純白の世界

 少年は壁を目指していた。あれから半日ほど歩き続けているが、この世界に変化はない。地面が割れることも、物体が現れることも、自分が何か不思議な能力を手にすることも……。漫画のような出来事が起こることを何度も期待したのだが、一向にそんな兆しはなかった。

「ちぇ、つまんないの」彼は右足で地面を蹴り、一人で愚痴をこぼした。誰かがもしどこかにいるのなら、その人に向かって言ったつもりだった。しかし返事は返ってこない。結局、さっきの言葉は「ひとりごと」になってしまった。彼は落胆すると、歩くのを止め、その場に蹲った。腹の虫が鈍い音を立てる。いっそのこと眠ってしまおうかとも思ったが、お腹が空きすぎて、寝る気にもなれなかった。

 仰向けになり、無気力になった身体で、食べ物を求めた。瞼と口だけを開け、途方に暮れたように向こうの白い景色を見た。彼は口を閉じた。ぼんやりとした絶望感が彼の身体をいたずらに包みこんでいった。もう心の中に恐怖はなくなっていた。あるのは絶望だけ。糸が切れた人形のように虚しくも崩れ落ちるだけ。

 そのまま何も考えずに時間は流れた。五分の時が一時間のように感じられた。一秒経つごとに自分の腹が少しずつ擦り減っていくように感じられた。それは彼の頭上を掠める、僅かな希望も同じだった。

 自分は死ぬのだろうか。少年はふとそんなことを思った。「ふと」思ったので、彼はそう思った自分自身に驚いてしまった。どうして急にそんなことを考えてしまったのだろう。お腹が減ったからか、それとも人間として持つべき感情を失ってしまったからか。いずれにせよ「死」という言葉は彼にとって新鮮なキーワードだった。人は死んだらどこへ行くのだろう。幽霊は本当にいるのだろうか。最期の言葉は何て言おうか。「死」についての疑問は考えればきりがない。宇宙の果てや、地球の中心と同じで、誰も答えを知らない場所は、想像するだけで胸が好奇心で一杯になる。友達に話すと、必ず馬鹿にされてしまうが、想像を止める理由までにはならない。彼は生まれ変わりを信じていた。善い行いをすれば天国に行き、悪い事をたくさんすれば地獄に行くと思っていた。

 天国と地獄という言葉で、彼は一つ思い出したことがあった。それは小学校四年生の頃。同じクラスの子と口喧嘩をしたことだった。その子は一週間前に祖母を亡くし、哀しみに暮れていたのだった。

 少年は目を閉じた。そしてそのときの記憶を明確に思い出そうとした。目を開けていても何も面白いことはやってこない。辛い現実を見るだけだ。彼はしばらくそのまま、目を閉じていようと思った。同時に眠りが襲ってくれば尚良かったのだが、眠気はどこかへと出かけてしまったらしく、眠ることは出来なかった。



 一、二、三……。四、五、六……。

 運動場から聞こえてくる生徒たちの声に耳を澄まし、少年は廊下側の席で授業を受けていた。科目は算数。この日は、分度器を使って目的の角度を作図するという問題をやっていた。授業は楽しくもあり、退屈とも言えた。周りの子たちは、初めて分度器が使えるというので、気分が高揚していたのだが、彼自身は全くそんな気持ちになれなかった。分度器やコンパスなど、こういった小学生が興味を持ちそうな道具をあえて使わせることによって、授業に関心を抱かせようとする大人たちの魂胆など、とうにお見通しだったのだ。2Bの鉛筆を軽く投げ、彼は前の壁に掛けてある時計に目を移した。授業終了まで残り二十分。まだ授業は終わらない。彼はノートに落書きでもしながら、この時間が早く過ぎ去ってくれるのを期待した。

 穏やかな薫風が教室の窓から入り込み、教室全体を爽涼にした。少年の汗ばんだ身体もその環境に甘えるように、体温を徐々に下げていく。この風が常に吹いていてくれたらいいのに、とその時少年は思った。しかし彼が願ったところで、再び風が吹いてくれるとは限らない。そういうようにして、人は人生の厳しさを知っていくのだろう。少年はそう思い、ゆっくりと歎声をもらした。

 授業はまだまだ続きそうだった。


 規則正しく並べられた音階が独特の音色を生み出す。何回も聴いているはずなのにどうしてこうも飽きることがないのだろう。

 チャイムが鳴り、皆が席を立った。少年も離席をすると、ひとまずクラスを見渡した。暇そうにしている人間がいれば、その人と会話でもして時間を潰そうと思ったのだ。別に一人でもいいのだが、他の子から孤独な奴だと思われることだけはどうしても避けたかった。

 目的の子はすぐに見つかった。その子は窓側の席の一番後ろに座っており、両肘を机に付けて倦怠感を露わにしていた。髪は短髪で、目は不気味な程に細い。名前は確か卓也と言ったような……。誰かが彼のことを「たっくん」と呼んでいた気がするので、間違いはないだろう。

 これまで話したことのない相手だが、きっとうまくいくはずだ。

「何してんの?」少年は卓也に近づくと声をかけた。

 卓也は目線だけを彼に向け、警戒するような眼差しで彼を見た。

「別に…… 何もしてねえよ。ただ、考えごとしてただけ」

「へえ。どんなこと考えてたの?」

 彼がそう質問すると、卓也の表情が一瞬曇った。

「ちょっと、悲しいことがあってさ。一緒に住んでた婆ちゃんが一週間前に死んじゃったんだ。いつも遊んでもらってたから、よけいにつらくって……。時々思い出しちゃうんだ。お婆ちゃんとの楽しかった思い出を」

 少年は相槌を打った。「最近一回休んだよね。あれはお通夜があったから?」

 卓也は頷いた。「あの日初めて、人が死んでるのを見たんだ。棺に入っているのがお婆ちゃんだったからかもしれないけど、怖さはなかった。でも、体中が震えるように強張って、 ……なんかよく分かんなくなって……」

 卓也はそう言うと、通夜のことを思い出してしまったのか、下を向き俯いてしまった。焦燥感の肌をつたう汗が、少年の首筋に流れた。卓也とは初めて会話するというのに、彼をこんな気分にさせてしまった。少年はこの不穏な空気を何とか打開したかった。

「てんご、く……」彼は低語で言った。

「えっ、何」卓也は顔を上げた。

「天国、なら……」口をついて飛び出す、脳裏に書かれた言葉。ここまで来たらもう後には引けない。少年は自分の止まらない声の激流に身を任せることにした。

「天国に行ったら、お婆ちゃんも生き返るよ。だから大丈夫。悲しむことなんてないと思うよ」

 彼の言葉に卓也は怪訝な顔をした。

 少年は説得するように言葉を続けた。

「人は死んだら天国に行くんだよ。雲の上の、さらに上の神様の国。もちろん悪いことをしたら地獄に行くけど、大抵の人はみんな天国に行ける。死んで魂だけになった人たちはそこで生まれ変わりの準備をするんだ。卓也のお婆ちゃんも今頃は雲の上で身支度を整えているはずだよ」少年は不遜な振る舞いをするかのように言葉を発し続けた。

「何、俺を馬鹿にしてんの?」

「してないよ。本当のことを言ってるだけ。小さい時にお母さんとかから言われなかったの?悪いことばかりしていると、死んだときに地獄に落ちるって。成仏出来ずにこの世界を永遠に彷徨うって」

 卓也の小さな目が徐々に細長くなっていった。少年はその微かな変化に気付かず続けた。

「何度もいうように悲しむことはないよ。卓也のお婆ちゃんも俺のご先祖様も、いつかは転生してまたどこかで生きているんだ。男の人になっているかもしれない。女の人になっているかもしれない。または人間じゃなくて別の生き物になっているのかもしれない。どちらにせよ、お婆ちゃんの命は永遠に受け継がれていくんだ。肉体と記憶がただ違うだけで。確かに別れは辛いことかもしれない。でも、いつまでも引きずっているわけにもいかないだろ? 卓也のお婆ちゃんだってそれを望んでいるだろうし、今頃は俺らの知らないどこかで幸せな毎日を送っているかもしれないし、だから――」

「うるせえっ」突然、卓也が椅子から立ち上がった。彼に怒号を吐きながら、卓也は自分の椅子を蹴とばした。金属が教室の壁に当たり、鈍い音を上げる。周りで談笑をしていた児童たちはその不快な高音に誘われるように二人の方を向いた。辺りを沈黙が包む。少年は現在起こっている事態をすぐには飲み込めないでいた。急な災害に見舞われたかのように、現実と夢との違いが分からなくなっていた。

「どういう意味だ」卓也が鋭い目つきで彼を見た。

「どういう意味って……」

「お前今、俺の婆ちゃんがどこかで生きてるって言ったよな」

「言ったよ。人は死んだら天国に行くって。そこからまた生まれ変わるって」

「じゃあ」卓也は人差し指を立てた。「ここに連れてきてくれよ」

「えっ」

「だから、ここに婆ちゃんを連れてきてくれって、言ってんだよ」

 少年は首を横に振った。

「無理だよ。卓也のお婆ちゃんはもう別の姿になっているんだから」

「ということは」卓也は立てた指を降ろした。「お前は俺の心を弄んだってことでいいんだな」

「別に、そんなつもりで言ったわけじゃ――」

「何なんだよ、お前。俺の気持ちもわからないくせに、よくもそんなことが言えるな。婆ちゃんがいなくなって、兄ちゃんも妹も暗い顔をしてるってのに……。お前は俺みたいに大切な人を亡くしたことがないから、そんなことが平気で言えるんだろ」

 少年は瞳を下げ、黙ったままだった。

 卓也の罵声は続く。「もしかして、最初から俺を虚仮にするつもりだったんじゃないか? 人の気持ちをわが物顔で操って楽しいか? 本当に、陰険な奴だ」

 卓也は唾をはくように言葉を出しきると、乱暴に着席した。卓也の目が少年から離れても、少年は俯くことしか出来なかった。どうしてこんなことになってしまったのか、どうして彼の気を悪くさせてしまったのか、自分でも納得のいく答えが見つからなかった。自分はただ、彼を元気にさせようとしただけ。彼を哀愁の巣から引っ張り出そうとしただけなのだ。

 しかし、彼はそれを拒んだ。それどころか、急に敵意をむき出し獣のように憤激し始めた。これは一体どういうことだろう。

 少年は決して悪気があった訳ではなかった。卓也に悪人のように言われ、気が動転していた。自分を信じられなくなり、世界が逆さまになるような気分に襲われた。

 窓の外から薫風が再びやってきて、少年の肌を撫ぜた。しかし彼は、先ほどのように風が運んでくる爽快さに甘えることが出来なかった。甘える余裕すらも持ち合わせてはいなかったのだ。

 少年は辺りを見渡した。無表情な部屋の中には残酷な沈黙だけが残っていた。自分に注がれる大小様々な目、眼。それら全てが非難の渦中にあるように少年は思えた。

 教室が教室でなくなり、自分が自分でなくなっていく。少年は少年でなくなり、信頼していた何もかもが、形を変えて少年の前から消えてなくなってしまう。

 誰かが少年の耳元であることを囁いた。少年はそれを聴いて全身が波打つような衝撃に襲われた。その「誰か」が放った一言は少年の心を支えていたあらゆる柱を崩壊させ、かつ裸になった心に黒々とした花の種を植え付けていくようなものだった。自我が抜けていった。魂が溶けていった。

 そう、全てはここから。少年は孤独の匂いに誘われてどこかへ遠いところへ行ってしまった。家族が彼の名を呼んでも、捜索願を提出しても、彼の姿が発見されることはなかった。

 少年はもう帰ってはこなかった。

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