少女、蛍、線香花火

 名前を持たぬ、一人の少年と一人の少女は、山へと続く道を歩いていた。少女の手にしている懐中電灯以外には、何も灯りがない状態だった。蛍の大群でもいてくれたら、と彼は思ったが空気の汚れたこんな場所では、そんな願いなど叶うはずもなかった。

 少年は少女の方に目をやった。懐中電灯を持っているということもあり、彼女は彼よりも少し前を歩いていた。名前も知らぬ、小さな虫たちが彼女の顔をコースのようにして飛んでいた。蛍の代わりに飛来してきたその虫たちを、彼女は払い退けようとはしなかった。例えて言うならばそれは、暴徒と化した群衆の中を物怖じせずに掻き分けていくようなものだった。大げさな比喩にも思えるが、彼の目に映った彼女の姿はまさに「勇ましさ」そのものだった。

 少年は小さな足で、何の変哲もない坂道を登っていた。蛍も居られないくらいの汚い世界でも、星空はしっかりと二人を見守ってくれた。何が違うのか、この砕けた心を何が包んでくれているのか、少年には分からなかった。一つだけ分かることは、その優しい何かは少女の心から発せられているということだった。少年は途端に胸が痛くなった。まるで自分の心臓が排水溝の中に吸い込まれていくようだった。もう歩くのも辛いくらいだったが、少年は深呼吸を繰り返して何とか少女との歩幅を保とうとしていた。痛みを我慢するのも辛かったが、彼女との距離が離れる方がもっと辛かったから、彼は気持ちを落ち着かせて、それに耐えた。時折吹いてくる心地よい冷たい風も、今の彼にとっては努力を妨害する存在でしかなかった。

「どうしたの、大丈夫?」少女が振り向き、少年の様子を窺った。彼の激しい呼吸が耳に入ってきたのだろう。

「だ、大丈夫だよ」彼は精一杯に声を張り上げ、元気を繕った。暗がりで自分の顔色が彼女には見えなかったのが何よりの救いだった。懐中電灯をこちらに向けなかったのだから、これはもう運が良かったとしか言いようがないだろう。

 彼女は彼の言葉を聴いて納得したのか、再び視線を前の方に向けた。橙色の光だけが彼らの行方を照らしている。少年はその光を希望の光として捉えながら、元気を取り戻そうとしていた。自分自身を励ましていた。

 この気持ちはいったい何なのだろう。僕はこのままどうなってしまうのだろう。僕の心はいったいどこに行ってしまうのだろう。交錯とした思いが少年の体を締めつけた。どこまで行っても変わらない想いが、何か、心を溶かしているような気がした。

 幾多の曲がり角を経て、ようやく彼女は足を止めた。少年は正体不明の虫を見るような目で彼女の視線の先を覗いた。ぼんやりとした明かりが示していたのは、木造の小さな看板だった。

「どうしたの?」彼は訊ねた。気がつかないうちに風は止んでいた。

 少女は目線を少年の方には向けず、ひとりごとのように言った。「芦良岳。ここなら道もしっかりしてるし、隠れるなら、もってこいだと思う」

 少年は驚いて、少女の前に出た。看板の文字を確かめ、少し安堵した。「ありがとう。でも本当にいいのかい。こんな遠いところまで来ちゃって…… 心変わりとかしていないの?」

 少女は瞬きを繰り返した。「心変わりって、あなたと一緒に行くっていうこと?」

 少年は頷いた。

「大丈夫。するわけないでしょ、そんなの。私のことは問題ないから、心配しないで」

 少女はそう言うと微笑を浮かべた。彼も、つられて微笑んだ。こんな心境になっても笑うことは出来る。そのことを彼は嬉しく思った。無風の空気に、上昇した体温が沁みこんだ。もう少年の心に迷いはなかった。

 頂上に続く道は、そうたいして困難ではなかった。彼女の言うように、道はちゃんと舗装されていたし、彼女が前にいてくれたので、少年は後をついていくだけで良かった。疲れた足も、この山に来てからは回復していた。どこかで鳥の声が鳴き、まるで二人が頂上に辿り着くのを待っているようだった。でも…… 少年はふと思った。この鳥は自分を励ましているのではないかもしれない。厳しい試練に背を向ける自分を嘲笑っているのかもしれない。少年はそう思い、石段を上った。実際、本当のことは鳥に訊いてみなければ分からないことだ。しかし、彼の思いは確かに、一段一段、暗躍へと向かっていた。

「ねえ」少女が彼に呼びかけた。考えごとをしていた少年はその一言で我に返った。

「なに?」

「名前、訊いてなかったよね。あなたの名前」

「ああ」少年は少女の背中に言った。

「でも名前を知ったところでどうするの」

「馬鹿ね。あなたを呼ぶときに名前がないと困るじゃない」

「そうか」

 名前。それは普段から意識していなかったことだった。名前を意識しないということは、常識的な意味では不思議なことだが、少年にとってはあまり可笑しいことのようには思えなかった。自分は名前を持っていたのだろうか。と、世間一般では考えられないようなことも浮かんでくる。

「ねえ、早く、教えて」少女が急かした。地面の草を踏みしめる音が少年の耳に入った。

「分からないんだ」

「えっ」

「名前。分からないんだ」

「覚えてないの?」少女が突然立ち止って、少年の方を向いた。彼女に馬鹿にされると思っていたので、彼は少し狼狽した。心配するような彼女の目は暗がりでもちゃんと確認できた。

「ごめん」彼は頭を下げた。

「別に、名前が分からなくとも、そんなに困ることはないと思うわ。大丈夫よ」少女はほほ笑んだ。

 彼は恥ずかしそうに下を向いた。肌が紅潮していくのが自分でも感じ取れた。

 山脈の影が深緑に沿って続いていた。セキレイの声を聞きながら、二人は黙々と進んでいた。甘い色の雑草の下に露が染みていた。

 二人は広場で休憩をとることにした。広場は林を抜けた先にあり、山全体を一つの顔に例えるとしたら、丁度鼻のような場所にあった。半円を構成するように低い柵も見える。哀愁に満ちた月光が二人を照らす。とても麗しい見事な月だった。


 説くのが難しい思いも、ここに来れば全てが忘れられた。少年は目を閉じて、自分自身と静かに向き合った。もちろん、忘れられるなんてのは真っ赤な嘘だ。どんなに美しい景色を見ても、どんなに麗しい月を見ても、心をごまかすことなんて出来ないのだ。

 少年は少女の横顔を見つめた。よくは説明できなかったが、心の内から励まされるようなものを感じた。二人は同じ地点から来た人間だった。綺麗事と、逃亡に甘えた非力な卑怯者だった。少年の前では元気に見せていた彼女も、実は心の中に暗い陰を宿していた。少年はそのことにまだ気づいていなかった。いや、結局最後まで気付くことはなかった。少年の奇妙な愛は、ただ一人にだけ向けられていた。その高揚した感情が、少年の心を別の局面へと追い立てていた。

 二人は地面に腰かけ、星を見ていた。どこから持ってきたのか、少女は二本の線香花火をスカートのポケットから取り出した。

「ライターって持ってない?」少女は早口でそう訊ねた。

 持ってない、と言おうとして少年は口をつぐんだ。左ポケットに物体の存在を感じたのだ。

まさかと思い、彼はポケットを探った。中に入っている「物体」を掴んで外に出した。そんな馬鹿な、嘘だろう…… ライターだった。

「はい」少年は腑に落ちない表情をしながら、ライターを少女に渡した。



 線香花火。あの時のことは未だにはっきりと覚えている。少年は体育座りをしながらそう思った。少女と過ごしたあの一瞬の出来事。あの時の思い出は少年の精神を確実に変化させていた。

 少年は夢を見ていた。それはとても楽しい夢だった。比喩的なあまりに比喩的なその一秒一秒に、少年は夢であっても―― 救われたような気がした。

 見渡す限りの純白。どんなに遠くへと逃亡したとしても、結局はもとの振り出しへと戻ってくるのだ。心が絶望で一杯になったが、少年は俯くことはしなかった。これくらいの絶望はもう慣れっこになっていたのだ。

 遠くの方で足音のような響きが聞こえた。少年は体育座りのまま、耳を傾けた。こつこつこつ…… 不気味な破裂音がこちらに近づいてくるのが分かった。鉛色をした大きな恐怖の波が徐々に彼を覆っていった。

 人影が行燈のようにうっすらとぼやけて見えた。少年は恐怖のあまり立ち上がった。何かが微細にうごめいている。少年は左手首を右手で掴んだ。そうか、このうごめきは僕の血液だ。少年はそう思い、そしてまた恐怖に襲われた。

 少年に近づく者は、周りの霧を払いながらゆっくりとその姿を少年に見せていった。ぼんやりとした身体を近づくほどに明らかにし、この純白の世界に新たな波長を加えていった。

 少年は目蓋を閉め、それからまたすぐに開けた。彼に近づく者はもう、彼の目の前に立っていた。少年から恐怖が消えた。

 卓也がそこに立っていた。

 卓也は彼の姿を認めると、黒々とした菫が咲いたように、にんまりと笑った。少年は発声を忘れた。

 ついてきて、とでも言うように卓也は手招きをした。後ろを向き、そのまま歩き出す。

 真っ白いテーブルに黒いインクがこぼれた。インクは徐々にテーブルを侵食していき、最後には隅を飛び出していった。

 白から灰へ。灰から青へ。

 まるでそれは海のように。一人の使者に誘われて、少年は海溝へと潜水していった……。

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