第18話

「これは陽介ようすけくんに。ホテル特製の肉味噌なんだけど、私これだけでご飯三杯くらい食べられると思うわ。ま、最近の食欲が尋常じゃないんだけど」

 有希子ゆきこはそう言って小さな包みを差し出した。陽介は「すいません、色々もらっちゃって」と、軽く頭を下げる。

 双子が生まれたら当分落ち着いて旅行できないから、という理由で、紗代子さよこの姉の有希子夫婦は年末年始を河口湖の温泉宿で過ごし、新年四日めにようやく帰省してきた。こっちはもう明日から出勤なんですけど、という日に義理の実家に召集されるのは少し面倒だったが、次々と繰り出される土産物を目の前にすると何も言えなくなってしまう。

 紗代子と結婚してからというもの、元旦は必ず彼女の実家に行き、帰省している有希子夫婦と共に過ごすならわしになっている。陽介の実家は山間部の農村で、帰るとなると最寄の駅まで一時間ほどの道を車で迎えに来てもらう必要がある。雪でも降れば更に面倒なので、帰省は気候の良い五月の連休かお盆と決めていた。何より、紗代子が向こうに泊まりたがらないせいで、「ついでに行く場所があるから、他に宿を手配した」という旅行計画を申告せねばならず、年末年始では無理があるのだ。

 まあ確かに陽介の実家は古い。風呂は狭いし、トイレは土間で暗くて寒いし、あちこちから隙間風が入るし、近所に動静が筒抜けだし、紗代子が「ありえない」というのも判る。とはいえ自分には生まれ育った家で、トイレ以外にスリッパが存在しないだとか、くつろぐ時にやたら横になるとか、食べ物の賞味期限に無頓着だとか、兄一家を始め、近所の親戚が昼夜を問わず突然やってくるとかいうのはもう、外国だと思って諦めてほしくはある。

「あとこれ、ご当地カレー。この間、テレビのザ・ランク王国でベストスリーに入ってたのよ」

 有希子は最後の品をコーヒーテーブルに置くと、ようやく一息ついた。その隣では夫の孝太郎こうたろうが穏やかな笑顔を浮かべている。

「有希ちゃんたら、本当によくそれだけ買ったね」

 紗代子はどこか冷めた声で呆れてみせた。

「うん、自分でもわかってるんだけど、ついつい、これはお父さんにいいな、とか思ったらもう買わずにいられないの。相手の気持ちなんか二の次で、完全に自己満足の世界だわ」

「いやあ、俺は十分に嬉しいですけど」と、陽介は慌ててフォローしたが、紗代子は「買えるだけのお金があるんだから、自己満足でもいいんじゃない?」と冷静だ。

 これって、中小企業で昇給もままならない自分へのあてこすりだろうか、と陽介は彼女の表情を盗み見る。冬のボーナスも大したことなかったし、人事異動はあったけれど昇進ではないし。

 何となくそこで途切れてしまった会話をとりなすように、義母が「ねえ、晩ごはんはどうする?外で食べるんだったら、お店は予約した方がいいわよ」と尋ねた。

「外だったら、私留守番してる」

 紗代子はすぐにそう答えた。もちろん病気のペクを置いて行けない、ということだろう。すると有希子が即座に「久しぶりなんだからうちで食べたいわ。材料買ってくるからさ、お鍋でもしましょうよ」と言う。

「孝太郎さんはずっとドライバーで疲れてるだろうから、陽介くん、運転してくれない?」

「いいですよ」と、陽介は二つ返事で立ち上がった。山ほど土産物をもらったという感謝もあるが、義理の実家でじっとしているより、少しでも外出できる方が気楽なのだ。


 有希子たち夫婦が東京から着いたのは昼過ぎで、そう長いこと話をしていたつもりはなかったのに、外に出るとすでに日が傾いていた。有希子が指定したのは最近郊外にできたアウトレットモールの傍にある、高級食材も豊富に品揃えしているというのが売りのスーパーだった。彼女は「ちょっと市場調査しておかないとね」と、好奇心満々らしかったが、陽介は「東京の人からみたら、何これ?って感じじゃないかなあ」と言うしかなかった。

「何言ってるの。地元のいい食材が揃ってると思うわよ。地方の人って東京に気後れし過ぎよね」と、有希子は一向に心配していない様子で、駐車場に入るのにしばらく待たされても、「ほら、賑わってるじゃない」と、却って嬉しそうだった。

 年明け早々の夕食前という事もあり、スーパーはかなり混雑していた。有希子は陽介の推すカートに次々と白菜、椎茸、といった鍋向きの食材を放り込みながら、「へえ、こんなのも扱ってるんだ」と、珍しい野菜や薬味の類をチェックしていたが、鮮度や品質は気にかけても、価格はあまりよく見ていない様子だった。

「陽介くん、ナマコは駄目でも牡蠣は大丈夫なんだよね」

「うちの旦那は生麩が好きなのよ。年よりくさいでしょ?」

「あ、最近ここのお豆腐、こんなのも出してるんだ」

 有希子は自分で自分の言葉に納得しながら買い物を続けた。時折「陽介くんも好きなもの入れなさいよ」と言ってくれるが、支払は多分彼女の財布からだろうし、あれほど土産をもらっておいて、そこまで図々しくなれるものではない。

 あれこれ見て回る割に決断が早いせいか、そう時間もかけない内に有希子は必要なものを揃えた。カードで支払いを済ませ、駐車場の脇に店を出しているたいやきも買って、車に戻る。外は陽が落ちて、すっかり薄暗くなっていた。

「年末年始の冷え込みはそうきつくないって言うけど、やっぱり外は寒いわね」と、有希子は助手席でシートベルトを調節しながら言った。

「帰り道に何か飲んで行きたいけど、コーヒー禁止だからね。時々本当に、狂ったようにカプチーノとか飲みたくなるのよ」

「春までは我慢、我慢か。だったら、出産祝いにコーヒーもつけときますよ」

「そうしてくれる?八坂コーヒー館のプレミアムブレンドでお願い。母乳に影響するかもしれないけど、週に一回ぐらい自分にご褒美したいな」

 まあ、これだけ色々してもらっているんだから、コーヒーのプレゼントくらい、全く構わない。やはり出産が待ち遠しいのか、今日の有希子は口を開けばそんな話になっているような気がするが、きっと来年の今頃は、その双子が主役の賑やかな集まりになっているに違いない。

 去年、東京で彼女の住まいを訪れた時に知ったその話を、紗代子の口から聞いたのはついこの前、クリスマスの夜だった。陽介をマンションまで車で送って、そのまま泊まっていったあの日、久しぶりに自分のベッドにぺたりと座り、目覚ましをセットしながら「あのさ、有希ちゃん、三月の終わりぐらいに双子生まれるんだって」と言った。

 陽介は既に布団に潜り、読みかけの文庫本を開いていたが、彼女の声が予想よりずっと平坦な事に少し驚いていた。それは何だか、ペクの病状を告げた時の感じにも似ていた。

「へえ、双子か。もう判ってるんだ」

 知っていることを、知らないふりをするのは難しい。元々そういう演技力がないのは自覚しているが、今更「そうらしいね」とも言えないので仕方ない。

「不妊治療してとのは聞いてたけど、誘発剤の注射を何度か打っただけでうまくいったんだから、やっぱり有希ちゃんって運が強いんだわ」

不妊治療というのが具体的にどういう内容で、誘発剤とやらがどの段階に属するのか、陽介には見当もつかなかったので、「そっかあ」などと適当に返事した。紗代子は「私達きょうだいなのに、そういうとこ全然似てないのよね」と呟いて、手にしていた目覚ましをベッドサイドのテーブルに置いた。

「けどうちは、今すぐ子供ってわけにもいかないし、別にいいんじゃない?」と、陽介はなだめるような気持ちで言った。仮に明日、紗代子が妊娠していると判ったとして、日に日に大きくなるお腹を抱え、ペクの看病を続けるなんて無理な話だ。しかし彼女は「そういう意味じゃないの。ただ、私は有希ちゃんほど強運じゃないっていうだけの話」と言って布団を被ると、一方的に「おやすみ」と宣言してしまった。


 まだ正月休みだというのに、夕暮れの道路はけっこう混雑している。ニュースでは今日がUターンのピークと言っていたから、その影響もあるのかもしれない。

「少し遠回りだけど、旧道に抜けた方が空いてるんじゃないかな」と提案すると、有希子もあっさり同意した。

「そうね。だったらキリン堂の前も通るし。もしかしたら、ラスク買えるかも」

 うっすらと黄昏の光を残した西の空に、宵の明星が何かの道標みたいに輝いている。川を挟んでバス道の対岸を通る旧道は、やはり車の量が少なく、その分夜の訪れの早さを感じさせるように暗い。何だか深夜にドライブしているような気分で、陽介はエアコンを調節して「寒くないですか?」と尋ねた。

「大丈夫よ。なんか普段より心配してくれてる?」

「そりゃまあ、大事な身体ですから」

 どうも「妊婦」という言葉を口にするのは抵抗があって、そんな言い方になってしまう。有希子はそれを見越したように軽く笑うと「じゃあ、私も陽介くんのこと心配しようかな」と言った。

「俺のこと、ですか?」

「そう。あなた十二月に東京へ来たでしょう?クリスマスの前」

「ああ、雪のせいで帰れなくなって。紗代子に聞きました?」

「私、自分で見ちゃったの。陽介くんが女の人と二人で歩いてるところ」

 思わず返答に詰まる。冬枯れの並木の枝が次々と目の前を通り過ぎて行き、それからようやく「誰のことかと思った。あの人は友達の知り合いで、たまたま一緒になったんですけど」と答えた。

「そう?手をつないでたように見えたけどね。まあいいわ、私は陽介くんのことを心配してるって、それが大前提」

「はあ」

 有希子の意図するところが今ひとつ判らず、陽介は落ち着かない気持ちで前だけを見ていた。

「あの人のこと、誰だか判ってて一緒にいたの?」

「誰だかって、有希子さんは彼女のこと知ってるんですか?」

有馬ありま純己じゅんきの奥さん」

「それ、人違いじゃないですか?」と、陽介は少し安堵して聞き返した。「彼女は有馬っていう苗字じゃない」

「ああ、そうね。彼が婿養子だから、ええと、本名は義山よしやまね。奥さんの名前はみおじゃなかった?」

 そこまで言い当てられると疑う余地はない。急にエアコンが強すぎるように思えてきたが、額の汗をぬぐうこともできず、陽介はただ「確かに」と答えた。

「その、有馬って人、有希子さんの知り合いなんですか?」

「元同僚。変人が多いうちの研究所でも飛び切りの変わり種で、しかもずば抜けて優秀。共著も含めたら何冊も本を書いてるし、大学院で教えていた事もあるし、プロジェクト何本も抱えながら論文書いて、しかも趣味でやってる暦の研究で学会の発表までこなしてたわ」

「へえ」

「それが突然、僕、結婚して妻の家の事業を継ぎますからって、いきなり退職しちゃったから、当時は大騒ぎだったわ。研究一筋で、家庭を持つ事なんて考えるタイプの人じゃないと思われてたから。おまけに奥さんが当時まだ高校生でしょ、もう驚くとか通り越して、有馬さんらしいねって納得しちゃった。彼は今もうちの準研究員という形で学会の発表なんかはしていて、たまに親睦会なんか開くと顔は出してくれるのよね。そこにいつも奥さん連れて来るの」

「仲がいいんだ」

「どうだか。ほとんど会話してないもの。あのさ、有馬さんはとにかく変わってるの。言われたことは額面通り受け取るから、親睦会の招待状にご家族もどうぞって書いてあると、素直に連れて来るってだけの話。まあ奥さんは普通っていうか、可愛らしい人よね。私何度か話をしたことあるもの。正直、あまりにも旦那さんにほったらかしにされてて、見るに忍びなかったから声をかけたんだけど」

 その有希子の口ぶりは、貴方もそうでしょう?とでも言いたげだった。

「でもとにかく、俺はその奥さんとは友達を通じた知り合いで、たまたま一緒に歩いてただけで、それ以上は何もないです」

 話をするうちに少し落ち着きを取り戻せた気がして、陽介はこの話題を早く終わらせようとした。しかし有希子は、甘いわね、という風に軽く吐息をつくと「まあそれは信じてるけど、万が一でも有馬さんに弱みを握られるような事があれば、勝ち目はないからね」と言い切った。

「彼は何というか、邪心とかそういうものが一切ない人で、他人に対して嫉妬を抱くということもない人。でも、情けとか思いやりってものも皆無みたいで、物事をとにかく淡々と分析して処理していくの。そのせいかしら、誤っているとか不要だと判断したものに対しては、信じられないほど冷淡なのよ。

 私が研究所に入ってすぐの頃にね、彼の部下にあたる女性がちょっとしたトラブルを起こしたの。論文の盗用ね。幸いというべきか、公に発表する前にばれて、内輪で厳重注意という事で終わらせたんだけど、有馬さんだけが納得しなかった。それで彼はその盗用事件を外部に告発して、更にその女性を退職させてしまったの。

 確かに、職員規約を厳密に適用すれば解雇せざるをえない状況ではあったけど、二十代の女性だからまあそこは穏便にって、所長とかも思ってた筈なのよね。でもとにかく、誰も有馬さんを相手に「温情」という概念を理解してもらおうなんて、不毛な挑戦をする気はなかったわけ」

「それで、自主的に退職ですか?」

「それも有馬さんが納得しなくて、懲戒解雇。でも更にまずかったのは、彼女の受けたダメージが大きすぎた事。いわば業界全体に悪評ばらまかれちゃって、そこから立ち直れるほどタフじゃなかったの。辞めてから一月ほど後に、電車に飛び込んで自殺したわ」

 陽介は黙って旧道からバス道に戻る橋へと続く角を曲がった。

「その知らせを聞いて有馬さんは、請求される賠償金の事を考えると、鉄道自殺は費用対効果が悪すぎる。彼女はやっぱり研究職に向いてなかったねって。ただ、そう言う彼の中に悪意はなくて、本人はただ客観的な事実を述べているだけなの。彼にとっては解雇も自殺も、全ては彼女自身が引き起こした事なのよね」

「彼なりの哲学って事ですか?」

「そうね。有馬さんの世界観って奴かも。とにかく、彼は必要な時には当事者としての責任を最大限に果たそうとするわ。ほどほどとか、見て見ぬふりとか、嘘も方便とか、そういう事は一切できない人だから。

 うちの研究所ではあの事件以来、彼を独立した部門の所属にして、部下は持たせないようにして、秘書も他の部署からの出向って形にして、事実上彼の管理職としての権限を失くしてしまったの。普通なら馬鹿にされた、とか思うところかもしれないけれど、彼はそういうの全然気にならないのよね。だから、もし奥さんが不倫なんて事があれば、配偶者として当然の行動に出るに違いないし、彼が制裁を加えるのは相手と奥さんの両方って事よ」


 あの朝、突然現れたとおるは、陽介を朝食に誘ってホテルの一階にあるコーヒーショップで待っていた。逃げる、というのもできない相談ではなかったが、そうしたところでどうにもならないと半ば観念して、陽介は彼の前に座った。もう日は高く、融けはじめた雪に反射した陽光が、ガラス越しにひどく眩しかった。

 席につくとすぐにウェイトレスが来たが、既に食事を始めていた亨は「コンチネンタルでいい?」と聞いてきた。もちろん異存はなく、彼と同じ組み合わせにしてもらう。

「ここには、呼ばれて来たの?」

 水を一口飲んで、とりあえず聞いてみると、「まあね」という返事がある。澪と一夜を過ごした陽介を前にして、亨は不機嫌な様子も見せず、却って快活そうにさえ見えた。

「で、彼女は先に帰ったんだ」

「俺が乗ってきた車、そのまま運転してね。別に昨日の夜だって、迎えに来れない事はなかったんだけど、事故をもらったりしたら危ないからって断られた。それがここに泊まるための口実だったかどうか、定かじゃないけど」

 ウェイトレスが陽介の食事を運んできたので、亨はそこで言葉を切った。そして自分にもコーヒーのおかわりを頼むと、「まあ食べなよ」と言った。

 自分で思っていたより喉が乾いていたようで、陽介は大ぶりのグラスに入ったオレンジジュースは一瞬で飲み干してしまった。それからトーストを齧り、スクランブルエッグとベーコンを食べる。ふだん食べているベーコンが紙ではないかと思えるほど分厚くて、噛みしめると肉の旨味と油があふれてくる。それはいい、それはいいんだけれど。彼はばらばらになりそうな思考をまとめようと自分に言い聞かせた。

「俺の事、怒ってる?」

 こんな質問しても意味ないか。しかし黙っているのも気づまりなのだから仕方ない。亨は新しく注がれたコーヒーを一口飲んでから、「俺は彼女のヒモじゃないって言っただろ」と答えた。

「でも、俺が亨の立場なら、面白くないというか、不愉快だ」

「自分の女を寝取られたから?」

「まあ、そういう感じで」

「ご心配なく。彼女は俺の女じゃない。それはでも、判っただろ?」

 彼が何の事を言っているのか、陽介はすぐに気付いた。澪が多分長い間、夫、或いはその他の男と寝ていないという事。

「じゃあお前は一体彼女の何なんだ?自殺しかけてるのを救った、それはいい。けどこうやってずっと、彼女のそばをうろついてるのは何のためなんだ」

 平然とした亨の態度に馬鹿にされたような気がして、陽介は言葉を荒げた。悪戯していたのを見つかってしまったような、そんな後ろめたさがあるのは確かだが、そこまで距離をおいた態度をとるつもりなら、いっそ自分と澪の事に首を突っ込んでほしくない。

 幸い、隣のテーブルは空いていて、二人の会話をはっきりと聞いている人間はいなかった。亨も同じことを考えていたのか、一瞬ではあるが周囲を見回して、「それが判れば、俺も苦労しない」と言った。

「どういう意味だよ」

「俺だって別に、好きでこんな時にお前の顔を見に来てるんじゃないさ。ただ、彼女に、自分の代わりに、先に帰るって伝えてくれと言われたんだから仕方ない」

「つまり、一緒にいるのも、頼まれてるって事?」

「だから彼女は俺の雇い主だって言ったじゃないか」

 ふりだしに戻る。何故だか陽介の頭にはこの言葉が浮かび、彼は窓の外に広がる冬の青空を見上げた。昨日の重く澱んだ雪雲は跡形もなく消え去ったというのに、自分はいつの間にか深い迷路に入って出られない。

「じゃあ聞くけど、彼女のこと本当に何とも思ってないわけ?ただの雇用関係だって考えてる?」

 そうであれば、俺はとりあえず亨に遠慮する必要はないわけだ。澪の夫についてはまた別の話になるけれど。亨はその質問に、仕方ないね、という風に眉を持ち上げてみせ、陽介は途端に気持ちが怯むのを感じた。亨がこんな表情をする時は、何かをひどく悲しんでいたりするからだ。

「俺が彼女のことをどれだけ思ってるかなんて、他の人間には意味のない事だ。けどまあ、手を出さないのが相手のためだと、信じたがっているだけの馬鹿かもしれないな」


 あの時の亨の言葉に納得はできなかったが、それ以上深追いすることもできなかった。ただ、今になってようやく、少しだけその意味が判ったような気がする。彼は澪に手を出さない事で、彼女を夫から守っているのだ。それについて二人の間にどういう諒解があるのか、知る由もないけれど。

「まあ、ただの知り合いって事なら安心したわ」

 有希子の言葉は「そういう事にしましょうね」という圧力を伴っていたが、陽介もそれに従っておく。

「私だって一方的に陽介さんを責める気はないのよ。紗代子の事で、色々と不満はあって当然だものね。お母さんも心配してるし。クリスマスの時は、たまには泊まってきなさいって、叱ったんだってね」

 言われて初めて、あの日紗代子が帰ってきたのは、彼女自身の意志ではなかったのだと気付いた。でも結局、ああしてそっけなく先に寝てしまったのは、とりあえず義母に対して体裁をつくろっただけという事だろうか。それとも、自分が誘うべきだった?

 正直いって、陽介には澪の記憶をまだはっきり留めておきたいという気持ちがあった。彼女の肌の暖かさだとか、髪の柔らかさだとか、声の切なさだとか。そして彼女の身体を満たしていた海の味を自分の舌に残しておきたい。まだ別の記憶で上書きしたくないのだ。

「あ、行き過ぎちゃうわよ!」

 悲鳴に近い有希子の声に、陽介は我に返った。

「ほら、キリン堂。ちゃんと開いてる。ラスクまだ売ってるといいんだけど」

 慌てて速度を落としながら、陽介はこっそりと溜息をついた。俺は一体何を考えてるんだろう。今日は正月休み最後の日で、これから妻の実家に戻って皆で夕食を食べる。そして明日からはまた仕事が始まるというのに。


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