第2話 少女、穢れる

「お父さん……お姉ちゃん……」

 呟きながらその少女は、とぼとぼと街道を歩いていた。

 一応は旅装なのであろう。厚手のマントを羽織っているが、その下に着ているのは薄く短い衣服で、10代半ばの瑞々しい身体の凹凸がくっきりと見て取れる。帯を巻いて裾をスカートっぽく見せており、すらりと愛らしい左右の太股が、いささか際どい高さまで露わになっている。

 両の細腕ですがりつくように携えているのは、身長よりもいくらか長めの杖だ。うねる炎を思わせる形に彫り込まれた樫の杖、その先端には宝石が埋まっている。

 栗色の髪は背中を撫でる長さで、その一部が頭の右側で束ねられ、可愛らしい房となっていた。

 顔立ちは綺麗、と言うよりは可憐。澄んだ茶色の瞳は、しかし今は疲労と絶望で暗く翳りながら、虚空を見つめている。

 薄桃色の可愛い唇が、呆然と言葉を漏らし続ける。先程からずっと、同じ言葉を。

「お父さん……お姉ちゃん……」

 応えてくれる者は、いない。

 フェリス・レイン。16歳。

 後クランシア王国パルキア地方在住の魔術師マーガス・レインの娘として生まれ、物心ついた頃より黒魔法を習い続けてきた。

 大いなる悪しき存在……72の大悪魔たちに力を借りて行う黒魔法。とは言え、それを使う者が必ず悪事を働くとは限らない。

 父マーガスは、黒魔法を用いての言わば人助けを生業としており、例えば病気や怪我を治したり、天候不順で農作物の収穫が危ぶまれる時には適量の水や日光をもたらしたり、人々に害をなす怪物などが現れたら退治したりと、とにかくパルキア地方の住民たちとは良好な関係を維持してきた。

 あんなふうに殺されなければならない理由など、なかったのだ。

「お父さん……お姉ちゃん……」

 もう1度、呟いてみる。

 フェリスの姉メイリス・レインは、魔法使いの娘でありながら魔力的な素質は全くなく、その代わり身体能力に恵まれていた。

 それを活かすべく幼い頃から武芸を学び続け、やがて男顔負けの女戦士として強く美しく成長していったメイリス。

 フェリスにとっては誰よりも頼れる、自慢の姉だった。

 そんな姉メイリスが、フェリスを守るために死んだ。

 殺されたところを見たわけでもなく、死体も見つかっていない。

 それでもフェリスは、姉は死んだと思う事にしていた。

 生きていると信じて探し回った結果、死んでいた。そんな絶望を味わうくらいなら、最初から諦めていた方がましだからだ。

 それで万が一、姉が生きていたとしたら、これに勝る喜びはない。

「お父さん……お姉ちゃん……」

 またも、フェリスは呟いた。

 あれから2日間、これしか言葉を発していないような気がする。

 逃げろ。

 2日前のあの日、父マーガスは、ある物をフェリスに預けながら言った。

 これを持って、とにかく逃げてくれ。決して、あの男に渡してはならぬ……すまんな、フェリス。もはや、お前に託すしかないのだ。

 そんな言葉と共に手渡された、あるいは押し付けられた、言わば父の形見。今は、フェリスの腰に結わえ付けられている。

 短剣ほどの大きさの、銀製の筒。

 この中に入っている物を狙って、あの男は、怪物たちを率いて攻めて来た。これを奪われまいとして、マーガスは殺された。

 父を殺害した怪物たちが、フェリスにも襲いかかった。

 姉メイリスが剣を振るって、その怪物たちを食い止め、フェリスを逃がしてくれた。

「あたし……逃げた……」

 呟きながらフェリスは、自分が街道からいつの間にか山道に入り込んでいる事に気付いた。

 ぼんやりと地図を思い出してみる。

 恐らく、北パルキア山林の辺りだ。このまま進んで行けば女の子1人、山中で野宿をする羽目になるだろう。

 幸い、まだ日は高い。引き返して、どこかの町や村で宿を探すべきであろうか。

 フェリスがそう思った時には、すでに取り囲まれていた。

 周囲の木陰で、あるいは岩の上で、数人いや数十人……一目では把握出来ない人数の男たちが、剣やら斧やら思い思いの武器を構えている。

 多くの者は粗末な革鎧を身に着けているが、中には騎士のような金属甲冑を着用している者もいた。

 武装しているとは言え、軍隊ではない。北パルキア山林に巣食う、山賊であろう。

「……おいおい、俺たちゃ夢でも見てんのかあ?」

 山賊たちが、汚い顔に汚らしい笑みを浮かべて、口々に言う。

「こぉんな上玉なお嬢ちゃんが、1人っきりで歩き回ってるたぁ」

「おい本当に1人だろうな。隠れて護衛が付いてたり、してねえか?」

「うちの縄張りで、んな事出来るわきゃあねえよ。てなわけで嬢ちゃん」

「聞いての通り、ここ俺らの縄張りだからよぉ。通行料、払ってもらおうかい」

 フェリスは立ち止まり、後退りをした。辛うじて声は出た。

「あたし、お金あんまり持ってません……路銀がほんの少し、でもこれ取られちゃったら、あたし野垂れ死にです……」

「心配すんなお嬢ちゃん、野垂れ死にはねえよ。今日から俺らが面倒見てやっからよォーぎひへへへへ」

 おぞましく笑いながら、山賊たちが周囲から迫り寄って来る。

「かっ可愛がってやるぜえ、たっぷりとなああ」

「待て待て、慌てんじゃねえよ。こんだけの上玉、俺らでいただくよりも売りに出した方がいい。かなりの値が付くぜ?」

「そんならそれで、品定めしねぇーとなあ」

「ち、ちっとくれえ味見しとかねーとよぉおおゲヘヘへヘ」

 鼻息荒く笑う男たちの顔が、前後左右から近付いて来る。

 嫌らしくギラついた眼差しが、フェリスの愛らしい顔に、形良く膨らんだ胸に、すらりと瑞々しい太股に、集中する。

 あらゆる方向から、汚い手が何本も伸びて来て、少女の細身に触れようとする。

「嫌……」

 フェリスの声が震えた。

 こういう時には必ず助けてくれた姉が、今はいない。

 頼る者もなく、フェリスは杖にしがみついた。

「来ないで……やめて、やめてよ……」

 声が、瞳が、震える。

 フェリスは泣き出しそうになっていたが、涙は出て来ない。恐怖で、涙腺が凍り付いてしまっている。

「助けて……」

 小さな両手で杖を握り締めながら、フェリスは助けを求めた。

 姉に、ではなく。黒魔法の力の源たる、72の大悪魔の1体にだ。

「助けて……ヴァダム伯爵……」

 杖の先端にはめ込まれた宝石が、バチ……ッと淡く光を発する。

 目に見える、放電だった。

 その電光がバリバリバリッ! と激しく膨張し、杖から溢れ出して放たれる。

 にじり寄って来ていた山賊たちが3人、いや4人。感電・硬直しながら、黒焦げになった。

「あ……ああ……」

 自分の周囲で煙を発しながら崩れ落ちる、4つの焼死体。それらを呆然と眺めながら、フェリスは泣き声を漏らした。

「殺しちゃった……人、殺しちゃったよう……」

 ぽろぽろと、ようやく涙が溢れ出す。

 恐怖よりも強い何かが今、フェリスの中で熱く昂り始めていた。

 周囲の山賊たちは、呆然としながら少しずつ、事態に気付きつつある。

「てめ……」

「こ、この小娘……黒魔法使いか……」

「だったら魔法使わせなきゃいいだけの話よぉおおおっ!」

 などと叫びながら何人かが武器を振り上げ、襲いかかって来ようとする。

 その時にはフェリスは杖を振り上げ、叫んでいた。

「ゴッヘル将軍、焼き尽くせぇっ!」

 72の大悪魔の1体。その名が、少女の可憐な唇から迸り出る。

 激しい熱風が、フェリスの栗色の髪を舞い上げる。

 炎が、生じていた。赤い大蛇の如く、フェリスの周囲で渦を巻いている。

 巻き込まれた山賊が5人、焦げて崩れて灰に変わった。

「魔法って、恐いのよ……」

 涙を流しながら、フェリスは言った。

「あたしが、ちょっと嫌な気分になっただけで……人なんて、簡単に死んじゃうんだからぁ……」

 泣きじゃくる少女の周囲で、山賊たちは恐慌に陥っていた。

 悲鳴を上げ、逃げ惑う彼らに対し、フェリスは泣きながら杖を振り上げた。

「黒魔法で人を傷付けちゃいけないって、お父さんに言われてたのに……傷付けるどころか殺しちゃったじゃない……ねえちょっと、どうしてくれるのよぅ……」



 レギトが初めて人を殺したのは、8歳の時である。

 今もそうだが、あの頃の後クランシア王国の民は、決められたものの倍近い税を搾り取られていた。国家の金となる前に、様々な人間の懐に入ってしまうためだ。

 そんな理不尽な重税に耐えかねて、レギトの父親は首を吊った。

 その後、母は再婚したのだが、この新しい父親というのが最低な男だった。妻や子供が食う事にすら不自由していると言うのに、酒は飲む。酔って暴力を振るう。

 自分が殴られるだけなら、レギトは耐えられた。

 母が殴られるのも、仕方がないとは思えた。ろくでもない男と再婚するのが悪いのだ。

 弟が殴られる。これだけは、許せなかった。

 レギトより3つ年下の、気弱で心優しい弟。その弟がある時、義父に殴られた。昏倒し、そして2度と目覚めなかった。

 母はただ泣くだけで、夫の暴虐をなじる事もしなかった。

 レギトは弟の亡骸を抱いて領主の館に赴き、義父を罰して欲しいと訴えた。相手にされず、門前で番兵たちに蹴飛ばされた。

 日頃さんざん民から搾取している者が、いざという時には、民のために法を執行する事すらしてくれない。

 だからレギト自身が、義父に罰を下さなければならなかったのだ。

 義父の頭に、手斧を叩き付けた。何度も何度も、様々なものが飛び散るまで。

 8歳の小さな手に、人を殺す感触というものが、しっかりと馴染んだ。

 20歳の今。あの時と比べれば、いくらか手際良く人を殺せるようにはなった。

 山賊が1人、鮮血と脳漿を噴き上げて倒れゆく。頭頂部から胸の辺りまでが、鮮やかに両断されていた。

 ラディック公爵が支給してくれた長剣である。あの時の錆びた手斧とは、さすがに切れ味が違う。

 それを右に、左に、それぞれ一閃させる。

 槍や大斧で襲いかかって来た山賊たちが、レギトの周囲で、鮮血や臓物を噴出させる。あるいは、生首を舞い上がらせる。

 細かく数えているわけではないが、少なくとも5人の山賊が、叩き斬られて屍に変わった。

 その1つを片足で踏み付けながら、レギトは周囲を見回し、

「弱い者いじめを……される気分ってのはどうよ、ええおい?」

 白い歯をギラリと光らせ、獰猛に微笑んだ。

 生き残っている山賊たちが2、30人、遠巻きに群れている。様々な武器を持ちながら皆、明らかに怯んでいた。

 レギトの背後では男が1人、横たわっている。血まみれ、と言っていい。ズタズタに切り苛まれたその遺体に、幼い女の子が泣きながらすがりついている。

 その子の母親らしい女性が、近くに座り込んで呆然としている。

 家族であろう。

 妻と娘を守るために、男が捨て身で山賊たちに挑みかかった。そして惨殺された。

 レギトがこの場に駆け付けたのは、その直後だったのだ。

 その他にも何人か、傷を負った老若の男たちがいる。エイヴェルが彼らの間をかいがいしく動き回り、白魔法で傷の治療を行っている。

 エイヴェルとそう年齢の違わぬ、若い娘たちもいた。身を寄せ合い座り込み、泣きじゃくっている。衣服をズタズタに切り刻まれた、裸に近い姿だ。

 村が襲われていた。

 ザフラン地方の南に隣接するパルキア地方の、とある村。

 山賊の襲撃を受け、人死にまで出ていると言うのに、領主の軍がやって来る気配がまるでない。

 ザフラン地方では、こんな事は有り得なかった。少なくともラディック公爵が生きている間は。

 山賊・強盗団の類は、どこか村を襲ったりする前に討伐されていただろう。時にはラディック公爵自らがその討伐を行い、レギトもそれに同行したものだ。

 逃げ腰になっている山賊の1人が、それでも往生際悪く弓を構え、矢をつがえ、こちらに向けている。

 その時にはレギトは、背負っていた弓を左手で取り、右手で矢をつがえ弦を引き絞り、手放していた。大型の強弓が、激しい音を立てる。

 こちらに弓矢を向けていた山賊が、すぐ後ろの仲間1人と一緒に倒れた。2人とも首から上が、ちぎれて消え失せている。

 レギトの放った矢が、生首2つを串刺しにしながら、民家の扉に突き刺さった。

 怯えた表情の、山賊の生首が2つ、その扉に飾り付けられる。

 レギトは舌打ちをした。ラディック公爵なら、首3つは射貫いていたところだ。

 剣も弓も、まだラディック公爵には遠く及ばない。そして、あの仮面の男にも。

「くそったれが……!」

 レギトが罵っている間に、山賊たちは逃げ出していた。覚えてやがれ。てめえ、このまんまじゃ済まねえぞ。そんな捨て台詞が聞こえて来る。

 逃げ去って行く山賊たちを睨み見送りつつ、レギトは弓を背負い、長剣を鞘に収めた。

 抱き合い泣きじゃくっている村娘たちに、とりあえず微笑みかけてみる。

「あー、安心しなよ。もう大丈夫だぜ?」

 やや軽薄な口調になってしまった。村娘たちは怯えながら、何も応えない。

 声を発しているのは、父親の屍にすがりついて泣く、小さな女の子である。

「お父ちゃん……お父ちゃぁん……」

「…………」

 軽薄な声を出してしまった事を、レギトは後悔した。自分がもう少し早くこの場に来ていれば、1人の村人も死なせずに済んだのだ。

 今まで、どこかに隠れていたのであろう。村人たちが、ぞろぞろと姿を現していた。皆、青ざめている。山賊たちは逃げ去ったと言うのにだ。

「何て事を……」

 村の男の1人が青ざめながら、レギトを睨み、言った。

「あんた……何て事を、してくれたんだ……」

「え? 何て事……って言われても」

 レギトは戸惑ってしまった。もちろん見返りを求めていたわけではないが、それでも礼の一言くらいは言ってもらえると思っていたのだ。

 礼どころかレギトを呪うような口調で、村人たちが口々に言う。

「ゲドモス一味にだけは絶対、逆らっちゃなんねえってのに……」

「あいつら、今度は総出で復讐しに来るぞ……村が、皆殺しになっちまう……」

「どうしてくれるんだよぉお……」

 村人の1人が青ざめ、泣きそうな顔で、レギトに詰め寄った。

「正義の味方のつもりかよぉ、余計な事しやがって……」

「いやそんな、正義なんてつもりは」

 戸惑い続けるレギトに、その村人はなおも言う。

「あんたが出て来なけりゃ、丸くおさまったんだ……女子供を何人かさらってくだけで、あいつら満足して帰ってくれたんだ! なのに、あんたのせいで! このまんまじゃ俺たちまで殺されちまう!」

「てめ……それが男の言う事かああああッッ!」

 レギトの頭に血が昇った。手が勝手に動き、その村人の胸ぐらを掴んでいた。

「だっ駄目ですよレギトさん!」

 エイヴェルが慌てて飛んで来て、レギトの身体にしがみつく。

「弱い人たちに罪はありません! 誰もが貴方のように強くいられるわけではないんです……そう、貴方は強い……だからもっと優しい心を持つ事も、出来るはずっ……」

「どさくさまぎれに俺のケツを触るんじゃねえよ」

 息を荒くするエイヴェルの顔面に、レギトは肘を叩き込んだ。

 鼻血を噴きながらエイヴェルが、痛そうに嬉しそうに倒れてゆく。

 そちらを見ず、怯える村人たちの方も見ずに、レギトは足早に歩き出した。

 頭では、わかっている。確かにエイヴェルの言う通りではあるのだ。弱い村人たちに罪があるはずがない。

 たまたま通りがかった流れ者の自分が、出しゃばって山賊退治などをやる。それが、まずおかしいのだ。

 山賊や強盗団の討伐は、本来ならば地方領主の軍隊が行うべきなのである。

 なのに、ここパルキア地方では、領主も軍も動かない。

 レギトが生まれ育った、レゼブ地方のあの村と同じだ。

 この国で高い地位に就いている人間たちは、自殺者が出るほどの重税を民から搾り取っておきながら、それに見合った仕事を何一つやろうとしない。

「この国は腐ってやがる……どいつもこいつも、ぶち殺してやりたくなるくれえにだっ」

 ぶつぶつと怒声を漏らしながらレギトは、逃げて行った山賊たちを追って歩き続けた。

 ゲドモス一味。村人の1人が、確かそう言っていた。

 ここへ来るまでにレギトも、貼り出された手配書を何枚か見ている。そこそこの賞金が懸けられた山賊団で、確か北パルキア山林を根城にしていたはずだ。

 あの村人たちは、ゲドモス一味の報復を恐れている。ならば、レギトがやるべき事は1つしかない。

「れ、レギトさぁん」

 村を出たところで、エイヴェルがあたふたと追いかけて来た。

「待って下さいよう……ね、どこへ行くんですか?」

「ちょいと憂さ晴らしにな」

 振り向かず、歩調を落としもせずに、レギトは即答した。

「ムカついたから、山賊どもを皆殺しにして憂さを晴らす事にした」

「そんな事言って。本当は、村を助けるために戦うんでしょう?」

 内股気味の歩き方で、エイヴェルが追いすがって来る。

「べっ別に村のためなんかじゃないんだから! なぁんて……んっ駄目、萌えちゃう……」

「だから俺のケツを触るんじゃねえ」

 レギトは振り向き、グシャッと拳を叩き込んだ。エイヴェルが鼻血をぶちまけつつ錐揉み状に回転し、吹っ飛んで行く。

 放っておいて、レギトは歩き続けた。

 ゲドモス一味は、とにかく皆殺しにする。

 領内に山賊を放置して何も仕事をしていない無能領主やその配下の軍隊も、皆殺しにしてやりたいところだ。

(ラディック公……あんた以外はクズばっかりだぜ、この国はよ……)

 レギトが物心ついた頃には、後クランシア王国はすでにこんな感じだった。

 民衆は重税に苦しみ、その苦しみの中でレギトの父は首を吊った。

 民の生き血をすすって肥え太った貴族や為政者たち。その元締めとも言うべき存在が、王国宰相のアフザム・ボルゲインである。王国全土から搾り取られた重税の少なくとも半分は、この男の懐に入ると言われている。

 この国には一応、マイスティン3世という国王がいるにはいるが、宰相アフザムに飼われる傀儡である事は、国民の誰の目にも明らかであった。

 後クランシア王国の真の支配者はアフザム・ボルゲイン。王族でさえ、王宮で良い思いをするには、この男による後ろ楯が必要なのだ。

 そんな腑抜けな王族たちの中にあって唯一、宰相アフザムに対して強く物を言う事の出来た人物が、ラディック・ヘイスター公爵である。

 マイスティン3世の実弟でありながら、暗愚な兄国王とは似ても似つかず、英雄アルス・レイドックの血が200年以上を経て覚醒した、とまで言われた傑物。

 王位すら狙える位置にいたラディック公爵が、しかし今から3年ほど前に、ザフランなどという一地方の領主に収まってしまった。政敵アフザム・ボルゲインの手回しによるもの、と言われている。

 ラディック公に王位を狙う野心があったのかどうか、今となってはわからない。

 公爵が王位を狙うんなら、俺はいくらでも協力しますよ。冗談めかして、いくらかは本気で、レギトは言った事がある。

 お前などが協力してくれたところで、どうにもならんよ。王位というものはな。笑いながらラディック公爵は言った。

 それに、今の私はザフラン地方の領主だ。この小さな領地に住まう民を、まず守らねばならん。それなら、お前の協力くらいで出来なくもないからな。

 その言葉通りラディック公爵は、ザフラン地方の民を守り続けた。

 王国が、と言うより宰相アフザムが課してくる重税を無視して、貧しい村に年間の税を免除してやる事すらあった。それを、ザフランの民が誰も不公平に思わない。それが、ラディック公爵の人望だった。

 山賊や怪物の類が現れれば、公爵は自ら討伐に向かい、レギトたち直属の兵士たちもそれに同行した。命を落とす者も無論いた。皆、ラディック公爵と共に命を賭けて戦う事を、誇りとしていたのだ。

 あの時も、そうだった。

 半年前の、ザフラン領内における最後の怪物退治。あの時もレギトは、ラディック公爵を守るため命を捨てるつもりでいた。

 現実は、その逆になってしまった。

 怪物退治そのものは、容易く済んだ。トロールが3匹、オークの群れを率いて山賊のような事をしていただけだったのだ。

 オークどもはレギトたち兵士数名で殺し尽くし、首領格のトロールは3匹ともラディック公爵が討ち取った。

 本物の「怪物」と出会ったのは、その帰り道での事である。

「待って! 待って下さいよう」

 エイヴェルが、またも追いすがって来た。

 尻を触られる前にレギトは顔だけを振り向かせ、睨み、訊いた。

「……おめえ、何で俺について来る。旅の目的ってもんが、おめえさんにもあるんじゃねえのか」

「え? は、はい。ボクも実は、人を探してるんです……ロウエル・ケリストファーという、中央大聖堂の司祭です」

 知らない名前である。エイヴェルの人探しの役には、立ってやれそうにない。

「彼は、大聖堂からある物を持ち出して、行方をくらませてしまったんです。ボクはそれを取り返さなきゃいけないし、もちろんロウエル司祭も連れ戻さなきゃいけません」

「でも手がかりが全くねえと、そういうわけだな」

 街道から、山道へと入っていた。

 そろそろ北パルキア山林である。鬱蒼とした森林地帯へと、風景も変わりつつある。どこに山賊が潜んでいるかわからない。

 油断なく周囲に気を配りつつ、レギトは言った。

「おめえにゃケガ治してもらった恩があるからな。俺の人探しのついでで良けりゃ、まあ手伝ってやってもいい。ひ弱な見習い司祭君の護衛、くらいしか出来ねえけどな」

「ぼ、ボクは別に恩を着せるつもりじゃ……ああっ、でも嬉しい! レギトさんって本当、すごく優しい人なんですねっ」

「おいバカ、くっつくな。あと俺のケツを触るな」

 エイヴェルを蹴り飛ばしながら、レギトは思い返した。思い出さなくとも、浮かび上がって来る。

 あの男と出会ったのも、こんな山道での事だった。

 トロールやオークの群れを皆殺しにし終えて帰城する、ラディック公爵と兵士たち。

 その眼前に、あの男は木陰からユラリと姿を現した。

 異形の騎士。一言で表現するなら、それしかない。

 筋骨隆々の巨体を、鋼の全身鎧に閉じ込めた、堂々たる甲冑姿。

 その首から上は、片目の仮面だった。鼻も口もない、まるで楯のような鋼鉄の仮面。右半分にだけ、視界確保のための裂け目が走っている。そんな仮面が兜と一体化して、男の頭部を完全に覆い隠していた。

 何だ、てめえは。兵士の1人が、声を投げた。

 それには答えず異形の騎士は、まず兜と仮面をゆっくりと脱いだ。そして言った。

 失礼、顔が醜くなる病に罹っております。ああ御心配なされますな、伝染るものではござらぬゆえ……

 回想を、レギトは中断した。

 前方から何者かが、よろよろと山道を歩いて来る。粗末な革鎧を着た、若い男。

 先程、村から逃げて行った、山賊の1人である。

「た……」

 前のめりに倒れつつ、その山賊は呻いた。

「助けて……くれぇ……」

「何だぁ? ……あっ、おいバカ」

 止めようとするレギトを迂回してエイヴェルが、何やら死にそうな様子のその山賊に駆け寄り、屈み込んで声をかける。

「だ、大丈夫ですか? しっかり……わっ、冷たっ!」

 山賊の身体に触れようとした手を、エイヴェルが慌てて引っ込める。

「魔女……」

 声と共に山賊の全身が白く染まり、ピキピキッ……と固まってゆく。

 霜、あるいは氷の白さだ。

「魔女が、俺たちのアジトを……たっ助けてくれ、殺されちまう……みんな、殺され……」

 真っ白に凍り付いた山賊の身体がグシャ……ッと砕け崩れた。白い硝子のような肉片が大量に、地面にぶちまけられる。

 呆然とそれを眺めながら、エイヴェルは呟いた。

「黒魔法……」

 震える、声だった。

「人間の身体を、ここまで破壊出来るなんて……かなりの術者……あっレギトさん」

 エイヴェルをその場に残して、レギトは駆け出した。

 轟音が聞こえて来た。山林そのものを揺るがすような、凄まじい音。

 何かがバラバラと降って来て、山道にぶちまけられた。

 いくつもの、黒焦げの肉片。人間の手足、のように見える。焼け焦げた生首、のようなものもある。

 ようなものではなく本物の、人体の残骸だった。

 高熱量の爆発を食らった山賊たちの、屍である。

 レギトは立ち止まった。

 山道の開けた、広い場所である。

 さほど急峻ではない岩場の所々に小屋が建てられており、全体的に砦のようだ。

 ゲドモス一味の根城、なのであろうが、今は破壊の限りを尽くされていた。

 小屋のいくつかは、黒い煙や炎を立ち上らせている。すでに燃え尽きて、黒焦げの廃材と化してしまった小屋もある。

 あちこちに転がっている山賊たちの屍は、もはや死体と呼ぶのもためらわれる状態だった。人の形をした灰の塊、焼け焦げた生首や手足、白く凍った肉片。

 破壊と殺戮の光景。その真っただ中に、1人の少女が佇んでいる。

 栗色の髪を頭の右側で可愛らしく束ねた、細身の美少女。厚手のマントの下に薄く短い衣服を着て、柔らかく瑞々しい太股を露わにしている。

 可憐な色香を漂わせる、細い肢体。

 その周囲では、炎の塊が3つ、まるで小さな太陽の如く燃え盛りながら浮遊し、少女を取り巻いていた。

 可愛い右手に握られた杖は、パリパリと目視出来るほどの電光をまとっている。

「大丈夫……これでも、ちゃんと火力の制御はしてるから……」

 燃え盛る3つの火球を従えた少女が、帯電する杖を軽く掲げながら、レギトの方を向いて言葉を発した。

「山火事にはならない、と思う。ところで……あなた、誰?」

 顔立ちは、美しいと言うより可愛らしい。澄んだ茶色の瞳は、じっとレギトを見つめながら、しかしどこか遠い所を見ているようである。

「ま……まさしく魔女……」

 追い付いて来たエイヴェルが、息を切らせながら言う。

「危険ですレギトさん! 女は、女という生き物は、1人の例外もなく魔女……」

「あなたたち、この山賊さんたちのお仲間? なら……死んでもらうわね」

 言いながら少女が、愛らしく繊細な左手をゆらりと動かした。周囲を浮遊・旋回する火の玉3つに、何か号令を下すかの如く。

「だってあたし、もうこんなに殺しちゃったんだもの。今さら1人や2人、えこひいきして助けてあげるってのも……ねえ? ……ゴッヘル将軍、焼き尽くせ」

 小さな太陽のような火の玉たち。その1つが、飛んで来た。レギトもエイヴェルも、もろともに焼き殺す勢いでだ。

 すでにレギトは、腰から長剣を抜いている。抜き放たれた白刃が、飛来する火の玉に向かって一閃する。

 手練の戦士が振るう武器は、気合いの波動を帯びている。それは、魔法による攻撃への対抗手段ともなり得るのだ。

「でえええいッ!」

 レギトの気合いを帯びた長剣が、太陽の如き火の玉を叩き斬った。

 真っ二つになった火の玉が、若い剣士の左右で爆発する。

 エイヴェルの悲鳴が聞こえた。爆発を、まともに喰らったのか。

 レギトの左右で発生した爆炎が、やがて薄れて消えた。

 エイヴェルの姿も、消えていた。

 黒魔法使いの少女が、いくらか意外そうに首を傾げている。

「へえ……黒魔法の炎を、剣で斬っちゃうなんて。そんな事出来るの、あたしのお姉ちゃんだけだって思ってたのに……」

 栗色の髪の房が、頭の右側で揺れる。愛らしい仕草、ではある。

 そんな愛らしい少女に対し、油断なく長剣を構えたまま、レギトは素早く周囲を見回した。やはりエイヴェルの姿は見当たらない。山賊たちと同じように爆殺され、バラバラに吹っ飛んでしまったのか。

 手足の1本でも見つかったら墓を作ってやろう、とレギトは思った。

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