第20話
「兄ちゃん、どないしたんや」
気がつくと、後ろから初老の男が覗きこんでいる。その傍らには妻らしきおばさんが、「いやあ、可愛らしい犬やんか」と歓声をあげていた。
「なんか、具合が悪いみたいで」
どうも自分は傍目にも何かあったと思われる程の大声を出していたらしい。
「起きてきよらへんのかいな。車に酔うたんちゃうか?」
「酔ったからて、気ぃ失うような事あるやろか。私も若い頃は車に弱かってなあ、会社の慰安旅行で郡上八幡にバスで連れてもろたんやけど、酔ってしもて何も楽しいことあれへんかってんわ」
目の前のペクの容体とほとんど接点のない、おばさんの社員旅行の話は延々と続いたが、男は彼女の長話を気にかける様子もなく、「こいつをそのままフェリーに乗せたとしてや、海の上で何かあっても、どないもしたれへんやろ?」と問いかけてくる。
「はあ。実はもともと病気ではあるんですけど」
「そらあかんわ」
男はいきなり大声で断言した。おばさんもそこで社員旅行の話を止め、「もともと病気やったら、あかんなあ」と頷く。
「兄ちゃん、悪いこと言わへんし、とにかくあっちで予約の取消した方がええで」と男は顎をしゃくって乗船カウンターのある建物を示した。
「獣医さんやったらなあ、マスダさんとこのチワワがかかってるお医者さんがええらしいよ。電話して聞いたげるわ」
おばさんは頼まれもしないのに、たすき掛けにしたショルダーバッグから携帯電話を取り出している。
「犬は見てたるさかいに、はよ行ってき」と、半ば強引に背中を押されるようにして、陽介はその場を離れ、あたふたと建物に入っていった。
まるで何か悪い夢の中にいるような気分で、現実感を欠いたまま予約をキャンセルし、ペクの元へ戻る。男性とその連れ合いは、約束通りに車の傍で待っていてくれた。
「ありがとうございました」と頭を下げ、陽介はいま一度ペクの様子を確かようとしたが、開いていたはずの後部座席のドアは閉まっていた。寒いから二人が閉めてくれたのだろうかと思ったところへ、男が「ほな、大変やろうけど気いつけてな」と声をかけて立ち去ろうとした。
「あの、すいません」
図々しいような気もしたが、先ほどおばさんが獣医の話をしていたのがまだ耳に残っている。慣れない大阪で一から探すよりも、とりあえずそこを訪ねた方がいいかと思ったのだ。
「なんや?」という返事が聞こえたその時、陽介は「あれ?」と大声をあげていた。
「何や、どないしたんや」と、男も驚いた様子で戻ってくる。
「い、犬がいないんですけど」
さっきまでペクのキャリーケースが置かれていた場所には何もない。陽介は慌ててドアを開き、どこか他の場所へ移されたのではないかと、車の中に首を突っ込んで探し回った。
「いないんですけど、て、さっきあんたの嫁さんが連れてったがな」
男は陽介の慌てぶりに得心の行かない様子で、まばらにヒゲが剃り残された顎を掌で撫で回している。
「嫁さん?ですか?」
「ああ判った、彼女やねんな。兄ちゃん結婚指輪してんのに、それはあかんなあ」と、訳知り顔でおばさんが頷いた。
「いや、俺は一人で車を運転してここまで来たんです。誰とも一緒じゃありません」
「へえ」と、狐につままれたような様子で、二人は一瞬顔を見合わせた。
「あんたが予約取り消しに行ってしばらくしたら、その嫁さんやら彼女やら判らん姉ちゃんが来て、すいません、すぐ獣医さん行きますし、ありがとうございました、言うて犬を連れていきよったで」
「私らてっきり、あんたの嫁さんやとおもたわ」
「どんな人ですか?服の色は?どっちの方に行きました?」
女の足でペクの入ったキャリーケースを運んでいるなら、まだ遠くに行っていない筈だ。
「どんなて、普通のお勤めの姉ちゃんみたいな子やったで」
「うちの娘よりかまだ若いなあ。茶髪で、髪がこの辺まであって」と、おばさんは自分の肩のあたりを指先でさした。
「ほんでこっち側だけちょっと八重歯やねんわ」
「お前、短い間によう見とるなあ」と、男は連れ合いの記憶力に感心していたが、陽介は首筋のあたりがちりちりするような不安を覚えていた。
「その人、ちょっと鼻にかかったような喋り方しませんでしたか?」
「そうそう、なんか舌ったらずみたいな。ほら、やっぱり兄ちゃんの彼女やんかいさ」
「あっちへ行きよったで」と、男が指さしたのは、さっきまで陽介がいた建物の脇、曲がってしまえばここから見えなくなる場所だった。
「ありがとうございます」とだけ言って、陽介は即座に駆け出した。自分の知っている女性で、おばさんが指摘した特徴を全て具えている人間は一人だけだ。しかしそんな事ってあるだろうか。
建物の角を曲がると、そこもまた駐車スペースだったが、三栄薬品と書かれたハッチバックが一台停まっているだけで、がらんとしている。アスファルトに引かれた白線だけが、夕闇の迫る空間でやけに浮き上がって見えた。
「ちくしょう」
思わずそんな呟きが漏れ、そして「畜生」って動物の事だったな、と奇妙に冷静な事を考える。本物の畜生はペクで、そのペクを連れ去ったのは俺の知っている人間だ。陽介はもう一度「畜生」と呟くと、自分が車を停めていた場所に戻った。運転席に座り、エンジンをかける前に携帯電話を取り出す。そして着信履歴から
「
大野さんの声は弾んでいた。
「ずっと俺の後をつけてたのか?」
「そうです。見つかったらどうしようって、ドキドキしてたんですけど、高速乗ってる間はけっこう油断してたでしょ。私、さっきワンコ連れて走ってる時が最高にドキドキしました」
「会社にいるっていうのは嘘だったのか」
「そうです。本当にマダム
「つまり、あそこのサービスエリアに、大野さんもいたんだな」
「そう。高田さんが見えるとこから電話してたんですよ。その間に、親切なおばさんに頼んで、ワンコにお薬飲ませてもらったんです。売店で買ったどら焼きに、私がいつも飲んでる睡眠薬をはさんで、すいませーん、うちのワンコにおやつあげておいてもらっていいですか?あそこにつないである、あの犬です、ってお願いしました。おばさん戻ってきて、あのワンちゃんどら焼き大好きなのね、ぺろりと食べちゃったわよ、って言ってくれて、大成功」
「一体どういうつもりだ」
「高田さん、ちょっとしゃべり方きつくないですか?」
陽介はいい加減にしろ、と怒鳴りたいのをこらえて「自分では普通にしゃべってるつもり」と言った。
「大野さんは何がしたいわけ?その犬は重い病気で、もう治る見込みがないんだ。それを別の病院なら治せるかもしれないっていうんで、わざわざ指宿まで連れて行くんだ。それが大野さんのせいですっかり予定が狂って、ものすごく困ってるんだけど」
「知ってますよ。人間並みの最先端治療とか、温泉療法とか、色んなことするんだって、
「だったらもう邪魔しないでくれる?会社で大野さんの暇つぶしにつきあってるのとは、わけが違うんだ」
冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせながら、陽介は話を続けた。とにかく今は向こうを刺激しないようにして、ペクを取り戻すのだ。しかし何をどう取り繕ってみたところで、腹の底から湧いてくる苛立ちは抑えようがない。大野さんがそんな自分を面白がっている様子なのが更に癪にさわった。
「高田さんこそ、奥さんの暇つぶしにつきあうのは止めたらどうですか?」
「は?」
「だってもう治らないんでしょ?なのに奥さんはワンコのために実家に帰ったきりで、仕事辞めて、高田さんの事ほったらかして、おまけに大金払って指宿の病院なんて、どれだけ暇なんですか?よくそれに我慢してつきあってますね」
余計なお世話だ、と言いかけて、陽介はその言葉を呑みこんだ。もちろん、大野さんが逆上しないようにという配慮からだが、頭の片隅のひどく醒めた場所で小さく「そうなんだよな」と呟く声が聞こえたような気がしたのだ。そうこうする間にも、フロントガラスの向こうでは、次々と車がフェリーに呑みこまれてゆく。
「高田さん、ワンコ、本当に返してほしいんですか?」
陽介の一瞬の沈黙をからかうかのように、大野さんの声は挑戦的だった。
「返してもらわないと困る」
「わかりました。じゃあ、今から私のいる場所まで受け取りに来てください」
大野さんの道案内というのはとても主観的だ。いつだったか、道に迷ったという来客からの電話に「そこの交差点から、いちばん判りやすいところにあるコンビニの角を曲がって下さい」と説明していたのを聞いたことがあるが、今もまさにその調子で、「フェリー乗り場の駐車場から出て、普通に走っていたら最初に突き当たる角を反対にいったところ」というのが、彼女が車を停めている場所らしかった。
せめて目印はないのかと聞くと、「目の前に橋がありますよ。ていうかこれ、高速道路?」と、まるで要領を得ない。いつの間にかすっかり日が暮れていた事もあり、二度ほど同じ場所を回って、三度めにようやく、それらしい道に気づいて方向を変えることができた。
たどり着いたのは何の変哲もない、がらんとした護岸沿いの空間だった。目の前はもう海で、暗い色のフェンスだけが、まばらに設けられた街灯の、心もとない明かりに鈍く光っている。そちらへハンドルを切ると、車のライトに照らされてシルバーのクーペが闇に一瞬浮かび上がった。わナンバーのレンタカー、陽介は「あれか」と呟いてそのすぐそばに車を停めた。
外に出た彼の耳に、「高田さーん」という声が届いた。まるで、混雑したフードコートで奇跡的に空席を見つけた時のように嬉しそうだ。見ると彼女は自分が運転してきた車の反対側に、風をよけるようにして立っていた。黒いダウンコートに足元はロングブーツという格好で、それでも寒いのか少し背を丸めて腕組みをしている。
「犬は?」
必要最小限しか口をききたくないので、陽介はそれだけ尋ねた。しかし大野さんは悪びれた様子もなく「さてどこでしょう」と小首をかしげて笑顔をつくる。それにまた苛立って、陽介は無言のまま彼女の車を覗き込んだが、助手席にショルダーバッグが転がっているだけで、後部座席には何もない。いや、暗いから判らないだけだろうか、と目をこらしていると「あっちです」という声がする。慌てて顔を上げ、大野さんの指さす方向へ視線を向けたが、そこには海と陸の境界を示すフェンスがあるだけだ。
「何だと!」と叫びながら、陽介はすでに駆け出していた。遠目には判らなかったが、よく見るとフェンスには切れ目があって、そこから海へと続く狭い階段が続いているのだった。
体当たりするようにフェンスから身を乗り出す。頭上を横切るように通っている高速道路や、対岸にある幾つものビルの明かりを反射させている墨のような海面の、護岸にほど近いところに、見慣れた白いものがぷかぷかと揺れていた。
ペクのキャリーケース。プラスチックなので浮かんではいるが、片方が不自然に沈み込んでいて、実際に水面に出ているのは三分の一程しかない。
「ペク!」
陽介は大慌てでフェンス脇の階段を駆け下りた。上から見ると、キャリーケースは手を伸ばせば届きそうな場所に浮かんでいたのに、近づいてみるとけっこう距離があった。陽介の頭には水の冷たさだとか、深さの判らない夜の海の不気味さだとか、服を着たまま泳ぐことへの不安だとか、そういった事が接触の悪い蛍光灯みたいに二、三度瞬いて、消えた。
「くっそお!!」
力任せにキャリーケースを地面に叩きつけると、中の海水が一気に流れ出す。衝撃で外れた扉が耳障りな音をたてて跳ね、それに続いて水を吸って膨れ上がった、分厚いレディスコミックが二冊、物憂げに転がり出てきた。
「犬はどこにやったんだよ!」
襟足あたりまで水に濡れた身体は、夜風で一気に冷えてゆく。陽介は大野さんにつかみかかりたい衝動を抑えながら、さっきまでフェンスから身を乗り出して、今日一番の見世物を楽しんでいた彼女に向き直った。
「もういい加減にしてくれ」
「高田さん、怒ってます?」
「これが楽しんでるように見えるか」と言い返すと、大野さんはフェンスにもたれたまま「高田さんって優しいですね」と笑った。
「正直言って私、そこまではしないと思ってたんです。キャリーケースをとるにしても、どこかで棒を探してくるとか、誰かに手伝ってもらうとかするんじゃないかって。まさかそのまま海に入っちゃうなんて。でも、そういうところが高田さんってやっぱり優しいですね」
「何が言いたいかよく判らないんだけど。とにかく早く犬をどこにやったか教えてくれ」
そう言う間にも、陽介のずぶ濡れの身体は震えが止まらなくなっていた。あと三分もここで夜風に晒されていたらどうにかなりそうだ。
「ワンコは私のお友達が連れて行きました」
「友達?」
「そう。お友達に預けたんです」
つまり、彼女はここに来る前にペクを友人に引き渡して、キャリーケースだけを海にぶちこんで陽介を待っていたという事か。
「その友達はどこに行った」
「それは内緒。ねえ、高田さん、濡れたままでいると風邪ひきますよ。どこかでお風呂とか入って、温まってから着替えた方がいいですよ」
「わかってる」
寒さのせいか、怒りのせいか判らない体の震えを無理やり抑え、陽介はそう返事した。
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