悪竜王国

小湊拓也

第1話 復讐者と少年 

 なまじな美少女よりも、ずっと可愛らしい顔立ちをした少年である。

 髪は、さらさらとした長めの金髪。澄んだ青い瞳はおどおどと弱々しく、可憐な唇は荒い吐息を紡いでいる。

 唯一神教徒の証たる純白の法衣をまとった身体は、ほっそりと華奢で、胸に詰め物でもすれば、そのまま女の子の身体になってしまいそうだ。

 先端に天使の像が取り付けられた杖……唯一神教徒の聖杖が、両の細腕にはいかにも重そうである。

 エイヴェル・ガーナー。16歳。唯一神教会・クランシア中央大聖堂所属の、見習い司祭。

 7歳の時、聖堂に預けられた。

 それから9年間、心優しい司祭たちに目一杯愛されて、それは幸せに過ごしてきたものである。

 そんなエイヴェルが何故、今このような森の中を走り回っているのかと言うと。

「待ぁてや顔のキレーなお坊ちゃんよおぉ」

「司祭様だぜ、司祭様。金持ってんぜぇー」

「悪どく儲けてやがるからなァー教会の奴らぁよおおおおおお!」

 いくつもの、獣じみた声。

 それらと共に、荒々しく草を蹴り分ける足音が、森のあちこちから迫って来ている。

「しっ……試練……」

 脆弱な脚力と心肺機能を大いに酷使しながら、エイヴェルは祈りを呟いた。

「これも試練、なのですか……唯一神よ……」

 頼りなく澄んだ青い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 屋外、それも森の中などを、こんなふうに全力で走り回った事などない。

 聖堂の庭園で、先輩の司祭たちと楽しく追いかけっこをした事があるくらいだ。

「懺悔します……」

 走りながらエイヴェルは涙を拭い、ぐすん、と鼻をすすった。

「ジョゼフ司祭とケイン司祭が殴り合いの喧嘩をしたのは、ボクのせいです。ボクがお2人に、思わせぶりな態度を取ったから……懺悔します唯一神よ、だからボクを許して助けて……あっ」

 木の根、と思われるものに足を取られた。

 エイヴェルは懺悔をしながら前のめりに転倒し、分厚い草むらの中に突っ伏した。起き上がる暇もなく、

「つーかまえたぁゲヘヘへヘ」

 周囲の木立をガサガサと掻き分けて、男たちが姿を現した。計5人。

「さぁーて、有り金残らず出してもらおうかぁお坊ちゃん」

「善良な一般人をだまくらかして、しこたま儲けてやがんだろーがぁ? がっぽり恵んでくれよ、俺ら貧乏人にもよぉ」

 5名とも、大型の剣や戦斧で凶悪に武装しており、ある者は安物の革鎧を身にまとい、ある者は防具など着けず、筋骨隆々たる上半身を剥き出しにしている。

 何者なのか、などと訊くまでもない。見ただけでわかる、強盗の一団である。

 ここザフラン地方は、後クランシア王国内においては最も治安の良い土地として知られていた。

 前領主ラディック・ヘイスター公爵が存命の間は、である。

 そのラディック公が半年ほど前、命を落とした。死因は不明で、様々な噂が飛び交っている。

 以来ザフランは大いに荒れ、たった半年で、このような強盗・山賊の類が徘徊する土地となってしまったのだ。

「ひどい……それは、あんまりな言われようです」

 身を起こし、だが立ち上がる事は出来ず、草むらの上になよなよと座り込んだまま、エイヴェルはとりあえず会話を試みた。

「唯一神教会は……少なくともボクが学んだ中央大聖堂は、清貧を旨としております。そんな、人々をだましてお金を儲けようなんて……ぼ、ボクの持ち金だって、これで全部です」

 小さな革袋を懐から取り出し、チャリチャリと鳴らして見せながら、エイヴェルは訴えた。

「でもこれ、ボクの大切な路銀なんです。取られたらボク野垂れ死にしちゃいます! だから、あの、どうか見逃して……下さると嬉しいかなぁ、なんて」

「安心しろ坊や、野垂れ死にはねえよ」

 強盗の1人が言いながら、ギラリと剣を抜いた。

「おめえは今ここで死ぬんだからよォーぎゃははははは」

「何でもします! しますから!」

 哀願しながらエイヴェルは、純白の法衣を半分だけ、する……っと脱いで見せた。

 滑らかな肩の丸みと綺麗な鎖骨の凹みが、露わになる。

 強盗の1人が、息荒く迫って来た。

「おおおおお、おめえ男のくせにキレーな肌してんなああ」

「あ、ありがとうございます……ほんと、好きにして下さって結構ですから……」

 法衣の裾をエイヴェルは、はらりと割って見せた。

 無駄毛の1本もない、つるりと綺麗な脚に、男たちのギラついた目が釘付けとなる。

「うおおおおお、なっ何だこの、しゃぶりつきたくなるようなスネとフトモモはよぉおお!」

「はい、あの……ボクを、しゃぶって下さいますか?」

 綺麗な脚だね。

 そう言いながらケイン司祭もライク司祭も、エイヴェルの脛や太股に、頬擦りや口づけをしてくれたものだ。

 思い出しながらエイヴェルは、ほんのりと顔を赤らめ、うつむき加減に微笑んで見せた。

「よろしければボクも、貴方たちの……を、しゃぶって差し上げますからぁ……だからその、どうかお金と命だけは」

「んん~惜しいっ! おめえがホントに女だったらなあぁー」

 強盗の1人が腕組みをしながら、本当に残念そうな顔をしている。

「だっておめえ、その綺麗な太股と太股の間にゃよォー、付いてんだろ? ちゃんと」

「はい、ちゃあんと……付いてます」

 エイヴェルはさらに、ぽ……っと初々しく頬を赤らめた。

「自慢じゃないですけど、結構……すごいんですよ? ボク。可愛い顔してこんなの信じられないって、ジェゼフ司祭もロウエル司祭も驚いてくれて」

「んじゃ駄目ぇえええええ」

 強盗5名の中で最も大柄な男が、頭を激しく横に振りながら、巨大な戦斧を両手で振りかぶった。

「女だったらなァー、肉便所として生かしといてやったトコだけど男じゃなああ。ぶっ殺して有り金もらうしかねえだろ? ん?」

「俺ぁよー、綺麗な女を見るとブチ込みたくなるけど、綺麗な男ぉ見るとブチ殺したくなんだよォオオオオオオ!」

「そっ、そんなぁ~」

 半裸のまま、エイヴェルは悲鳴を上げた。弱々しく澄んだ青い瞳から、ぶわっと涙が飛び散る。

 そこへ強盗の1人が、大型の剣を振り上げながら迫る。

「ああ許せねえ! こちとら1週間も女にありつけねえでいるってのによォ、女みてえな男じゃ生殺しじゃねえかゴルゥアアアア!」

「そうかい、生殺しは嫌か」

 静かな声。

 大型剣でエイヴェルに斬り掛かろうとしていた男が突然ドシュッ! と大量の鮮血を噴き上げ、倒れた。

 その屍の近くに、1人、黒髪の若い男が立っている。少しだけ血に汚れた抜き身の長剣を、無造作に構えながらだ。

「んじゃ、まあ……バッサリ殺ってやんからよ」

 流浪の剣士。そんな表現が、この上なく似合った若者だ。

 歳の頃は20歳前後。色あせたマントの下に、軽めの鎧をまとっている。その上からでも、がっしりと無駄なく鍛え込まれた体格は見て取れる。

 それだけで、エイヴェルの胸が、とくん……っと高鳴った。

(人が……1人、殺されているんだぞ……)

 エイヴェルは心の中で、本日2度目の懺悔を行った。

(なのにボクは、こんなにも……ときめいて……唯一神よ、罪深いエイヴェルに哀れみとお許しを……)

「てめえ……!」

 戦斧を構えた巨漢の強盗が、仲間の死を目の当たりにして、怒り狂い始めている。

 そちらを、若い剣士は睨みつけた。

 獣、あるいは猛禽の如く鋭い眼光。整った顔立ちが、にやりと不敵に歪む。

「仲間の仇……ほら討ってみろ、遠慮しねえでかかって来いやあッ!」

 しなやかに駆け出すその動きは、まさに猛獣そのものである。

 少しだけ血に汚れた長剣が、一閃した。

 構えた戦斧を振り下ろす暇もなく、巨漢の強盗が、血を噴いて座り込む。座り込んだ巨体から、生首が転げ落ちる。

 若い剣士は振り向きながら、長剣をもう一閃させた。

 彼の背後から斬り掛かろうとしていた強盗2名が、血飛沫を噴出させる。1人は首筋から、1人は脇腹から。

 2つの死体が、弱々しく倒れ伏す。

 5人組の強盗の最後の1人は、逃げ出していた。悲鳴と足音が、慌ただしく森の奥へと遠ざかって行く。

 追いかけようとまではせず若い剣士は、強盗の死体の1つを片足で踏み付けた。

「クソどもが……ラディック公がいねえからって、好き勝手やってんじゃねえぞ」

 吐き捨てながらビュッと長剣を振るい、血の汚れを払い落とす。

(何て……罪深い人……)

 半脱ぎの法衣を直す事も忘れてエイヴェルは、心の中で陶然と呟いた。

(まるで草でも刈るように人を殺して……なおかつ死者を足蹴にするなんて……)

 少年の薄い胸の奥で、心臓が切なげに高鳴り続ける。滑らかな頬に、かぁっと熱さが昇って行く。

(教会の外には……こんな男の人が、いるんだ……)

 エイヴェルを愛してくれた中央大聖堂の聖職者たちには、ここまで破天荒な人物はいなかった。

「あ、あの……」

 そこいらの美少女よりも愛らしい顔を、ほんのりと赤らめながらエイヴェルは、恩人である若き剣士に寄り添って行った。

「助けていただいて、ありがとうございました……お礼を、させて下さいますか?」

「お……おいおい、いいんだよお礼なんてそんな」

 寄り添う少年の細身を、ぎこちなく抱き止めながら、若い剣士が狼狽えている。鋭く精悍な野獣の美貌が、初々しく赤く染まる。

 可愛い、とエイヴェルは思った。

「それより怪我はないかな、お嬢さん……って男かよ!」

 若い剣士が態度を一変させ、エイヴェルの細い身体を蹴り飛ばした。

「あ……ン……痛い……ッ」

 吐息を弾ませながらエイヴェルは、大木の根元に倒れ込んだ。

 この強く精悍な、獣の如く美しい男の人に、ゴミのように蹴り転がされた。

 それだけで、エイヴェルの吐息の乱れは止まらなくなり、心臓はさらに高鳴り、股間では熱いものが屹立した。

 それを両の太股で懸命に挟み込みつつエイヴェルは、熱く潤んだ瞳を、若い剣士に向けた。

「そ……ンな、ひどいっ……男と女を、差別するなんてェ……唯一神の御心に、反する事ですぅっ……もうっ、罪深い人……ッ」

「おいてめえ、何でそんなに息荒い。何でそんなに顔赤い。何でそんな前屈みになってんだコラ」

 強盗4人をことごとく斬殺した長剣が、エイヴェルに突き付けられる。若き剣士の、殺気みなぎる言葉と共にだ。

「俺ぁな、変態がでぇっ嫌えなんだよ」

「変態っ……だなんて、ひどい……ボクは……ボクはただ、自分の愛に……正直なだけ……」

 殺されるかも知れない、とエイヴェルは思った。

 この強く精悍な、獣の如く美しい男の人に、自分は今から殺されるかも知れない。そう思うだけでエイヴェルの、吐息の乱れは止まらなくなり、心臓はさらに高鳴り、股間では……

 凄まじい絶叫が、森の中に響き渡った。

 先程1人だけ逃げて行った強盗の、悲鳴のようである。

 続いて、足音が聞こえた。

 人間の足音ではない。茂みを踏み潰し、時にはバキバキと木を折り砕く……何か巨大なもの、の足音である。こちらに、近付いて来ている。

「……おい変態野郎、命だけは助けてやる。さっさと逃げろ」

 言いながら若い剣士が、足音の聞こえる方を向き、エイヴェルを背後に庇ってくれた。

 背を向けられてようやく、エイヴェルは気付いた。この若き剣士が、1張りの弓を、マントの上から背負っている事に。

 大型の、エイヴェルでは引く事も出来そうにない弓である。

「変態野郎だなんて、ひどい……ボクには、エイヴェル・ガーナーという名前があります」

 この人は今、ボクを守ろうとしてくれている。

 高鳴る胸をなおも熱くしながら、エイヴェルは訊いてみた。

「あの……貴方のお名前は?」

「レギト」

 短く名乗りつつ、若い剣士……レギトは、血まみれの長剣を足元の地面に突き刺した。そして背負っていた大型弓を左手に持ち、腰の矢筒から矢を引き抜く。

 人間ではないものの足音は、間近に迫って来ていた。

 そちらに弓を向け、矢をつがえ、強靭な弦をギリギリッ……と引き絞りながら、レギトはさらに言った。

「いいから、さっさと逃げろ。変態野郎のエイヴェル君とやら」

「そ、それは出来ない。ここで逃げ出したら……もう2度と、貴方に会えなくなってしまうかも知れないから」

「……てめえから先に射殺すぞ?」

「その必要はありません。だってボクの心は、もう……貴方に、射貫かれてしまっているもの」

 そんな愚かな事を言っている場合ではなくなった。

 大木を1本メキメキッと折り倒しながら、それがついに姿を現したのだ。

 一対の、黒く巨大な翼が見えた。節くれ立った甲殻質の尻尾と、その先端で光る太く鋭い毒針が見えた。灰色っぽい獣毛をまとう巨体が見えた。

 熊、いや獅子に似ている。コウモリの翼とサソリの尻尾を生やした、獅子。

 だが剛毛のタテガミに囲まれているのは、醜悪極まる人間の顔面である。中途半端に知性を宿した両眼が、ギラギラと凶悪に血走りながら、レギトとエイヴェルを睨みつける。

 そんな獣じみた人面が、口にくわえて引きずっていたものを放り捨て、言葉を発した。

「コレ……まずぅううい……」

 放り捨てられたのは、5人目の強盗である。無事に逃げ延びたはずの彼が、逃げた先でこの怪物に捕まり、今や半ば真っ二つの屍となって放り捨てられているのだ。

 エイヴェルは怪物をじっと観察し、呟いた。

「マンティコア……」

 怪物の名である。聖堂で行われていた博物学の講義で、学んだ事があった。

 マンティコア。人里から遠くない山岳や森林に棲む、食人生物の一種である。サソリに似た尻尾の毒針は、1滴で数百人を殺す毒液を分泌するという。一般に怪物とか魔獣とか呼ばれる生物の中でも、人肉に対する執着が特に強いらしい。

 そのマンティコアが、血まみれの牙を長い舌でレロレロと舐め拭いながら、なおも人語を発する。

「オメエ……も、まずそう……」

 ぎらついた眼光がレギトを迂回し、エイヴェルに向けられる。タテガミに囲まれた人面が、にやあっと醜く微笑んだ。

「おめえ……だけは、うまそう……げっへへへへ」

 何と見る目のない怪物だろう、とエイヴェルは思った。ろくに肉もついていない自分の身体などよりも、強靭かつ柔軟にしなやかに鍛え込まれた若い剣士の肉体の方が、美味であるに決まっている。

(こんな、美味しそうな男の人……めったに、いないのに……)

「うまい肉は喰らう! まずい肉は、切って潰してブチまけるぅううう!」

 マンティコアが、襲いかかって来た。

 黒い翼が激しく羽ばたき、サソリの尾を生やした獅子の巨体が高速で躍り上がった。左右の前足から、短剣のような爪が何本も現れ、空中からレギトに向かって振り下ろされる。

 飛行、と言うよりは、羽ばたきを得た跳躍である。翼を生やしてはいても、自由自在というほど空を飛べる生物ではないらしい。

 あくまで地上戦を本領とする魔獣・マンティコア。その巨体が、レギトに襲いかかりながら突然、見えない壁にでも激突したかの如く、後方に吹っ飛んだ。

 レギトが、矢を放ったのだ。

 引き伸ばされていた大型弓が、激しく音を響かせつつ元に戻り、震えている。

 放たれた矢は、マンティコアの両前脚の間、人間ならば胸と言える部分に、深々と突き刺さっていた。

 そんな深手を負った魔獣が、茂みの中に倒れ、だがすぐに4本足で立ち上がってくる。中途半端に知性のある両眼が、憎悪でぎらつきながらレギトを睨む。

「外した……!」

 舌打ちをしつつレギトが、2本目の矢をつがえた。エイヴェルは思わず、間抜けな声をかけてしまった。

「え……当たってるじゃないですか」

「一撃で殺せなきゃ! 外したと同じなんだよッ!」

 怒鳴りながらレギトは、引き絞った弦を手放した。強弓が再び、激しく音を鳴らす。

 羽ばたき、襲いかかって来ようとするマンティコア。その顔面、眉間の辺りに、2本目の矢が深々と刺さって埋まる。

 牙を剥いたまま、硬直する魔獣。

 その口の中に、3本目の矢がズドッ……と撃ち込まれた。

 悲鳴を詰まらせ、血を吐き散らしながら、マンティコアは倒れた。

 レギトが息をつき、弓を背中に戻す。

 それを待っていたかのようにマンティコアが跳ね起き、羽ばたいた。

 胸を、眉間を、口中を射貫かれた魔獣が、血を吐きながら牙を剥き、爪を閃かせ、襲いかかって来る。

「くそったれが……!」

 罵りつつもレギトは、地面に突き刺してあった長剣を引き抜き、踏み込んだ。

 若い剣士の身体が、マンティコアの巨体とぶつかり合った、ように見えた。どのようにぶつかり合ったのか、エイヴェルの動体視力で捉える事は出来なかった。

 とにかくマンティコアが下になり、レギトが上になっている。

 黒っぽい血飛沫が、大量に噴き上がった。

 レギトの長剣が、マンティコアのタテガミの内側に深々と突き刺さっている。頸部を、完全に抉っているようだ。

 魔獣の太い首筋をさらに切り裂きながらレギトは長剣を引き抜き、噴き上がる血飛沫を浴びつつ、マンティコアの屍の上から跳び退いた。若い剣士の全身が、魔獣の返り血で点々と汚れてしまっている。

(一緒に水浴びして……洗ってあげたい、なぁ……)

 エイヴェルのよこしまな思いになど気付くはずもなく、レギトは、今度こそマンティコアが完全に絶命したのを確認しつつ、呻いた。

「ラディック公なら……最初の矢の1本で、仕留めてた……」

 ここザフラン地方の前領主の名が、再びレギトの口から出た。

 ラディック・ヘイスター公爵。

 英明にして慈悲深き領主であると共に、勇猛なる騎士としても名を馳せた人物で、先程の強盗たちのような輩、それにこのマンティコアのような怪物が、領内の民を脅かす度に、自ら討伐に赴いたという。

 中央大聖堂とも懇意で、エイヴェルも何度か親しく口をきいてもらった事がある。

 確かに心優しく高潔で尊敬に値する人物ではあったが、いささか筋肉の量が多過ぎて自分好みではない、とエイヴェルは思ったものだ。

 筋肉の量は、やはりレギトくらいがちょうど良い。

 そのレギトに、エイヴェルは恐る恐る訊いてみた。

「あの……貴方は、ラディック・ヘイスター公爵様と御縁のある人、なのですか?」

「兵士だった。ラディック公の下で10年ばかりな……空きっ腹でさまよってたクソガキを、拾って育てて鍛え上げてくれた人さ」

 マンティコアの死体から矢を引き抜いて回収しながら、レギトは答えてくれた。

 10年ばかり。という事は、レギトがラディック公爵に拾われたのは、10歳になるかならぬかといった幼い頃であろう。

 レギトにとっては、親代わりとも言える人物だったに違いない。

「俺は、何があってもラディック公を守らなきゃいけなかった。守れる……つもりでいたんだ」

 レギトの声が、微かに震えた。

 ラディック公爵の死因に関しては諸説あるが、とにかく領内の山賊団だか怪物だかを討伐に向かい、そこで命を落とした、という点は全ての説に共通している。

 山賊や怪物というのは表向きで、実はザフラン地方に潜む叛乱勢力を狩り出そうとしていたのだ、という噂もある。

 確かな事は、ただ1つ。討伐の対象であった何者かの反撃を受けたのか、それとも何か事故が起こったのか、とにかくラディック・ヘイスター公爵は死亡した。

 このレギトという若い剣士は、公爵護衛の兵士として、その現場に居合わせたのであろうか。ラディック公爵が何者かによって……恐らくは殺害された、その現場に。

 エイヴェルはそう思ったが、気軽に訊ける事ではなかった。

 もう1つ、エイヴェルは思った。

 ラディック公爵本人とは、何度か親しく口をきいた事がある。その時、公爵が引き連れていた護衛の兵士たちの中に、もしかしたらレギトがいたのかも知れない。

(だとしたら、うかつ過ぎるぞボク……こんな素敵な人を、見逃していたなんて)

「お前」

 レギトがいきなり、エイヴェルの方を向いた。

「ちょいと訊きてえ事がある。なぁに大して期待してるわけじゃねえ、気軽に答えてもらいてえんだが」

「ボクに、答えられる事なら……」

「俺ぁ、人を探してる」

 言葉と共に、暗い炎が、レギトの鋭い両眼の中で燃え上がった。

 怒りの、憎しみの、炎だった。

「……そいつはな、顔が潰れてやがる」

「お顔が……ですか?」

「潰れた顔を、仮面で隠してやがるのよ。そしてだ、とにかく強え。べらぼうに腕が立つ。こんな野良マンティコアなんざ問題にならねえくらい……恐ろしく強え、仮面の剣士。そんな奴の噂、どっかで聞かなかったかい?」

「……ごめんなさい、知りません。お役に立てなくて」

「いいさ。都合良く手がかりが見つかるわけもねえからな」

 言いつつレギトが右手で、左の二の腕を軽く押さえた。

 血が、滴っている。

 エイヴェルは今ようやく、この若い剣士が負傷している事に気付いた。

 矢で仕留めきれなかったマンティコアに、正面から斬り掛かって行った時、魔獣の爪を左腕に受けたのだろう。力強く筋肉の締まった二の腕が、ざっくりと裂けてしまっている。

「大変、お怪我を……!」

「ああ、ちょいとヘマやっちまった。こんな野良バケモノ相手によ」

 レギトは微かに唇を噛んだ。

「こんなザマじゃ……あの野郎にゃ勝てねえ……」

 あの野郎とは、恐ろしく腕が立つという仮面の剣士、の事であろうか。

 それよりも今は、傷の治療である。

「心優しきメルティエーラよ……」

 唱え、呟きながらエイヴェルは、レギトの左腕の傷に片手を近付けた。近付けられた掌が、ぼぉ……っと淡く白く、光を発する。その光が、レギトの二の腕を柔らかく照らす。

 魔獣の爪による無惨な裂傷。その内部で急速に肉が盛り上がり、盛り上がった肉に皮膚が被さり……傷が、まるで光に溶かされるかの如く、消えていった。

「お前……」

 レギトが驚いている。

 若い剣士のたくましい二の腕には、もはや傷跡すら残っていない。血が、乾いてこびりついているだけだ。

「白魔法を使える……本物の、司祭様ってわけか。おめえみてぇな変態君がなあ」

「見習いですよ、ボクなんかまだ」

 この世界における魔法は、大きく分けて2種類ある。白魔法と、黒魔法だ。

 両者とも根底にあるものにはさほど違いはない、とエイヴェルは思っている。白黒共に魔法とは、すなわち他力本願……この世ならざる領域に住まう、人ならざる者たちの力を用いて、事を行う術なのだから。

 人ならざる、大いなる力を持った者たち……36の大天使と、72の大悪魔。

 前者に力を借りて行うのが白魔法、後者の力を借りて事を成すのが黒魔法である。

 唯一神教会の教えとしては当然、白魔法が善なる力で黒魔法は邪悪、という事になるが、現実はそう単純ではない。

 黒魔法の使い手を黒魔法使い、あるいは単に魔法使いとか魔術師と呼ぶが、彼ら彼女らの中には、黒魔法を民間で平和的に役立てている者も少なくはないのだ。

 一方の白魔法は、唯一神教会の聖職者たちの中でも、修行を積んだ者だけが行使出来る。修行もせず、教会の権威だけを振りかざして好き勝手をしている聖職者が実に多いわけであるが、過酷な修行に耐えて白魔法を使えるようになった司祭たちにも、狂信的で残虐としか言いようのない者がいないわけではない。

 レギトが、興味深げに言った。

「おめえよ……白魔法が使えるんなら、さっきみてえな強盗どもなんざ一捻りってもんじゃねえのかい?」

「……ボク、戦闘用の白魔法は苦手なんです」

 炎や雷で破壊・殺傷を行うのが黒魔法。病や傷を治すのが白魔法。そう思われがちだが、白魔法にも攻撃的な術はある。

 唯一神の軍勢たる天使たちの力を、地上に発現させる。それが白魔法なのだから。

「ま、何にしても助かったぜ。ありがとな、変態のエイヴェル君」

「たっ、助けていただいたのはボクの方ですから」

 心臓をドキドキさせながら、エイヴェルは応えた。

 この若く美しい剣士に変態などと呼ばれると、何故だか心が昂る。ときめく。いや、そんな事よりも。

「あの、レギトさん……貴方は、復讐をなさろうとしているのですか?」

 顔の潰れた、仮面の剣士。それがラディック・ヘイスター公爵を殺めた犯人であるのなら。

 このレギトという若者は、公爵の仇を討とうとしているのか。

「復讐は何も生まない」

 言いながら、レギトはにやりと笑った。

「……系のお説教なら、間に合ってるぜ。じゃ、な」

 背を向け歩み去ろうとするレギトに、エイヴェルは追いすがり、寄り添った。

「ま、待って! 復讐は何も生まない、確かにそれは陳腐な言葉だけれども!」

 若い剣士のたくましい腕にしがみつき、広い背中にすがりついた。

「どうして陳腐なのか、わかりますか……? それは復讐という行為が、本当に無意味だからです」

 止めなければならない、とエイヴェルは思った。

 このレギトという美しい若者が、復讐の泥沼に沈んでゆく。終わりなき憎しみの連鎖に、自ら捕われてゆく。それを、何としても止めなければならない。

「それが不変の真理だからです。陳腐に思えてしまうほど、当然の事だからです……ねえレギトさん、ラディック公爵だって……貴方が過去に囚われて生きる事、望んではおられないと思います……前を向いて、未来に向かって、歩いて行きましょうよ。ボクが、及ばずながら……お手伝い、しますからぁ……」

「はっはっは。おめえよぉ、立派な事言いながら俺の耳元で息荒くして、しかもギンギンにおっ勃てたモンを」

 笑いながらレギトは振り向き、エイヴェルの顔面に拳を叩き込んだ。

「……俺のケツに押し付けてんじゃねえよ、変態野郎がっ」

(また、変態って言われた……ぶたれたぁ……)

 涙と鼻血を宙に垂れ流しながら、エイヴェルはゆっくりと倒れた。

 高鳴る心臓も、固く膨らんだ股間も、今や破裂寸前だった。



 300年間もの隆盛と繁栄を誇ったクランシア王国を滅亡へと導いたのは、他国の侵略でも国内の腐敗でもなく、ただ1つの、だがとてつもなく強大な、そして邪悪なるものの存在であった。

 悪しき竜。その名はガアトゥーム。

 爪や牙で騎士たちを甲冑もろとも切り潰し、尾の一振りで城壁を破壊し、炎を一息吐くだけで人間の軍勢を焼き払う、この巨大な怪物ただ1頭によって、クランシア王国軍はほぼ壊滅、王都を含む多数の都市・城郭が廃墟と化したのである。

 生ける災厄とも言うべき、この悪竜ガアトゥームを討伐したのは、数万の軍勢ではなく、たった3人の、英雄と呼ぶべき人間たちだった。

 クランシア最強の戦士アルス・レイドック。

 白魔法の達人ゲペル・ゼオン司祭。

 禁断の黒魔法を修得せし大魔術師ドーラ・ファントム。

 この偉大なる3名によって、悪しき竜ガアトゥームは倒された。と言っても、命を奪われたわけではない。3英雄の力をもってしても、この恐るべき悪竜を完全に絶命させる事は出来なかったのだ。

 戦士アルスの斬撃と魔術師ドーラの黒魔法で負傷し、弱まったガアトゥームを、ゲペル司祭が白魔法の秘術を用いて、地底深くに封印したのである。

 その封印を守護すべく、唯一神教会の新たなる中央大聖堂が建立され、そこを核として新たなる王都が建設された。

 後クランシア王国の、誕生である。

 悪竜ガアトゥームによる一時的な滅亡を境に、クランシア王国は前・後と分けて称されるようになったのだ。

 悪竜討伐の3英雄、その筆頭たる戦士アルス・レイドックは、前クランシア王家生き残りの王女を妻に娶り、後クランシア初代国王となった。

 ゲペル・ゼオン司祭は、悪竜封印の要たる中央大聖堂の最高責任者・司教長に就任し、国王アルスと共に政教両面から、後クランシア王国の基礎を築き上げた。

 3英雄の残る1人、魔術師ドーラ・ファントムは、新王国における一切の地位・栄達を固辞して野に下った。そして、前クランシア時代では禁忌とされていた黒魔法を民間で活かす事に、その後の生涯を費やした。

 黒の隠者。

 世の人々にそう呼ばれつつドーラは、盟友2人よりもずっと長く生きたという。

 彼ら3英雄が天寿を全うした頃から、後クランシア王国は早くも爛熟と腐敗の道を歩み始める。

 後クランシア暦267年現在。王国は、前クランシア滅亡時ほどではないにせよ、混乱の時代を迎えつつあった。

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