第19話
今一つ決め手に欠けたプレゼンテーションを終え、まだまだ改良の余地ありと思い知らされた商品のプロトタイプを両手に抱えて、
「じゃあ、俺、こいつを車検に出して直帰するから。日報よろしく」と、運転席の
「明日から九州?大変ね」
「仕事じゃないですから」と、踊り場から振り向いて答えると、彼女は「ある意味仕事より大事でしょ」と笑った。
占い師だとか霊能者じゃあるまいし。口には出さないがそう確信していた。ところが、仕事も辞めてペクの看病に専念している紗代子には、不可能を可能にする気力も時間も十分にあったようだ。
「主治医の先生に了解もらって、カルテとかレントゲンとか送ったの。そしたら、まだ間に合うかもしれないから、一度来てみなさいって」
既に予約まで入れたと言われたのが、先週の事だ。紗代子一人でペクを連れて、カーフェリーで鹿児島まで移動するという話だったが、義理の両親の手前、夫である自分が「はいそうですか」と留守番しているわけにいかない。
慌てて有給を申請し、週末と前後二日の四連休で同行する羽目になってしまった。おまけにその顛末を西島さんに話したら、噂は一瞬で広まって、ふだんあまり言葉を交わさない同僚からも「
本当に、これが子供の病気だったら、何の迷いもないんだけれど。
自分の席に戻ると、すぐ営業日報にとりかかる。交通費を確かめようと携帯を取り出し、そして今日も
あの日からずっと、もう一度会いたいとそればかり思っているのに、何度か受け取ったメールには「寒い日が続きますね。こっちも今日は風が強いです」といった言葉しか書いてこない。言外に、あれはなかったことにしようと仄めかされているように思えた。
それでも、待たされるとはいえ、返事が来るのだから終わったわけではない。そう自分に信じさせたくて、彼は時折メールを送った。しつこいと思われない程度に、我慢して日にちをあけて、いったん打った文章の半分以上を削り取る。すると今度は必要以上にそっけないような気がして、また一からやり直しだ。このごろはいつも、昼休みだとか、寝る前のひと時をそんな事に費やしてしまう。
いや、今はとにかく日報を書かなくては。陽介は抽斗を開けてクリアファイルに挟んである営業日報のフォームを取り出した。会社を出た時間に、利用した交通機関、客先への到着時刻、商談相手の氏名、役職。こんな書類、多くの企業でパソコン端末から社内のネットに直接書き込みという仕組みになっているだろうに、陽介の勤め先では未だに手書きだ。
噂では
「次回で試作品を完成させないと、ユーザーの生産ライン調整に影響」と書いたところで、携帯がメールの着信を知らせた。澪から?と思うと瞬時に手を止めてしまう。が、それは紗代子からだった。たぶん、今日は定時で帰れるの?とか、そんな事だろうと思いながら、とりあえず内容を確認する。
「朝から調子悪くて、さっき病院に行ったらインフルエンザだって(泣)」
泣きたいのはこっちだ、と思いながら、陽介は紗代子の実家を訪れた。
「昨日から、何だか妙にあちこち筋肉痛だとは思ってたのよ」
独身時代からそのままにしてある自室でのベッドで、紗代子は横になっていた。熱が高いらしく、ふだんどちらかといえば青白い頬が赤みを帯びている。目を開いて会話するのも億劫だという様子で、言葉も途切れがちだった。
「ここで獣医さんの予約キャンセルしたら、次いつになるか判らないし、悪いけど一人でペクを連れて行ってくれない?」
そう言われるのは予想していたので、陽介は「わかった」と返事した。どうせ有給もとってしまったし、義理の両親の手前、行かないという選択肢はない。
「明日、点滴打ってもらって、行けそうなら飛行機で追いかけるから」
「え?そりゃ無理だろ。寝てた方がいいって」
「でも私、自分で獣医さんと話がしたいの」
そう言い募る紗代子の眼には涙が浮かんでいる。熱からくるものだとは思うけれど、それだけではないかもしれない。
「心配なのは判るけど、ちゃんと連れていくから。獣医さんには俺から頼んで、電話で話ができるようにしてもらうよ」
そうできる自信はないが、そうでも断言しないと話が長引く。紗代子もしかし、食い下がる気力はないらしくて「絶対ね」とだけ言った。
「荷物とかはお義母さんに聞けばいいんだよな。じゃあ、心配しないで任せといて。ゆっくり休みな」
今までに何度か、風邪をひいたり生理痛がひどかったりで寝込んでいる紗代子を見たことはあるが、ここまでぐったりしているのは初めてで、さすがに陽介も落ち着かない。なのに心の片隅では「何だって、よりによってこんな時に」という、苛立ちに近い気持ちがちくちくと棘を繰り出す。
どうやら義母もそんな陽介の気持ちを察しているのか、「
「まあ誰からうつったとかいうのは、しょうがないですから」と、陽介は平静を装った。
幸いというべきか、紗代子はペクの餌から水から、旅の準備は全て整えていて、ペット連れに優しいサービスエリアについての情報などもネットで検索してプリントアウトし、地図等と一緒にファイルに準備していた。それを見ると、俺って彼女のこういう几帳面なところが魅力で結婚したんだよな、と改めて思い出すのだが、だからといってこの装備一式を車に積み、一人で病気の犬を連れて指宿まで移動するのは気が重い。
一方、肝心のペクはやはり主人である紗代子の変調を感じているのか、ふだんより大人しくて、ケージにもぐったまま出てこない。まさかこいつまで調子が悪いんじゃないだろうな、と少し心配になった陽介はしゃがんで中を覗いてみた。
「おい、道中よろしく」と、声をかけても、少しだけ見えている黒い鼻面がわずかに上下するだけだ。全く、相変わらず馬鹿にしてやがる。
「じゃあ、明日またペクだけ迎えに来ます」
陽介と紗代子の車は軽自動車なので、鹿児島行きには義父の車を借りることになっていた。今夜乗って帰って、明朝自分の荷物を積んで戻ってくるというわけだ。義父はコーヒーテーブルに置いていた車のキーを陽介に手渡し、一言だけ「すまんな」と言った。
犬と男の二人旅、といえば何だか野趣あふれるロードムービーのようだが、実際にはそんなに豪快なものではない。ただ黙々と単調な高速道路を走り、いつもよりまめにサービスエリアに停まって、後部座席に置いたキャリーケースから犬を連れだし、運動させたり水をやったり。
自分だけに課せられた大仕事のようにも思っていたが、実際には犬連れのドライバーというのは結構いるものだ。まあ、たいていがチワワだとかトイプードルといった小型犬で、ペクのような中型犬は見かけなかったが、一度だけ窓から顔を出しているゴールデンレトリーバーにお目にかかった。
サービスエリアに着くと、まずペクの世話を一通りすませ、携帯で写真を撮ってからキャリーケースに戻す。それからが陽介の休憩時間だ。トイレに行き、売店をひやかしてから喫茶コーナーで少し上等の、豆から淹れるという自販機のコーヒーを買い、テレビのニュースなど見ながら一息ついて、それから紗代子に写真つきの報告メールを送る。
彼女はどうやら昨日より熱が高いらしく、「おつかれ、気をつけて」という程度の返信しか来なかったが、その方があれこれ様子を聞かれるより気楽ではあった。ペクの様子は紗代子の実家にいた時と大差ない感じで、とりあえず落ち着いているようだった。それでも住み慣れた場所を離れて陽介と二人きり、という状況はやはりストレスがたまるらしく、普段より何となくおどおどしている。
これをきっかけに、俺に一目おくようにならないかな。
そんな事を考えてもみるのだけれど、水をやろうと餌をやろうと、ペクはやはり陽介からは少し目をそらし続けていて、仕方ないから一緒にいるんだよ、という態度が見え見えだった。
とはいえ、雲ひとつない晴天だし、平日で道路は空いているし、時間に余裕はあるし。旅行だと割り切ってしまえばそれなりに楽しくはある。もしペクを病院に送り届けて、首尾よく入院させられる運びになったら、あとは温泉にでも浸かってのんびり過ごし、一人で身軽に帰ってくればいいわけで、それを想像するのもいい気分だった。そうなると自然に澪の事を考えてしまう。
彼女、会いに来てくれないだろうか。
東京から距離があるとはいえ、飛行機を使えば土日だけでも鹿児島で一緒に過ごす事は可能だ。少なくとも彼女に金銭面での心配はないし、問題は週末の予定を全てキャンセルしてまで来てくれるのか?という事だけだ。考えてみればずっと、自分が会いに行ってばかりだし、連絡もこちらからがはるかに多い。でも、もしかしたらこの前みたいに、真剣に誘えば、素直に応じてくれるかもしれない。
陽介って本当に楽観的よね、とは、折にふれ紗代子から頂戴する言葉だ。自分では悲観的というか、心配性だと思うし、むしろ彼女の方が前向きな性格だと思うのだけれど、人に与える印象というのは、本人の思い込みと食い違うものかもしれない。まあ楽観的だろうが悲観的だろうが、今の自分は休暇中で、旅に出ていて、もうすぐ一人きりになるという事実に変わりはない。
大阪市内に入る前、最後に休憩をとったサービスエリアで、陽介は思い切って澪に電話をしてみた。たいていの勤め人はまだ仕事をしている時間で、しばらく待ってみたが彼女は出なかった。まあ、色々と忙しいんだろうな、と思って一度は電話をポケットにしまったものの、また取り出して今度はメールを打つ。
「結局、犬を指宿の病院に連れて行くことになりました。今夜フェリーで大阪から出発です。でも嫁さんはインフルエンザで不参加。俺一人です」
まあこんなもんか、と思ったけれど、やはり一言付け加えてしまう。
「澪さんがいてくれたら、ずっと楽しいんだけど」
後はもう色々考えずに送信して、それから紗代子への報告メールにとりかかる。ペクをキャリーケースから出し、リードをつけて少し運動させ、売店の傍にある花壇のフェンスにつなぐと写真撮影。
もうかなり日が傾いてきたが、それでもペクの姿はきれいに映っていた。正直いって何枚撮ったところで、耳が大きくて足の短い雑種の犬なんだけどな、と思いながら「あと少しで大阪。具合どう?」とだけメッセージをつけて送った。
さてこのまま大阪港まで行って、向こうでのんびり休憩するか、ここでコーヒーでも飲んでからいくか、思案しながら売店の方を眺めていると、いきなり携帯が鳴った。澪から?と慌ててポケットから取り出すと、ディスプレイには知らない番号が表示されている。間違いだか何だか知らないが、とにかく出てみると、女性の声が「もしもし?」と呼びかけてきた。
「あの、どちらにおかけですか?」
残念ながら澪の声ではないし、もちろん紗代子でもない。間違い電話だと思うが、どこかで聞いた声のような気もする。
「高田さん、ですよね。今どこですか?」
「…
半信半疑ではあるものの、その声というか、言葉をつなぐ間の取り方は彼女独特のものだ。すると案の定、電話の向こうではキャーッという人を小馬鹿にしたような笑い声が弾け、「旅行どうですか?楽しいですか?奥さんインフルエンザで、一人旅になっちゃったって西島さんから聞きましたけど」という能天気な質問が繰り出された。
「うるさいな、別に遊びじゃなくて出張みたいなもんなんだよ。だいたい、今まだ仕事中だろ?急用でもないのに、休みとってる人間に電話してくるなよ」
頭にきて一気にまくしたてたが、向こうは全くこたえていないらしくて「私もう今日の仕事は全部片付いてるから大丈夫です。今、車運転してるんですか?」ときいてくる。
「運転中なら電話に出ないから。そっちは会議室か給湯室で、またぷらぷら遊んでるんだろ。これ切ってすぐにマダム井上に電話して、大野さんがサボってるからつかまえろって言ってやる」
「やーだー、そんないじめみたいな事しないで下さい。ただでさえ私、目の仇にされてるのに。ねえねえ、鹿児島のおみやげ、ちゃんと買ってきて下さいね」
「知らないよ。じゃあな、定時まできっちり働けよ」
それだけ言って通話を切ると、陽介は一瞬、本当にマダム井上に電話してやろうかと思った。自分の携帯の番号は会社で調べればすぐに判るのだが、そこへわざわざ今この時にかけてくる、その神経が判らない。本当は「サボってないでちゃんと仕事しろ」と、一言で切ってしまえばいいのに、相手なんかするから向こうがつけ上がるのだ。判っていても、陽介にはそれができない。
結局、舐められてるんだ。
またかかってきても、次はもう出ないでおこうと思いながら、陽介はつながれたままのペクに視線を移した。するといつの間に来たのか、義母くらいの年ごろの、上品そうな女性がペクの傍にしゃがんでいた。犬好きおばさんか、と思いながら「すいません」と声をかけ、腰をかがめると花壇のフェンスからペクのリードをほどいた。
「ああ、お連れの方に頼まれたものだから。可愛いワンちゃんね」と、彼女は少しよろけながら立ち上がると、軽く会釈をして去っていった。「お連れの方」って何だろう。ああ見えて、少し精神に変調を来してる人なのかもしれない。大野さんの電話でケチがついた気がして、陽介はコーヒーを諦めると、すぐに出発することにした。
心配していた夕方の渋滞はさほどでもなく、時間に十分な余裕があるうちに車は大阪港のフェリー乗り場に着いた。携帯を見ると紗代子から「お疲れ。いよいよペク、生まれて初めての船旅だね。頑張れ」というメールが来ていた。犬に対する言葉の方が、夫である自分に対してよりも長くて、思いやりがあるのは何だか面白くない。そして澪からは何の反応もないのが空しかった。
フェリーに乗ったらペクはペット専用ルームに預けなくてはならない。高い料金を払えば、ペット連れ専用の個室もあるらしいが、幸か不幸か紗代子が予約を入れた時にはすでに満室だったらしい。どうせそう仲のよくない犬と人間だし、別々に過ごした方がお互いに気も休まるというものだ。
とにかく、ペクを預けてしまえば、後はしばらくの自由時間だ。食事をして、けっこう広くて快適だという噂の風呂に入って、日ごろの寝不足を取り戻す勢いで寝る。幸い陽介は船酔いというものをした事がないし、天気予報によると今夜は海も穏やからしい。
カーフェリーなんて学生時代の旅行以来だな、と思いながら陽介はゆっくりと車を走らせ、乗船する車両が待機する駐車場に入った。金曜の夕方という事で、思ったより混雑している。いったん車を降りて手続きをしてから乗船するという流れだが、とりあえずさっきの紗代子からのメールの返事に、ペクの写真でも送っておこうかという気になって、陽介は車の外に出た。
陽が暮れてきたせいか、思いのほか風が強くて寒さがこたえる。排気ガスと重油の匂いが鼻につくが、その中にうっすらと潮の匂いが混じっていて、これから船に乗るのだ、という高揚感が少しだけ頭をもたげた。
その気持ちに蓋をするように運転席のドアを閉め、後部座席のドアを開けて、シートに置いているキャリーケースを覗いた。
「ペク、ちょっと写真撮るぞ」と声をかけ、キャリーケースにのせていたリードを手にする。いつもはその気配だけで出てこようとするはずのペクが、どうした事かじっとしている。外の匂いが嫌なんだろうか、と思いながら、しゃがみこんで、キャリーケースの入口に目の高さを合わせて覗いてみる。どうやらペクは丸くなっているらしく、背中しか見えない。
「どうした。車酔いでもしたのか?」
余りにも静かなので少し心配になって、陽介は手を伸ばしてペクを撫でてみた。いつもなら、たとえ寝ていたところでそこまでされると起き上がってくる筈が、やはり何の反応もない。
「ペク?おい、ペクってば!」
慌ててキャリーケースの外に引っ張り出してみたが、ペクは全くされるがままで、じっと目を閉じている。全身がぐにゃりと脱力していて、ふだんに比べてずっと重たく感じるが、もしかして、死んでしまったのだろうか。まさか、と思いながらよくよく見ると、腹が規則正しく動いていて、呼吸はしている。でも目を覚まさないというのは、人間で言うところの、昏睡状態って奴ではないだろうか?
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