難聴の少年

 少年は目を開けた。


 何が起きたのか分からぬまま、じっと目の前の光を見つめる。目が光に慣れ、徐々に意識がはっきりしてくると、彼は自分が寝ていることに気が付いた。そうか、じゃあ今見ている景色は部屋の天井なんだ。彼はそう自分に言い聞かせ、そのまま起き上がった。頭ではまだ自分が夢を見ているものだと思い込んでいた。


 そして…… 純白。


 少年は瞬きを繰り返した。数秒間、意識はどこか別の世界へと飛んでいた。もう一人いる別の自分がそっと頭上から語りかけているようだった。

 しばらく時間が経過しても、彼は現状を信用できないでいた。彼はふとある事を思い出し――それも名案である――右手の人差し指と親指を使って右側の頬を抓った。これは自分の好きな漫画のキャラクターが、夢から覚めた後によくする行為だった。その漫画の主人公は現実の世界と異世界との間を行き来できるという特殊能力を持っていて、抓る行為はその人物が異世界から抜け出したとき、お約束のようにする行為だった。少年はそのシーンに出会うたび、間抜けな行為だな、と鼻であしらっていたのだが、まさか後々になって自分がすることになるとは思ってもみなかった。それくらい今いる彼の世界は非現実的で、それでいてまさに「異世界」だった。

 彼は純白の部屋の中にいた。部屋といっても出入り口があって、ボックスのように板と板で仕切られているような空間ではなく、無限に続く大きな広いホールのようだった。先ほど少年が見たように天井だけならしっかりと見ることが出来るが、部屋をしきる壁のようなものはひどく遠いところにあるらしく、目視することは出来ない状態だった。空間の隅から隅までが異様という言葉に呑まれていた。

 少年はそんな場所に一人、取り残されたように居た。まるでそれは何も描いていない真っ白なキャンバスに、黒い点を入れるようなものだった。今の状態を受け入れたくないという自分の固定観念と、目に映っているものを信じろという現実派の主張が彼の脳内で対決し、激しく混乱していた。

 先ほど抓った結果が、さらに混乱を生んでいた。彼はそれをなんとか飲み込んでから、まずはとりあえず、この純白な世界を歩いてみることにした。当惑した頭で考えを巡らすだけでは余計に自分を不安にさせるだけだと少年は考えたのだ。自らの勇気ある行動が、その現状を打破してくれる、彼はその確証のない希望にすがりついてみることにした。

 心を無にし、しばらく歩行を続けた。左足、右足、そして左足。天井だけが彼のそばにいてくれる唯一の物体であると信じながら、彼は進み続けた。

 白、白、そして白。助けを求めるように天井を見上げる。しかし「彼」の姿もやはり白だった。

 希望が徐々に薄くなっていった。無慈悲な沈黙が延々と続くように思えた。


 そして彼は深い場所へと、さらに深い場所へと、移動していった。


     *


 看護師の呼び声が一人の医師の耳元に響いた。しかし彼は返事をすることなく、自らのデスクに向かい続けていた。呼ばれたのは彼ではない。その向こうにいる患者であった。

「萩原先生」しゃがれた声と共に、一人の老人が診察室に入ってきた。

 萩原と呼ばれた男は椅子を回し、それに答えた。「田中さんじゃないですか。今日はどうしたんですか」

「また耳がキーンと鳴ったんだよ」老人は自分の左耳を指さした。

「本当ですか」

「ホントのほんとよ。こんなところで嘘ついたってしょうがねぇだろ」

「原因を調べてみますか? 何か別の異常が分かるかもしれませんよ」萩原がそういうと、老人はすぐに手を左右に振った。「いいよ。どうせ人間、いつか死んでくものだしな。この前の薬だけもらえりゃそれでいいよ」

「いいんですか」

「いいよいいよ。今貰ってる薬だって所詮気休めで呑んでるようなものだしな」

 老人は高らかに笑うと、今度は症状とは全く関係のない話を始めた。萩原は微笑を浮かべながら、それとなく耳を傾けた。別に何のことはない。彼らのような人たちにとって、ここは憩いの場なのだ。彼らは単調に繰り返される毎日から脱却し、頭の片隅に常に存在する孤独感から抜け出すため、ここに来ているに過ぎないのだ。自分の生活にも、今後の人生にも何の支障もないこの時間を彼らは楽しんでいるに過ぎないのだ。

 萩原はこの老人たちの行為を渋々だが受け入れることにしていた。渋々、ということは完全な肯定ではない。それでも渋々、なのは国内の病院全体が経営不振であることが大きな問題として挙げられていたからだった。年に数回しか病院に行かない若者と比べて、高齢者たちは月に数回と定期的に病院に来てくれる。そういった高齢者のおかげで経営が成り立っている病院も多数存在するのだ。彼はこの現実を飲み込むしかなかった。もちろん心の奥底では「憩いの場」として病院を使う老人に対して批判的な感情があった。大学時代の萩原がまさにそれである。彼らは真に医師たちの治療を求めて病院に来ているのではなかったし、本当に施術を必要としている患者たちのケアが遅れてしまう可能性があった。加えて医療費には当然、国民の税金が使われている。以上の理由で、彼は高齢者が気軽な気持ちで病院に来ることについて否定的だった。

 また来るよ、と言って老人は萩原に背中を向けた。老人はこれから薬局に向かう。昔はいちいち歩かなくても貰えたのにな。と、彼は愚痴をこぼしていた。結局彼は薬を貰っても、またここに来るのだろう。彼のような高齢者はこの病院にも多い。個人的な感情を押し殺し、萩原は次の患者を待った。

 しかしその患者が来る前に、デスク上の電話が鳴った。萩原は驚くことなく、すぐさま受話器を手に取った。

 もしもし、という前に看護師の声が彼の耳を劈いた。何やら早口で金切り声を立てている。

 このまくし立てから察するに、この看護師は新人だろうと萩原は思った。緊急事態で焦っているのは分かるが、こちらまでしっかりと伝えられなければ意味がない。

「何号室の患者だ?」看護師の言葉を遮るように彼は言った。

「ご、五○四号室の内海亮太君です」

 その患者の名前には聞き覚えがあった。

「亮太…… ああ、あの子か。どうした? 何があった?」

「左の耳が……聴こえなくなったそうです。起床したときに気が付いたらしいのですが、本人はいたって冷静です」

 彼は机の上の問診票を見た。まだ患者は数人いる。

「すまんが今はいけない。田中先生が今空いていると思うから、そっちに訊いてみてくれないか」

「あ、はい、分かりました」返事をして、彼女は電話を切った。

 萩原は受話器を置くと、両手を後頭部の方に当てた。脳の隅で生まれた疑念が激しく自分を責めたてていた。彼はやりきれない思いになって下唇を噛んだ。

 確か難聴になっていたのは右耳の方だったはずだ。左の耳も聴こえなくなったら彼は完全に聴力を失ってしまったということになる。薬は投与しているはずなのに、なぜこんなことが起きるのだ……。

 困惑と疑問の渦が頭の中を駆け巡った。それと同時に緊張も生まれた。医師としてではなく、一人の人間として何とかしなければならないという気持ちが強くなっていた。

 萩原は唾を飲み込んだ。

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