第9話 地獄姉妹(前編)

 ひどい夢を見た。

 ボルドー・ボストーが率いる怪物どもの群れに、父が、姉が、殺される。思い出したくもないほど、むごたらしい手段でだ。

 目を覚ますと、明け方だった。

 見張りをしていたレギトが、心配そうに声をかけてくれた。どうやら、うなされていたらしい。

 エイヴェルは、何の悩みもなさそうな間抜けな寝顔を晒していた。

 レミオル湖。

 北側の湖畔で、レギト、エイヴェル、フェリスは3人交代で見張りをしつつ野宿をした。

 この湖の南岸は、王都アトリエル直轄領たるレノ・クランシア地方である。

 賞金首『鎧の悪鬼』を追って、3人はガレード市から南下して来たところであった。

 鎧の悪鬼は、王都方面から北上し、ガレード周辺で目撃されたという。

 行き違いになってしまったかも知れない、と昨夜レギトは言っていた。

 彼の主君ラディック・ヘイスター公爵は、全身鎧をまとう仮面の剣士によって殺害された。

 それが『鎧の悪鬼』であるかどうかも、まだわかっていないのだ。

 とにかく嫌な寝汗をかいたのでフェリスは今、水浴びをしている。

 健康美そのものの白い肌が、水飛沫を帯びてキラキラと輝く。可愛らしい乳房が、水滴を弾いて微かに揺れる。

 滑らかにくびれた胴を、フェリスとしてはもう少し引き締めたかった。そうすれば、この小さな胸も少しは大きく見えるだろう。姉ほどではないにしても。

 胸と同じくらいに愛らしく小振りな尻は、食べ頃、の少し前の白桃を思わせる。あと少し肉付きがあってもいい、とフェリスは思う。姉ほど、ではないにしても。

 早朝である。

 水面には霧が立ち込めており、湖の対岸が見えなかった。

 まだ幾分は発達の余地があると思える自分の身体を、フェリスは見回した。胸の形や胴の曲線を、手触りで確認してみた。

「やっぱり身体、鍛えないと駄目なのかな……お姉ちゃん……」

 この場にいない、生きているかどうかもわからない姉に、つい語りかけてしまう。湖上の霧に話しかけている、ようでもある。

 先程の悪夢が、脳裏に蘇ってくる。

 頭を振って追い払いながら、フェリスは霧との会話を続けた。

「お姉ちゃん、修行だって言ってしょっちゅう旅に出てたよね……あたしも今ね、旅してるんだよ。しかも男連れ! 男2人も侍らせて旅してるの。強くてそこそこ格好いい剣士様と、弱くて無様な変態君」

 2人とも、フェリスが利用すべき男だった。

 レギトの戦士としての力量は無論、エイヴェルの方も、人間的にはともかく、卓越した力を持つ白魔法使いである事は認めなければならない。

 ボルドー・ボストーとの戦いには、あの2人の力が必要なのだ。

「あたし……男を、利用しようとしてる……」

 フェリスは俯き、暗く微笑んだ。

「悪い女に、なっちゃった……お父さんやお姉ちゃんが、いなくなっちゃったせいだよ? ねえ……」

 全て、ボルドー・ボストーを斃すためだ。そして、ゲペルの逆呪文書・下巻を守り抜くためだ。

 エイヴェル曰く、上巻は彼の知り合いであるロウエル・ケリストファー司祭が中央大聖堂から持ち出した。

 中巻は、アトリエル王宮の宝物庫に秘蔵されている。

 ボルドーの目的が本当に悪竜ガアトゥームの復活であるならば、彼はいずれ盗み出さなければならなくなる。王宮の宝物庫から、王家秘蔵の品をだ。

 1つ、気になる噂がある。フェリスたちが、ガレードで耳にした噂だ。

 王女が1人、行方不明になっているという。

 国王マイスティン3世の、男女合わせて20人以上いる子供の1人である。その噂をしていた者たちも、名前までは知らぬようであった。

 その幼い王女を、拉致も同然に王宮から連れ出して擁立し、反乱を起こそうとした貴族がいるらしい。

 資金に困って王宮の宝物庫に手をつけ、様々な財物を盗み出し、そのせいで反乱が発覚した。

 貴族本人は討ち取られたが、連れ去られた王女も、盗み出された財宝も、行方がわからなくなっているという。

 噂が真実であるならば、その反乱の黒幕はボルドーではないのか、とフェリスは思った。盗み出された宝物に、ゲペルの逆呪文書・中巻が含まれているとしたらだ。

 湖畔の茂みが、ガサッ……と鳴った。反射的に、フェリスは両腕で胸を隠した。

 不埒な男でも潜んでいるのだとしたら、炎か稲妻を食らわせてやるだけだ。最後の眼福として、自分の裸くらいは拝ませてやってもいい。

 やがて、楽しげな声が聞こえた。

「さぁて水汲み、水汲み。レギトさんと一緒に朝ごはんの準備、幸せだなあ」

 エイヴェルだった。

「レギトさん……ゆうべも夜這いしてくれなかったなー。もうボクの方から寝込み襲っちゃおうかな。そりゃ力じゃかなわないけど、ロウエル司祭直伝の指遣いと舌遣いで、うふっ、ぐふふふふふ……あ」

 そこで、フェリスと目が合った。

 少年と少女の間で一瞬、時間が止まった。

 やがてエイヴェルが、世界の終わりでも来たかのように天を仰ぐ。

「ああ、何という事。朝っぱらから、こんな汚らわしくおぞましいものを目にするなんて……今日は何か良くない事が起こるに違いない。唯一神よ、どうか守りたまえ」

 その言葉が終わらぬうちにフェリスは、浅瀬から小石を1つ拾って握り込み、駆け出した。水飛沫を蹴散らし、踏み込んで行った。

 小石を内包した少女の拳が、エイヴェルの顔面を直撃する。ぐちゃっ、と生々しく伝わって来る手応えを、フェリスは握り締めた。

 鼻血を派手に噴き上げて、エイヴェルがよろりと一回転し、近くの木に激突し、全身で幹を擦ってずり落ちる。

 手早く身体を拭い、胸と腰に下着を巻き付けながら、フェリスはとりあえず詰問した。

「……何やってんのよ、こんなとこで」

「お、お前こそ何だ。ボクとレギトさんが朝ごはんの準備してる時に、のんびり水浴びなんて」

 鼻血と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、エイヴェルが文句を返す。

「これからキノコ系の汁物を作るところだ。水浴びなんかしてないで、お前も手伝え魔女。身体なんかいくら洗ったところで、お前ら女が綺麗になるわけ」

 服を着てマントを羽織りつつフェリスは、エイヴェルの鳩尾に蹴りを入れて黙らせた。

 腹を押さえて苦しげに転げ回る少年を、フェリスはさらに、

「ふふっ、芋虫さんみたい……ちょっと受ける」

 杖で、乱暴に小突き回した。金髪の綺麗な頭を、細い脇腹を、薄い尻を、杖でグリグリと圧迫した。

 性格はともかく容姿は美しい少年が、その綺麗な顔を鼻血に染めて泣き喚く。

「れっレギトさん助けて、魔女が! まじょがいじめるうぅううううううう!」

「ふ……うっふふふふふ……男いじめるのって、けっこう楽しい……かなり受ける」

 そんな、くだらぬ悦楽に浸っている場合ではなくなった。

 明るく、そして凄まじいまでの熱量を有した、まるで小さな太陽のようなもの。

 それが3つ、流星のごとく飛んで来たのである。

 紅蓮の炎が、球形に固まったもの。フェリスがよく黒魔法で出現させる火球とほぼ同じものが3個、飛来し、すでに間近に迫っている。フェリスもエイヴェルも、まとめて爆殺・焼殺する勢いでだ。

「ロゲム男爵! あたしを守って!」

 エイヴェルを殴打していた杖を、フェリスは叫びながら振り上げた。

 黒魔法使いの少女と白魔法使いの少年、計2名を包み込む形に、光の膜が生じた。巨大な石鹸の泡、のようでもある。

 そんな光の防護膜に、3つの火球が激突する。

 火の玉が3つとも砕け散って火の粉と化し、光の膜も破裂して消え失せた。

 エイヴェルが慌てて立ち上がり、気弱な声を出す。

「な、何だ。何が起こったんだ一体」

「さあね……」

 フェリスはそう言いながらも、おぼろげに理解していた。何が起こったのか、一体何者が攻撃を仕掛けて来たのか。

 過去、こんなふうに黒魔法の稽古をした事がある。

 気配が、足音が、近付いて来ていた。女の声と共にだ。

「さすがね……殺しても死なない、レイン家のお嬢様姉妹」

 湖畔に、いつの間にか複数の人影が現れていた。

 言葉を発してるのは、そのうちの1人。下着のようなドレスをまとい、その上からマントを羽織った、黒髪の女である。

「お父様の方は、割と簡単に死んで下さったようだけど……ね」

「……メビィラ……さん……?」

 かつて同じ屋根の下で生活を共にした事のある女性の名を、フェリスは久しぶりに、本当に久々に、口にしていた。

「呼び捨て、でいいのよ? フェリスお嬢様」

 メビィラ・バレスが、暗い美貌をニッコリとねじ曲げた。

「私を呼び捨てにして、大いに罵りたいのでしょう?」

「待て、メビィラ殿」

 別の人影が、進み出て来て言った。

 武装した、長身の若者……昨日、ガレードの町でレギトと少し会話をした、ヒューゼルとかいう名の守備隊長である。

 周りにいるのは、彼の部下であろう兵士たちだ。その数、十数名。

 今のところ彼らに何かさせる様子もなく、ヒューゼルは言う。

「こちらの娘御、可憐なる外見に合わず、確かに恐るべき力をお持ちの黒魔法使い殿であられるようだが……だからと言って、いきなり攻撃魔法をぶつけるなど、非礼にも程があろう」

 品良く整った顔が、フェリスの方を向いた。

「……失礼した。昨日お会いしたが、改めて名乗らせていただく。我が名はヒューゼル・ネイオン。ガレードの守備兵長であるが、その任務とは別に、ある御方に仕えている」

 貴族の出身、であろうか。いかにも貴公子といった感じの端正な顔立ち、真摯な表情。

 口調は穏やかで、熱っぽい。

「その御方の大望を成し遂げるに必要なものを、貴女が実は所持しておられる。どうか、それを我らに譲ってはいただけぬだろうか。無論、お望みの代価を払う」

「い、いえいえそんな代価など」

 エイヴェルが、嬉しそうにしゃしゃり出た。

「貴方のようなお美しい方が望まれるものならば! 代価など要りませんから是非、捧げさせて下さい! た、たとえ……ボクの、この身体でもブグェッ」

 エイヴェルを杖でぶん殴って黙らせながらフェリスは、ヒューゼルとメビィラを睨み回し、言った。

「ヒューゼルさん、だったわね。あんたとの話は後、まずそこのオバサンとちょっと話させてもらうわ。ねえメビィラさん」

 ヒューゼルが、代価を払ってまで手に入れようとしているもの。それが何であるかはフェリスにも想像はつく。

「お父さんに捨てられた女が何で今更、あたしの目の前に出て来るわけ?」

 フェリスの母アリシアは、数年前に病死した。

 その後間もなく、このメビィラ・バレスという女魔法使いが、父マーガス・レインの助手として住み込みで働くようになった。

 やがて、マーガスとメビィラは愛人関係に陥った。

 そういう場面をフェリスが目の当たりにしたわけではないが、雰囲気でわかるものだ。女性に関してだらしないところのある父でもあった。

 姉メイリスなどは露骨に、このメビィラという女を嫌っていた。

 そのメビィラ・バレスが、ある日突然、マーガスに解雇され追い出された。

 それから1月ほど後の事である。ボルドー・ボストーが、怪物どもの軍勢を率いてレイン家を襲ったのは。

「女の幸せ、って何だかわかる? お嬢様」

 暗く微笑みながらメビィラが、奇怪な事を言い始めた。

「それは男よ。世界の王になれる男とくっついて一生、不自由なく遊んで暮らす。それでこそ女に生まれた甲斐があるというもの……貴女のお父様にはね、世界の王になれるチャンスがあったわ」

 暗い美貌が、さらに暗く、おぞましく、歪んでゆく。

「ゲペルの逆呪文書、全3巻……これを揃えれば、悪竜ガアトゥームの封印を解ける。もう1度、封印する事も出来る。悪竜をね、脅して従わせる事が出来るのよ。わかる? お嬢様。ガアトゥームの力で世界を統べる、それを可能にする物の1つが手元にあると言うのに! あの臆病者のマーガス・レインは!」

 メビィラの語りは、叫びに変わっていた。

「禁断の力は禁断のままにしておかなければ、などと利いた風な事を! 自分は片田舎で少数の人々の役に立つだけの存在でいい、などと! それはつまり私に、そんな向上心のかけらもない男の妾でい続けろという事! 冗談じゃないわ、ねえお嬢様。貴女さっき私があの男に捨てられたとか言ってたけど間違えないで。あんなつまらない男は私の方から捨ててやったのよ!」

「ま……魔女だ……」

 エイヴェルが、声を漏らした。

「これこそ、本当の魔女だ……女って、こんなのばっかりなのか……?」

「生意気な事言ってると、食べちゃうわよ?」

 メビィラの、まるで蛇のような眼差しが、ねっとりとエイヴェルを絡め取る。色濃く紅の引かれた唇を、赤い舌が這う。

「……ねえ、可愛い坊や?」

「ひいぃぃぃ……」

 エイヴェルが怯えながら、フェリスの背後に隠れた。

 とりあえず庇ってやりながら、フェリスは質問を口にした。

「あたし、あれからずぅっと気になってた事があるのよね。ボルドー・ボストーは何で、うちに攻めて来たのかなって。何であいつ、お父さんがあれを持ってる事、知ってたのかなぁって。知らせた奴がいるんじゃないかって、誰かさんがボルドーを身体でたらし込むか何かして、そそのかしたんじゃないかなぁーなんて。ずっと気になってしょうがないんだけど、メビィラさんはどう思う?」

「ご想像にお任せしますわ、お嬢様。ご想像の通り、だとは思うけど」

 暗く、禍々しく、おぞましく、メビィラは笑った。

「……女を幸せにしてくれない男なんて、死んじゃった方がいいと思わない?」

「メビィラ・バレス……ッッ!」

 フェリスは呻いた。殺意そのものが、唇から溢れ出したかのようだ。

「待て、待たれよ、お二方」

 女魔法使い2人の間に、ヒューゼルが割って入った。

「御婦人同士で殺し合いなど始められては、男としては大変に心苦しい。我々はただ……ゲペルの逆呪文書を、お譲りいただきたいだけなのだ。この腐りきった国を、立て直すために」

 あの巻物は今、フェリスの手元にはない。水浴びをする前に、レギトに預けてある。

 だが手元にあったとしても、この者たちに譲り渡すつもりなど無論フェリスにはなかった。あれは父が、命がけでボルドーの手から守り抜いたものなのだ。

 となればヒューゼルは当然、方針を変えるだろう。代価を払って譲り受ける方針から、殺して奪い取る方針へと。

「さっさと渡してちょうだい、お嬢様」

 メビィラはすでに、その方針を明らかにし始めている。

「それとも……お父様に、会いに行きたいかしら?」

「無駄だぜ、その2人を締め上げても」

 声と共に、レギトが歩み寄って来ていた。

 古びた巻物……ゲペルの逆呪文書・下巻を、片手で軽く掲げながら。

「見ての通りだ。ぶち殺して奪い取るなら、俺からにしな」

「おお……逆呪文書……」

 ヒューゼルが、ふらふらとレギトの方に歩み寄る。

 狙われている巻物を、レギトはとりあえず鎧の懐へとしまい込んだ。

 いきなり奪い取ろうとはせずに、ヒューゼルが言う。

「レギト殿、であったな確か。鎧の悪鬼を、討ちに行かれるのか。やはり」

「ここんとこ、ちょいと懐が寒いんでな」

 鎧兜に身を包んだ、醜悪な容貌の男を、レギトは仇として追っているらしい。

 だからフェリスは、その手伝いをする。代わりにレギトにも、ボルドーとの戦いを手伝ってもらう。無論エイヴェルにもだ。彼も何やら人探しをしているらしいので、まあそれも手伝ってやる。

 この3人旅は、そういうものなのだ。

「鎧の悪鬼は恐るべき怪物、と言っても恐れ知らずの勇者は聞く耳を持たぬか」

 ヒューゼルは優雅に苦笑し、すぐにまた真摯な表情に戻った。

「ならば貴公が生きておられるうちにお願いしよう……その懐にお持ちの物を、どうか我らに譲っていただきたい」

 地面に両膝をつき、両手をつき、ヒューゼルは頭を下げた。

「頼む……この通りだ」

「おいよせ、土下座なんかするな」

 レギトの目が一瞬、フェリスの方を向いた。

 意志を、確認されている。

 そう感じて、フェリスは頷いた。

 レギトも頷き、ヒューゼルに告げる。

「1度だけ、はっきり言っとくぞ。俺は……俺たちは、たとえ大金積まれようが脅されようが、こいつを他人に渡すわけにゃいかねえんだ。どんなに頼まれてもな。だから土下座なんかしても無駄、やめとけ」

「…………じゃ死ねやああああああッッ!」

 草むらに伏せていた猛獣が、獲物に向かって跳躍した。フェリスには、そう見えた。

 平伏していたヒューゼルが、叫び、立ち上がり、腰の長剣を抜く。白刃が、下から上へと一閃してレギトを襲う。

 全てが、同時だった。

 レギトは辛うじて後方に跳び、その斬撃をかわしていた。

 空振りした長剣をヒュンッと構え直しつつ、ヒューゼルがなおも怒声を吐く。

「土下座は無駄、そう言いやがったなテメエ……金積まれても脅されても渡せねえ、とかぬかしやがったよなあ。つまり俺らとしちゃあ、殺して分捕るしかなくなっちまったって事だぞてめえ、わかってんのかゴラア!」

 貴公子然とした美貌の下に隠されていたものを剥き出しにしながら、ヒューゼルが猛然とレギトに斬りかかる。

「人がせっかく穏便に話つけようってとこ、てめえは自分で! 殺し合いを選んじまったんだよおおおおお!」

「……ま、そういうこったな」

 後退しつつもレギトは長剣を抜き、ヒューゼルの凶暴な斬撃を打ち弾いた。

 甲高い金属音が、湖畔に響き渡った。

「れ、レギトさん!」

 エイヴェルが叫びながらも、フェリスの背後から動けずにいる。

 ヒューゼルの引き連れて来た兵士十数名が、エイヴェルとフェリスをぐるりと取り囲み、武器を構えているのだ。

 ガレードの町で出会ったような連中とは違う、鍛え上げられた精鋭と呼ぶべき兵士たちである事がフェリスにもわかる。

 そんな精鋭兵らによる包囲の向こう側で、メビィラが言った。

「ねえお嬢様。私、気付いてたのよ? 貴女もお姉さんも私の事、本当に嫌っていたわよねえ……殺したい? 私を」

 マントの内側から、メビィラは短めの杖を取り出し、構えた。

 長剣ほどの長さで、全体に小さな宝石がいくつも埋め込まれている。

 それら宝石が、メビィラの言葉に合わせて、ぼんやりと光を発し始めた。

「……やってごらんなさい。出来るものなら、ね」



 ひどい夢を見た。

 漠然としていて内容は思い出せないが、とにかく嫌な夢だった。

 不快な寝汗をかいたのでルチアは今、水浴びをしている。

 レミオル湖。南側の湖畔である。早朝で霧が立ち込めており、対岸は見えない。

 この湖を渡るか迂回するかして北へと進めば、またパルキア地方へと戻ってしまう事になる。

 アスミラ王女の行方を追って、パルキア地方とレノ・クランシア地方を行ったり来たりというのが、女戦士ルチア・ドールの現状であった。

「いくらか無様……とは言え、手がかりが見つからないのではな」

 鎧も下着も外した裸の身体に、ルチアはのんびりと湖水を浴びせていた。

 たくましいほどに丸く膨らんだ両の乳房が、水飛沫を弾く。胸は、もう少し小さめでも良いかも知れない。妹のように。

 力強い胴の引き締まり具合も、悪くない。ただ、くっきりと腹筋が浮かんでいるのは少々気になる。

 もう少し華奢でもいい。妹のように。

 尻は、胸以上に肉付きも丸みも豊かで、瑞々しい迫力を感じさせる。だがもう少し、小振りでもいいかも知れない。妹のように。

 むっちりと膨らみ引き締まった左右の太股も、嫌いではないが、筋肉の盛り上がりが少し目立ち過ぎるようには感じられる。もう少し、細くても良い。妹のように。

(……妹? とは一体、誰の事だ……)

 ルチアは軽く、頭を押さえた。自分は今、何かを思い出しかけているのだろうか。

 いや。そんな事よりも今は、アスミラ王女の行方と安否である。

 反乱を目論んだオデリウス・レオム侯爵によって、彼女はまず連れ去られた。

 そのオデリウス侯爵の軍が、鎧兜に身を包む怪物によって蹂躙虐殺された。幼い王女が、今度はその怪物に連れ去られた。

 関連ある事柄かどうかは不明であるが、どうやら『鎧の悪鬼』と呼ばれる高額の賞金首がいるらしい。全身鎧と仮面兜で正体を隠した、まるでゼイヴァー・アルデバロンのような風体であるという。

 このレミオル湖近辺での目撃情報もある。

 数日前ルチアに一夜の宿を貸してくれた村人が、言っていた。

 全身甲冑姿の恐ろしげな大男が、小さな女の子を肩に乗せて湖畔を歩いていた、と。噂に聞く『鎧の悪鬼』かも知れないが、その女の子は別段、怯えているふうでもなかった、とも。

 頼りない情報を、今は辿って行くしかない。

 早朝の清かな空気に、濡れた裸身を晒しながら、ルチアは声をかけた。

「最後の眼福……思い残す事なく堪能したのか?」

 男たちは、答えない。

 計7人。通りすがりの、強盗・追い剥ぎの類であろう。

 全員、水中に倒れ伏して浮き沈み、あるいは湖中の岩にもたれかかって動かない。

 ある者は顔面や側頭部が陥没し、ある者は首がおかしな方向に伸びて垂れ下がり、ある者は目立った外傷のないまま絶息している。

 ゼイヴァー・アルデバロンより与えられた長剣は、近くの岩の上に置いてある。手の届く距離だ。

 だが血の混ざり込んだ水など浴びたくはないので、ルチアは7人全員を素手で殺した。

 この長剣の出番は、むしろ今からであろう。

 こんな男たちなどとは比べ物にならないほど剣呑な気配が、いつの間にか、そこにある。

 ルチアは鞘ごと長剣を引っ掴み、抜き放ち、一閃させた。

 反り身の刃が何かを打ち弾き、甲高い音を響かせる。

 打ち落とされたものが、水中に落ちた。

 小さな、まるで長い針にも見える短剣。

 どこからか投擲されたそれが2本、浅瀬に沈んでいる。

「へえ……やるねえ、裸のお姉さん」

 湖岸に、その少女はいた。大きな岩の上に、腰を下ろしている。

 年の頃は15、6か。どこか仔猫を思わせる、小柄で可憐、だが一癖も二癖もありそうな女の子だ。

「それに比べて……この男ども、見事な雑魚っぷり見せてくれたねえ。いや、それはそれで感心感心」

 嘲笑を浮かべる顔立ちは、愛らしいが不敵そのもの。

 薄い革製の衣服が、小柄な身体にぴったりと貼り付いて、しなやかな曲線を際立たせている。

 短い革のスカートからスラリと伸び現れた両脚は、細く、だが無駄なく引き締まって、動かずとも躍動感を感じさせる。

 かなりの戦闘訓練を積んだ肉体である事が、ルチアにはわかった。

「貴様は……」

 油断なく見据え、問いかけてみる。

「……暗殺を、生業とする者か?」

「生業、そぉーなのよ。あたしってば人殺しが天職みたいでさあ。もっと女の子らしい天職、持ちたかったんだけどねえ」

 おどけて笑いながら、少女は軽く髪をいじった。さらりとした、短めの黒髪だ。

「殺すのが天職なのは、私も同じさ」

 ルチアは、口元で微笑んで見せた。目で、睨み据えながら。

「で……お前、誰かを殺しに来たのか? 例えば、私を」

「無理無理無理無理無理」

 岩に腰掛けたまま、少女は頭を横に振って黒髪を揺らした。

「お姉さん、ご家族いる? その人たちを人質にでも取らなきゃ、あたしなんか勝てるワケないよお」

「家族……」

 抜き身の長剣を右手で保持したまま、ルチアは左手で軽く頭を押さえた。

 その間、暗殺者の少女が、岩の上から軽やかに飛び降りた。

 そして、男7人の屍を観察する。

「うん……ま、こいつらでいいかな。お姉さん、ちょっと試させてもらうねえ」

 何を、などとルチアが聞く暇もなく少女は動いた。小柄な肢体を、くるりと楽しげに翻した。

 踊り、のような投擲の動作。

 投擲されたものが、7つの屍に降り注ぐ。

 つい今、ルチアが叩き落としたものと同じ、長い針のような短剣。それらが、死せる男7人の首筋や背中や後頭部に突き刺さっていた。

 少女が何をするつもりであるのかは次の瞬間、明らかになった。

 ルチアに首を折られ、顔面を凹まされ、臓物を粉砕された男たちが、のたりと立ち上がったのである。

 7人とも、どんよりと散大した瞳で、女戦士の見事な裸身を鑑賞している。

 生前の劣情も凶暴性もない、濁った眼差し。死人の目だ。

 全員、死んでいるのは間違いない。生き返った、わけではない。

 死んだまま、動いているのだ。短剣が、首筋や背中や後頭部に突き刺さった状態で。

「短剣に……毒物でも塗ったのか?」

 少女が手の内を明かすかどうかはわからないが、ルチアは問いかけてみた。

「それも、死んだ人間を動かすような毒物……」

 死人使い。

 そんな単語が突然、ルチアの脳裏に浮かんだ。

 死人使い。そんな通り名を持つ有名人が、いたような気がする。

「あたしね、親父の殺り残しを片付けなきゃいけないわけ。だから今、いろいろ実験してる最中なの」

 別に訊いてもいない事を、少女は言った。

「……くそったれ宰相のアフザム・ボルゲインは、あたしが殺す。お姉さん、ちょっと『死人使い』の実験に付き合ってね」

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