そしてその店には二度と辿りつけなかった

古池ねじ

第1話

 こつこつ、とヒールとアスファルトがぶつかり合う。足の指と踵が鈍く痛い。ふくらはぎもむくんでいる。早く帰らなきゃ。

 作り置きのおかずと冷凍のごはんで夕飯を済ませたら、すぐに寝よう。でも昼に届いた姉からメッセージにも返信しなくちゃ。土日のどちらかで姉と姪に会いに行ってもいいかもしれない。電車の中で考えよう。

 こつこつ、と自分の足音を聞きながら、来週の仕事の予定を頭の中で組み立てる。他の人の予定を確認しないことにはなんとも言えないけれど、どううまくいってもしばらくは残業が続きそうだ。仕方がない。なんとかするしかないし、なんとかしてみせる。火照った顔に冬の初めの風が冷たい。

 打ち合わせはそれなりにうまくいった。これまでにも何回か仕事をした会社だ。値段や納期に理不尽なことは言ってこないけれど、細かいところまでしっかりと見られるし、指摘も厳しい。なので、なんとなく身なりにも気を遣う。まだ三回ぐらいしか履いていない高めのヒールときっちりとした化粧は、自分を普段以上に有能に感じさせてくれる。大股で早足に、歩きなれない暗い道を歩く。今日の客先には乗り換えを減らすために最寄りとは違う駅を使うのだけれど、このヒールは間違ったかもしれない。引き返すわけにもいかないので、痛みをこらえてさっさと歩く。我慢できないほどではない。

 あ。

 急ぐ気持ちに足がついていかなかったのか、躓いた。だん、と強く地面を踏んで持ちこたえる。そのとき、すっ、と、体から何かが滑り落ちていった感触があった。つめたい風がぶつかってくる。コートの中に冷気が忍び込んで、汗ばんだ皮膚に纏いつく。

 寒い。

 急に、自分が、小さくなってしまったように感じる。冬の、見慣れない夜の街が、ひどくよそよそしい。すべての建物が、私に背を向けているように感じる。早く家に帰りたい。でも、歩き続けることが難しい。足が痛い。

 かじかむ指でコートの前を掻き合わせる。それでも寒い。ひどく疲れていることに、初めて気づく。惰性で動き続けていただけだ。一度立ち止まってしまえば、新しく歩き出す力が、今の私の中にはない。それでも歩き出さないことには、家に帰ることさえできない。唇が震えて、歯がかちかち鳴った。

 痛い足で重い体を支えて、どうにか立っている。倒れる場所もないから、立っているしかない。顔をあげると、お店があった。人通りのない狭い道。閉店してずいぶん経っていそうな商店の間に、木造の、小さなお店。行燈があたたかみのある光を灯している。「商い中」の赤い札。

 落下するように、ふらふらとお店に引き寄せられ、木の引き戸を開けた。暖かい空気とささやかなざわめき。どうやら、居酒屋のようだった。狭いお店だ。カウンターが五席と、テーブルが三つ。席はほとんど埋まっていた。どの人たちもみな、ほかの席に聞きとれない程度の声で、穏やかに楽しんでいた。

「いらっしゃいませ」

 静かな声。横を向くと、ひょろ長い体に紺色の甚平を身に着けた男の人が立っていた。高い位置で、白いつるりとした顔が微笑んでいる。いつの間にこんなに近くにいたのだろう。

「こちらにどうぞ」

 口を開く前に、二人掛けのテーブルに通される。荷物置きの籠にコートと鞄を入れて座ると、全身から力が抜けた。きつい靴から足を抜く。醤油や出汁、揚げ油の匂いに、急におなかが空いてくる。

 たまには外食もいいか、と自分に言い聞かせる。それなりの給料をもらっているけれど、自分の楽しみのためにお金を使うのは、昔から苦手だ。今日だけなら、いいだろう。仕方がない。

 メニューは、とテーブルを見てもない。壁に貼ってあるか黒板に書いてあるのかな、と顔をあげると、さっきの店員がそこに立っていた。

「どうぞ」

 徳利とお猪口を二つ、小鉢を置かれる。え、と思っているうちに、微笑んで行ってしまった。確認したほうが、とは思うのだけれど、なんだかもういいかと思ってしまって、手を合わせていただきますをした。

 テーブルの隅に、取り皿が何枚かと、お箸が置いてあった。お箸を取る。小鉢は蓮根のきんぴらだった。薄く切った蓮根に、胡麻と唐辛子。蓮根は昔から好きだけれど、自分ではあまり買わないからうれしかった。一切れ摘まんで口に入れる。砂糖と醤油の濃い目の味付けと、唐辛子のちいさな刺激、胡麻の風味。噛むとさくさくと砕けていく。さくさく、と前歯で齧っていると、無心になる。さくさく。さくさく。あんた本当に蓮根が好きね、と母が笑う声が聞こえた気がする。さくさく。

 あれ。

 ふ、と、箸が止まる。小鉢の中を見る。薄く切った蓮根。お店でよく見るものよりも、かすかに黒っぽい色合い。多めの胡麻と控えめの唐辛子。それから、味。

 まさかね、と徳利からお酒を注いで飲む。そしてまた、別の理由で驚く。びっくりするぐらいおいしいお酒だった。口の中にふんわりと香りが広がって、喉を通るとすっと消える。ついもう一口、と飲み続けたくなる。日本酒は嫌いではないけれど、こんなにおいしいものがあるなんて知らなかった。別のテーブルのやつだったんじゃ、やっぱり確認をした方がよかったかな、と思うけれど、疲れた体にじわじわと酔いが染み込んで、ぼうっとしてしまう。お猪口とお箸を口に運ぶ以外、何もしたくない。できない。それできんぴらを食べて、お酒を飲んだ。色々と、考えたいこと、考えなくてはいけないことが、あったような気がする。でも、もう今はどうでもよかった。ただ、美味しさと心地よさに浸っていたかった。

「どうぞ」

 声とともに、ぬっと白い腕が伸びて、テーブルに料理が置かれた。いつの間に、と思う間に、去っていく。料理はぶり大根だった。また茶色い料理だ、と思う。母の言葉を思い出す。

「あんたの好きなものばっかりにすると、テーブルが茶色くなる」

 記憶と声が重なって、顔を上げた。母が、真正面に座っていた。化粧気のない顔に、束ねただけの白髪まじりの髪。私の母の印象よりも老けた、疲れた顔をしている、と思う。大人になってから母に会うたびにそう思っていた。私の中の母の印象は、小学生に入ったばかりのころ、まだ父が事故を起こして亡くなる前で止まっているのかもしれない。

「久しぶり」

 母は徳利を取ってお猪口に注いだ。一口飲んで、

「ああおいしい」

 と唸るような声で言う。その声があまりにも母で、私の記憶にあるの以上に母そのもので、私はただ茫然とする。

「ぼうっとしてないで食べなさい。おなかすいてるでしょう」

 茫然としたまま頷いて、大根を切って湯気ごと口に入れる。お店で食べるものよりもくたくたになるまで煮込んである、甘くて熱い大根。その熱さまでが、知っているものだった。母のぶり大根。

「……おいしい」

「そう」

 母が笑う。私のお猪口にお酒を注いでくれる。

「たくさん食べなさいね」

 その言葉につられるように、店員がやってきた。

「どうぞ」

 と、またお皿を置いていく。唐揚げだった。また茶色いもの。レモンはついていない。

「ほら」

 母が取り皿を渡してくれた。口に入れる。火傷しそうに熱い揚げたての唐揚げを、難儀して噛む。薄めの衣に生姜醤油の味。お店みたいに肉汁がたっぷりだったり衣がさくさくしたりはしていない、どうということのない美味しさ。でもほかにない美味しさだ。母は揚げ物をめったにしなかったから、一度揚げると大量で、いつもお腹いっぱいに詰め込んでいた。買っても同じでしょ、と母と姉は言ったけれど、私にとっては全然違った。全然違う味がする。何が違うのかもよくわからないけど、でも錯覚じゃない。本当にそうなのだ。母の唐揚げが、一番おいしい。

「おいしい?」

「おいしい」

「そ。たくさん食べなさい」

 母は取り皿にもう一つ唐揚げを取って、自分はお酒を飲んだ。

「最近はどうなの。ちゃんとやってる?」

 やってるよ、と言いかけて、言い淀んだ。別に、ちゃんと、やっているはずだった。仕事も、家のことも、どっちも恥ずかしくない程度にはやっている。何も問題はない。

「仕事はどう?」

 答えない私に、別の質問を投げて、話しやすくしてくれる。そういう些細な、気遣いとも呼べないような気遣いをされていたのだと、気づいたのはそんなに昔のことじゃない。

「忙しいけど、特に問題はないよ」

「いつもこのぐらいなの?」

 今日、客先を出たのは八時だった。

「最近はね。暇なときはもっと暇だよ。最近は残業するにもうるさいし」

「何年目だっけ」

「六年目」

「もうそんなになるの」

「そんなってほどかな」

「そんな、でしょ。六年も。大変でしょ」

 大変でしょ。

 何気ない母の声に、胸が詰まった。うまく声にできる気がしなくて、お酒を飲んだ。ちまちまとおかずをつまむ。大変だとわざわざ言うほど、大変でもない。もっと大変な人もいるし、恵まれているほうだと思う。年数を重ねたことで全体を見渡せるようになって、そこまで気を張らずに仕事ができるようになってきた。職場に居場所があり、人間関係も悪くない。特別に楽しいわけでもないけれど、ある程度のやりがいも感じている。恵まれているのだ。そう思う。

 それでも、何もないわけでもない。

 母の言葉は、普段私が仕方がない、と見ないふりをしている小さな痛みを、そっと受け止めて、許してくれるように響いた。疲れているとも気づかず歩き続けて、誰かにそう言ってもらうのを、ずっと待っていた気がする。待っていると、自分でも知らないまま、ずっと。自分でも知らないまま抱えていた、甘えた、子供っぽい気持ち。

「あんた真面目だもんね。頑張ってるんでしょ」

 大人なんだから、頑張るのなんて当たり前だ。

 いつもそう考えているように、頭の中で言う。でも、嬉しかった。他の誰かに認められるよりも、母にそう言われると、人間の芯の部分まで言葉が届くような気がした。こんなところまでいちいち言葉が届いてしまったら、生きていくのに支障をきたすのに、母の言葉だけは、色々な障壁をかいくぐって、届いてしまうのだ。届いて、私をあたためる。

「ご飯、ちゃんと食べてる? 今日も野菜が少ないけど」

 そこで、すっと白い腕が伸びてくる。

「どうぞ」

「あらありがと」

 出てきた料理に、笑ってしまった。ホウレンソウとベーコンのサラダ。生のホウレンソウの上に、かりかりのベーコンが乗っている。母がよく作ってくれたサラダだ。私はホウレンソウをお皿にとって口に運んだ。

「おいしい?」

 頷く。母は笑う。

「あんたそれ好きだもんね」

 生のホウレンソウは青くさくて苦みがあって、正直あまり美味しいと思ったことはなかった。ベーコンのうまみと塩気でごまかすようにして食べる。でも、これが好きだった。思い出す。おいしくなくても、好きだった。母は仕事が忙しくて夕食は出来合いのものも多かったけれど、これだけ作ってくれたりすると、嬉しかった。茶色っぽいテーブルの中で、緑が冴えてきれいだ。つめたい葉っぱが唇に触れるのも楽しい。

「とにかく野菜は食べなさい」

「食べてるよ。料理もしてる。作り置きとか作って」

「偉いじゃない。何作るの?」

「ええ……いろいろだよ。ナムルとかきんぴらとか煮物とか。まとめて作ってちまちま食べてる」

「作り置きしてるの? えらいじゃない。おかあさんお惣菜とか冷凍食品ばっかりだったもんね」

 母の口調は穏やかだけれど、かすかに後悔がにじんでいるように聞こえて、苛立った。私に苛立つ筋合いなんかないのはわかっていても。

「仕方ないでしょ。忙しかったんだから」

 苛立ちを殺しきれず、私の声にはとげがあった。母は微笑んでいる。

「そう言ってくれるとありがたいけどね」

 母の声は優しく、その優しさは、あらゆるものを諦めきった末の優しさのように思えた。ほんの少し前まで、大人になるまで、そんなことはわからなかった。ただ母は優しいもので、ただそうあるものだと信じていた。お惣菜とか冷凍食品とか、そういう食卓を母が謝るのを、謝るようなことなのだと素直に信じていた。そんなことないのに。謝ることなんて全然なかったのに。

「でも安心した。あんたがちゃんとやっててくれて」

 ちゃんと。

 私は箸を置いた。ちゃんとやっているんだろうか。そうしたいと思っていた。ちゃんと仕事をして、ちゃんと生活をして。職場では人に迷惑をかけないように、波風を立てないように気を遣って、家では料理が好きなわけでもないのにおかずを作り置きして、きちんと掃除して、お金を貯めて。そうすることが、満足につながるわけでもないのに、そうしないでいることが、難しい。本当はもっと、いい加減な人間で、いい加減な生活が、苦ではないのに。どうしてだかわからないけど、とにかく、ちゃんとしていない自分になるのが、怖かった。

「どうぞ」

 ぬっと白い腕が伸びて、大ぶりの汁椀が置かれた。何かを確認する前に、匂いと雰囲気のなつかしさに、息が詰まった。

「豚汁。冷める前に食べなさい」

 うなずいて、胸に詰まったものと一緒に飲み込んだ。あったかくて、いろんなだしが出て丸い味がする。お母さんの作る豚汁だった。誕生日には、いつもこれを頼んだ。大き目の里芋がいっぱい入っている。剥くのが面倒くさいので、普段は冷凍ものを使うけれど、誕生日のときは剥いてくれる。一つつまんで食べる。齧りかけて熱すぎて一旦距離を取り、ふうふうと吹いてから齧る。ほくほくと柔らかいけれど歯ごたえがちゃんとあって、下茹でしてぬめりがとってある。私の一番好きな里芋。お母さんの豚汁の里芋。

「華のないものが好きだね」

 記憶をなぞるように母が言う。湯気の向こうの母は微笑んで、食べる私をただ見ている。子供のころと同じ風景。同じ味。

 でも。

 胸の内がぐちゃぐちゃになる。お母さん。泣き出してしまいたかった。でも泣き出してしまったら、今ここにある何もかもが、台無しになってしまう気がした。

「お母さんも、何か」

 ひっくり返しそうな細い声で言う。

「食べて、頼んでもいいし、なにか」

 好きなもの、と言いかけて、細い声は途切れた。母はお猪口を持って、微笑んでいる。優しい、子供のころと同じ顔。ずっとこの顔を、見てきた。なんとも思わずに、ただの風景みたいに。好きなものを食べる私を見る、お母さん。私の好きなものを、なんでも知っている、お母さん。でも。

 お母さんが好きなものを、私は、知らない。

 例えば私は、姉が好きなものは知っている。窯焼きのピザ。生ハム。シフォンケーキ。姪の好きなものだって知っている。フライドポテト。ミートボール。プリン。一人の人間と親しく付き合うとき、相手の好きなものを自然と覚えることになる。

 でも母の好きなものは、知らない。知らないことさえ、今まで気づかなかった。知ろうとしたことが、なかった。

「……ごめんね」

 もうだめだ、と思った。細い細い声が喉から出ると、涙がじわりと溢れてきた。母は微笑んでいる。

「どうしたの」

 首を振る。言いたいことがありすぎて、全然うまく言葉にならなかった。母はお酒を飲んで、私の言葉を待ってくれる。優しいお母さん。大好きなお母さん。鼻をすする。

「ちゃんと、できなくて……」

「ちゃんとって、何」

「お姉ちゃんみたいに、孫、見せたりとか……」

 いざ口に出すと、馬鹿みたいだった。馬鹿みたいだけど、でもずっと、心のどこかで、そう思っていたのだった。姉が結婚したときも、姪が生まれた時も、母は本当にうれしそうだった。ずっと顔をくしゃくしゃにして笑っていた。見たことないぐらいうれしそう。私はそれを見て、ほっとしたのだった。自分がやるべきことを、姉がすんなりやってくれたという気持ちで。そして私は、したいことだけをした。これが自分のやるべきことなんだというふりで。

 でもずっと、後ろめたかった。もっと母が喜ぶ生き方があるんだって、わかっていたから。わかっていたのに、そうしなかった。自分のほうが大事だったから。当たり前のことかもしれない。でも。

 母はずっと、自分より私や姉を大事にしてくれていたのに。無理をして、自分を削って、私たちを人並みに育ててくれた。私は大人になった自分が、一体誰の何を犠牲にしてできているのか、知っていた。知っていたのに。

「あんた、元気?」

 母が静かな声で聞く。虚を突かれて、大人しく頷いた。

「たぶん……」

 母はお酒を一杯飲んだ。ふう、と満足したようなため息をついて、もう一杯自分で注ぐ。

「楽しいこと、ある?」

「たのしいこと?」

 母はお猪口をちょっと持ち上げた。いたずらっぽい顔で笑う。そうすると、老いも疲れもその顔から拭い去られて、はっとする。父が生きていたころよりもずっとずっと若い、楽しそうな顔。

「このお酒、おいしいでしょ」

「え……うん」

「これ、結構高いの。うちの近くの地酒。知らなかったでしょ」

 内緒話のように声を低める。

「食器棚の下にね、いつも何本か隠してた」

「隠してた……?」

 母は頷く。

「隠さなくてもよかったんだろうけど、内緒で飲むのが楽しかったの。あんたたちが二人とも遅くなるときとか、金曜日の深夜とか、一人で飲んでた。私はつまみはなんでもいいから」

 話しているうちに楽しくなったのか、くくくと低く笑いだす。笑いはしばらく止まらなかった。私はただぽかんとしていた。こんな母は、初めて見た。

 なんとか笑いやんだ母は、もう一杯お酒を飲んだ。

「まあ体にはよくなかったね。でも楽しかったから、しょうがない」

 軽く言う。つられてつい笑ってしまうような軽さだった。私が笑うのを見て母は笑う。今度はもう、私の知る母の顔で。

「一人で二人育てるのはね、大変だったよ。あんたたちは二人ともいい子で助かったけど、それでもやっぱりね。なんでここまでやらなくちゃいけないんだろうって思ったこともあるし、もう一度やれって言われたら断る。でもね」

 母は私の手に触れた。かさかさと固い感触の皮膚。

「でも、そんなに悪くなかったし、楽しかったよ」

 それはすごくきっぱりとした言い方だった。冷たくさえ感じるほど。母は優しくて、穏やかで、でもはっきりと、私のことを拒んでいた。母の人生を、私が勝手な感傷でいじくりまわすことについて。もちろんだからと言って、私のしたことが許されるということではない。私の後悔には、意味がない。もう取り返しがつかない。それは、ただ私の問題なのだ。母には母の人生がある。私には私の人生がある。私の失敗は、私のものだった。私一人だけの。

 母は私の手をぽんぽんと叩く。

「だから、ねえ、あんたも元気でいなさい。自分のことを考えなさい。お母さんのことは、お母さんがやるから」

 優しくて、厳しい、あんまりにも厳しい言葉だった。でもこれが正解なのだ、と私にもわかっていたから、うなずくほかなかった。うなずくほかなくて、でも、苦しかった。どうしようもない、ということ。それを受け入れなくてはいけない、ということ。苦しくて、苦しむしかない、ということ。

「ごはん、食べなさい。食べたら元気出るから」

 手をぽんぽん叩かれて、泣きながらうなずいて、お箸を握った。どれもまだあたたかくて、顔が熱くて鼻水が出る。ぐすぐす鼻をすすりながら、もぐもぐと食べる。おいしかった。お母さんの味だった。私を愛してくれた人が、私のために作ってくれた料理だった。ほかのどこにもないごはん。

 もう二度と、食べられない。

 どのお皿もすっかり空にしてお箸を置く。顔を上げると、もう母はいなかった。それどころかあたりはしんと静まり返っていて、座っているのは私だけだった。

 どういうことだろう。まだだらだらと涙をこぼしながら、ぼんやりした頭で考える。膨らんだおなかと空っぽのお皿。お猪口が二つ。正面の席に、誰かが座っていた名残はない。

 全部、夢だったのかもしれない。

 そうじゃない証拠がどこにもない。胸の中のあたたかいような寂しいような苦しいような気持ち。これも全部、錯覚かもしれない。短い夢を見ていただけで。

 ず、と鼻をすする。涙は止まらない。

 ふと見ると、私の前のお猪口にはまだお酒が残っていた。そっと持ち上げて、口をつける。いい香り。優しくて、喉を通ると静かに去っていく味。ゆっくり、ゆっくり、お猪口一杯を舐めるように飲む。母の好きな味。何もかも夢だったとしても、それも嘘だと思うのは、難しかった。この味と母が、結びついてしまっていた。

 空になったお猪口を置く。

「ごちそうさまです」

 小さくつぶやく。呼ぶ前に、店員がそこに立っていた。白いつるりとした顔に浮かぶ笑み。

「楽しんでいただけましたか」

 その質問に答える言葉がなくて、首を傾げた。店員は答えを期待してなかった風で、カウンターの方を示した。青い一升瓶がそこにあった。初めて見るもの。

「今日お出しした日本酒です。気に入っていただけましたか?」

 どうしてそれを選んだのか、私の前に母は本当にいたのか、この店は一体なんなのか。聞いてみたいことはたくさんあった。でもやっぱり、うまく言葉にできなかった。言葉にすれば、記憶さえ壊れてしまいそうで。

「ええ」

 だから尋ねる代わりにうなずいた。

「おいしかったです。とても」

 貼りついたようだった店員の笑みが、ほんのわずかに深くなった。

「それはよかった」

 胸にとどまって震えている気持ちに、共鳴するようにその言葉は響いた。あ、と思ううちに、店員の笑みはもう貼りついていたものに戻って、声の響きも消え失せる。立ち上がってコートを着る。財布を出そうとすると、白い手がそっと伸びて留めた。

「お会計は、お連れ様が済ませていきましたよ」

 呆然とする私に続ける。

「気をつけてお帰りください」

 きっぱりとした言いように、うなずいた。そのままだるい体を引きずるようにして、店を出た。大通りに出てタクシーを拾い、家に帰ると、服だけ脱いで化粧も落とさずベッドに倒れこんだ。

 あんたも元気でいなさいよ。

 夢や幻なのかもしれない。それでも私の耳には、眠りにつくまでずっと、母の言葉が響いていた。


 ぐっすり眠って昼前に起きると、本当に何もかも全部夢だったんじゃないか、という気がした。とりあえず姉に連絡して、お墓参りに行こう、と誘った。それで日曜に姉と二人で、行ってみた。姪はというと、今日は姉の夫が見ているらしい。スマートフォンで画像を見せてもらう。不器用に二つにくくった髪の毛。五歳になったという姪は赤ん坊のころに比べて、本当にしっかりしていて驚く。赤ん坊のころはそうでもなかったのに、目元や鼻が姉にそっくりになってきた。

「この髪、自分でやったの。最近なんでも自分でやりたがる」

「大変なんだ」

「本当大変。可愛いけどね。私一人だったらって考えると頭おかしくなりそうになる」

 母のことを思い出しているのがわかった。そう言っている姉は、なんだかすごく母に似ていた。母に似た姉。姉に似た姪。

「あんたは仕事どう? 大変?」

 つい最近似たようなことを聞かれたな、と思って、笑って答える。

「けっこう大変」

「そうなの。あんた真面目だから頑張りすぎないようにね」

「うん」

 素直に頷いた。姉はぽんぽんと私の手を叩いてくれた。

 花は姉が買ってきてくれた。私はお酒を持ってきていた。あの店で飲んだものだ。なかなか見つからなくて一回家に帰ってからインターネットで調べなおして有名な大きな酒屋で買った。広い墓地は人気がなく、色合いのせいもあってか街中より一層寒く感じる。足元が冷たい。

「お酒?」

「うん」

 掃除を済ませたお墓の前で箱を開けていると、姉は怪訝な顔をした。母は私たちの前でお酒を飲むことはほとんどなかったし、聞いた話では、父は下戸だったそうだ。

「美味しいから。このお酒」

「ふうん」

 青い一升瓶が露わになる。口を開けてお墓の前に備える。姉が言う。

「その瓶」

「なに?」

「なんか見たことある、気がする」

「ほんとう?」

 子供っぽく声が跳ねた。姉は話の流れがつかめない様子で首を傾げた。

「わからないけど、見たことある気がする」

 うん、と私は頷いた。それで十分、どころか、十分以上だった。

「お姉ちゃん」

「なに」

 お墓の前で二人でしゃがむ。こっちを向く姉の無防備な笑顔。姉妹だな、と思った。私とお姉ちゃんは、お母さんの子供だ。

「お母さんがね」

「うん」

「元気でいなさいって」

 姉は知らないことを言われた子供のような顔をして、それから微笑んだ。

「そうか」

「うん」

「じゃあ、元気でいなくちゃね」

「うん」

 頷きながら、私はまた泣いてしまった。つめたい乾いた空気の中で、顔だけがかあっと熱い。お母さんなしで、元気で、やっていかなくちゃいけないんだ。自分で、元気で。それが、寂しい。寂しくて姉の方に手を伸ばすと、姉の手に触れた。熱くて湿っていて、子供の手みたい。姉もまた、泣いていた。二人して真っ赤な顔で。手を繋ぐ。

 そうしてしゃがみこんだまま、姉も一緒に、しばらくお母さんの前で泣いていた。

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そしてその店には二度と辿りつけなかった 古池ねじ @satouneji

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