白線

半田龍之介

プロローグ 着水

 医師は聴診器を取ると、小さく息をついた。

 白い部屋の中は、分厚い空気で満たされていた。短時間しかそこにいないと分かっているので何とか耐えられているが、そうでなかったら今頃限界を迎えてしまっていただろう。それはここにいる医師を含め全員が同じ気持ちだったに違いない。

 目の前にいる十二歳の少年。そしてそれを見守る両親の姿。彼らの穏やかな表情には一片の苦しさも纏ってはいない。彼らはいま何を考えているのだろう。自分は彼らにどんな言葉をかけてあげるべきだろう。

 いや、そんな良心は必要ないのだ。医師はそう思い、張りつめる神経を緩ませた。自分がこれからするべきことに感情的になってはいけない。医者という人間はそういうものなのだ。研修時代だって先輩からそう教わったじゃないか。彼は自分に強く言い聞かせた。しかし、心の中はそんな言葉にすら激しく怯えているように思えた。自分の心を押さえつけるのがこんなにも難しいことなのかと彼は思った。不思議なことに、先ほどまで窓から吹いていた風がぴたりと止んでいた。それが何を意味しているのか、彼にはどうしてか知ることができた。


 少年がここにやってきたのは二週間前のことだった。症状は吐き気とめまいが止まらないということだった。両親に連れられ彼は病院にやってきた。最初彼らは近所の診療所に行ったが、原因が多方面にあるので、ここの病院を紹介されたらしい。家から三十分でここに来たと少年の父親は言った。たった三十分、と思うかもしれないが、我が子の危険を横目にしていれば数分の時間でさえ長く思えてしまうのは当然のことだろう。この街で総合病院は一つしかないことを彼らは憎々しく思ったに違いない。

 彼らは病院に着くと、ひとまず内科に向かった。診療所で原因を特定できなかったため、苦肉の策として内科を選んだのだろう。結果として彼らの判断は間違っていなかった。吐き気の主な原因はストレスによるものが多く、内科の医師は大抵心療内科も同時に受け持っているため、面倒な移動をせずに診断できるというのが理由の一つだからだ。しかし、彼らは結局、別の診療科に移動することとなった。その診療科を目指し彼らは一階にある内科からエレベータを使った。降りた先は二階。エレベータ乗り場から角を左に曲がったところにある耳鼻科だった。


 病状は深刻ともとれるし、そうとも言えないくらいだった。しかし我が子が窮地に立たされ、一秒後の運命も分からない今の彼らにとっては、ここでどんなことを言ったにせよそれは「深刻な病」と受け取られるのだった。だったら…… 医師は覚悟を決め、演技の下手な俳優のように淡々とした調子で言った。そこに感情の起伏は微塵も感じられなかった。

「右耳に突発性難聴の疑いがあります」少年が受けた聴力検査の結果を見ながら、耳鼻科の医師は穏やかな口調でそう言った。

 両親は黙ったままだった。言葉は届いているはずだが、表情や姿勢には変化が見られなかった。

 彼はレントゲン写真をシャウカステンに貼り付けた。少年の耳の中を示した図だった。

「耳の中は中耳と内耳という部分に分かれています。奥の方が内耳で、浅い部分が中耳です。突発性難聴はその内耳の中の蝸牛――このカタツムリのようになっているところです――ここに何らかの原因が発生し突然難聴が起こる病気です。内耳の障害がさらに進みますとめまいも伴ってくるようになります。難聴の原因についてはウイルス感染説などが挙げられていますが、正確な原因は分かっていません」

 若い医師はそこで話を止めた。深呼吸でもして今の息苦しい心情から脱出したい気持ちに駆られたが、二人の顔を見てそんなことなどする気も起こらなくなった。彼らが発する無言の訴え――嘆願の声――を聴いてしまったからだった。

 彼らの表情はまるで本物の地獄を見てきたような顔をしていた。皮膚の肉はずいぶんと落ち、一気に年をとってしまったように見えた。老いた顔には生気の色は感じられない。彼は心の中で驚き、仰け反った。息子を惟う親の心情が痛いほど、そして恐ろしいほど、彼の安易な心をえぐった。若い医師がその圧力に戸惑っていると、三人の中でようやく沈黙を破る者が現れた。口を開いたのは、少年の母親だった。

「その突発性難聴というものは……治らないものなんでしょうか」

 医師は彼らに気付かれない程度に唾を飲みこんだ。

「幸い、亮太君は発症から二日でこちらに来られたので、すぐに治療すれば回復の見込みはあります。しかしめまいを伴っていることから、完治の確率は決して高くはないかとも思われます。治療には副腎皮質ステロイドの投与が必要であり、これによって耳の中のウイルスを撃退することが出来ます。前にも言いましたように突発性難聴は発症原因が分からず、不明な点が多いため確実な方法ではありませんが、現在ではステロイド投与が最も有効な治療法と言えます」

 亮太の両親は頷きもせず、黙って彼の話を聴いていた。若い医師は続けた。

「突発性難聴にかかった患者の場合、こちらとしては入院を求めています。入院の期間は三週間ほど。患者さんの中にはお仕事の方を優先し、入院をされない方もいらっしゃいますが……」

 医師はここで言葉を止めた。両親の目を見て、反応を待つ。二人は彼が話を終えても数秒の間は呆然とした様子だった。仕方がないと彼は思った。急に息子の耳が聞こえなくなり、完治するかどうかも分からない状態で、確と話を聴けるわけがない。灯りのない隧道の中に突然放り込まれるようなそんな感覚。それは自分がこれまで積み上げてきた短い生涯の中では経験したことがないものだ。彼らを光の当たる出口へと導けるのは自分しかいない。でも、子供のいない自分にそんな役目が果たして務まるのだろうか。

 医師の首から汗がにじみ出た。決して重い病ではないはずなのに、余分な緊張感のせいで強い自信が持てない。

 母親と父親は互いに目を合わせ、小声で会話を始めた。どうして「小声」なのか医師には想像がついていた。自分はまだ彼らに信用されていない、そう彼は受け取った。

 数分後。相談を終え、父親が沈黙を破った。

「本人の意思に従います。学校を休むのも、治療するのも、全て彼自身のことなので」

「そうですか」

 医師は頷いた。妥当な判断だとは思ったが、正直本人に訊かなくても答えは分かりきっているとも思った。自分の耳が聴こえなくなるかもしれないというときに、構わず学校に行く人間などいるはずがない。

 医師は看護師を呼び、患者をここに連れてくるように頼んだ。看護師はすぐに診察室を出て、彼の指示通り、亮太と名のつく少年を捜した。少年はすぐに見つかった。彼は待合室に置かれたブラウン色のベンチソファーに座り、二本の脚を上下に動かしていた。退屈そうにしているのは誰が見ても察せられる。少年の背後には本棚が設置されているが、ファッション雑誌ばかりで小学生が読むようなものはない。退屈なのはそのせいだと看護師は思った。

「亮太君」

 彼女の軽快な呼びかけに、少年は不意を突かれたように振り返った。同時にリズムを刻んでいた両足も動きを止めた。

「先生が呼んでいますから、どうぞ。こちらに」

 彼女はそう言い、右の手のひらで奥の診察室を指した。彼はすぐに立ちあがりそれに従った。

 大人しくついてくる少年の姿を見て、看護師は不思議に思った。右耳が聴こえないというのに、彼は少しも不安そうにしていないのだ。もちろん表情に出さないだけで心の中は困惑と恐怖で一杯になっているのかもしれないが、それでも普通は泣いていたっておかしくはないはずだろう。

「亮太君を連れてきました」

 彼女がそういうと、亮太は診察室で待っている三人に向けて顔をのぞかせた。咄嗟に彼の母親が悲観的な声で彼の名を呼んだ。

 看護師が後ろに下がろうとすると、途中で医師に声をかけられた。

「なんですか、先生」

 彼は周りに聞こえないようにそっと耳打ちした。

「彼は君の後ろをついてきたのか」

 えっ、と彼女は戸惑いの表情を見せた。質問の意味が解らなかった。

「だから、君が彼の手を持ってこっちまで連れてきたのか、それとも彼が誰の手も借りずにまっすぐついてきたのか、ということだ」

 さっきよりも強い口調だったが、彼女はまだよく分からなかった。仕方がない。彼女はもう一度訊こうとして――それを止めた。忘れていたある事を思い出したのだ。

「めまいのことですか?」

「そうだ、それを訊いているんだ。まさか、忘れていたのか」

「す、すみません」彼女は小声で謝った。

「いいよ、今度から気を付けてくれれば。……ということは、彼はめまいがあったにも関わらずちゃんとここまで来れたということだね。分かった」

 看護師は会釈をして後ろに移動した。

 医師は彼のめまいについて少し考えてみたが、両親がこちらに顔を向けたので考えを止めざるをえなくなった。頭の中にある思考の水族館に、曖昧の二文字が泳いだ。

 亮太の父親は彼の頭を撫でながら、強い信念のこもった眼差しで医師を見た。

「亮太は病気を治したいと、言ってます」

 医師は頷いた。「分かりました。でしたらそのように手続きしましょう」

 医師は椅子を回し、デスクに向かった。そして今一度思い直し改めて少年の姿を見た。やはりそうだ。この亮太という少年。彼を見ていると、どうしてか、何か引っかかるものが出てくるのだ。これまで自分は突発性難聴になった小学生を診たことがないため、そこからくる緊張感のせいだとも思ったが、やはり一概にそうとは言い切れない。それじゃあ一体何なのだろうか。

 この感情は彼が少年と初めて会ったときから沸々と湧き上がってきたものだった。深さと浅さの中間でずっとその感情の真相について考えていたのだが、先ほどの看護師との会話でそれがさらに深くなってしまった。医師としてなるべく不安要素は残したくないから、この悩ましい気持ちも出来れば杞憂であることを願っている。しかし、どうしても憂惧してしまう。

 夏の始め現れた不思議な少年、亮太。彼の奇妙な病状に医師が気付くのは、ずっと後になってからだった。

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