第5話 禍の書

 3人が行動を共にしなければならない理由は、特になかった。

 エイヴェルは、中央大聖堂からある物を持ち出して行方をくらませたという先輩司祭を捜しているのであり、フェリスは家族の仇である黒魔術師ボルドー・ボストーとの戦いを決意しつつある。

 そして、レギトの目的も仇討ちだ。

 主君ラディック・ヘイスター公爵を殺した、仮面の剣士。

 あの男の命を奪うための旅の最中に、この2人と出会ってしまったのである。

 中央大聖堂の見習い司祭エイヴェル・ガーナーと、黒魔法使いの少女フェリス・レイン。

 年下の2名をレギトが引率するような形で3人は今、後クランシア王国パルキア地方の街道を、北から南へと歩いている。

 このまま進めば、パルキア最大の地方都市ガレードに行き着く。

 大きな街ならば、何かしら情報を入手出来るかも知れない。その程度の考えで、しかし今は行動するしかなかった。3人とも、各々の捜し人に関して、何の情報も持っていないのだ。

 特にレギトの場合、あの仮面の男の名前すら知らない。

(野郎……っ)

 今は、そう呼ぶしかなかった。

「レギトさん……ボク、もう我慢出来ません……」

 エイヴェルが歩きながら、わなわなと細身を震わせている。

 とりあえず、レギトは声を投げた。

「野グソなら、その辺でしちまえ。待っててやるから」

「そっそんな、レギトさんが見ている前でそんな事……」

「……見るワケねえだろ」

「じゃなくて! ボクはレギトさんと2人っきりの旅に心弾ませてたんですっ! なのに……本当に心弾んで、夢見心地だったのに……何で! 何でこの魔女が、ここにいるんですかぁああッ!」

「……人の事、指差してんじゃないわよ。変態のくせに」

 言いながらフェリスが、ぴたりとレギトに身を寄せる。

 少女の香りが、ふわりとレギトの鼻をくすぐった。信じられないほど柔らかな感触が、二の腕の辺りに伝わって来る。

「レギトさんと2人っきりの旅は、あたしがするの……」

「おっ、おい」

 たじろぐレギトに、フェリスが囁きかける。

「あたしと一緒に……ボルドーと、戦ってくれるわよね?」

「なっ……ぁんて図々しい! これだから女という生き物は!」

 エイヴェルが激怒しながら、レギトにしがみついて来る。

「駄目ですレギトさん、こんな生き物と一緒に行動しては! 貴方のような美しい殿方に、おぞましい蛭のように貼り付いて全てを吸い尽くす! それが女という」

「いいから俺のケツを触るんじゃねえよ」

 レギトは拳を振るった。

 エイヴェルが、見事なたんこぶを頭で膨らませながら泣きじゃくる。

「ひ、ひどい……そうやって女なんかをくっつけて、わざとボクの心をやきもきさせて……レギトさんは本当に、罪深い人ですぅ……」

 世迷言を無視し、反対側からしがみついて来るフェリスの身体もやんわりと振りほどきながら、レギトは言った。

「俺にもな、おめえらと同じでやんなきゃいけねえ事がある。その片手間で良けりゃ力を貸せるんだが……どこまで助けてやれるかは、わかんねえぜ」

「昨日みたいに、魔法の効かない怪物とかが出て来たら、やっつけてくれる……だけでいいんです。ボルドーとは、あたしが戦いますから」

 応えるフェリスの、腰に結わえ付けられた物に、レギトはちらりと見入った。

 短剣ほどの大きさの、銀製の筒。

 フェリスの父は、これをボルドーという魔術師に奪われそうになり、奪われまいとして、殺されたらしい。

 そして今はフェリスが、これを持っているせいで命を狙われている。

 同じように、あの仮面の男も自分の命を狙ってくれないものか、とレギトは思った。

 刺客でも放ってくれれば、何か手がかりを掴めるかも知れないのだ。

(あの野郎……ッッ!)

 憤怒を噛み殺すように、レギトは奥歯を食いしばった。

 わかっている。あの仮面の男にとっては自分など、刺客を差し向けるにも値しない存在なのだ。

 それどころか覚えてすらいないだろう。あの時、ラディック公爵の死を目の当たりにしながら何も出来ず、死んだふりをしていた若造の事など。

 ガレードの城壁が、見えてきた。

 堅牢な石の城壁の内部に、街がある。典型的な城塞都市である。

 城門は開いているが当然そこには番兵がいて、ガレード市を出入りする者たちに威圧的な態度を取っている。

「止まれ」

 番兵は5人。そのうち2人がレギトの眼前で槍を交差させ、通行を阻む。他3人が、横柄な言葉と視線を浴びせてくる。

 睨み返し、レギトは言った。

「……通行証の類は、要らねえはずだがな」

「ところが今日いきなり、そうじゃなくなっちまったんだよ若えの」

 隊長格と思われる兵士が尊大に、だが一応は説明をしてくれた。

「昨日この近くで、俺ら地方軍の兵隊が百人ばかり殺されちまってなあ。犯人はわからねえ、つまり今は非常事態ってわけなんよ。怪しい奴を街に入れるわけにゃあいかねえ」

 ベレフ・ガフカの引き連れていた怪物どもが何匹か逃げ出して暴れたのだろうか、とレギトは思った。

「とにかく、そうゆう事やらかす賊の一味がまだこの辺うろついてるかも知れねえからなあ。ちっと、おめえらを調べさせてもらうぜえ」

「特に女は念入りに調べねーとなぁ。変な所に変なモノ隠してやがるかも知れねえしよぉお」

 5人の番兵がレギトを、エイヴェルを、フェリスを、取り囲んだ。

「へっへへへ、両手に花たぁ結構な御身分じゃねえか兄ちゃんよぉ」

「……両手に花、に見えるかい」

 苦笑しつつレギトは、番兵5人に向かってエイヴェルの身体を押しやった。

「じゃ片方、賄賂の代わりに置いてくからよ。ここ通してくんねえかなあ」

「ええっ!? ち、ちょっとレギトさん!」

 泣きそうな声を発してよろめくエイヴェルを、番兵たちが嫌らしく抱き止める。

「うへへへへ話がわかるな兄ちゃん。長生きするぜ」

「じゃ遠慮なくいただくとするかあ。ゲッへへへへこんな肌のキレイなお嬢ちゃん初めて見るぜい」

「たったまんねェー、こここの太股が、すべすべのフトモモがぁー!」

 まるで美少女のような少年の細身に番兵5人が群がり、悪戯を開始する。

 エイヴェルの悲鳴が、弾んだ。

「ああっ、だ、駄目ですそんな! レギトさんが見てるのに、こんなっ……こんな事、あふンッ!」

「うぇへへへへ、好きな男に見られながらってのぁクセになるぜぇーお嬢さん」

「ん〜? 胸は何かちっちぇえなァ。幼児体型かあ?」

「そっそれがイイんじゃねえかよぉ。こっ、こここの平らなオッパイが、おっぱいがぁ……って男じゃねえかコイツ!」

 兵士5人がかりの性的暴行が、殴る蹴るの暴行に変わった。

「信じらんねえ、こいつギンギンに勃ってやがる!」

「変態はお呼びじゃねえんだよ!」

「ああんッ、痛いやめて! ボクを変態と呼んだり殴ったり蹴ったりしてイイのはレギトさんだけ、きゃふぅんッ!」

 袋叩きにされながら、エイヴェルが泣き喚く。

 無視してレギトは、フェリスを伴い、門をくぐろうとした。

「ちょっと待てコラァ!」

 行かせてくれるはずもなく番兵たちが、レギトとフェリスを取り囲んだ。

「俺らをコケにしやがって! こりゃもう通行税、超割増でもらうしかねえぞ」

「それともよ、そっちのお嬢ちゃんもここに置いてくかい?」

「……おう嬢ちゃんよ、おめえは本当に女なんだろうな?」

 フェリスの愛らしい美貌が、ぴく……っと危険な痙攣をした。

「……そう……あたしを、その変態君と……一緒に、しちゃう……?」

 まずい、とレギトは思った。このままでは、この番兵たちが昨日の山賊団と同じ目に遭う。

「おい、もういい加減にしとけ。あんまり馬鹿やってんじゃねえ」

「ほう? 官憲を相手にでけえ口ききやがったな若造」

 兵士たちが、街のゴロツキのように寄って来る。

「あんまりナメんなよ? てめえら全員しょっぴいて拷問にかける事だって出来るんだぜ。こちとら領主様に権限保証されてんだからよ」

「知らねえと見えるな。ここの領主様はよォ、アフザム宰相閣下と仲がいいんだ。つまり俺らの背後にゃあ宰相様がおられるって事よ。わかったらよぉお、有り金全部とそのお嬢ちゃん通行料として置いてけやあ!」

 レギトは溜め息をついた。この国は、やはり腐っているのだ。

 その腐敗の根源たる存在が、王国宰相アフザム・ボルゲイン。

 王国全土の民から搾り取った重税の半分以上を、懐に入れてしまう男。

 地方の領主たちも、その下にいる兵隊までもが、アフザムの真似事をしているのだ。

「……1つ、言っとく」

 懸命に己を抑えながら、レギトは言った。

「こっから北にちょいと行った所に村があるよな? そこが昨日、山賊に襲われてた。人死にも出てる……てめえら兵隊、ちゃんと仕事してんのか?」

「はっ! いるんだよなぁー、そうやって俺らをやたらと税金泥棒扱いしやがる一般人のクソ底辺がよォ」

 言った兵士の顔面に、レギトは拳を叩き込んでいた。充分、手加減はした。

 それでも兵士は盛大に鼻血を噴いて倒れ、無様な悲鳴を上げた。

「てめ……!」

 別の兵士が槍を構えようとする、ところへ、レギトは左足を突き入れた。

 その蹴りが槍を叩き折り、兵士の腹を直撃する。

 倒れた兵士が、身を折ってのたうち回る。

 その間にもレギトは別方向に踏み込み、左右の拳を振るった。番兵がさらに2人、折れた歯を飛び散らせ倒れる。

 残る1人が、怯えて尻餅をつきながらも虚勢を張る。

「てってめえ、自分が何やってるか! わかってんのかあ!」

「いいぜ、領主様にでも宰相様にでも言いつけろよ。国じゅうの兵隊かき集めて、俺を殺しに来てみろ」

 レギトは長剣を抜き、その兵士の首筋に突きつけた。

「片っ端からブッた斬る……まずは、てめえか?」

 兵士が、鼻水と涙を流して震え上がり、口をぱくぱくさせている。

 辛うじて、レギトは自制していた。今のところ1人も殺さずに済んでいる。今のところは、だ。

 頭では、わかっている。

 この番兵たちが本来受け取るべき俸給も、かなりの部分、上の方で何者かの懐に入っているのだろう。

 末端の兵隊が人並みに儲けようと思えば、下から賄賂でも取るしかないのだ。

 金にならない賊退治など、命を賭けてやれと言う方が横暴というもの。そんなところか。

「……あたしに人殺し、させないため……よね? レギトさん」

 ぽつりと言いながらフェリスが、己の腰に結わえ付けてあったものを手に取った。

 銀の筒。

 その蓋を開けて、フェリスが中身を取り出した。

 巻物だった。材質は、羊皮紙であろうか。蝋らしきもので封がされている上から、紐がしっかりと巻き付けられている。

 その巻物が今まで入っていた銀の筒を、フェリスは片手で軽く掲げた。

「賄賂が欲しいんなら、これあげる。純銀だから、それなりのお金にはなると思うわ」

 掲げた筒を、放り投げる。

 歯の折れた兵士の1人が、いくらか慌てて受け取った。

 純銀製の筒をまじまじと見つめる負傷兵たちに、フェリスが微笑みかける。にっこりと愛らしい、だが人としての何かが根本から欠けていそうな笑顔。

 可憐な唇が、呟きを紡いだ。

「……ゴッヘル将軍、焼き尽くせぇ」

 炎が生じ、球形に固まって燃え盛り、フェリスの周囲に3つ浮かぶ。

 それら3つの火の玉が、激しく旋回しつつ、ぶつかり合いながら飛翔・上昇して行く。

 そして空中で爆発し、城壁を赤く照らした。

 呆然と見上げている番兵たちにフェリスは、にこやかに声をかけた。

「ちょっとレギトさんに殴られたからって、偉い人に言いつけたり、あたしたちを指名手配したりとか……しない? わよね。もちろん」

 鼻や歯の折れた兵士たちが、その痛みも忘れて青ざめ、震え上がる。

 フェリスが、なおも可愛らしくニコリと美貌を歪める。

「……魔法って恐いのよ。あたしが、ちょっと嫌な気分になっただけで、人なんて簡単に死んじゃうんだから……こんな街、焼け野原になっちゃうんだから」

 レギトが、エイヴェルとフェリスを引率して来たはずだった。

 それが何やら、フェリスが男2人を引き連れているような感じになりつつある。

「……さ、いきましょ? レギトさんに変態君」

「あ、ああ……」

「お前がボクを変態と呼ぶな……そ、そんな事より」

 怯える番兵たちの眼前を通過して、3人はガレードの街中に歩み入った。

 エイヴェルが、何やら興奮している。フェリスの片手にある巻物を指差しながら。

「何で……こ、この魔女め、何でお前が……それを、持っている……?」

「あたしだって持ち歩きたくないわよ、こんな物」

 歩きながらフェリスが振り向き、エイヴェルを睨む。

「だけど、お父さんに押し付けられちゃったんだから……しょうがないじゃない。で変態君、あんたはこれが何なのか知ってるわけ? なら教えてくれると嬉しいんだけど」

「お前まさか、何にも知らないで持ち歩いてるのか……」

「あたしが、お父さんから聞いてるのはね……これを絶対、ボルドー・ボストーに渡しちゃいけないって事だけ」

 ベレフ・ガフカは昨日、この巻物を狙って、怪物の群れを引き連れて来た。

 フェリスの身の安全を考えるなら、こんな物は捨ててしまった方が良いのではないかとは思える。

「お父さんは、これを誰かから預かったって言ってたけど」

「ゲペルの逆呪文書……」

 エイヴェルが、呻くように言った。

「悪竜ガアトゥームの封印を解く、禁断の書物だぞ……そんな事も知らずに、持ち歩いてたのか……」

「ゲペルに、ガアトゥームだと? おい、それは伝説に出て来る連中の事か」

 レギトは訊いた。

 前クランシア王国を滅ぼした悪しき竜ガアトゥームと、それを倒した3人の英雄……クランシア最強の戦士アルス・レイドック、白魔法の達人ゲペル・ゼオン司祭、黒魔法を極めたる大魔術師ドーラ・ファントム。

 それらは、物心ついたクランシア国民であれば誰もが知る名である。

「伝説ではありませんよレギトさん。悪竜ガアトゥームが前クランシア王国を滅ぼしたのは、300年近く前の歴史的事実ですし、その悪竜を倒した三英雄……後クランシア初代国王アルス・レイドック、大聖人ゲペル・ゼオン、黒の隠者ドーラ・ファントム、いずれも実在した人物です」

 普段とは別人のように真剣な表情と口調で、エイヴェルは語り続けた。

「三英雄が悪竜を倒した、と言っても絶命させたわけではありません。ご存じとは思いますが三英雄の力をもってしても、かの悪竜を弱らせて封印するのが精一杯だったのです。アルスの剣とドーラの黒魔法で弱まったガアトゥームを、大聖人ゲペルは、天使言語の呪文を唱えて地の底へと封印しました……その呪文を逆さまに唱える事で、封印の逆、すなわち悪竜ガアトゥームを地の底から解き放つ事が出来るのですよ」

「その逆さまの呪文ってのが、そいつに記されてると……おい、まさかそういう事じゃねえだろうな」

 フェリスの持っている巻物を睨み、レギトは言った。

 悪竜と三英雄の伝説に関しては、ラディック公爵からも話を聞いた事がある。

 ガアトゥームを地の底へと封じた後、その封印を守護・補強するべく、大聖堂が建立された。

 現在の、唯一神教会クランシア中央大聖堂である。

 そこを中心として後クランシア王都アトリエルは建設されたのであり、つまり現在、王都の地下には悪竜ガアトゥームが眠っているというわけだ。

 人の心の力で悪竜を封印しよう、と三英雄は考えていたようだ。ラディック公爵は、そう語っていた。

 アトリエルに住まう人々の心が、清く正しいものである限り、封印の効力は永遠に保たれ続け、ガアトゥームをいつまでも地の底に眠らせておく事が出来る。

 だが、心の汚れた人間ばかりがアトリエルに住むようになった時。人々の心の腐敗に応じて封印は弱まり、悪竜ガアトゥームは蘇る。

 ラディック公爵がまだ王宮にいた頃、耳にした伝説らしい。

 それが本当であるならば、悪竜ガアトゥームはいつ蘇ってもおかしくはない。人々の心の腐敗とは、まさに今のアトリエルのためにあるような言葉だ。それはレギトならずとも思う事であろう。

 王都アトリエルに住まう人々、1人1人の心がどうであるかはともかく。アトリエル王宮にあって国政を行う者たちは、明らかに腐っている。

 宰相アフザム・ボルゲインを筆頭に為政者たちは皆、とにかく搾り取った税を己の懐に入れる事しか考えていない。

 上がそんな有り様だから、官憲の下っ端に属する者たちも腐ってくる。

 追い詰められて山賊・強盗をやるしかなくなる者も出て来る。

「大聖人ゲペルは、封印の逆呪文を3つの巻物に分割して記しました」

 エイヴェルの説明は続く。

「それがゲペルの逆呪文書、上中下3巻……三英雄がそれぞれ1巻ずつを預かった、と伝えられています。上巻はゲペル・ゼオン自らが、中巻はアルス王、下巻はドーラ・ファントムが」

「3巻全部集めて読み上げりゃ、国1つ滅ぼす悪竜様が復活しちまうと。そういうわけだな」

 ガレード市中を歩きながら、レギトは腕組みをした。1つだけ、どうしても腑に落ちない事がある。

「三英雄、大聖人ゲペル・ゼオン……ともあろう御方が、何だってそんなもん遺しやがった? せっかく死ぬ思いで封印した化け物を、蘇らせちまうような」

「……それが、唯一神教会における最大の謎なんです」

 言いながら、エイヴェルは俯いた。

「とにかく大聖人ゲペル自らが預かった逆呪文書・上巻は、悪竜封印の要たる王都中央大聖堂に秘蔵されていたのですが」

「お前」

 レギトは、ある事に思い至った。

「確か……中央大聖堂から何か持ち出された、とか言ってたよな。それってまさか」

「……はい。ボクの先輩ロウエル・ケリストファー司祭が、逆呪文書・上巻を盗み出して、行方をくらませてしまったんです」

 エイヴェルが、泣きそうな声を出した。

「ロウエル司祭、このままじゃ破門……下手したら粛清されちゃう……ただでさえ敵が多いのに、わざわざ破門・粛清の口実になるような事を……ロウエル司祭の馬鹿……」

「ああ、それでだな変態君」

 エイヴェルの泣き言を断ち切るように、レギトは言った。

「逆呪文書の中巻と下巻ってのは、どうなっちまったんだろう」

「……中巻はアルス王が預かって、そのまま後クランシア王家秘蔵の品となりました。下巻は、野に下った魔術師ドーラ・ファントムが、黒魔法の弟子たちに伝えたと言われています。その流れで、今は」

 エイヴェルが、ちらりと顔を上げてフェリスを睨んだ。

「今は……魔女の手に」

「黒の隠者様が……」

 巻物……ゲペルの逆呪文書・下巻を片手に持ち、じっと見つめて、フェリスは呟いた。

 悪竜退治の後、三英雄の他2名と違って何の地位に就く事もなく野に下り、民間に紛れて一生を終えた魔術師ドーラ・ファントムを、人々は『黒の隠者』と呼ぶ。

 黒魔法使いにとっては大先達とも言うべき人物が生きていた時代から200年以上もの間、黒の隠者本人から弟子へ、そのまた弟子へと受け継がれていったらしい巻物を見つめながら、フェリスはなおも言った。

「ねえ変態のエイヴェル君……要するに、あれかな。この逆呪文書を3巻全部集めて、悪竜ガアトゥームを復活……させようとしてる人たちがいる、って事? その人たちが、あたしの……お父さんを、お姉ちゃんを……」

「……そんな事、ボクに訊かれたってわかるもんか。仮に、そんな人たちがいるのだとしても」

 呻きながらエイヴェルが、微かに唇を噛んだ。

 こいつでも怒るのか、とレギトは思った。

「ロウエル司祭は関係ない……絶対にッ!」

「……燃やしちゃえばいいんだ、こんな物」

 フェリスが、ぽつりと言った。

「3巻あるうち1巻でもなくなっちゃえば、悪竜さんは復活出来ないって事でしょ? だったら燃やしちゃえばいい……」

「そんな事……出来るなら、誰かがとうの昔にやっている」

 嘲笑うエイヴェルを1度じろりと睨んでからフェリスは、巻物をいきなり空中に放り投げた。そして叫ぶ。

「ゴッヘル将軍、焼き尽くせ!」

 火の玉がいくつか生じ、空中の巻物に次々と激突し、砕け散る。

 通行人たちが、驚いて空を見上げた。

 火の玉はすでに砕けて消滅し、無傷の巻物が、微かな火の粉をまといながら落ちて来る。

 それをレギトは、片手で受け止めた。

 古びた羊皮紙にしか見えない巻物は、焦げてすらいない。

「何で……」

 呆然とするフェリスに、エイヴェルが冷ややかな声を投げる。

「天使言語の呪文、そう言わなかったかな。文字そのものが力を持つ天使の言語で、しかも大聖人と呼ばれるほどの白魔法使いが、念を込めて書き記した呪文……人間が使う程度の火で、どうにか出来る物じゃないよ」

「……たち悪いもん遺してくれたな、大聖人様も」

 無傷の巻物を片手でくるりと弄びながら、レギトはぼやいた。

 ゲペルの逆呪文書・下巻。

 これのせいで、フェリスの家族は殺された。フェリス自身も危険な目に遭った。これからも遭う。焼却処分する事も出来ない、厄介な巻物のせいで。

「レギトさん……それ、返してください」

 フェリスが言った。

「燃やす事も出来ないんなら、あたしがずっと持ってるしかありません」

「……昨日みたいな連中が、また襲って来るぜ?」

「レギトさんが、あたしを守ってくれます。そうでしょ?」

 少女の目が、じっとレギトを見つめた。

 虚ろなほど澄んだ瞳の奥に、炎にも似た光が宿りつつある。

「あたしの父と姉を殺したのは、ボルドー・ボストー……恐ろしい力を持った、黒魔法使いです。そいつに渡すなと言って、父はその巻物をあたしに押し付けました。正直、迷惑なんですけど……突っ返す事も、もう出来ませんから」

「押し付けられたもんを、守ろうってのか」

 フェリスの愛らしい片手に、レギトは逆呪文書を返した。

「……どうしても戦おうってんだな、そのボルドーってのと」

「手伝って下さいレギトさん。あたしの事、心配してくれるくらいなら」

 災いを呼ぶ巻物を、繊細な五指で握り締めながら、フェリスは言った。

「1度あたしを助けてくれたんなら……最後まで、助けて下さい」

「……変態君、おめえも力を貸せ」

 レギトが声をかけると、エイヴェルが呆然と、そして愕然とした。

「レギトさんは、これからもその魔女と行動を共にすると……あっあまつさえボクも同行しろと!? もちろんレギトさんと一緒なら地獄の底、72の魔王の宴席にだって赴きますけどね。ボクと貴方の2人っきりの旅に、そんな魔女は必要ありません!」

「必要ないのは、あんたの方よ……あたしはレギトさんに守ってもらうの。変態なんか要らない」

「まっまた変態って言った! ボクをそう呼んでいいのはレギトさんだけ……」

「まあいいから聞け。なあエイヴェル君」

 殴り合いを始めそうな少年少女の間に、レギトは強引に割って入った。

「おめえも俺も、人を捜してる。けど手がかりが全くねえ……そういう時はな、とにかく、目の前にある事をやってみるんだよ。俺の方はともかく、おめえの人探しが進展する可能性は高いと思うぜ? 何しろ同じ、逆呪文書絡みの問題だ」

「それは……そうかも、知れませんけど……」

 エイヴェルがまた、泣きそうになった。

「……ロウエル司祭、本当にどこへ行っちゃったんだろう。本当に……こんなに、心配させて……」

「……あんたって最低」

 汚らわしいものを蔑む口調で、フェリスが吐き捨てた。

「違う男の事心配しながら、レギトさんに付きまとうなんて……変態のくせに二股かけてんじゃないってのよ」

「何を……ああっ! そ、そんなつもりじゃ!」

 泣き出しながらエイヴェルが、レギトにしがみついて来る。

「今のボクにはレギトさんしかいないんです本当です! ロウエル司祭とはもう終わってますから、でっでも素敵な思い出をくれた人でもあるし……やっぱり心配しちゃうかなぁなんて、でも過去の人ですから! 信じてレギトさん、今のボクには貴方しか」

「街中で騒ぐな。くっつくな。そして俺のケツを触るな」

 レギトは拳を振るった。

 エイヴェルがぐしゃあっと鼻血を噴いて猛回転し、通行人たちの頭上を吹っ飛んで行く。

 自力で傷を治せるのだから手荒に扱っても大丈夫だろう、とレギトは思った。

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