第23話

 狐につままれたような。

 古臭い言葉だと思っていたのに、今の陽介ようすけの心境を表すのに、これほどぴったりしたものはないという気がする。

 朝一番の便で大阪から鹿児島へ飛び、空港で車を借りて、自分が昨夜乗り損ねたフェリーが着いている港へ駆けつけ、大野おおのさんの友達の佐藤さとうカオルが船内でとり逃がした妻の愛犬、ペクを引き取るという段取りだったのだが、いざフェリー乗り場のカウンターで尋ねてみても、そんな犬は保護されていないというのだ。

 代わりに「佐藤カオル」という人物が乗っていないか調べてもらおうとしたが、あっさりと断られ、あまつさえ精神に変調を来しているかのようにあしらわれた。彼女の携帯は相変わらず不通で、仕方なく大野さんに電話をすると、こちらはまだ眠っていたのか、不機嫌そうな声で「だったら、最初の予定通り、ワンコは海に投げ込んだんじゃないですか?」と言ってのけた。

 そうこうする内に、紗代子さよこから「もうフェリーおりた?」というメールが入り、陽介はこれ以上隠しきれないと覚悟を決めた。昨日我が身に起こった事の全てを説明して、あっさりと信じてもらえる自信はないが、それでも事実を包み隠さず伝えるしか道はない。

 陽介はフェリー乗り場で粘ることを諦め、車に戻った。そして来た道を引き返す途中で目についたコンビニに入る。とりあえず何か食べて、頭を働かせようと。

 フェリーを降りた客も混じっているのか、店にはけっこう人がいる。セルフサービスのドリップコーヒーとシナモンロールを買って、イートインコーナーの窓に面したカウンターに陣取る。

 今頃になってようやく、ふだん住む街とは随分と異なる空の色や明るい陽射しに気がつき、南国に来たのだという事は判ったが、どこか仮想現実めいた印象で実感を伴わない。それより何より、一番大事なのは紗代子に何をどう説明するかだ。

 大阪のホテルで一泊したという話は切迫感に欠くから、夜通し高速を走ってきたことにしようか。この期に及んでまだ己を守りたい衝動が芽生えるが、皮肉なことに紗代子の嗅覚はそういう小細工に最も激しく反応する。とにかく、みおの事だけは何があっても気取られないようにして、後は洗いざらい話すしかない。しかしその後で、紗代子はこう尋ねるだろう。「で?どうするつもり?」

 真っ先に思い浮かぶのは警察だが、飼い犬が誘拐されて行方不明だと訴えたとして、取りあってもらえるだろうか。脅迫され、金品を強要されているわけでもないのに。

 だったらいっそ紗代子には、ペクは目の前で海に投げ込まれ、救おうと飛び込んだが間に合わず、沈んでしまったと言った方がいいかもしれない。しかし彼女はきっと、口にはしないがこう思うだろう。「あなたが沈めばよかったのに」

 機械的に口に運んだシナモンロールはやたらと甘く、陽介はコーヒーをもう一杯買おうと立ち上がった。その時、携帯の着信音が響いた。紗代子がついにかけてきた、そう思って取り出したディスプレイには、知らない番号が出ている。

高田たかだ様のお電話ですか?なのはな動物病院ですが」

 本来なら今頃、ペクを預けているはずの病院だ。到着が遅いので紗代子に連絡したのだろうか。無理をいって予約を入れたのに、いまさら取り消しというのも顰蹙をかうに違いない。

「すみません、ちょっと色々と手違いがあったもんで」

「ええ、それで、ペクちゃんは先にお連れいただいてますけど、高田様は何時ぐらいにお見えになりますか?飼い主様がいらっしゃらないと、受付ができませんので」


 一体どうなっているのか、ペクは何者かによって動物病院に送り届けられていた。

 狐につままれたような感じ。

 それは一種の浮遊感とでも言うべきか。どれだけ急いで動物病院へと車を飛ばそうが、心はどこか別の場所に取り残されたままのようで、現実の世界にいるという気がしない。それどころか、この夢はいつか破れて、目覚めると大阪の狭いビジネスホテルだったり、鹿児島行きの飛行機の中だったり、あるいはその繰り返しだったりして、永遠にどこにもたどり着けないような、心もとなさがずっとつきまとう。

 まるでこの世に存在しない自分が、どこか遠い場所からこの肉体を操って、ゲームのキャラクターよろしく目的地に進めているみたいだ。少しでも気を緩めると、誰かに肩をたたかれて、「はい、おしまい」と囁きかけられそうな冷たい予感。


「問診票は先に送っていただきましたので、こちらだけご記入下さい」

 受付で名前を告げると、ピンクの制服姿の女性がカウンターごしにクリップボードを差し出した。血色のいい丸顔に、大きな目が印象的で、これが典型的な南国の女性かという気がした。

「なのはな動物病院」は、ふだんペクがかかっている獣医よりも随分と大きくて、人間の病院だと言われても違和感がないほど立派だった。

 駐車場は広いし、診察室が四つもあって、手術室や入院病棟はおろか、リハビリや温泉療法といった表示もある。おまけに飼い主が一緒に滞在できる施設も別棟にあり、そこではシャンプーやトリミング等も行っているらしかった。待合室に座っている人々も、どことなく裕福そうに見えるし、実際のところ駐車場に止められている車の半数以上は他府県ナンバーだった。

「順番が来たらお呼びしますので、もうしばらくお待ちください」

 受付の女性はクリップボードを受け取り、何やら書き込んでから、にこりと微笑んだ。

「あの、ちょっと先に、犬を見せてもらっていいですか?元気にしてます?」

 病気を診察してもらうのに、「元気にしてる」はないか、と思ったが、受付嬢はそれには反応せず、「どうぞこちらへ」とカウンターを出て、「処置室」と表示のある部屋に陽介を案内した。中へ入ると中央に大きな作業台があり、そこに水色のキャリーケースが置かれている。受付嬢は「いい子で待ってましたよ」と言いながらケースを開け、陽介は慌てて中を覗きこんだ。

「ペク!」

 いつもは可愛げのない犬だと思っていたが、この瞬間のペクは文句なしに愛おしかった。最後に姿を見た時の生気のない様子とはうって変って、陽介の差し伸べた両手へと急いで寄ってくる。そのまま外へ引っ張り出してやると、心なしかふだんより親しみをこめた様子で尻尾を振ってみせた。

「本当にもう、心配したぞ」

 何がどうなっているのか判らないが、とにかく目の前にいるのは本物のペクだ。不格好なほどに大きな耳、小さな黒い目、微妙に短い足、キャラメル色の毛並み。嬉しくてつい抱き寄せると、ペクもその濡れた鼻面を陽介の頬に押しつけ、ぺろぺろと嘗め回す。ここまで愛情表現するような犬じゃなかったのに、と不思議な気もするが、ペクはペクで不安だったのかもしれない。いつもこのくらい愛嬌があれば、もう少し可愛がっていたのに。

「お前一体、誰とここに来たんだよ」

 耳の後ろをかいてやりながら、そう尋ねるが、もちろんペクは何も言わず、もう少しこっち、と言わんばかりに首を傾ける。それはもう普段の、それとなく傲慢な彼のやり方に戻っていたが、不思議と腹も立たない。脇にいた受付嬢が「どなたが連れてこられたか、ご存じないんですか?」と声をかけてきた。

「いや、ちょっと行き違いがあって、こいつとはぐれちゃったんです。ここに連れてきたのは女の人ですよね」

「いえ、男の方でしたけど。高田様は後からお見えになるからって、すぐに出ていかれたんじゃなかったかしら」

「男?」

 佐藤カオルは自分でここに来るのは面倒だと考えたのだろうか。実は彼氏とフェリーに乗っていたか、その辺で知り合った男に頼んだか、まあ何でもいいけれど、とにかくペクを海にぶち込まずにここまで連れてきてくれたのだから、感謝はすべきだろう。

「先生が検査をなさるかもしれないので、お水やごはんはもう少し我慢させて下さいね。また後でお呼びしますので、それまでは待合室でお願いします」

 受付嬢にそう言われて、陽介は携帯でペクの写真を撮り、キャリーケースに戻した。そして一人で廊下に出たが、安心して気が緩んだせいなのか、足元がふらつくような眩暈に襲われた。まるで世の中が半分傾いたように強烈な衝撃で、思わず壁に手をついてしまった。

 どうやら俺は、相当にペクの事が心配だったらしい。いや、本当は自分自身が心配だっただけか。

 さりげなく壁伝いにそろそろと移動して、待合室の長椅子に腰を下ろすと、再び携帯を手にする。ここへ向かって車をとばしている間に紗代子から着信が入っていたが、いい加減連絡してこいという督促に違いなかった。

「メール遅くなってごめん。受付完了して診察待ちです。ペクは元気。終わったら電話するよ」と打ち、さっき撮った写真をつけて送信する。さあこれでとりあえず、俺の任務はほぼ終了だ。そう思ったものの、不思議と解放感がわいてこない。というより、何だか嫌な感じがつきまとうのは、さっきの眩暈の余韻だろうか。

 瞼を開いているのが辛いというか、寝不足のせいなのか、携帯のディスプレイの光が妙に目を刺す。耳の奥が水でも詰まったように重苦しくて、よその犬の鳴き声だとか、呼び出しのアナウンスだとか、周囲の物音がやけに頭に響く。いや、身体全体に響くとでもいうべきか。違う、別に音なんかしていないのに、まるでドラム缶の中に閉じ込められて、外からひっきりなしにガンガン叩かれているような、この衝撃は一体どこから来るんだろう。冷たい水でも飲んだら収まるだろうか。これはもしかしたら、軽い脱水症状って奴かもしれない。

 たしか病院の玄関を入ったところに自販機があったのを思い出して、陽介は立ち上がった。しかし途端に、世界は彼を放り出そうとするかのように大きく回転した。慌ててバランスをとろうと反対側に二歩、三歩と足を進めた、つもりだったのだが、足元には何もなかった。


 気がつくと陽介は首まで地面に埋められていた。地面、といってもそこは砂地で、濡れてはいるがとても暖かい。そうか、ここは指宿だから、俺は砂風呂に入っているわけだな、と納得する。しかし砂風呂というのは普通、寝そべって入るものだと思っていたのに、何故だか縦に埋められていて、これではまるで人柱だ。おまけに砂はずっしりと全身にのしかかり、小指一本動かすことができない。

 段々と息苦しさが胸の奥から迫ってきて、いくら吸っても空気が肺に流れ込まないような気がする。そこへ暑さが追い討ちをかけ、額から吹き出した汗はこめかみを伝い、喉元へと幾筋もの流れを作ってゆく。

「すいません、誰か」

 自力で這い出すのはとうてい無理なので、陽介は声をあげた。自分をここに埋めた筈の温泉のおばさんはどこへ行ったのだろう。皆で世間話に花を咲かせて、俺の事なんか忘れてしまったのではないだろうか。もう一度声を出そうとしてみたが、余りの暑さに喉が乾ききって、かすれたうめき声しか出てこない。しかし幸運なことに、誰かが砂地を踏みしめて近づく足音が聞こえた。

「まだ出ちゃ駄目よ」

 そう言って彼の前にしゃがみこんだのは、動物病院の受付嬢だった。これはうまくすればスカートの中が見えるのでは、と調子のいいことを思ったのは一瞬で、さっき病院で会った時とは微かに異なる彼女の眼光に、何か嫌な予感がした。

「いいから早く出して下さい」と尚も頼んでみたものの、彼女は砂にめり込むほど膝をつき、その丸い顔を陽介の鼻先まで近づけると「まだです」と、たしなめるように言った。

「いい?これからあなたの命と、ペクちゃんの命を交換します。ペクちゃんの残り三ヶ月の命は、あと三十五年に延長されて、あなたはあと三ヶ月で寿命が尽きるの。素敵だと思わない?五十年も生きるワンちゃんなんて」

「冗談はいいから、すぐに掘り出してくれ」

「冗談なんかじゃありません。これはね、あなたの奥様からのご依頼なの。主人と犬の寿命を取り換えて下さいって」

 そして口角を思い切り引き上げて笑顔をつくると、受付嬢は立ち上がる。その丸みを帯びたふくらはぎの間から、陽介は自分と同じように首だけを出して砂に埋められたペクの姿を見た。犬は暑さには弱いはずなのに、ペクは舌も出さず、それどころか気持ちよさそうな風情でこちらを一瞥した。それは例の、紗代子の実家で彼を見るときの、格下の存在に対する余裕の視線だった。

 受付嬢は再び砂地に膝をついて陽介を覗き込んだ。

「こうしてずっと温め続けると、あなたの命は身体から逃げ出そうとするわ。それを私が、こう」と、彼女は人差し指を立ててくるくる回す。

「綿菓子みたいに巻きとって、ペクちゃんのお口に、ぽん。そしてペクちゃんの命をあなたのお口に、ぽん」

「馬鹿言うな!そんな事しなくていい!」

 陽介は必死に喚いた。

「俺は犬と命を交換したりしない!ペク、お前もぼんやりしてないで、飼い主のピンチをどうにかしろ!」

 ところがペクはこちらを睨み返すと、「お前は俺の飼い主ではない」と宣言した。

「俺の飼い主は紗代子だけだ。彼女のことを本当に理解しているのはこの世に俺しかいない。彼女はお前のように気持ちの浮ついた愚か者とこのまま結婚していては、不幸になるばかりだ。だから俺が代わりに長生きして守ってやるのだ」

 初めて聞くペクの声は、どこか間抜けな印象のある外見からは想像もつかない程、落ち着いて深みがあり、老成した舞台役者ようによく響いた。その顔を再びよく見ると、白とキャラメル色のぶちだった毛並は青みを帯びた深い黒に染まり、黒い飴玉のようだった瞳は金色にぎらついている。鼻面は幾分細長く尖って、左右に突き出ていた大きな両耳はぴんとまっすぐに立ち、開いた口は血まみれの生肉でも食べたばかりのように、紅に染まっていた。

 俺はこの犬をどこかで見たことがある、そう思った瞬間、陽介の口から、白い靄のようなものが漂い出した。

「ほら出てきた。どんどん出しちゃいなさい!」という、受付嬢のはしゃいだ声に、陽介はこれが己の命であることを悟った。いけない、と慌てて口をつぐんだが、その靄は鼻孔から尚もふわふわと、何かに誘われるように流れてゆく。そうか、呼吸を止めなければいけないのだ。大きく息を吸い込もうとしたが、四方から押し寄せる砂の重みに邪魔されてうまくいかない。

 ペクは、いや、ペクであったその黒い犬は彼の慌てふためくさまを冷笑するかのようにじっと見ている。そして受付嬢は胸の谷間が露わになるのもお構いなしに陽介の前に身を乗り出すと、紅のマニキュアに彩られた人差し指で、陽介の鼻孔から漏れ出る靄を絡め取っていった。

「逆らったって時間の無駄よ。苦しいだけ。さっさと吐いてしまいなさい」

 陽介は歯をくいしばったまま首を振った。しかし息苦しさは限界に達し、少しだけ、ほんの少しだけ空気を取り入れようと息を吸い込んだ瞬間、強烈な硫黄の匂いが押し寄せてきた。反射的に咳き込んだ彼の喉を、何か柔らかな塊のようなものがせり上がって来たかと思うと、一気に外へと飛び出した。

「そう、それでいいわ」

 受付嬢は弾んだ声を上げたが、陽介の視界は自分の吐き出した靄で乳白色に染まり、何も見えない。さっきまでこちらを睨んでいたペクの黒い姿さえかき消されてしまった。

 いけない、命を取り戻さなくては。

 慌てて口をめいっぱい開き、息を吸い込もうとするが、空気は一向に入ってこない。落ち着け、もう一度。しかし結果は同じことで、陽介はまるで陸に打ち上げられた魚のように、口を開いたままもがき続けた。


「うちの兄さんは脚の付け根から、カルーセルだとかいうものを入れて心臓の血管を治したらしくて」

「それを言うならカテキンだろうに。あれは身体にいいってね、うちのマサミがいっつもホームセンターで、箱で買ってる」

「そうかね。でもホームセンターじゃ保険はきかんじゃろう?」

 さっきから頭上で交わされている、しわがれ声の老人同士の会話に、陽介はとことん辟易していた。

 食い違っているのに破綻もしない、二人のやりとりはいつ果てるとも知れず、おまけに大声なのでおちおち寝てもいられない。これ見よがしに寝返りでも打てば、向こうも少しは気を遣うだろうと考えて、陽介はわざと咳払いをしながら身体の向きを変えた。作戦は奏功したらしく、二人の会話はぴたりとやむ。しかし次の瞬間にはもう再開していた。

「あら、この人目を覚ましよった」

「ああ、本当やね。ちょっと、看護婦さんを呼ばんと。ナースコーン」

「来よるかね。わしらあんまり何度もコーンを押すから、いつも素通りされてしもうて」

「そうしたらちょっと、詰所まで行ってみようか」

 うるさい。俺はもう別の場所で寝る。

「ああちょっと、あんた、横になっとらんといかんよ。動物病院で倒れたいうて、運ばれてきたのに」

「まる一日、人事不省よ。点滴何本も打って」

 目を開けると、寝巻姿の老人が二人、こちらを見下ろしていた。

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