第21話

 陽介ようすけがシャワーを終えて出てくると、大野おおのさんはベッドに腹ばいになって携帯をいじっていた。その様子に、やはり浴室で服を着ておいてよかった、と思いながら、彼は「じゃあもう、ここ出るから」と言った。

「え~?せっかく来たんだから、ゆっくりして行きましょうよ」

 大野さんは仰向けになって、「あ、鏡だ」と、今更のように天井を見上げて驚いている。

 人目につかないように濡れた服を着替え、冷え切った身体を温めるにはこれ以外の選択はなく、陽介はフェリー乗り場からそう遠くないラブホテルにチェックインしていた。大野さんはレンタカーを乗り捨て、強引に陽介の車の助手席に乗り込んできたのだった。

「ねえ、高田さんって結婚してからも奥さんとこういう所に来たりしてるんですか?」

「どうでもいいだろ」

「やーだ、照れちゃって」

 大野さんはうふふ、と声をあげて笑い、天井の鏡に映っている自分に手を振っていた。陽介はそれを横目で見ながら「早くしろよ」とせかした。すると彼女はいきなり身体を起こし、「駄目です」と言った。

「何が駄目なんだよ。一人で嬉しそうにしてるけど、俺は全然楽しくないから。さっさとここを出て、話はそれからだ」

 陽介がまくしたてると、大野さんはいきなり頬を紅潮させ、「なんでわかんないんですか?」と、なじるような口調で言った。

「わかんないって、何を」

「私がここまでしてるのに、なんでわかんないんですか?」

「わからないのは俺の方だ。勝手に人んちの犬を連れ去って、わかんないですか?とか聞かれても、わからないのが当然ってもんだろ」

 ついつい激しい口調でやり返した陽介の言葉に、大野さんは更に険しい顔つきになった。

「私、高田さんのことが好きなんです!寝ても起きてもいつも高田さんの事ばっかり考えてるし、会社だって最低でつまんないけど高田さんがいるから行ってるんです。そりゃ高田さんは結婚してますけど、あんな奥さんより私の方が高田さんの事をずっとずっと大切に想ってるし、私と結婚した方が高田さんは今の何倍も幸せになれます。だから私、高田さんのためを思ってワンコをさらったんですよ。高田さんの奥さんって、絶対に高田さんよりワンコの方が大事ですから、このままワンコが死んじゃったら、きっと離婚するって言い出します。そしたら高田さんは自由になれますから、私と結婚して幸せになりましょうよ」

 それだけ一気に吐き出すと、大野さんは「きゃあ、言っちゃったあ!私、すごすぎ!」と悲鳴をあげ、ベッドにあった大きな枕をひっつかむと、その下に頭を隠すようにして倒れ込んだ。

 駄目だこりゃ、完全にずれてる。陽介は半ば恐怖に近い感情を味わいながら、どうしたら彼女が己の暴走ぶりを少しは自覚してくれるか考えていた。

「あの、さ、話が何だか込み入ってるけど、俺はとにかく犬を見つけたいんだ。このまま大野さんが何も教えてくれないんだったら、もう警察に相談するしかないんだけど」

「警察?」

 大野さんはオムレツに混じった卵の殻を見つけたような不機嫌さでその単語をつまみ上げると、枕の下から顔を出した。

「警察なんか行ったら、高田さん色々と困ったことになりますよ。あの人のこと、奥さんに知られてもいいんですか?」

「あの人って?」

みおさん」

 再び身体を起こして、大野さんははっきりとその名を口にした。陽介は「それ誰のこと」と言ってはみたが、彼女は落ち着き払った口調で「何度もメールしてるじゃないですか。東京で会ったりもしてるし。高田さん、いつもデスクに携帯置きっぱなしにしてるから、見たい放題」と切り返してきた。

「ワンコが死んで、離婚できるようになっても、あの人のことがばれたら慰謝料いっぱいとられちゃいますよ。まあ、そうなると私たちの子供の教育費に響いたりしてくるから、本当は私も秘密にしときたいんですけど」

 陽介の喉はいつの間にか乾ききっていた。この、ややこしく絡まり合った状況を、とにかく少しずつでもほどかなくては。

「あのさ、お腹すいてない?」

しばらく間をおいてからそう尋ねると、大野さんは「うーん、すいてるかも」と言って、抱えていた枕に顎をのせた。

「じゃあちょと、飯でも食って。話はそれからだ」


「私この、彩り御膳にします」

 大野さんはそう言ってメニューを閉じ、おしぼりで手を拭いた。陽介はウェイトレスを呼んで彼女の注文を告げ、自分は生姜焼き定食を頼むと、グラスの氷水を飲む。

 ラブホテルを出てから最初に見つけたファミリーレストランだが、金曜の夜ということもあるのか結構賑わっている。幸い、途中に靴の量販店があったので安いスニーカーを買い、水に浸かった靴は店で処分してもらった。

 シャワーも浴びたし、服も着替えたし、すっきりしてもよさそうなものだが、首筋に濡れ雑巾を貼りつけられたような鬱陶しさは時を追うにつれて増すばかりだった。

 大野さんはふだんの昼休みと変わらない様子で、携帯を見ながら料理が来るのを待っている。陽介もホテルを出てからここに来るまで、ペクはおろか、紗代子さよこや澪の事も一切口にせず、今まで大阪に来たことはあるか、といった話題をぽつぽつとしただけだった。

「せっかく大阪来たんだから、やっぱりお好み焼きとかの方がよかったかも、ですね」

 大野さんはそう言うと携帯をバッグにしまい、今ようやくどこにいるか気づいた、という感じで周囲を見回した。

「だったらこの後で、たこ焼きでも買って食べれば」

「でも私いま、ダイエット中なんですよね」

「別にダイエットの必要なさそうなのに」

「駄目ですよ、私、腕なんかぷにぷになんですから」と、大野さんは「ほらあ」と肘を上げ、二の腕をつまんでみせた。

「みんなそんなもんじゃない?」

「高田さん」と、大野さんは急に背筋を伸ばして、まっすぐに陽介を見た。

「私やっぱり高田さんのそういう優しいところが好きです」

 今日何度目かの「優しい」を、陽介は無言でやり過ごした。

「何でも面倒くさがらずにちゃんと答えてくれるし、棘のある事言わないし、怒らないし。仕事でミスしたりしても、もういいよ俺がやるからって、フォローしてくれるし」

 そこが俺の最大に駄目なところなんだけど。

 陽介は少しげんなりした気持ちで自分に向けられた賛辞を聞いていた。ここぞという場面で毅然とした態度をとれず、「全部やり直して」だとか、「何度も同じミスするなよ」だとかの、言うべき文句を呑みこんでしまう。例えば今、ウェイトレスが頭のてっぺんから生姜焼き定食をぶちまけてくれたとしても、俺はやっぱり「あ…大丈夫です」としか言えないだろう。

 幸いなことに、ウェイトレスは何事もなく料理をテーブルに並べて去って行き、陽介は自分の空腹感を何か他人事のように感じながら、割り箸を手にした。

「それに高田さんって、厳しい事言ってるふりして、気を遣ってるっていうか、言葉の奥に愛があるっていうか」

 大野さんは食事をしながらも、何かに取り憑かれたように話を続けた。

「高田さんの奥さんって、絶対に冷たいっていうか、高田さんのいいところを判ってないですよ。お手頃物件だったから、まあいいわと思って結婚したけど、早まった気もするのよね、とか、うちの旦那ってああ見えてかなり鈍感だし、言わないと判らない事が多すぎるのよ、とか、自分勝手ですよね。そっちこそ文句多すぎなのよ、って思いました」

「それ、直接きいたの?」

「はい。飲み会の帰りに高田さんちでトイレ借りたことありましたよね。奥さんが私のこと、車で家まで送ってくれて。あの時、高田さんってどんな旦那さんですかってきいたんですよね。そしたら、周りからはいい夫になるって勧められたけど、実際はなかなか難しいわね、なーんて。

 あの時、高田さんはこんな奥さんと一緒にいたらどんどん不幸になっちゃうて確信しました。私が救ってあげるべきだって」

 それが自分の留守宅に上がり込んだ大野さんへの牽制なのか、はたまた日ごろの愚痴をぶちまけただけなのか、紗代子の本音は判らないが、大野さんにとってはそれなりに、示唆に富んだ会話だったようだ。

「その…離婚するとして、なんだけど」

 陽介は生姜焼き定食を平らげ、グラスの水を少し飲んだ。

「さっき大野さん、慰謝料の話をしたよな。もしこのまま犬が戻ってこないと、やっぱり慰謝料を払う羽目になると思うんだ」

「そうなんですか?」

「俺に過失があったから、犬を病院に連れて行けずに、途中で死なせてしまうわけだろ?」

「だって、そうしないと離婚できませんよ」

「だからそれは、うちの奥さんから離婚を言い出す場合の、もしもの話だろ?俺から離婚を要求するなら、自分の過失なんて不利な条件にしかならないじゃないか」

「じゃあ、どうしたらいいんですか?」

 大野さんは上目使いにそう言って、箸をおいた。

「別に難しい事じゃない。犬をちゃんと病院に連れて行って、できる限りの治療をしてやる」

「それで?」

「それだけだ。後はこっちからできるだけ冷静に、離婚話を切り出す。

 俺は君が犬の世話をしたいというから、何か月もそれを支えてきた。犬を入院させるために、一人ではるばる九州まで行きもした。なのに君はずっと実家に帰ったきりで、戻る予定も判らない。これでは一方的に夫婦の義務を放棄されているのと変わらないし、夫婦生活は破綻したようなものだ。だから互いのために離婚して、別の道を歩んだ方がいいと思う、ってね」

「なーるほど!高田さん、実はちゃんと私とおんなじ事を考えてたんですね?やっぱりあんな奥さん、嫌ですよね!」

「まあねえ」と、ためらいがちに答え、陽介は敢えて身を乗り出した。

「だからだよ、俺に落ち度が少ないほど、離婚はしやすくなるわけだし、うまくいけばこっちが慰謝料をとれるかもしれない。そのためにはどうしても、あの犬を鹿児島の病院に連れて行って、満足な治療を受けさせる必要がある。俺だって別に、そんな事をしたから完治するなんて信じてないよ。ただのアリバイ作りみたいなものだ。離婚に向けてのね」

 話を聞くうち、大野さんの瞳は徐々に焦点がぼやけてきた。まるで赤トンボに向かって指を回してるみたいだな、と思いながら、陽介は尚も言葉を続けた。

「とにかく、俺に落ち度がないっていう事が重要なんだ。だからあの、俺がメールのやりとりをしてる、澪さんって人の事は秘密にしておかないと。第一、彼女とは本当に何もないんだから。

 そしてもちろん、大野さんもただの同僚だってはっきりさせておく必要がある。だから俺がうまく離婚できるまでは、絶対に疑わしい行動をしては駄目だ。まずは離婚して、それから俺は仕事を辞めて実家の方に引き上げる」

「え?会社辞めちゃうんですか?」

「それも一つの段取りだよ。離婚していきなり大野さんとつきあい始めたりしたら、別れる前から不倫してたんじゃないかって疑われるだろ?だからいったんはあの街との縁を切るんだ。そして一年ぐらいしたら、大野さんも退職して、俺のところに来ればいい。その頃にはきっと新しい仕事も決まってるだろうし」

「い、一年なんて長いです。私、すぐに三十になっちゃいます。三十路ですよ」

「でもそれ位のブランクがあって初めて、周りも、ああ、偶然に再会してつきあうようになったんだなって思うもんだよ。大野さんだって、披露宴には同期の子とか、地元の友達も招待したいだろ?身辺はきれいにしとかないと。入籍だけなんて地味すぎるだろ?」

 大野さんは「まあ、地味っていえば地味だけど。でも私、結婚式に招待するような友達なんてないし」とか何とか言いながら、おしぼりを畳んだり広げたりしている。

「それより何より、もう、高田さんの計画通りにはいかなくなってるんですよね」

「どういう事?」

「もう、会社辞めちゃったから」

「辞めた?でも昨日はちゃんと出勤してたじゃないか」

「だから、今日辞めたんです。正確には昨日の夜遅くっていうか、メールで、今日付けで辞めますって送信しました」

 陽介は何とか落ち着こうとして、残り少なくなったグラスの水を飲んだ。病欠の連絡ですら、メールは非常識といわれるような職場なのに、いきなり退職とは。

「理由とか、書いたの?」

「書きません、ていうか、一身上の都合でいいんでしょ?」

 きょとんとした彼女の顔に、なんとなくその文面が判るような気がした。「本日で退職します。一身上の都合です」岡本おかもと部長は仏頂面で「ま、しゃあないな」と唸り、吉岡よしおかは「そっすか」と受け流し、マダム井上いのうえは「好きにすれば?」と軽く微笑み、西島にしじまさんは「彼女らしいわ」と溜息をつく。そんな感じだ。

「だって私、仕事なんかずーっとうんざりだったし、毎日出勤してたのは、高田さんに会うためだけだったし。でも高田さんが異動してからは、あんまり会えなくなったから、いつ辞めてもいいやって思ってました。

 それで、奥さんがインフルエンザで、高田さんが一人でワンコを連れて九州に行くって話を聞いた時に、決めたんです。仕事辞めて、追いかけて行って、告白しようって。少し迷ったけど、やっぱり実行してよかったです。高田さんと将来のこと、きちんと話せたし、一年はちょっと長い気がするけど、考え方によっては段取りとかしっかりできるからいいですよね。それでなんですけど、私、歯の矯正するかどうか迷ってたんですけど、実行した方がいいですかね」

「まあその辺は、歯医者さんと相談すべきだと思うよ。とにかく、まずは犬のことから片づけたいんだけど、今どこにいるの?」

 やっとの思いで話を本筋に戻すと、大野さんの態度は随分と軟化していた。

「ワンコは私のお友達が預かってくれてます」

「じゃあその人に連絡とってくれないかな。睡眠薬でどうにかなってないか、とりあえず近くで動物病院を探して、診てもらわないと」

 大野さんは黙って頷くと、バッグから携帯を取り出した。よかった、何とかここまで説得した、という安堵と、まだまだこれからが勝負だという警戒心の間で何とか平衡を保ちながら、陽介はウェイトレスに合図をして、水のお代わりを頼んだ。

「もしもし?うん。うまくいってるよ。うん」

 漏れ聞こえる会話の内容を推し量ろうとしながら、陽介はグラスに注ぎ足された冷水を飲む。オーバーヒート寸前の頭は少しだけ鎮まったが、その目で追い続けている大野さんの表情は今一つ読み切れない。彼女は「そうなんだあ」とだけ言うと、電話を切った。

「どうだって?」と慌てて身を乗り出す陽介に、彼女は自分でもよく判らない、といった感じで、考え考え、答えた。

「あのね、ワンコはあのまま、フェリーに乗って出発しちゃったんです」

「はあ?」

「私、フェリー乗り場の駐車場で、お友達にワンコを預けて、キャリーケースだけ残しておいたんですよね。で、お友達はワンコを連れてフェリーに乗ったんです」

「なんで?」

「だって、いくら何でも直接ワンコを殺すのなんて、気持ち悪くてできませんから。でも、船から海に投げ込むんだったら、夜だし、誰にも気づかれないからいいんじゃないかなって、それはお友達の提案ですけど」

 その言葉に、今更ながらにあの、波間に浮き沈みしているキャリーケースを発見した時の驚きと恐怖が甦ってきて、陽介は一瞬だが胸が悪くなるのを感じた。

「とりあえず私から連絡するまでは、ワンコはそのままって話だったんですけど」

「そのままって?」

「寝てるのを、ボストンバッグに入れてる状態」

「手荷物にして持ち込んだって事?ペットを預けるところがあるのに?」

「知ってますけど、そんな事したら途中で海に捨てらませんから。でもなんか、ワンコが逃げちゃったらしいんですよ」

「逃げた?」

「はい。ごはん食べて戻ってきたら、ボストンバッグが開いてて、ワンコがいなくなってたって」

「だったら探せばいいじゃないか」

「でも、黙ってワンコ連れて乗ったのがばれて、怒られたりしたら嫌じゃないですか」

「そういう問題じゃないだろう」

 全く、大野さんの馬鹿な計画につきあって、平気で犬を海に投げ込もうとするぐらいだから、その友達なんてのも相当のバカ娘に違いない。

「もういい、判ったよ。俺はこれから別ルートで鹿児島まで行って、何とかして港で犬を引き取るから」

「本当に?じゃあ私も行きます」

「大野さんは来なくていいよ。さっきも言っただろ?いま一緒に行動してるのがばれたら、離婚に不利だって。だからその、友達の電話番号と名前を教えてくれればいい」

 離婚の話が出ると、途端に聞き分けがよくなるのも何やら恐ろしい気がするが、彼女は仕方ない、といった様子で「佐藤さとうカオル」という名前と電話番号の表示された画面を見せた。慌ててその番号をメモする陽介を頬杖ついて眺めながら、彼女は「あと一つ、お願いがあるんですけど」と言った。

「少なくとも私と二人っきりでいる間は、大野さん、って苗字で呼ぶのやめて下さい」

「…わかった。なんて呼べばいい」

「なぽにゃん。菜穂子なほこだから」



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