナチュラルに言ってきましたけど嫌ですよ!? これは私が使うんですから! 貴方はご自慢の知識を総動員すればいいじゃないですか!?」

「それとこれとは話が別だ。お前が持っててもケツ拭く紙程度にしか役立てられねぇんだから、さっさと渡せ」

「だから、それセクハラ……って、ちょ!? 服の中漁ろうとしないでください! 実力行使反対!!」

「安心しろ。欲情はしても手は出さないから」

「そういう問題!? あと、現在進行形で手出されてるんですけど!?」


 胸を触った直後とあってか、カイトも変な度胸が付いてしまったらしい。躊躇いなくその手を伸ばしてくる。

 もっとも、目だけはしっかり逸らす当たりは、年相応の子供らしいが。


「おかしいな……。お前何処にしまったんだ? 全然ないぞ」

「え? そんなはずは……って、本当にない!?」


 しばらく探してみても肝心の資料は見当たらない。それを指摘されてフェリス自身も服の中を漁るが、本当になくなっていた。


「え、えぇ!? ど、何処に!? 一体何処に!?」

「さっき暴れた時にでも落としたか? だとすると、この上だぞ」


 心当たりと言えば、それしか考えられない。崖の方に視線を向けると、自分達が落下した時の記憶が蘇る。

 別に怖いという訳ではなく、単純にあの高さを登るのが面倒というだけだ。それでも探しにいかない事には、資料も手に入らない。


「しょうがねぇ、戻って探すか。崖登るのめんどくさいんだけどなぁ……」


 無駄な魔力を使いたくはないが、ここはやはり《禄存》による空中歩行で早々に向かうべきだろう。

 はぁ……、と一度溜め息を吐いてから決意すると、足先に魔力を集中させる。そして、一気に上へと跳び上が―――る寸前で、彼の目はあるものを捉えた。


「……なぁ、オイ。あの資料って確か、手頃な羊皮紙くらいの大きさだったよな?」

「そうですけど!? それが何ですか!?」

「いや、ひょっとして……じゃね?」


 慌てて資料を探し続けるフェリスにも分かるように、カイトは震える指でを指差す。

 え……? と困惑しながら、彼女もその示された先へと、恐る恐るといった様子で視線を向ける。

 そこにあったのは、―――水面を漂う羊皮紙の束。その表紙らしき部分には、『魔獣資料』の文字が見て取れた。


「「……ああああぁぁあああぁぁあああああああああッッッ!!!???」」


 僅かな間を置いてそれに気付いた2人は、慌てて池に飛び込む。

 そして、自分達が起こす波で更に遠のいていく事にも気付かず、仲良くクロールで羊皮紙の下に向かうのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る