ワビさんとのお別れ
「朝だよ、起きなさい美咲」
私はずっと寝てなんかいなかった。
一晩中ワビさんの腕枕で、眠ることも泣くことも出来ずじっとしていただけだ。
「ほら、早くしないと引っ越しの委員長なんでしょ?」
「……うん」
ワビさんの口調からは寂しそうとか、そんな雰囲気は全然なくて。本当にいつものワビさんらしくあっさりしていた。
だけどそれは私にとって、文句の一つくらい言いたくなるほど寂しいお別れである事を、きっと口に出さなくてもワビさんは分かってくれている。
今日は新三年生が寮の相部屋を出て、個室に移る寮内年中行事『お引っ越しの日』。
この寮では相部屋なのは一年生と二年生の間だけで、三年生になればより勉強に集中できるように個室になる。
高等看護学校では、三年生に進級したとたん実習が始まり、学校ではなく学校付属の病院で実習や、事前学習など寝る間を惜しんで勉強をしなければならず、高等学校教育課程がメインの一年生と二年生とでは、生活のサイクルが変わってしまうから、というのが理由だったりする。
(それでも、一緒にいたいって……思っちゃダメなのかな)
寝てる間ずっと握っていたワビさんの手を握りしめる。
ワビさんも握りかえしてくれて、私の頭を一晩中支えていた腕を持ち上げた。
「あっ……」という間に私はワビさんの腕と胸に包まれ、ぎゅーっと抱きしめられた。
「美咲と離れるのが寂しいのは私も一緒よ、でもここにいる理由は何かしら?」
「……看護師になることです」
私は間髪入れずに答える。
「正解、よくできました」
ワビさんが私の髪の匂いをスーッと嗅ぐ。
「ほら、今日から新寮長になるあなたが遅刻したら、前寮長の私の指導が悪かったって言われるわ、それと約束覚えてる?」
忘れなんかしない。
「今日一日、絶対に泣かないってことでしょう?」
私はため息をつく、そしてワビさんの笑顔を見ながら。
「……わかった」
とつぶやいたけれど、私自身はもちろん口で言ってるほど納得なんかしていない、けど私のわがままでワビさんに迷惑をかけるわけにもいかない。睡眠不足で重たい身体を起こして、スエットの上下を着込んで顔を洗う道具を小脇に抱え、タオルホルダーからフェイスタオルをひっこ抜いて肩にかけて廊下に出た。
「私は一階で顔洗って、そのまま食堂にいくから、ゆっくり来なさい」
ワビさんが背中を軽く、ポンと押してくれる。
「うん、はい」
ため息をつきながら2階の洗面所に入った。
「おはよーです」
洗面所でいくつもの挨拶が交わされている。その中、開いてる洗面台を見つけ顔をあらう。春は近いけど、水にはまだ春が届いてないようだ。
「みーちゃん。おはよ、寝られたかね」
「きーちゃんか。おはよう、引っ越し順番は変更無しで西館二階のAⅠ号室から」
「了解、板東美咲新寮長殿!」
軽くおふざけで敬礼した彼女は次期副寮長の武田美貴ちゃんだ、手を下ろして私を見て苦笑しながら。
「そっちはお別れは上手くできた?」
よく見れば彼女も目の下にクマ、彼女も私の目の下のクマに気づいたんだと思う。
今日はそんな理由で寝不足な一年生は多いに違いない。
「たぶん、同じだよ」
「そうだね」
それだけでお互いの気持ちが分かった気がした。
手に貯めた蛇口から流れ落ちる水をすくい上げて、思い切り顔にたたきつける。
「ぷはっ!」
水は冬の時よりも多少温かくなってきた、それでもしゃんとしない頭をたたき起こしてくれるには十分な冷たさがあった。
「あー、きもちー」
濡れたままの顔をゆっくり持ち上げて、天井を見つめる。
頬を流れる水滴が、私の体温をゆっくりと吸い取りながら喉と首筋を通り過ぎ胸や背中に落ちていく。大きくゆっくり息を吸い込み軽く腕を回してから、大きく息を吐き出す。
なんというかジンクスみたいなもので、これをやった日は『絶対に泣かない』っておまじない、なんかのラジオでいってたんだっけかな。
そして、そんなおまじないが終わったら。
そのまま朝食のために食堂へ向かう途中、何人かの同級生と挨拶を交わしながら階段を降りていく。大きな寮の食堂では、半分くらいの席がすでに埋まっていた。本来なら一年生と二年生の生徒全員が一度に食事が出来るから、まだ半分空いているって事は、私よりも寝坊している学生がいると言うことだ……。
あるいは、まだ気持ちに整理がつかないのか。
バイキング形式の朝食を早めに切り上げて、食堂横の談話室に、すでに集まっていたお引っ越しの日実行委員との打ち合わせをはじめた。みんなは私を寮長とよぶけど、まだ少なくともワビさんがこの東棟にいる間は私はまだ寮長ではなく、ただの実行委員長である。なんとなく、その寮長って言葉を受け入れたら、なんかが終わりな気がして、ちょっと表情に出てしまい反省する。
「どうかしら、上手くトラブル無く出来てる?」
ノックのあと、ワビさんが談話室に入ってきた。切りそろえられた前髪に、大人びた微笑みをさらに大人びてみせるロングヘアの髪を、揺らしながら私に近づいてきた。
「はい、昨年の寮長のプランと同じ方法ですのでご心配なく」
「なら問題ないわね」
ワビさんがポケットから白地に青の一本線の入った学章を手のひらに出した、学年章の下につけられるそれは、この寮の寮長である証でもあった。
「今日からこの寮を、お願いね美咲さん」
そっと、もう一度ワビさんに握りしめられ、持ち上げられた私の手のひらに、白色に光る学章が転がる。
これは私とワビさんのお別れの儀式なのだと思った。
ここがもしも誰もいない場所であるなら、きっと泣いて抱きついてしまったかもしれないけれど、あえてこの場所を選んだワビさんの気持ちが分かってしまうだけに、余計みんなの前で泣いてしまう訳にもいかないでいた。
でも私はもしかしたら泣かないことで、少しだけ損をしたかもしれない。
思い切りワビさんの胸の中で泣いてしまった方が、より早くワビさんの事をふっきれたんじゃないかと思う。
「じゃあ、しっかりね」
「うんワビさんも、実習がんばってね」
それほど多くないワビさんの荷物を手渡して、三年生になると使う東館に向かう列にワビさんを見送った。
お別れになると言っても、同じ寮の西館と東館に分かれるだけだし、許可があれば面会に行くことも出来る。なにせその真ん中にあるラウンジや、この食堂で会うことだってできるのだから。
寂しくなんか無いよ、うん。
土岐島和美サイド
廊下を曲がると、当然すぐに美咲の姿は見えなくなってしまった。
一緒に引っ越しをする同級生が私の横にいて、彼女は自分の元相部屋の下級生が大声で泣くのを見て、肩で大きくため息をつきながら、困った顔で微笑んだ。
「ウチの子は泣いちゃったか。それに比べてさすが新寮長、他の子が泣いている中でしっかりと泣かずに役目を果たしてるじゃない」
「今日一日、泣いちゃダメって約束したからね。それに泣かないでいるとお別れって言うのは、余計に忘れられないものなのよ」
和美は微笑みながら級友にこたえる。
「可愛そうに美咲ちゃん、早く忘れさせてあげるのが優しさってもんじゃない……の?」
そういって級友が見上げた私の頬には、涙が伝っていた。
「……いやよ、何で私が美咲に忘れられなきゃいけないのよ」
小さな涙の粒は、数秒の間に大きな粒に変わって、顎のラインを流れ落ちていく。
「美咲ちゃんの事、好きだったんだねぇ、あのワビちゃんが」
同級生はポケットから真っ白なハンカチを取りだして手渡した。
「自分のために持ってきたんだけどね、あの子ったら自分が大泣きするから私が泣くタイミングが無くてね、ワビちゃんに貸してあげるわ」
何も言わず差し出されたハンカチを受け取り、あふれて漏れ出してしまいそうな声をこらえながら涙を流した。
「大丈夫だって、美咲ちゃんがワビちゃんみたいな美人の事を忘れる事ないから」
同級生に頭を撫でられながら、私は静かに泣き続けた。
板東美咲サイド
ワビさんが泣いているなんて知らず、私は廊下を曲がって姿が見えなくなってからもずっと見つめていた。だけど、他の子が泣いてる姿を見ても私は泣かなかったし、仕事を終えて一人で部屋に戻っても泣かなかった。
部屋に戻り、ワビさんがずっと使っていた二段ベッドの下ベッド、もうワビさんがいない空間を手で撫でた。
今朝まで確かにここにいた、ワビさんが今日からもういない。
その日は、ベッドに早くから潜り込み、何度も寝返りをうちながら、敷き布団と枕に残るワビさんの温もりの痕跡を探しながら、ほんの少しだけ時々鼻腔をくすぐるワビさんの残り香を感じ枕に顔をうずめた。昨夜はほとんど眠れなかったのに、いざとなると寝ることが出来ない、そして時間だけが過ぎていく中、時計の針が日付が変わった事を伝えた。
ワビさんとの約束の時間が終わったのを確認して、私は一人ベッドの中でようやく静かに泣いた。
そんな涙の日から一週間後、終業式が終わり短い春休みに入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます