母の鉄槌

 エレベータ。

 徐々に上昇していく奇異な箱に、萩原は表情一つ変えることなく、そこに静止して立っていた。まるで判決文を読む裁判長のように、口はもちろん、眼、鼻、耳、そして髪の毛の一本一本まであらゆる部分を全て寡黙にさせた。なぜこんなことをしているのか、それは彼自身にもよくは分からなかった。萩原はエレベータのパネルを見た。もうすぐ目的の階に着く。彼は深呼吸をして、目の前の扉が開くのを待った。

 五階。扉が開くと、すぐに萩原は早歩きを始め、患者のもとへと急いだ。目指すは五〇四号室。萩原の脳裏で理が非でも離れない彼の姿を、改めて見に行くのだ。

 スライド式のドアを開け、彼は中に入った。部屋の中は霧のように霞み、顕在化をしらない視界は目的の対象物を捜していた。彼は片手で左右の目を擦ると、気持ちを落ち着かせ、患者にゆっくりと近づいた。

「亮太君」萩原が柔らかな声で彼に呼びかけた。

 亮太はベッドに仰向けで寝そべり、漫画本を読んでいた。漫画の題名と表紙から、バスケットボールを舞台としたコミックであることが分かった。萩原はさらに亮太のベッドに近づくと、指で本のカバーを叩いた。

「あ、先生」本を下におろし亮太は呟いた。

 萩原は微笑を浮かべると、ベッドの隣にあるテレビ台に手を伸ばした。台の下の棚に置かれたホワイトボードを手に取り、付属のマーカーを使って文字を書く。亮太はそれを当惑したような目で見つめていた。

 萩原の右手が白盤の上で踊る。書き終えると彼はホワイトボードを亮太の方に見せた。

(具合の方はどう?)

「えー、またそれかよ。か、い、しん、ってやつ?」

 萩原は頷いた。普通は自分が回診を担当することはめったにないのだが、彼の場合は特異な例なので最初に診察をした萩原が彼の回診をすることになっている。

「別に大丈夫だよ。ほら、見ての通り」そう言って亮太は両手を広げ、青いパジャマ姿を彼にさらした。

 萩原は再び笑顔で頷き、これまたボードにマーカーを走らせた。

(薬はしっかり飲んでる?)

「当たり前だよ。小学生だからって馬鹿にすんなって。自分のことは自分でちゃんと出来るからさ、信じてるんだよ。俺は先生のこと。確かに左耳も聴こえなくなっちゃったのは予想外のことなのかもしれないけどさ。それでも俺、先生のこと、少しも恨んでないから」

 亮太は悪戯っぽく口角を上げた。

 萩原は心が熱くなるのを必死で隠しながら、代わりとなるような思いを走り書きした。

(ありがとつ)

「先生ったら」亮太は腹をかかえて笑いだした。「『う』の文字が『つ』になってるよ。先生っ、何慌ててんだよ」

「え、本当か。……あ、本当だ。ちゃんと点書いたつもりだったんだけどな」萩原は右手で頭をぽりぽりと掻いた。どうやら心の動揺が、文字にそのまま表れてしまったらしい。

「もしかして、さっきの俺の言葉に感動しちゃったんじゃない? まさかだけどね。大の大人がそんなことで狼狽するわけがないよねぇ」

 彼の言葉に萩原はやれやれとため息をついた。そしてまた、小学生なのになぜこんなにも人の心を読むのが上手いのだろうと思うのだった。「狼狽」なんていうのも、小学生が使うような言葉ではないだろう。

(元気なのは分かったから安心したよ。でも、耳鳴りとかそういう異常があったら遠慮せずに看護師さんを呼ぶんだよ)

「はいはい、知ってます知ってます。大丈夫だよ。俺、遠慮をするということにかけては人一倍疎いから」

(それを聴いて安心した。昨日の治療の結果は、お母さんが来たら報告するよ)

「うん、分かった。夢でも見ながら気長に待つよ」

(じゃあ、おやすみなさい)

「おやすみ、先生」亮太は萩原に向かって手を振り、まるで洞窟探検でもするように勢いよくシーツの中へと潜りこんだ。

 萩原は白いシーツだけになった亮太のベッドを見て、落ち着かないような気持ちに似た、不快な不安に襲われた。彼のことを考えると、いつも何か納得のいかないものに心をとられる。ホワイトボードを棚に戻し、ふとあることを思い出す。亮太の無邪気な振る舞いもあって話しているとついその深刻さを忘れてしまうが、実際、それは大変な事態なのだ。

 一週間前。あの日の出来事を思い出すと、今でも心を激しく掴まれたような心情になる。場所は診察室。彩りを無くした時計は四時を差していた。

「すいません。突然お呼び出しをしてしまいまして」

 壁に架けられた一秒が、彼らの緊張感を誘うように音をたてる。今日はやけに耳が敏感だなと萩原は焦りながら思った。

「亮太のことで…… 何かあったんでしょうか」亮太の母親が眼前に座る一人の耳鼻科医師に恐る恐る尋ねる。医師の方は何も告げていないのに、すでに顔は悲観の色になっていた。

 萩原は口の中で上下の歯をかみ合わせた。代わりの「誰か」がいるなら、今からでもいいから代わって欲しかった。しかし、目の前にいる母の思いを汲み取れば、自分だけ逃げ出すことなど言語道断のはずだった。彼はシャウカステンの方に目を移し、出来る限り感情の起伏を抑えながら言葉を述べた。

「今日の午後、亮太君が左耳の異常を訴えまして。どうやら起床時から左耳の聴覚がなくなっていたようです。念のためレントゲンを撮って確認をしたのですが、こちらでは異常は確認できませんでした」彼はレントゲン写真をシャウカステンに貼り付けた。

「もともと突発性難聴という病自体、異常を特定するのが難しい病ですので、これは仕方がないといえるのですが、本人は聴覚の障害を親告していますので、私としてもそのような処置をしたいのですが……」

「ちょっと待ってください」母親が萩原の話を中断した。「亮太はいま…… 完全に耳が聴こえない状態なんですか?」

「はい。こちらが話しかけても返答できないと、本人は言っています」

 母親は力の全てが抜けていったように、頭を垂れた。人が本当に頭を垂れた姿を、萩原はこの時初めて目にした。ただでさえ張りつめていた緊張に、衝撃の鉄槌が振り下ろされた。モノコードの糸はぷつりと切れ、二本の縮れた白線となり、彼の心に深く痕を残した。萩原は何と声をかけていいのか分からなかった。こんな場でも、自分は医師としての冷静さを保たなければならないのか。彼はその理念に激しく疑問を抱いた。それはもう「冷静」な心ではない。子を持つ親の声にならない嘆きを前にして、そんな気高い信念など通用しないと彼は思った。自分が貫き通そうとしているのは冷静な心ではない。「冷酷」な心だ。

「亮太君は自分の起こった事態を受け入れ、病と闘おうとしています」萩原はその葛藤を傍観的な立場で見ながら、言葉を述べた。「こちらとしては出来る限りのことをしていくしかありません。お母様が望むなら、薬の投与は続けることはできますが、残念ながら亮太君の聴覚が回復をする確率は低いといえます」

 秒針の音がさらに大きくなる。彼は話し終えると、母親の反応を待った。俯いている彼女に対して、彼は冷徹と哀切の入り混じった目を向けていた。

 部屋に沈黙が漂う。秒針の口も徐々に大きくなる。時間が過ぎ、沈黙の色も濃くなり、秒針もついに叫び声をあげそうになったとき、母親がようやく顔を上げた。萩原は息を殺して、その運命の「一秒」を待った。子を持つ親の重大な覚悟は、一瞬にして決定され、一瞬にして終わっていくように思えた。母親は唇を動かした。

「私が亮太の親である以上、亮太が決めた道を共に進む以外、方法はないと思っています。亮太が病と闘うなら、私も闘います」

 母親は瞬き一つせずに言葉を発した。彼女の強い語調が部屋の空気を伝わり、冷酷になっていた萩原の心に深く入っていった。

「分かりました」一文字一文字を噛みしめるように彼はゆっくりと答えた。

「亮太を…… よろしくお願いします……」

 母親は頭を下げた。どうしてかその姿に気概は感じられなかった。今の彼女を支えているのは、また別の何かのような気がした。萩原はその「何か」の正体を必死で考えてみた。しかし子供のいない若い医師には到底理解できるものではなかった。そこが、子を持つ親と自分との決定的な違いなのだろう。

 時計の針は五時を指していた。すでに秒針の音は微かに聞こえる程度まで小さくなっていた。

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