サッカーボール

 亮太が外に出たいというので、病院の敷地内の広場に彼を連れていった。もちろん同行するのは萩原医師だった。亮太のことは大好きだが、責任を背負わされるのは良い気持ちがしないものだ。萩原はそう思い、雨が止んで晴れ上がった空を眺めた。精神をくすぐられるような緊張感を覚えていた。

 広場に着くと、さっそく亮太は持ってきたサッカーボールを蹴り、遊び始めた。広場には人口芝生が植えられており、走り回るには最適の場所だった。萩原は、彼が一人で遊ぶのを近くのベンチに座って眺めていた。しかし、しばらくして亮太が萩原の方に向けて、こっちへきてと合図をするので、彼は腰を上げるしかなかった。

 萩原がボールの側に来ると、亮太は向こうに予め設置されてあるサッカーゴールを指差した。反対側にあるゴールにも同じように合図する。どうやら勝負をしたいらしい。萩原は彼がサインを多用するようになったことについてやり切れない思いを抱えていた。亮太はここのところ喋らなくなったのだ。耳が聴こえなくなっても、しばらくは話してくれていたのだが、最近はそれもさっぱり見なくなった。自分の気が付かないうちに、彼の中で大きな変化があったのかもしれない。元気に振る舞っているようでも、実は心に深い闇を持っているのかもしれないと萩原は思った。


 空は快晴。雨が止んだ後の青さは、身体を動かすには絶好の日和だった。

「よし、それじゃ行くぞ」若々しさを象徴するような声で萩原は叫んだ。気分は徐々に学生の頃の自分になりつつあった。そんな自分を、冷静になっているもう一人の自分が制した。相手は小学生でしかも患者である。友人同然の関係であるとはいえ、医者の立場を忘れてはいけない。

 ボールを足元に置いた亮太は、萩原が向かってくるのを余裕の表情で見つめていた。萩原の距離まで残り数十センチ。亮太は右足でボールを宙に上げた。地から離れた白黒の球は、次に彼の膝へと着地した。手毬のようにボールはその場で跳ね続けた。

「お、うまいな」萩原が感心したように呟いた。思わず身体は立ち止まっていた。

 亮太はその場でリフティングを繰り返しながら、萩原を煽った。小学生に煽られていることを苦々しく思いつつも、彼はわざと乗ってあげることにした。亮太のもとへさらに近づき、彼のボールを奪おうとする。

 しかし亮太は、萩原が想像していた以上に運動の技量が高かった。すぐにボールを地面に着地させると、ドリブルでボールを、そして萩原を――弄び始めた。萩原は咄嗟に左足を出して牽制した。しかし亮太の方が一枚上手だった。彼は萩原の開いた股の間にボールを蹴り、見事に不意を突いた。意想外な出来事に萩原は「あっ」と声を上げる。

 瞬きを二回繰り返すくらいの、数秒に満たない時間だった。萩原は完全に亮太の手の中で踊らされていた。手加減を肝に銘じていた萩原も、さすがにこの時は本気の疾走となった。生ぬるい風が二人の間を駆け抜ける。芝生の緑が鈍く揺れる。萩原の荒い息が草原に響いた。


 舞踏のようなパンナ。冷めた日差しが眩いて萩原の目を覆う。

 草原に潜むは怪物。萩原の心の隙間。

 亮太の疾走。萩原の駛走。

 萩原が彼に追いつく。彼の行く手を塞ぎ、壁のようになる。

 亮太のメイアルア。萩原の左足を、操られた球が過ぎていく。

 少年が向かうは網の籠。萩原が落胆の思いでその後に続く。

 亮太は蹴り上げる。音を感じなくなった耳に勝利の歓声が響き渡る。



「いやぁ、まいった。まさか完敗するとは思わなかった」

 缶コーヒーをすすりながら、萩原は呟いた。その言葉に演技の類は含まれていなかった。

 亮太は少し微笑むと、座りながらリフティングを始めた。二本の脚はぶら下がってはいたものの、堅牢さは保ったままだった。

 萩原は再びコーヒーに口をつけた。普段から飲んでいるものなので、特別感想のようなものは抱かなかった。飲む頻度が徐々に多くなっていく。こんなことならホワイトボードも持ってくるべきだと思った。いまの亮太が口を開くとは思えないが、何らかのアクションはかけることが出来る。とりあえず、一方的でもいいから萩原は亮太と話がしたかった。

 無言の時間が、終らない周期を刻むかのように、ゆっくりと進んでいく。萩原は時間を潰す方法を考えていた。しかしどうしても思いつかないので、彼は仕方なく諦めることにした。亮太も退屈そうにしているし、この判断は別に間違ったものではないだろう。

 萩原は左手で彼の肩を軽く叩いた。少し驚いたように亮太がこちらを向いた。リフティングはまだ続いていた。

「そろそろ…… 帰ろうか」萩原は病棟の方を指差した。

 亮太はこくりと頷いた。足を高く蹴り上げ、ボールを自分の胸まで持ってくると、それを合図にしたかのように立ち上がった。ネイビー色のパーカーを羽織り、片手をポケットに突っ込んだ彼の姿は、もはや少年のものではなくなっていた。

「よし、行くか」若い医師はそう言うと、疲れた顔を見せながら立ち上がった。

 穏やかに、しかし瞬息の間に過ぎていった。短期間の内に、亮太はまるで別人のようになってしまっていた。ベッドの上ではしゃいでいたあの時の亮太。旺盛な少年の面影はどこに消えてしまったのだろう。

 萩原は深いため息をついた。折り返しを過ぎた太陽が彼の沈んだ表情を照らしていた。

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