第4話 魔将軍

「こっ、この愚劣野蛮なる者が……ちち近付くな、それ以上私に近付くな!」

 叫びながらベレフが、あたふたと杖を振るう。

「ゴッヘル将軍! ヴァダム伯爵! ゲルジ長官! 私を守れ、暴虐にして低能なる者を討ち滅ぼせぇええええ!」

 怯え泣き叫ぶ魔術師の声に、大悪魔たちは親切にも応えてやったようだ。

 炎が渦を巻いて生じ、電光の筋が走り、氷を含む冷気の暴風が吹きすさぶ。それらが全て、レギト1人に襲いかかる。

 逃げず、かわそうともせずに、レギトは長剣を振るった。

 修練を積んだ戦士が振るう武器は、気合いの波動を帯びている。

 それは魔力を持たぬ戦士という人種が、魔法による攻撃に対抗する、唯一の手段となる。

 姉メイリスはそう語り、語るだけでなく自ら剣を振るって、フェリスの放つ炎や電撃をことごとく弾き返して見せたものだ。

 レギトが今、それと同じ事をしている。

 彼の気合いを帯びた長剣が、いくつもの斬撃の弧を描いて、炎の渦を切り裂き、電光の筋を打ち弾き、冷気の暴風を叩き砕く。

 火の粉を、電光の飛沫を、氷の破片を、全て蹴散らしながらレギトが猛然と踏み込んだ。

 ベレフが、悲鳴じみた声で再び、魔王たちの名を叫ぶ。炎が、稲妻が、氷の嵐が、ひときわ激しく生じてレギトを襲う。

 否、襲われる前にレギトは長剣を一閃させた。気力をまとう刃が、左から右へと横薙ぎに走り、生じかけた炎を、電撃を、冷気の塊を、斬り砕く。

 その斬撃の軌跡をなぞるように、レギトの長い右足が横殴りに跳ね上がった。

 剣を振るう勢いをそのまま活かした、竜巻のような後ろ回し蹴り。

 それが火の粉や氷の粒を吹き飛ばしつつ、ベレフの側頭部を直撃する。

 小太りな魔術師の身体が、おかしな揺れ方をしながら倒れた。

 倒れたベレフの顔面から、様々なものがビシャアッと地面に流れ出す。飛び出た眼球、潰れた脳、鮮血と脳漿。全てが一緒くたになって、ベレフの眼窩から溢れていた。

「さて……っと。大丈夫かい?」

 そんな屍を一顧だにせずレギトが、フェリスに声をかけてくる。

「まあアレだ。魔法が使えるにしたって、女の子の1人旅は危ねえって事よ」

「1人で……旅するしか、ないじゃない……」

 フェリスは俯いた。

「お父さんも、お姉ちゃんも……死んじゃったんだから……」

「話聞いてると、そういう事らしいな……おっと」

 レギトが1歩、その場から飛び退いた。

 何か大きなものが、吹っ飛んで倒れ込んで来たのだ。

 血まみれの、デーモンの巨体だった。

 他2体のデーモンの、片方はワイバーンの片足に踏みつけられて這いつくばり、片方は怪獣の長い尻尾に絡め取られ締め上げられて、ベキボキッ……と骨の折れる音を発し、痙攣している。

 デーモン3匹を圧倒するワイバーンの巨体は、所々に浅い火傷を負っているものの、全く弱まっていない。中途半端に手負いとなって、むしろ凶暴性が増したようである。

 怒りに牙を軋らせながらワイバーンは、踏みにじっているデーモンの1匹を、そのまま蹴り飛ばした。

 蹴飛ばされた悪魔の巨体が、レギトの近くで血まみれになっている1匹に激突する。そこへさらに、尻尾で絞め殺されかけていた3匹目が投げ付けられて来る。

 デーモン3体が、グシャ、グシャッ、と潰れたように重なり合った。

 辛うじてまだ生きている彼らに向かって、ワイバーンが禍々しく牙を剥き、口を開いた。

「危ねえ……!」

 レギトが先程のように、いきなりフェリスの身体を両腕で抱き上げた。

 女の子の小柄な細身、とは言え人間1人を抱き運びつつ、レギトは跳躍していた。己の身体をがっしりと捕える強固な腕力だけを、フェリスは呆然と感じた。

 間欠泉のような音が起こった。

 ワイバーンが、何かを吐き出していた。

 信じられないほど綺麗に澄んだ、透明な液体の奔流。

 怪獣の巨大な口腔内から噴射されたそれが、ひと固まりになったデーモン3体に、激しく浴びせかけられる。

 その飛沫が届かぬ所でレギトは着地し、フェリスを抱擁から解放した。

 いくらか名残惜しさのようなものを感じながらもフェリスは自力で地面に立ち、そして自分が召喚した怪物たちの方を見た。

 見て、慄然とした。

 泥沼のようなものが、そこに出現していた。

 3匹のデーモンが、どろどろと原形を失っている。

 3匹分の肉も臓物も、異臭を放つ液体と化して泡立ち、その中に骨格が崩れながら沈んでゆく。

 腐食性の、猛毒液。

 その雫がワイバーンの大口から、よだれの如く滴り落ち、地面でシューシューと白煙を立ち上らせる。

 長剣を腰の鞘に差し戻し、その代わりに背負っていた弓を左手で持ちながら、レギトは呟いた。

「さすが……下っ端でも、竜だな」

「悪竜ガアトゥームの、眷属……」

 ベレフが確か、そんな事を言っていた。

 前クランシア王国を滅ぼした、悪しき竜ガアトゥーム。伝説によると彼は、ワイバーンの群れを兵隊の如く従えていたという。

 幸い、今この場にいるのは1頭だけである。

 一応は命令者であったベレフ・ガフカを失い、制御をなくし、凶暴化している。視界に入るもの全てが敵、という状態だ。

 そして、その視界に中には今、レギトとフェリスしかいないのだ。



 ラディック公爵に仕える兵士たちは皆、レギトを含めて腕自慢の荒くれ者ばかりであった。

 そんな荒くれ者たちの間で、しばしば武芸の腕試しが行われた。ラディック公が、面白がって賞金を出す事もあった。

 ある時、特に血の気の多い兵士10数名による武芸試合が行われ、レギトは3位入賞を果たした。

 優勝したのはゴノヴァンという巨漢の戦士、準優勝はエッド・レオンという気障だが腕っ節の強い優男で、この2名に賞金は持って行かれてしまった。

 残念賞だ、と言ってラディック公爵が、自身の使っていた弓をレギトにくれた。

 その場でレギトは、弦を引いてみた。引けなかった。

 お前には無理かな? と公爵は言った。

 レギトは発奮し、その日からひたすらに腕力を鍛えた。

 ゴノヴァンもエッド・レオンも、この弓を引けなかった。

 レギトがどうにか普通に引いて狙いをつけられるようになると、2人とも一目置いてくれた。

 皆、荒っぽいが気のいい連中だった。本当に、かけがえのない仲間だったのだ。

 それが、あの仮面の男たった1人に……

「あの野郎に比べりゃな、てめえなんざ……ただ、でけえだけだ」

 ラディック公の形見となった弓を引き、つがえた矢をワイバーンに向けながら、レギトは呻いた。

 的は大きい。命中させるのは容易い。問題は、殺せるかどうかだ。

 一矢で仕留められなかったら、レギトも、その背後にいるフェリスも、猛毒液の放射を喰らって跡形もなくなる。

 ギリギリッと強弓を引き絞りながらレギトは、

「……おい、早く逃げろ」

 背後の少女に、振り返らず声をかけた。

「お父さんも、お姉ちゃんも……あたしに、そう言った……」

 逃げずに、フェリスが応える。

「かっこつけてる人って、それしか言わないのね」

「……まあ、な」

 ラディック公爵も、そうだった。

 逃げろ、レギト。そう叫びながら公爵は、あの仮面の男と剣を打ち合わせ続けた。

 まず最初に、巨漢のゴノヴァンが一撃で斬殺された。

 伊達男のエッド・レオンが首を刎ねられ、ジーンとクラウドが真っ二つに叩き斬られた。

 レギトの目の前で仲間たちが、ことごとく死体に変わっていったのだ。仮面の男、ただ1人によって。

 何も出来ぬうちにレギトも、左肩から胸の辺りまでを切り裂かれ、倒れていた。

 倒れ、動けずにいるレギトの眼前で、仮面の男とラディック公爵が同時に剣を振るう。

 仮面の男が、身体のどこかから血を噴いてよろめいた。

 ラディック公爵の方は、首が飛んでいた。

 よろめきながら、仮面の男が立ち去ろうとする。

 その背中を睨みながらレギトは、懸命に起き上がろうとした。

 負傷した相手を、背後から斬り殺す。

 その行為に対する一切の躊躇いが、あの時のレギトからは消え失せていた。

 そんなレギトを一瞥もせず、仮面の男は言った。

 死んだふりをしておれ、小僧。

 レギトの全てを押し潰すような声だった。

 本当に押し潰されたかの如くレギトは、立ち上がれずに倒れたまま、仮面の男の背中を見送るしかなかったのだ。

「ゲルジ長官、死の準備を……」

 レギトの背後で、フェリスが唱えている。

 ワイバーンに向けられた矢の先端に、キラキラと白いものがまとわりついた。氷の粒子を含む、冷気の渦だ。

「レギトさん、だったわよね……その矢を出来るだけ、あいつの心臓の近くに当てて。上手くいけば、心臓麻痺を起こしてくれるから」

「お前……」

「あいつがボルドーの手下の怪物なら、あたしにとっても敵だから」

 そのボルドーなる人物に、この少女は父や姉を殺された。

 先程から話を聞いていると、どうやらそういう事らしい。

「だから、もう……逃げるわけには、いかないの」

「……そうだな、逃げるわけにゃいかねえ」

 自分も、あの仮面の男から逃げるわけにはいかない。

「……つうか逃がしゃしねえよッ!」

 レギトは、引き絞っていた弦を手放した。

 引き伸ばされていた強弓が、勢い激しく元に戻りながら矢を飛ばす。

 先端に白い冷気をまとい渦巻かせた矢が、ワイバーンの巨体のどこかに、吸い込まれるかのように命中した。

 上手く心臓の辺りに刺さってくれたかどうか、を確認している暇はない。

 レギトが矢を放つと同時にワイバーンが大口を開き、猛毒液の奔流を吐き出したのだ。

 それが、レギトとフェリスを襲う。

 一瞬後には、2人まとめて骨まで溶ける。覚悟を決めている暇もない。

 そう思われた、その時。

「頑健なるアルゴランディよ、護りを!」

 聞き覚えのある声が、響き渡る。

 猛毒液の奔流が、レギトのすぐ近くで飛び散った。

 まるで目に見えない壁あるいは盾が、そこに出現したかのようである。飛び散った毒液の飛沫は、レギトやフェリスの身体には一滴も届いていない。

「白魔法……」

 フェリスは呟いた。

「大天使アルゴランディの、見えざる盾……一体、誰が」

「魔女風情が、36の尊き方々の御名を軽々しく口にしないでもらおうか」

 威張りくさった口調で言い放ち、威張りくさった仕草で聖杖を構え、偉そうに佇んでいる1人の少女……否。美少女と見紛うばかりの、嫋やかな細身の少年。

 エイヴェル・ガーナーである。

「おめえ……生きてやがったか」

「もぉ〜死ぬかと思いましたよぉ。さっきまで手とか足とか、ちぎれかけてて大変だったんですから……でも意識さえあれば、白魔法による癒しの力で治せます。時間はかかりますけど。とにかくレギトさんが無事で良かったぁ」

 エイヴェルが甘えたような声を出し、嬉しそうに駆け寄って来る。

「もぉう、あんまり無茶しないで下さいよぉ」

「生きてたかあ。そうかそうか、生きてやがったか変態野郎」

 すがり付いて来る少年の細身を、レギトはとりあえず抱き止めてやった。

 そうしながら、自分が射た相手の様子をちらりと確認する。

 こちらに向かって大口を開き、吐いたものをぶちまけた、その姿勢のまま、ワイバーンの巨体は硬直している。

 胸部に、レギトの放った矢が深々と突き刺さっている。

 深々と、とは言えこの巨体である。矢先が心臓に届いたとは思えない。

 それでもワイバーンは、立ったまま絶命していた。

 フェリスの冷気魔法が、レギトの矢によって直接、この怪獣の体内に撃ち込まれ流し入れられ、心臓を麻痺させたのだ。

 ラディック公爵は魔法になど頼らず、槍と剣だけでワイバーンを仕留めていたものだ。

 思い返しながらレギトは、抱きついて来るエイヴェルの頭を撫でてやった。

「……ありがとうよ。また助けられちまったな」

「ボク……レギトさんの、お役に立てましたか?」

「おめえは俺の、命の恩人だよ」

「そんな! 恩なんて感じないで下さい。ボクが貴方に感じて欲しいのは、恩なんかじゃなくて……感じて、欲しいのはぁ……ッ」

「はっははは、どうでもいいが俺のケツを触るんじゃねえ」

 息を荒くするエイヴェルを、レギトは無造作に殴り飛ばした。

 鼻血を噴き、豪快な錐揉み回転をしながら、エイヴェルは吹っ飛んで地面に激突した。

 鼻血を流し悶絶している少年を不思議そうに観察しつつ、フェリスが言う。

「ねえレギトさん。この人って、もしかして……変態?」

「口を慎みたまえ魔女風情が。ボクを変態と呼んでいいのは、レギトさんだけなんだからな」

 鼻血を流しながらエイヴェルがむくりと起き上がり、偉そうに語る。

「あまりレギトさんに馴れ馴れしくするなよ魔女め。お前なんかは、さっきみたいな触手をいっぱい生やした怪物とでも戯れていればいいんだよ。魔女が人間の男性と親しくなろうなんて図々しいにも程がある。まったくもって図々しく欲深で心のねじ曲がった、この世で一番おぞましい生き物。それが女」

 エイヴェルの顔面から、さらに大量の鼻血が飛び散った。

 フェリスが、杖で思いきり殴っていた。

「変態は殺してもいいって、お姉ちゃんが言ってた……」

 呟きながらフェリスが、倒れたエイヴェルに向かって、なおも杖を振り下ろす。まるで布団でも叩くようにだ。

 とりあえず、レギトは止めに入った。

「まあまあ、そこまでにしとけフェリスちゃんとやら。この野郎は確かに変態だが、一応はおめえにとっても命の恩人なんだからな」

「……ちゃん、は要らないです。呼び捨てて下さい」

 殴るのを素直にやめながらフェリスが、腰に結わえ付けたものを軽く弄る。

 短剣ほどの大きさの、銀の筒。

 中身はもちろん気になるが、軽々しく訊ける事ではなかった。何しろ、この物品のためにフェリスは家族を殺されているようなのだ。

 エイヴェルが、顔を血まみれにして泣きじゃくっている。

「ひっぐ……うえぇ……お、女こわい……女きらい……」

「あたしも、変態は大っ嫌いだから……」

 ゆらりと、フェリスが杖を掲げる。

 怯えるエイヴェルをさりげなく背後に庇いながら、レギトは周囲を見回した。

 ワイバーンの巨大な死体。もはや死体とも呼べぬ、山賊たちの残骸。オークやガーゴイルの屍……視界を満たすのは、殺戮そのものの光景である。

 憂さ晴らしに来たはずなのに、レギトの心は、あまり晴れてはいなかった。



 死屍累々、と言うべき有り様である。

 森林、と呼べるほどではない木立の中。まばらに生い茂った木々の間で、大勢の、人間ではないものたちが、血の臭いを発し倒れ転がっているのだ。

 縦に、横に、斜めに、真っ二つになったオークたち。

 頭蓋を叩き割られたリザードマン。潰れて木に貼り付いたエビル・アイ、臓物丸出しで息絶えているオーガー。

 それら異形の屍に囲まれて、1体だけ、人間の死体が横たわっている。

 女性である。若い娘だ。20歳になるかならぬか、といった年頃であろう。

 薄く丈の短い衣服は所々が破け、特に胸元は大きく裂けて、白い下着の一部と共に、むっちりと深い谷間が見えている。

 短い裾から露出した太股は、はちきれそうに瑞々しく力強く、その肉付きも色艶も死体とは思えぬほどである。

 ……否、死体ではなかった。

「う……っ」

 綺麗な唇が、微かな声を紡ぐ。

 長い睫毛が震え、閉ざされていた両目がうっすらと開かれてゆく。

 ぼやけていた瞳に、鋭い眼光が甦る。

 長い栗色の髪をさらりと揺らして、彼女は草の上で上体を起こした。

 身体が重い。気を失っていたようだが、疲労があまり取れていない。

 見回してみる。

 叩き斬られた怪物どもの死骸が、自分を取り囲むように散乱していた。

「何だ、これは……」

 疲れの残る身体を、彼女は無理矢理に立ち上がらせた。

 もう1度、油断なく見回してみる。

 辺り一面を埋め尽くし倒れている怪物たちは、全て死体だ。

「これは……私が、やったのか……?」

 呻きながら彼女は、ぼんやりと思い出した。

 確かに自分は、この怪物たちと戦っていた。無我夢中で、斬殺し続けた。

 そう、自分は戦士なのだ。女でありながら、腕にはいささか覚えがあった。

 だが何故、このような怪物どもと戦っていたのか。

 自分の右手が何かを握っている事に、女戦士は気付いた。

 剣、の柄である。両刃の長剣、だがその刀身は半ばで折れている。

 すぐ近くにマンティコアが1頭、倒れていた。無論、屍である。

 皮膜の翼とサソリの尻尾を生やした、人面の獅子。その人面の眉間に、折れた長剣の刃が深々と突き刺さっていた。

 剣が折れ、意識がなくなるまで、自分はこの怪物の群れと戦っていたのだ。

 何故か。何のためにか。

 折れた剣を放り捨てて、女戦士は己の頭を軽く押さえた。

 何も、思い出せなかった。

「……何だと、言うんだ……」

 とりあえず歩き出してみる。

 もちろん行くあてなどない。ここがどこなのかも、わからないのだ。

 ここは……この国の名は、後クランシア王国。それは辛うじて思い出せた。

 前クランシア王国は、悪しき竜ガアトゥームに滅ぼされた。

 その悪竜を退治して後クランシアを建国したのが、3英雄……最強の戦士アルス・レイドック、白魔法の達人ゲペル・ゼオン司祭、黒魔法を極めたる大魔術師ドーラ・ファントム。

 この国に生まれた者が幼い頃から聞かされる、おとぎ話めいた建国史話も、覚えている。

 死んでいる怪物どもの名称も、わかる。こういう怪物たちと戦って、自分は腕を上げてきたのだ。

 それは覚えている、と言うのに。

「私は……」

 片手で頭を押さえながら、女戦士は歩き続けた。

「私は……誰だ?」

 呟いてみても思い出せない。自分の、名前さえも。

 死臭漂う木立を抜けて、見晴らしの良い場所に出た。

 丘陵の上の、木立であったようである。今、女戦士が立っているのは、急峻と言うほどでもない高台の上だ。

 街道を見下ろすように隆起した、高台。

 その上で、女戦士は身を伏せた。

 穏やかではない集団が、眼下の街道を通っていたからだ。

 小屋ほどの大きさの檻車が、2台。何頭ものロバに引かれてゴトゴトと進んでいる。

 それを、百人近い男たちが護送しているのだ。うち何人かは馬に乗っている。

 騎馬の者も徒歩の者も、簡素な鎧兜で服装を統一されており、どうやら兵隊であるらしい事がわかる。

 後クランシア王国正規軍の、地方部隊であろう。

 問題なのは、彼らが護送している2台の檻車である。

 中にいるのは、20歳にもなっていない若い娘ばかりだった。5、6歳の幼い女の子もいる。皆、しくしくと泣いている。

 近辺の町や村からさらわれて来た、としか思えない。

 山賊でも強盗団でもない、一応は正規の官軍である、この兵士たちによってだ。

 高台の上から、女戦士は跳躍した。

 それに気付かず兵士たちは、

「なかなかの上玉が集まったじゃねか。こりゃ、いい値で売れるぜ」

「これだからよ、税金の取り立てってのはやめらんねえよなあ」

 檻車の中の少女たちを、じろじろと値踏みしながら、下品な談笑をしている。

 女戦士は着地し、身を低くして駆け出した。やはり兵士たちは気付きもしない。

「しかし全部売っちまうのも、ちぃともったいねえなあ。俺らでよ、何人かいただいちまおうぜ?」

「まあ、バレねえ程度にな」

「なぁに、バレたって構わねえよ。領主の野郎がガタガタ言いやがったらブッ殺してやりゃあいい」

「おうよ。あのクソ領主がでけえツラしてられんのも、俺らがこうやってキッチリ仕事してるからだもんなあ。3、4人味見したってバチは当たらねえ」

 などと言っている兵士の横面に、女戦士は肘を叩き込んでいた。

 倒れた兵士の顔面から、眼球が飛び出して地面に転がった。

 それを片足で踏み潰しながら、女戦士は言い放つ。

「バチは、私が当ててやる」

「何だ、てめえ……」

 槍を構えようとする兵士の1人に向かって、女戦士は右足で踏み込み、左足を突き込んだ。

 力強く美しい脚線が、槍の如くまっすぐ伸びて兵士の腹に突き刺さる。

 内臓を蹴り潰す感触を、女戦士はしっかりと踏み締めた。

 大量の血を吐きながら兵士は倒れ、痙攣する。

 左足を着地させぬまま、女戦士は思いきり身を捻った。

 むっちりと強靭な左太股が、脛と足首を振り回す感じに躍動する。まるで武器を振るうような回し蹴りが、別の兵士の顔面に叩き込まれる。

 折れた歯が、何本も飛び散った。

 だらりと口を開きっぱなしにしたまま兵士は倒れ、悲鳴を漏らす。

「あふぁ……ふぐぁ……」

「ふっ……大の男が、あふぁふぐぁ……とはな。少し受けたぞ」

 女戦士は嘲笑い、そして自分が叩きのめした兵士3人の様子を見回した。

 1人は目が潰れ、1人は内臓が破裂し、1人は顎が砕けている。そんな状態で3人とも、弱々しくのたうち回っている。

 殺してやれなかった。女戦士はまず、そう思った。

 記憶はなくとも身体が、戦いというものを覚えている。

 人体の壊し方を、手足が覚えている。

 もっと楽に死なせてやる事も、出来るはずだ。

 兵士たちが、狼狽しつつも騒ぎ始める。

「てめえ、何者……!」

「俺たちを王国正規軍と知っての狼藉かぁあっ!」

 喚く兵士たちに、女戦士は冷たい笑みを向けた。

「王国正規軍か。民の納めるもので養われている輩が、強盗の真似事か」

「利いた風な事ぬかすなよ小娘。てめえも、こいつらと一緒に売っ払ってやろうか? それとも俺らの肉便所にされてえかあ? ええおい」

 兵士たちが口々に、やはり強盗としか思えぬ言葉を吐く。

「税金が払えねえなら、物か女で払ってもらうしかねえだろうがあ!?」

「この国に住んでる以上、納税の義務ってもんがあるんだよ。ただで国に住めると思ってんじゃねえぞバァーカ」

「俺たちが国民の連中を守ってやってんだよ。なのに、どいつもこいつも税が高えだの貧乏だから払えねえだの、甘ったれてんじゃねえぞ!? 俺らの苦労わかってんのかゴルァアア!」

 否、と女戦士は思った。この者どもは、強盗以下だ。

「私はどうやら、記憶を失っている……が今、1つだけ思い出した」

 もはや笑みを保ってはいられなかった。

「……この国は、腐っているのだ」

「ならば、どうする」

 声がした。

 兵士たちの誰かが発した声、ではなかった。

 彼らとは比べものにならぬほど重く強大な気配が、この場を威圧している。

 槍や剣を構え、女戦士を取り囲んだまま、兵士たちは威圧され固まっていた。

 近くの木陰に、その男はいた。

 巨漢である。

 板金の甲冑で全身を包んだ騎士の装いだが、それでも隆々たる筋肉の形が見て取れる。

 異形と言うべきは、首から上だ。

 兜と一体化して顔面を覆い隠しているのは、盾のようにのっぺりとした金属の仮面で、右目の部分にだけ裂け目が入っている。

 暗く、それでいて爛々と燃えあがるような眼光を、その裂け目から漏らしながら男は言った。

「国を憂える女戦士よ……加勢は、必要かな?」

「……不要。ただ願わくば、一振りの剣をお貸しいただければと思う」

 女戦士は答え、兵士たちを睨み回した。

「素手では、この者どもを楽に死なせてやれない」

「何……だと、このクソアマ……」

 兵士たちが、仮面の男に威圧されながらも激昂し始める。

 仮面の男は無言のまま、片手に持っていた何かを空中に放り投げた。

 鞘を被った、長剣。いくらか湾曲しているようである。

 それを女戦士は左手で、鞘を掴んで受け止めた。右手で柄を握り、抜き放つ。

 しゃっ! と小気味よく走り出した片刃の刀身が、そのまま一閃する。

 あらゆる方向から突き込まれて来た何本もの槍が、全て切断されていた。

 女戦士はそのまま駆け出し、竜巻の如く身を捻った。

 豊かな胸の膨らみが力強く揺れ、瑞々しい両の太股が攻撃的に躍動する。

 それに合わせて、片刃の長剣が縦横に弧を描く。

 兵士たちが、槍や剣を振りかざしたまま次々と血を噴いて倒れ、地面に臓物をぶちまけ、あるいは生首を転がした。

 虐殺されるままの歩兵の群れを蹴散らして、騎馬の兵士たちが突っ込んで来た。荒々しく駆ける軍馬の上から、槍が突き下ろされ、あるいは剣が振り下ろされる。

 それらを、女戦士は跳躍してかわした。

 女性にしては上背のある肢体が、空中で柔らかく捻れて錐揉み状に回転し、それと共に片刃の長剣がいくつもの弧を描く。

 それら弧が、馬を駆けさせる兵士たちの首を超高速で撫でる。

 撫でられた首が、ことごとく宙を舞った。馬たちが、頭部のない屍を乗せたまま走り去って行く。

 着地地点で槍を構えていた歩兵を、脳天から股間まで一気に斬り下ろしつつ、女戦士は着地した。綺麗に両断された兵士の死体が、眼前で左右に倒れる。

 生き残った兵士たちは、すでに檻車を置いて逃げ出していた。

 先頭を切って逃走していた兵士の顔面が突然、潰れた。眼球が、折れた歯が、血飛沫と共に噴出する。

 剣を貸してくれた、仮面の男。

 甲冑をまとう巨体が、滑るように踏み込んで来て、拳を振るったところである。

「これは加勢ではないぞ、女剣士よ」

 言いつつ、仮面の男が右手を振るった。鋼の鉄甲で固められた、重い手刀。

 その一撃で、兵士の首が1つ、宙を舞った。

「軍の腐敗を取り締まるのが、私の仕事なのでな」

 説明をしながら仮面の男が、左の拳を振るった。兵士が1人グシャッと顔面を飛び散らせて倒れ、痙攣する。

「……くそったれ、何が腐敗だぁあああ!」

 他の兵士たちが、やけくそな叫びを張り上げながら槍や剣を振るい、仮面の男を一斉に襲う。

「本当に腐ってんのぁ上の奴らじゃねえか! 領主とか貴族とか教会とか、国王とか宰相とか! 奴ら何にも働かねえでイイ思いしてやがる!」

「俺らの給料まで懐に入れやがってよおおお!」

「だから俺らも下の奴らからフンだくってやるのよ、それで何が悪い! 俺らだけ善人でいろってのかコラふざけんなぁあーッッ!」

 仮面の男はユラリと巨体を踏み込ませ、無造作に両手を振るった。まるで蝿でも追い払うように。

「心配するな。上層部で腐敗している者どもも、いずれ処刑してやる」

 槍が、ことごとく折られた。剣が、片っ端から弾き飛ばされた。何も武器を持っていない、ただ手甲をはめているだけの男の両手によって。

 その両手が、

「……お前たちに、不公平な思いはさせんよ」

 拳となって打ち込まれ、手刀となって振るわれる。

 兵士の生首が、いくつも宙に舞い上がった。

 斬首は免れた兵士たちの顔面からは、潰れた眼球が、脳漿と混ざり合って噴出した。

(この男……!)

 女戦士は慄然とした。

 強い、などという言葉では足りない。この仮面の男に比べたら自分など、良い武器を貸してもらって調子に乗っているだけの小娘だ。

 やがて、生きている兵士は1人もいなくなった。

 百近い屍が散乱する、大量虐殺そのものの光景の中。檻車に閉じ込められた少女たちが、生きた心地もしない様子で怯え泣いている。

 血まみれになった己の両手を見下ろしながら、仮面の男は苦笑した。

「これしきのゴミ掃除をしたところで、王国の腐敗が止まるわけでもないが……」

「だが少女たちを助ける事は出来た。私はそれを、無駄な事だとは思わない」

 言いながら女戦士は、借り物の長剣を軽く掲げた。

「……ともあれ、感謝する。これは素晴らしい剣だ。血と脂を洗い落としてから、お返ししたい。しばらく待っていただけるだろうか」

「進呈しよう」

 仮面の男は言った。

「その剣は、長らく王家の蔵に眠っていたものだ。それが今、ふさわしき持ち主を得た……そう思わせる戦いぶりであったぞ、美しき女傑よ。剣が悦んでおる」

「下さる、と言うのか……この剣を、私に」

 血と脂の汚れをまといながらも妖しい輝きを失わない、片刃の刀身を、女戦士はじっと見つめた。

「困ったな。こんな素晴らしい物をいただいてしまっては……見ず知らずの貴方に、とてつもない借りを作ってしまう事になる」

「……ならば、私に雇われてはくれぬか」

 言いつつ男は、仮面と一体化した兜を、ゆっくりと脱いだ。

 素顔が露わになった。女戦士は、息を呑んだ。

 顔面の皮膚は岩のように固く、全体がひび割れている。

 その固い皮膚に押し潰されたかの如く左目は失われており、右目だけがぎょろりと見開かれ眼光を放っているのだ。

 鼻の形も口の開き方もどこか歪で、1度グシャグシャに潰れた顔面が、潰れたまま癒え固まってしまったような感じである。

「顔の醜くなる病に罹っておる。ああ心配なさるな、伝染るものではないゆえ」

 まともな発音が出来ないのではないか、と思えるほどねじ曲がった口が、しかし流暢な言葉を発した。

「今の後クランシア王国はな、私のこの顔よりも正視し難い状態にある……が、正視せねばならん。おぬしの言う通り、この国は腐っている。だがな、腐っていると憤るだけなら誰にでも出来るのだ。口で憤るだけでなく、行動を起こしてみぬか? 我々は行動の出来る人材を必要としている」

 潰れたまま固まった顔面の中で、隻眼が燃えるような光を放つ。

「おっと、まずは正体を明らかにせねばならんな……我が名はゼイヴァー・アルデバロン。王国宰相アフザム・ボルゲイン閣下に直属し、王国内の様々な腐敗を取り締まっている」

「私は……名乗るべき名を、思い出せない」

 思い出せぬまま女戦士は、このゼイヴァーという男が何故、仮面を脱いだのかを考えてみた。

 醜悪極まる素顔を、敢えて見せる。

 それがゼイヴァー・アルデバロンという男の、他人に協力を求める時の誠意、なのかも知れない。

「……ルチア・ドール。それでどうだ?」

 ゼイヴァーが言った。

「真の名前を思い出すまで、その名で私に仕えてみろ」

「了解した」

 考える事もなく女戦士は、ルチアという名を受け入れていた。考えたところで、記憶が戻るわけでもない。

 記憶のない、曖昧な状態にある自分の心。その中から真っ先に浮かび上がって来た、曖昧ではない確固たるもの。

 それが、この国は腐っている、という思いなのだ。

 ならばゼイヴァーの言う通り、まずは行動を始めるしかない。

 与えられた片刃の長剣を、恭しく眼前に立てながら、女戦士ルチア・ドールは片膝をついた。

「……御命令を、ゼイヴァー卿」

「そうよな。まずは、この娘たちを無事に帰してやらねばなるまい」

 檻車の中で、少女たちは相変わらず怯えている。

 ゼイヴァー・アルデバロンの醜怪な素顔を……ではなく、先程の自分の戦いぶりを恐がっているのかも知れないとルチアは思った。

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