第1話
「え、と」
目を合わせられ、僕は口ごもってしまった。
元々気まぐれに出てきただけで、彼女に用があるはずもない。
改めて見ると、彼女は奇妙な格好だった。
身にまとっているのは薄い黄緑色の着物。テレビでしか見たことないような和傘をかけ、長い髪は綺麗に結わえられ、草履のようなものを履いている。
白い肌は艶かしく、歳を感じさせないほど滑らかだった。
見たところ荷物のようなものは持っていない。
じっと眺めていると、彼女は小さく笑った。
「冗談よ、気にしないで」
「は、はぁ」
気の無い返事をすると、彼女は身体を向けて尋ねてきた。
「貴方、雨は好き?」
「え? は、はい。好きです」
質問の意図が分からず、僕はただ相槌を打った。
「そう。わたしも好きよ。特に夜、こんな時間の雨はね」
そう言うと彼女は空を見上げた。
つられて僕も空を見上げるが、当然何も見えない。真っ暗で月すら見えない。
見えるものといえば、降りしきる雨くらいのものだった。
いや、彼女はそれを見ていたのかもしれない。
真っ暗な闇の中から落ちてくる、雨のことを。
「さて、と。そろそろ行こうかしら」
「え、あ……」
「またね」
彼女は一方的にそう告げ、背を向ける。
「あの!」
無意識のうちに僕は声をかけていた。
自分でもどうして声をかけたのか分からない。
ただ、このまま別れるのが惜しいと感じていた。
彼女が立ち止まる。
「何か、用かしら?」
彼女は立ち止まって振り返ると、最初にかけたとき同じ言葉をかける。
なにか、なにか。
彼女を引き止めるに値する言葉は。
「あなたのお名前は?」
とっさに言ったのはその一言。
お互いの間に沈黙が漂う。
失敗した。
僕がそう思っていると、彼女の口が開かれた。
「たつみよ。それじゃあね」
そう言うとたつみさんは向き直り、今度こそ去っていった。
「たつみ、さん……」
彼女の名前を反芻し、僕は家へと帰った。
雨はいつのまにか止んでいた。
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