第6話 魔軍、集結
路銀が、尽きかけている。
半分以上、賄賂に使わなければならなかった。兵隊に金を握らせない限り1歩も進めない、という場面が多かったのである。
「やはり、この国は腐っているのか……」
呟いてみる。
腐敗を口で憤るだけならば、誰にでも出来る。あの男は、そう言うだろう。
実際、初めて会った時には、そう言われた。
再会の約束を胸に今、1人の若者が、レミオル湖の湖畔を歩いている。
20代前半。すらりとした長身に唯一神教会の法衣をまとい、片手には天使の像が彫られた聖杖。
旅の聖職者、といった装いである。
顔立ちは、美しいとしか表現のしようがない。
ひたすら美形。それしか外見的特徴の見当たらぬ青年が今、レミオル湖畔を歩いている。
対岸が見えぬほど広大な、この湖を、1周しようというわけではない。目的地は、もう近い。
若き美貌の聖職者は、足を止めた。
すぐ近くの、湖岸の大岩。その上に、男はゆったりと腰を下ろしている。
甲冑姿である。禍々しいほどに力強い筋肉を、板金鎧の内側に閉じ込めた巨体。
楯のように平らな仮面と一体化した兜が、その脇に置かれている。
痛ましいくらいに醜悪な顔面を、男はにこりと歪めた。
「……久しいな、ロウエル・ケリストファー司祭」
「ゼイヴァー卿……」
ロウエルは、片膝をついて頭を垂れた。
この男に忠誠を誓う。そのために、自分は来たのだ。
ゼイヴァー・アルデバロンが、岩の上に仮面を置いたまま立ち上がり、言う。
「顔を上げられよロウエル殿。私は貴公に、臣従を求めてはおらぬ。中央大聖堂司祭ロウエル・ケリストファー殿は、我が臣下ではなく同志なのだ」
「……私はもう司祭ではありませんよ。そろそろ、破門状が出回っている頃でしょう」
苦笑しつつ、ロウエルは気付いた。
近くに馬車が1台、止まっている。王侯貴族が使うような豪奢なものだ。
ゼイヴァーが乗って来たもの、ではないだろう。彼の愛馬とおぼしき大柄な黒毛の軍馬が、少し離れた所で草を食んでいる。
それに、どうやら人が乗っているらしい気配が、馬車からは漂って来る。
「我が同志の1人だ」
ロウエルが訊く前に、ゼイヴァーが教えてくれた。
「今は少々、傷を負っている。養生中のところ、私が無理矢理に連れ出したのだ。ロウエル司祭の白魔法を、あてにさせてもらおうと思ってな」
「お任せ願いましょう。私にいささかなりとも他人に誇れるものがあるとすれば、癒しの術くらいですからね」
ゼイヴァーに従う格好で、ロウエルは馬車に歩み寄った。
その馬車の中から、声が聞こえた。
「……白魔法使い殿が来られたのか、ゼイヴァー卿」
老人、に近い年齢と思われる男の声だ。くたびれた感じがするのは、やはり傷を負っているからか。
「貴公がぜひとも我らの同志に加えたいと言っていた、白魔法使い殿……腕は、確かであろうな」
馬車の、扉が開いた。
出て来たのは、女性である。ロウエルより少し年上、20代半ばといったところか。長い黒髪に囲まれた顔は、美しいがどこか暗い。
魅惑的に成熟した身体には、布地の少ないドレスといった感じの服がピッタリと貼り付いており、全体的にいくらか下品なほどの色香を漂わせている。
そんな格好の上から黒色のマントを羽織っており、それがまた邪悪なほど様になっていた。
いささか気圧されながらもロウエルは、彼女に導き入れられる格好で馬車に入った。
その際、軽く会釈をする。女性は、微かな目礼だけを返してきた。
大型の寝台が1つ、馬車の内部を占めていた。
男が1人、そこに横たわっている。死体か、とロウエルはまず思った。
枯れ木を思わせる全身に包帯が巻かれ、血か膿か判然としない汚れが所々に滲み出ている。
首から上は辛うじて無傷だが、血色は悪い。
とりたてて特徴のない、初老の男の顔。その中でしかし両眼だけがギラギラと、嫌らしいくらいの生気を宿し輝いている。
断じて死体などではない、その男が言った。
「私はボルドー・ボストーと申す者……このような姿で失礼する」
「ロウエル・ケリストファーと申します。ひどいお怪我を、なさっているようですが」
この男女2名を見てまず感じた事を、ロウエルは口に出していた。
「お2人とも……黒魔法使い、でいらっしゃる?」
「……さすがよな。邪悪な者は治してやらぬ、などと言われるのは悲しいゆえ隠し通すつもりでいたのだが、一目で見抜かれてしまうとは」
ボルドーの血色悪い顔が、ニヤリと禍々しく歪んだ。
天使と悪魔が相容れぬ関係にある以上、白魔法使いと黒魔法使いが敵対し合うのは当然と言える。
前クランシア王国時代の唯一神教会は、黒魔法を使う者たちに対し、迫害と呼べるような事まで行っていたらしい。
黒魔法使いが民間で普通に生活出来るようになったのは、後クランシア時代になってから……すなわち悪竜ガアトゥームによって全ての秩序が破壊された後の事なのである。
その悪竜との戦いにおいて、ゲペル・ゼオンとドーラ・ファントムが……白魔法使いと黒魔法使い、双方の代表者が手を結んだのは、革命的とも言える出来事だったのだ。
戦いの後ドーラ・ファントムは野に下って黒の隠者となり、黒魔法を市井の人々の役に立てる道を歩みつつ一生を終えたという。
だが今、後クランシア国内に生きる黒魔法使い全てが、彼の遺志を受け継いでいるわけではない。中には本当に、邪悪であるとしか言いようのない者もいる。
それでもロウエルは、
「確かに、貴方は邪悪なる人間のようだが……私自身の意思はともかく。36の聖なる方々が、傷病に苦しむ者を差別なされる事はない」
言いながら、ボルドーに向かって片手をかざした。そして念じ、呟く。
「心優しきメルティエーラよ、この者に癒しを……」
光が、生じた。薄暗い馬車の中を、ほんのりと照らし出す白い光。その柔らかな輝きが、ボルドーの全身を包み込む。
光が消え、馬車の中が再び薄暗くなった。
その暗闇の中で、ボルドーの両目はギラギラと輝きを強めている。禍々しい微笑が、ニヤリと歪みを増した。
死体のようだった身体が、むくりと起き上がって片腕を横に伸ばす。何かを促す仕草だった。
黒髪・黒マントの女性が無言のままボルドーに寄り添い、包帯をほどき始める。ゆっくりと丁寧に、かいがいしく。
包帯がほどけ落ち、痩せ細った、血色の悪い、だが無傷の肉体が露わになってゆく。
「全身、大火傷を負っていたのだ。ゼイヴァー卿と敵対する、とある黒魔法使いとの戦いでな」
枯れ木のような、だが火傷の痕跡など一片も見当たらない己の裸体を見回しつつ、ボルドーが満足げに語る。
「あの激しい戦いが、全く無かった事にされてしまったかのようだ……ふ、ふふふ。恐るべき白魔法使い殿が、同志となってくれたものよ」
黒髪の女性が、ボルドーの身体にガウンを着せかける。
とりあえず裸ではなくなったボルドーが、寝台から立ち上がりつつ言った。
「まずは礼を言うべきであろうな、ロウエル・ケリストファー殿」
「礼など、要りませんよ」
ボルドーを馬車の外へと導くような感じに、ロウエルが先に出た。
「私の力が多少なりともお役に立つ事を、証明したかっただけですから」
「役に立つ、どころではない……おうゼイヴァー卿、貴殿が言うだけの事はあったな。このロウエル殿が同志となった今、我らは不死の肉体を得たも同然」
禍々しく笑いながら、ボルドーも馬車を下りる。ガウンをまとった細い身体を、黒髪の女性がピタリと貼り付くように支えている。
その豊麗な女体を嫌らしく抱き寄せつつ、ボルドーはなおも笑った。
「あのマーガス・レインも気の毒な事であったな。命がけで私に手傷を負わせたつもりであろうが、ロウエル殿のせいで全て無駄になってしまった」
「無駄でもあるまい、ボルドー殿」
ゼイヴァーが、いくらか冷ややかな声を出した。
「かの大魔術師は、あれを貴公の手から守り抜く事には成功しているのだ」
「ふん、焦る事もあるまいよ。今あれを持って逃げ回っているのは未熟な小娘だ。それよりゼイヴァー卿、おぬしの方はどうなのだ」
「……見つからぬ。王宮の宝物庫を、さながら盗賊の如く漁り尽くしたのだがな」
太い両腕を組みながら、ゼイヴァーが言う。
「どうやらオデリウス侯爵が盗み出したものの中に含まれている。すなわち行方不明、というわけだ。アスミラ王女と共にな」
潰れた顔面が、ちらりとボルドーの方を向く。
「……ボルドー殿。貴公、あれをマーガス・レインが保有しておる事をいかにして突き止めたのだ? ドーラ・ファントムの死後、その弟子たちが、あれを受け継ぎ守り続けてきたと聞き及んではいるが……黒の隠者の弟子筋から、どのようにしてマーガス1人を特定したのか。それを参考までにお聞きしたいが」
「参考になどならんよ。何しろ、全くの偶然だ」
言いながらボルドーが、傍らに立つ女性の顎を軽く掴み、その暗い美貌をゼイヴァーの方に向けさせた。
「この女を、まだきちんと紹介してはおらなんだな……こやつの名はメビィラ・バレス。つい最近までマーガス・レインに師事と言うか、半ば妾のような形で仕えておったが、何をやらかしたのか放逐され、彷徨い流れていたところを私が拾ってやった。その恩返しのつもりか、ある時こやつが私の耳元で囁くのだよ。パルキアの魔術師マーガス・レインが、とてつもないものを隠し持っているとな」
「殺して奪え、とボルドー殿をそそのかしたか。放逐へのささやかな仕返し、というわけかな? メビィラ殿」
「いかようにも……」
黒髪・黒マントの女魔法使い……メビィラ・バレスが、ようやく言葉を発した。
「私はただ、愚かで臆病なマーガス・レインではなく、志ある殿方の御ためにこそ働きたいと思っただけでございます」
「この女、そこいらの男どもよりはずっと役に立つ」
ボルドーが言った。
「ゼイヴァー卿に何の話も通さず、私が勝手に同志に加えてしまったのは申し訳ないと思うが」
「構わぬさ。私も独断で1人、同志を増やしてしまったばかりだ」
とゼイヴァーが言っているのは、ロウエルの事ではないようだった。
「その者には今、別の任務を与えてある。近いうちに貴公らにも紹介出来るであろう」
「楽しみだ。ゼイヴァー卿が見込んだ者ならば間違いはあるまい、そちらのロウエル殿のように」
「我らの同志……という事で良いのかな? ロウエル殿」
痛ましいほどに醜悪なゼイヴァーの顔が、じっとロウエルに向けられる。
「思いとどまり引き返すなら、これが最後の機会だ。ここより先は、志などという綺麗事では済まぬ……破壊と殺戮の道よ」
「……初めてお会いした時も、ゼイヴァー卿は同じ事をおっしゃった」
ロウエルは思い返した。わざわざ思い返さなくとも、忘れられる出会いではなかった。
あの日。中央大聖堂をたった1人で訪れた仮面の騎士は、話を始める前に、まずはその仮面を脱いだ。
出来れば一生、隠しておきたいであろう素顔を、何のためらいもなくロウエルの眼前で曝け出したのだ。
言葉よりも、それが、ロウエルの心を動かしたのだった。
「大聖人ゲペル・ゼオンが、悪竜ガァトゥーム復活の手段を、わざわざ後世に遺した……その理由に関しては、今日に至るまで様々な解釈が行われてきましたが」
語りつつロウエルは、懐に隠し持っていた物を取り出した。
短剣ほどの大きさの、純銀の筒。ずしりと重みのある何かが入っている。
「ゼイヴァー卿、貴方による解釈が最も正しいと私には思えるのです。ゆえに……ゲペルの逆呪文書・上巻。ゼイヴァー・アルデバロン殿に託します」
「盗人のような事をさせて、申し訳なく思っている」
たくましい手で銀の筒を受け取りながら、ゼイヴァーは言った。
「……そして感謝する。共に破壊と殺戮の道を歩もう、同志ロウエル・ケリストファー殿」
「この国は間違いなく腐っています、ゼイヴァー卿」
正視し難い容貌を、ロウエルは正面から見据えた。
「そして貴方の言われる通り、口だけで腐敗を憤るのは誰でも出来る事……私は、行動する者でありたい。たとえその行動が、破壊と殺戮であろうとも」
「破壊と殺戮、結構な事ではないか」
いかにも黒魔法使いらしい事を、ボルドーが言う。
「そう、まさにゼイヴァー卿が解釈なされた通り……悪竜ガアトゥームという比類なき力を、ただ封印し眠らせておくだけなどとは愚の骨頂と言うべき事。力とは、解き放ち利用するためにある。我らが愛してやまぬ、この後クランシアという国のためになあ。破壊が起こるであろう、殺戮が行われるであろう。だがその後に、善き想像が為されるのであれば……それこそが大聖人ゲペル・ゼオンの、いや三英雄の大いなる遺志というもの」
(そうだ、私は破壊を行う。殺戮を為す……)
ロウエルは暗く微笑み、そして心の中で語りかけた。この場にいない、1人の少年に。
(可愛いエイヴェル……私を止める事が、出来るかい?)
「ああっ、やっぱり! こんな事になってる!」
店に入るなり、エイヴェルが泣きそうな声を出した。
地方都市ガレードの、ありふれた居酒屋兼飯屋である。昼食、にはいくらか遅めかと思える時間帯だが、とりあえず一休みをするべく、レギトとフェリスとエイヴェルは店内に足を踏み入れていた。
目立つのは、店の中央のテーブルを占領して酒盛りをしている一団である。
一応は王国地方軍の兵装に身を固めた男が、4人。ガレード市の守備兵であろうが、城門にいた連中と同じような輩である事は、その下品な騒ぎぶりを見ても明らかだ。昼間から酒を喰らっている兵士たち。
エイヴェルが嘆いているのはしかし、そんな事に対してではない。
店内の壁に貼られた、何枚もの人相書き。その1枚を、彼は泣きそうな顔で見つめている。
描かれているのは若い男だった。どれほど似ているのかは不明だが、美しい顔立ちである。美しい、以外には何の特徴もないと言えるほどだ。
そんな美しい似顔絵の下に、名前と罪状それに賞金金額が明記されている。
『元中央大聖堂司祭ロウエル・ケリストファー 聖典を盗み出し、行方をくらませたる者 金貨600枚』
「ほう、これがおめえの探し人か」
壁の人相書き全てを最も良く見渡せる席に、エイヴェルとフェリスを座らせて自分も座りながら、レギトは言った。
「金貨600たぁ大物じゃねえか。人殺したわけでもねえんだろ?」
「賞金を出すのは中央大聖堂ですから……あの人たちは、ここぞとばかりにロウエル司祭を大罪人に仕立て上げて、あわよくば亡き者にしようとしているんです」
「金貨600枚……」
フェリスが呟いた。
「これって、生死は問わず……なのよね?」
「おい何を考えてる! この魔女め!」
「まあまあ、ちょいと他の賞金首も見てみようじゃねえか。金がなくなったら世話になるかも知れねえし」
実際レギトは、そんなふうに旅を続けてきた。
路銀が尽きかける度に、金貨50枚100枚程度の賞金首を狩って、どうにか食い繋いできたものである。600枚などという大物を、本腰を入れて狙った事はない。
壁一面に貼り出された何枚もの手配書を、見渡してみる。
超高額の賞金首が1枚、レギトの目に入った。一癖ありそうな細面の中年男が、描かれている。
『死人使いルイス・ジャンゴ 宰相閣下の御身を脅かしたる者 金貨1300枚』
「おお、まだ捕まってなかったのかコイツ。しかも1300たあ、跳ね上がったもんだ」
「レギトさんは、この方をご存じなんですか?」
エイヴェルが訊いてくる。
「死人使いとは、また恐ろしげな……あれ? ルイス・ジャンゴ。どこかで聞いたお名前のような」
「そこに書いてある通りさ。5年くれえ前だったかな、くそ宰相のアフザムが殺されかかった事件があっただろ」
宰相暗殺未遂。後クランシア王国全土に知れ渡った事件である。
今から5年前の、王国暦262年。現在同様、宰相として権勢を欲しいままにしていたアフザム・ボルゲインが、深夜、自邸の寝室で、十数人もの暗殺者に襲われたのだ。
宰相護衛の剣士たちが手練で、即座に寝室に押し入り、その暗殺者たちをことごとく斬殺あるいは捕縛してアフザムの身を守り、事なきを得たと言う。
捕縛された暗殺者の1人が、しかし拷問を受ける前に脱獄・逃走し、現在に至るまで行方をくらませている。それが死人使いルイス・ジャンゴである。
「毒を使うので有名な人よね……」
フェリスが言った。
黒魔法でも、毒物を扱う。暗殺を生業とする者が、魔力で調合された毒薬を黒魔法使いから購入する事もある。
だがルイス・ジャンゴは、仕事に使う毒物は常に自身で調合し、魔法使いに頼る事はなかったという。
「あたしのお父さんが、名前だけ知ってたわ。ルイス・ジャンゴの毒薬は人を、殺すだけじゃなく、生き人形みたいにして操る事も出来たみたい。操られた人は、まるで死体が動いてるみたいな感じになって……それで、付いたあだ名が死人使い」
「ボクも思い出した。5年前の宰相閣下暗殺未遂事件、その実行犯の生き残り……暗殺者たちを雇って宰相閣下のお命を狙ったのは誰だったのか、結局わからなかったんですよね? レギトさん」
「どうかな。公表されてねえだけじゃねえかって気もする」
レギトは腕を組んだ。
宰相アフザム・ボルゲインの命を狙う者など、それこそ星の数ほどいるだろう。
捕縛された暗殺者たちは過酷な拷問を受け、脱走したルイス・ジャンゴ以外は1人も生き残らなかったという。彼らが最終的に依頼主の名前を吐いたのかどうかは不明である。
それと関係があるのかどうか定かではないが、ここ数年の間、宰相アフザムと折り合いの悪くなった大貴族が、僻地の領主に任命され、任地で病死したり事故死したりといった事がしばしば起こっている。ラディック・ヘイスター公爵のようにだ。
宰相暗殺未遂事件の黒幕はラディック公爵、という噂は当然ある。
レギトとしては無論、ラディック公爵が暗殺者を使ったなどという話を信じたくはない。が、王国の腐敗の元凶を取り除くのに手段を選んでいられなかった、というのなら、わからなくもない。
もし自分がラディック公に宰相暗殺を命じられたなら、命を捨ててもやり遂げていた、という思いもある。
あの仮面の男は、やはり宰相アフザムの放った刺客なのか。ラディック公爵は、暗殺未遂の報復を受けて殺されたという事なのか。
「レギトさん……」
いくらか息を呑みながらエイヴェルが、別の人相書きを指差した。
そこに描かれているのは、兜と一体化した仮面だった。盾のようにのっぺりとしていて、視界確保のための裂け目だけが細かく刻まれている。
あの男が着けていた仮面、に似ていなくもない。
『鎧の悪鬼 王都近辺にて大いに人を殺めたる者 金貨950枚』
そう記されている。
レギトは思わず、椅子の上で腰を浮かせた。鎧の悪鬼、などという通り名しか判明していないようである。
「レギトさんがお探しなのは、仮面を被ったお方……でしたよね?」
「こいつがそうとは限らねえ、が……」
レギトは考え込んだ。
鎧の悪鬼。あの仮面の男にあだ名のようなものを付けるとしたら、まあそんなところだろうという気はする。
給仕の女の子が、いそいそと席に駆け寄って来た。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
はきはきとした感じの、明るそうな娘である。フェリスと同じ年頃で、美貌そのものはいくらか劣るものの、陽気さで充分に補ってはいる。
レギトは思考を中断し、とりあえず品書きを見た。
「そうだな、こんな明るいうちから酒って気にもならねえし……」
酔っ払って騒いでいる兵士4名を、つい睨んでしまう。給仕娘が苦笑した。
「……ほんと、あんな感じですよ。ここの兵隊は、どいつもこいつも」
「ここだけじゃねえさ。ほんとにまったく、この国はよ……ところでお姉さん、ちょっと訊きてえんだが」
鎧の悪鬼、の人相書きにレギトは親指を向けた。
「こいつが貼り出されたのは、いつ頃だい。最近かな?」
「えーと、鎧の悪鬼……ああ、それなら今日貼り出されたばっかりですよ。お客さん、もしかして賞金稼ぎ?」
「ってほど稼いじゃいねえがな」
「強い賞金稼ぎの人がいてくれると、助かるんですけどねえ」
注文を取るのも忘れた様子で、給仕娘が喋り続ける。
「その鎧の悪鬼って奴、最近はこの近くまで流れて来てるらしいんですよ。人をたくさん殺しながら……ほんと、兵隊は何の役にも立っていないし」
そう言われた兵士4人が、席を立ち、店から出て行こうとしている。
給仕娘が血相を変え、駆け寄って行く。
「ちょっと、お金払って下さいよ!」
「ああん?」
酔っ払った兵士たちが、どんよりと血走った目で給仕娘を睨む。
怯まず、彼女は大声を出した。
「今日の分だけじゃなくて! いい加減ツケがものすごく溜まってるんですからね兵隊さんたち、きゃああああっ!
大声が、悲鳴に変わった。
酔いどれ兵士たちが4人がかりで給仕娘を捕え、抱き上げ、さらって行こうとしている。
「お1人様お持ち帰りィー、ぐへへへへ」
「もっと楽しいお店に連れてってやんぜぇ嬢ちゃんよおお」
レギトが席から立ち上がる、前にフェリスが立ち上がっていた。虚ろなほど澄んだ瞳が兵士たちを睨み、可憐な唇が魔王の名を紡ぐ。
「ゴッヘル将軍……」
「待て待て待てぇえっ!」
レギトは叫んだ。フェリスに向かって、兵士たちに向かって。
女の子を1人、捕え運んで店を出ようとしていた兵士4名が、酒気で血走った目をギロリと向けてくる。
睨み返し、レギトは言った。
「この国は腐ってやがる……って何回言わせるつもりだ? てめえら」
「おいおい、ガキのくせに酔っ払ってる奴がいるぞお」
兵士の1人が無警戒に歩み寄って来て、レギトの胸ぐらを掴もうとする。
掴まれる前に、レギトは拳を叩き込んでいた。兵士の腹にだ。
息の詰まったような悲鳴を漏らし、兵士が前方に身を折った。飲み食いしたばかりのものを、嘔吐しようとしている。
「おっと、店の中で吐くんじゃねえよ」
レギトはそのまま兵士の身体を、店の外へと蹴り出した。
往来に蹴り出された兵士が、よろめきながら盛大に吐瀉物をぶちまけ、路上に倒れ伏す。通行人たちが悲鳴を上げる。
他3名の兵士は、呆然としていた。
自分たちに刃向かう者がいる、などという事が信じられないのだろう。それに酒も入っている。
そんな3人からレギトはまず、給仕娘を奪い取るようにして解放した。
そうしてから、兵士1人1人を掴んで店の外へと放り出す。
4人目の兵士を、物のように掴んで引きずりながら、レギトは自身も店外へと出た。
「て、てめえ正気か、官憲に暴力振るうたあ……」
声を漏らす兵士を、レギトは路上に放り捨てた。
通行人が、野次馬が、ざわざわと集まって来る。
衆目の中、最初に蹴り出された兵士が、己の吐瀉物にまみれて転げ回る。
他3人が、酒気と凶暴性を発散させてレギトを睨み、喚いた。
「このクソガキ……てめえのやった事わかってんだろーなあああ!?」
「街の治安を乱す奴ぁ死刑! 死刑! 俺らにゃその権限があンからよぉー!」
兵士の1人が、腰の剣を抜こうとする。レギトは声を投げた。
「それはやめとけ。手加減、出来なくなっちまうから……な?」
大きな声を出したつもりはないが、剣を抜こうとする兵士の動きがビクッと止まってしまう。
店の中から、エイヴェルが飛び出して来た。
「だっ駄目ですよレギトさん、こんな往来で堂々と暴力を振るうなんて」
「俺の事なんかいいから、おめえはフェリスを見張ってろ」
レギトは命じた。
黒魔法使いの少女が、店内からじっとこちらを見つめている。
「あいつが何か魔法ぶちかましそうになったら、おめえは身体張ってでも止めるんだぜ」
「そ、そんな! あんな魔女のために身体を張るなんて……」
エイヴェルが半泣き顔を赤らめて、レギトに寄り添い、囁く。
「ボクの身体は、レギトさんのためだけに……」
「要らねえよテメエの身体なんて! あと俺のケツを触るな」
エイヴェルの細い身体を、レギトは店内に向かって蹴り飛ばした。
同時に兵士の1人がついに剣を抜き、喚きながら斬りかかって来る。レギトは、見ずにかわした。
長剣を大きく空振りさせながら、兵士が前のめりによろめく。そこへレギトは、
「酔っ払いが、刃物振り回してんじゃねえよっ」
左の手刀を振り下ろした。
首筋に直撃を喰らった兵士が、白目を剥いて倒れた。
「手加減は出来ねえ、って言ったよなあ?」
レギトは、左の掌に右の拳を打ち付けた。良い音がした。残る兵士2人が、ビクッと震える。
物々しい気配が近付いて来た。複数の足音が、整然と聞こえて来る。
よく訓練された兵士の足音である事が、レギトにはわかった。
野次馬の群れが、2つに割れた。
割って入って来たのは、6人の兵士である。
酔っ払っていた4人と、装備こそ同じだが動きが違う。精鋭と呼ぶべき兵士たちだ。
その指揮官と思われる若い男が、声を発した。
「そこまで! 何が起こっているのかよくわからぬが、そこまでにしておけ」
(こいつ……!)
レギトは思わず、腰の長剣を抜いてしまいそうになった。
この男、強い。まず、そう感じた。
年齢は、レギトと同程度であろうか。20代に入って間もない若者である。
体格はすらりとして無駄な肉がなく、着用している軍装は、他の兵士よりも少しだけ立派だ。
さっぱりと短めな金髪と整った顔立ちは、貴公子然としてはいる。が、その秀麗な容貌には、過酷なほどに豊かな戦歴が隠しようもなく滲み出ている、とレギトは感じた。
殺し合いの中を、生き抜いてきた者の顔だ。
その顔が、ちらりと場を見回す。
「何が起こっているのか……まあ、大体はわかった」
言いつつ溜め息をつき、彼は名乗った。
「私はヒューゼル・ネイオン。ここガレード市の守備隊長だ。見ての通りの若輩者ゆえ兵たちが言う事を聞いてくれず、こうして民に迷惑をかけている……申し訳ない、とは思う。それはそれとして貴公、剣の柄から手を離してはどうだ。我ら官憲を許せぬにしても、斬り合いまでやらかす理由はあるまい? 今のところは、な」
「…………」
言われた通りレギトは、腰の長剣から手を離した。
抜き打ちの一閃で斬殺されてくれるような、容易い相手ではなかった。
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