少女
逃れ続けて…… 少年はとある寂れた駅で足を止めた。
駅の正面には丸い時計が掛けられていた。時間は五時。空はもう茜色だった。
小さなステーションには、他の客も駅員もいなかった。どうやらここは廃線になった駅のようだ。
改札口を乗り越え、少年はホームに出た。プラスチック製のベンチが数個、壁に付けるようにして設置されていて、雨に打たれた後のようになっていた。
少年はそのベンチに腰掛けた。徐々に消えていく明かりが、彼の心を物悲しくさせた。自分はこのまま、どうなってしまうのだろう。どうなっていくのだろう。奇妙に渦巻いた嘆きの言葉が上流で流れる川のように心の口から溢れ出した。時代に置いていかれた駅は、そんな彼の思いを汲み取るかのように近くへと寄り添った。この駅も、少年も、孤独という意味では同じ存在だった。駅の温かい気持ちに、少年は恍惚としていた。そして、このままここにずっと居たいと思い始めていた。
線路を眺め、遠くから聞こえてくるカラスの鳴き声を耳に感じながら、緩徐に進む時間の流れに翻弄されていた。本当に、あまりにも時間がゆっくりと流れるので、太陽は永遠に沈まないものだと彼が錯覚するほどだった。
しかし、時は彼の知らないところで、齷齪と移動を続けていた。それは視線を合わせなくても時計の針が動いているように、非常に常識的なことだった。
彼は身体をあまり動かさず、視線だけは前を向いて、遠くのレールを見つめていた。
そうしているうちに、太陽は地平線に沈んでいき……。
とうとう辺りは暗くなった。
太陽は彼を見放した。ベンチも駅も先ほどの温もりを失い、無慈悲に冷たくなった鉄の薄情さだけが残った。彼はその冷たさに耐え切れず、ベンチから腰を上げた。今更ながら、現在の時刻を気にした。別に、怖くなったわけではない。ただ、自分の立たされている状況を理解したかっただけなのだ。
駅に慰められて。少年はその言葉を胸に抱きながら、捨てられたホームを後にした。
次に少年は北の方角を目指した。街灯のない道を、舗装されていない道を、夢遊病者のような足取りで進んだ。そのため、歩くスピードはそれほど速いわけではなかった。彼はひたすらに山を目指していた。現実に疲れた者が最後に辿り着く場所。少年が最初に思いついたのがそこだった。山脈で夜を過ごそう。彼はそう考えていた。
「何してるの?」
急に声をかけられ、少年は跳びあがるくらいに驚駭した。声のする方に目を向けると、一人の少女が懐中電灯を手に少年を見ていた。少年を何か別の生き物でも見るように、不思議そうな目をこちらに向けていた。
少女は懐中電灯を彼に向けた。突然のことで激しく狼狽していた彼は、光の眩しさに思わず顔を背けた。ずっと彼を支え続けていた勇気は、その瞬間にどこかへと消えていってしまった。
「何してるの? そこで」少女がもう一度声をかけた。
彼は目の前に立つ小柄な少女を見ながら、口の中に溜まった痰を舌で弄っていた。君こそ、こんな場所で何をしているんだ。両親が心配しているんじゃないのか。もしかして、君も僕のようにみんなから嫌われてしまったのか。
「何もしてないよ。ただ歩いていただけ」少年は口の中の痰を隅に追いやってから、言葉を発した。久しぶりに声を出したからか、音に多少の曇りがあった。
彼の言葉に少女は首を横に振った。どうやら彼女が期待した通りの回答ではなかったらしい。
「そういうことじゃなくて、どうしてここにいるのかっていうことを訊いてるんだけど」
「ああ、そういうことか」少年は少し考えてから返答した。「ちょっと事情があってさ。嫌われちゃったんだ」
「嫌われた?」
「そう」
少女は腕を組んだ。考えごとを始めたのだと彼は思った。
落ち着きを取り戻した彼は、眼前の少女をじっくりと眺めた。少女は赤色のブラウスにこれまた赤色のスカートを履いていた。髪はポニーテールにしていて、恐らくだが髪の色は茶色だった。
「ちょっと、勝手にじろじろ見ないでよ」少女が不快そうに声をあげた。
「あっ、ごめん」彼は謝った。しかしどうしても訊きたいことがあって、勢いで質問した。「赤色が好きなの?」
「えっ、別に。今日は偶々だよ」
少女は俯いた。一瞬だけ眼が哀愁に暮れるのを少年は身のがさなかった。
「それより、嫌われたってどういうこと? 友達に、ってこと?」
「友達というか……」少年はためらいがちに言った。「クラスのみんなに、かな」
「どうして嫌われちゃったの?」
少年は言葉を濁そうかと思った。あの時のことは出来れば思い出したくない。しかし彼は、はっきり言うことにした。
「気持ち悪いって、言われちゃったんだ」
「気持ち悪い?」
「うん。死後の世界について一人で語っていたら、皆が変な目で僕を見るんだよ。そんなことまだ信じているのかって。変なことをいつも考えているって」
「そんなことで嫌われちゃうの?」少女が興味津々に訊いた。冷やかしたつもりではなく、自分を庇おうとして言っているのだと、彼は思った。
「そんなこと訊かれても…… 僕だってどうしてそんなことで嫌われるのかよく分からないんだ。でも、みんながまるで新興宗教の教祖を見るような目で僕を見てくる。非難の眼差しで僕のことを見てくるんだ」
「しんこうしゅうきょう?」
「あっ、ごめん。難しい言葉を使っちゃった。癖なんだよね。新聞を読むのが好きなんだけど、新しく覚えた言葉とか、すぐに使いたくなっちゃうんだ」
「物知りなのね」
「別に、そういうわけじゃないよ。それに、変に言葉を難しくしようとする奴は大抵が愚か者だからね」
お、ろ、か、も、の。少女は一字一句を丁寧に発音してみた。しかし意味はさっぱり分からなかった。
少年は続けた。「とにかく僕は自他ともに認める変人なんだ。誰も分かってくれないようなことを平気で言うような奴なんだ。だから僕はいろんな人に迷惑をかけてしまう。今回の件だってそうだ。僕の軽はずみな意見で大切な友達の心を傷つけてしまった。自分のことばかりに集中しすぎてしまうから、相手がどんな想いをしているかなんて、これっぽっちも考えないんだ。僕は最低な人間だよ。最低最悪な人間だ」
彼はそこまで言うと、地に向かって俯き、小さな目に涙をこぼした。次々に落ちていく一滴が、彼の自信を喪失させるようだった。
少女はそのまましばらく沈黙していた。自己嫌悪に陥った人間を前にして、何と声をかけていいか分からなかった。彼女は悩みぬいた末に、ある一つの提案をすることにした。
「一緒に、山にいきましょう」
「えっ」彼は涙を拭いながら、顔を上げた。
「どういうこと?」
「だから、一緒に向こうの山に行こうって。いいでしょ。それくらい」
「僕は構わないけれど…… 君の方は大丈夫なのかい」
彼の質問に、彼女はスキップでもするかのような面持ちで答えた。
「大丈夫。ここらへんの山には慣れているし、迷うことはないと思うわ。家のお婆ちゃんだって、あんまり遅くならない限りは、心配することもないだろうし」
彼は半信半疑だったが、彼女の目を見て態度を変えた。冗談めいた要素など微塵もなかったのだ。
「分かった。実は僕、もともと山に行きたくてここまで来たんだ。君が何も言わなければ僕は一人で山に行くつもりだった。旅の仲間が出来て嬉しいよ」
「本当? それなら話は早いわね。じゃあ、行きましょうか」
彼女は横を向いて、歩き始めた。少年もその後を追うように続く。
空ではいくつもの星が、二人の行く道を彩るように瞬いていた。果てを知らないプラネタリウムは、いつしか彼らの思い出に花を添えるようになっていった。小さな孤独から始まる、かけがえのない旅が始まろうとしていた。
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