第17話
「何していたの?テレビを見ていた?寝ていた?」
「シャワー浴びて、テレビの映画見てたんだけど、イマイチ面白くなくて」
ついでに言うと、一流ホテルのバスローブなんてものがまた着心地がよく、ソファの上とはいえ、ついつい瞼が重くなってきたのだった。
雪に降り込められたこのホテルで、陽介どころか澪まで一緒に泊まることになったが、部屋でじっとしていても仕方ないので、とりあえず食事をした。遅い昼食のせいで澪はそう空腹でもないらしかったが、ここはお勧めだから、という理由で館内の中華レストランに陽介を連れて行った。
どうやらこの大雪で足止めをくっている人間はかなり多いらしく、レストランもロビーもごった返していた。食事を終えてそのまま部屋に戻るのも何だか違う気がして、陽介はバーに行ってみることを提案した。ところがそこも満席で、順番待ちだと言われた。
「みんなここに避難して、時間つぶしてるのかな」
バーのある三階の廊下から身を乗り出し、吹き抜けのロビーに飾られた巨大なクリスマスツリーと、その周囲を行き来する人々を眺めながら、陽介は呟いた。中にはパーティードレス姿の女性グループもいて、彼女たちも帰る手段が無いのかと思うと、少し気の毒になった。
「下手したら、俺も駅のベンチで凍えて一晩過ごす羽目になってたな。澪さんのおかげで助かったよ」
「じゃなくて、私のせいで帰り損ねたのよ。ねえ、奥さんにちゃんと連絡しておいた方がいいんじゃない?」
「今日は互いの相手の話はしないって約束しただろ?」と、陽介がやんわり言うと、澪は口をつぐみ、自分も手摺に身体をあずけるとクリスマスツリーに視線を投げた。その少し翳りのある横顔に、彼女はやっぱり、夫のことが気になるのだろうか、と陽介は考えていた。
年も離れているらしいし、恋愛結婚というわけでもなく、話を聞く限りでは合理的すぎて人間味に欠くような印象のある人物だけれど、結局のところ夫婦なんてものは当事者でないと判らない。しかし澪はふいにこちらを向くと、「じゃあもう一つの約束もまだ生きてる?」と尋ねた。
「もう一つ?」
「今日は私のしたい事していいって」
澪のその言葉が、自分に対して打ち解けてくれた証のように思えて、急に嬉しくなる。「それは別に、今日に限定してるわけじゃないけど。何がしたいの?」
「ここのエステに行きたいの。いつもはエステが済んでからお部屋で休んだりするんだけど、今日は逆ね。よければ陽介さんも一緒にどう?女の人と一緒なら、男の人も大丈夫よ」
「いや、俺は、そういうのはちょっと遠慮しとくよ。澪さん一人で行ってくれば?でも、この時間にやってるの?」
「ええ、今ならちょうど最後ぐらいかしら。予約が入ってなければ、だけれど」と、澪は細い手首を返し、腕時計を見てから「聞いてみるわね」と携帯電話を取り出した。
「陽介さんたら、またソファで寝ていたのね」
澪はそう言うと、自分はベッドに腰を下ろす。陽介は「うちはフローリングにそのまま座ってるからさ、ソファに対する憧れがあるんだよ」と説明したが、もちろんそれが全てではなく、やっぱり彼女の許しもなくベッドには上がれない、という遠慮がある。澪は「だったらごゆっくりどうぞ」と、呆れたように笑った。
「エステで働いてる人って、この大雪の中をこれから家に帰るの?」
「ううん、今日は従業員用の仮眠室に泊めてもらうんだって。やっぱり雪のせいでキャンセルが出ていて、お客は私だけだったわ。せっかくだからって、ちょっとおまけしてもらっちゃった」
「澪さんって常連なの?」
「かもね。毎週のように来てるから。でもその時によってフェイシャルだけだったり、ヘッドスパだったり。今日はストーンスパにしたんだけど」
はっきり言ってそれが一体何を意味するのか、陽介には理解できなかったが、まあ、確かに彼女は昼間より顔色がいいし、快活さを増したように思える。
「陽介さんも来ればよかったのに」と、澪は尚も残念そうに言いながら、バッグをベッドサイドのテーブルに置こうと立ち上がった。
「あら、このお花どうしたの?」
「さっき部屋に戻る前に、地下のショップをぶらぶらしてたんだけど、花屋があったから」
「そうなの?嬉しい!」と言って、澪は陽介が買ってきた、フラワーアレンジメントと呼ぶのも憚られるほどに小さな贈り物を手にとった。オレンジのガーベラとサーモンピンクのカーネーションを中心にまとめ、水色の薄紙で包んだプラスチックのカップに活けてある。
「お花って、こうして思いがけない時にもらうのが一番嬉しいわ」
でもそれ、千円もしなかったんだけど。陽介は後ろめたさ半分、ポイントを稼げた嬉しさ半分、といった気持ちで、喜ぶ澪を見ていた。彼女はそれからブーツを脱ぎ、鼻歌でも歌いそうな様子でバスルームに姿を消すと、しばらくしてからバスローブに身を包んで戻ってきた。そして勢いよくベッドに上がり、身体を横たえるとまた枕元の花を見ている。陽介はテレビを消して起き上がると、その様子を黙って眺めていた。
本来自分はそんな気遣いのできる男ではない。今年の春、
「次は頑張るよ」
その時はそう返事したのだけれど、「次」をこういう機会に生かしてしまう自分は果たして、学習能力が高いというべきだろうか。そう、俺だって別に馬鹿じゃないし、何をどうすれば人に喜ばれるかは判っているつもりだ。とはいえ、相手がどれだけ自分に何をしてくれたかと、つり合いをとっておきたい気持ちがある。でなければ、ただの使い勝手のいい夫になってしまうから。
「どうしたの?」彼の視線に気づいたのか、澪はけげんそうな顔でこちらを見ている。そして大きな枕を両腕の下に抱え込んでうつ伏せになると、「こっちに来ないの?」と尋ねた。
「そのソファで一晩寝心地を試してみたいっていうなら、別に止めはしないけど、絶対に明日、どこか痛くなるわよ」
その声も表情も、全くもって彼を誘惑しようという気配を伴わず、その事が陽介をためらわせた。彼女、本当に今夜ただ一緒に泊まるだけのつもりなんだろうか。しかしバスローブの胸元からのぞく桜色の肌だとか、シーツの上に零れ落ちるしなやかな長い髪だとか、彼女の肉体に備わったもの全てが絶え間なく自分に語りかけてくる。
「本当のこと言うと、俺は今日、嘘をついていた」
陽介は毛足の長いカーペットに足をおろし、横たわる澪に向き直った。
「嘘?どういうこと?」
「今日は澪さんに会えただけで、目標は達成できてるって言ったけどさ、実際はそう簡単じゃない。会って、話もしたし、食事もしたし、手をつないで一緒に歩いたりもした。でもやっぱりそれだけじゃ満足できない。だから今、もし澪さんの傍に寝たら、俺は必ず触れてしまう。今だってずっとそれを我慢してる。そんなの冗談じゃない、やめてくれって思うなら、俺に大人しくこのソファで寝てるように命令してほしいんだ」
澪はただ、その大きな瞳を見開いたまま、じっと陽介の言葉を聞いていた。その背中の曲線が少し早い呼吸に合わせて上下し、形のよい唇がスタンドの明かりをうけて柔らかに輝く。
こういう女性は優しそうに見えて案外、最後の最後で冷酷な事を平然と言ってのけるのかもしれない。陽介は知らないうちに組み合わせた自分の両手の指が、ほどけないくらい強くお互いを戒めあっているのに、今更のように気づいた。
「そう」
澪は聞き取れないほど小さな声で答えると、静かに身体を起こした。そして今度ははっきりとした声で「わかったわ。だからこっちに来て」と言った。
いつも上品な印象の服装でいるから、あまり気づいていなかったが、澪は見た目よりずっとめりはりのある身体をしていた。スレンダーな紗代子の好んで着る、ユニセックスだとかナチュラル系の服はたぶん似合わないだろうし、澪を最も引き立てるのは、デコルテを強調したカクテルドレスあたりだろう。必要な部分は十分に豊かで、他の場所は無駄なく引き締まっていて、しかも程よい弾力と柔らかさがある。
彼女のしっとりと汗ばんだ肌を静かに撫でながら、陽介はその呼吸が少しずつ落ち着いてゆくのを感じていた。どれくらい時間をかけただろう。夜はまだ長く、ここから立ち去ることもできないという現実が自分に余裕を与えてくれたし、それは澪にとっても、よい事だったと思える。
何故だろう、彼女の身体は長いあいだ男性と接していないようだった。結婚しているのに、と思ったが、まあそんな夫婦も大勢いる筈だし、じっさい自分と紗代子だって彼女が実家に行ってからは没交渉だ。それに、彼女の夫はもう四十代らしいから、その辺の事情もあるのかもしれない。しかし更にわからないのは
ふいに、彼の腕の中で澪が寝返りを打った。俯せていた顔を上げ、こちらに身体を向けてくる。陽介は少し身体を起こして枕を手繰り寄せると、彼女の首元にあてがう。澪は「ありがとう」と呟くが、薄闇の中でも彼女が微笑んでいるのがわかった。
「いま何時?」と聞かれて、枕元に置いた腕時計を手に取ってみる。
「あと少しで十二時半」
「そう、じゃあもういいわね」
「何が?」
まさかもうここを出て行くとか、そういう話じゃないよな、と一瞬どきりとするが、澪は落ち着いた様子で言葉を続けた。
「お互いの相手のことを言うのはよそうって、もう昨日の約束になったから」
「ああ」と、陽介は安堵の息を吐き、腕時計を再び枕元に置いた。
「陽介さんの奥さんは幸せね。こんな風に優しくしてもらって」
「いや、そうかな」
褒められているのか何だかよく判らないままに、陽介は言葉を濁したが、今ならきいていいような気がして、「ご主人とあんまりうまく行ってないの?」と尋ねた。
「別に仲が悪いってわけじゃないわ。ただ、夫は無駄な事が嫌いなの」
「これって、無駄な事かな」
「彼にとってはね。あの人は私の身体が好きじゃないの。私だけじゃなくて女の人全般って言ったけれど。見るのはまだいいけど、触りたくないの。暖かくて柔らかいから気持ち悪いんですって。だからね、こんな風にゆっくりと触れ合って過ごしたりしないの。でも仕方ないわね、人にはそれぞれ好き嫌いがあるから」
「それでも彼は澪さんと結婚したんだ」
「ええ、私の家族が抱えていた、お金の問題を解決するために。彼がそれだけって割り切れる人ならよかったんだけど、真面目な人だから、夫の務めを完璧にこなそうとしたの」
「つまり、期待されてたのは仕事の実務能力だけなのに、私生活も期待に応えようとしたってこと?」
「そうね。私にはそんな期待なんてなかったけれど、彼は夫としての義務だと考えていたの。つまりセックスすることが」
澪がいきなりさらりとその言葉を口にしたので、陽介はただ「なるほど」と言うしかなかった。
「結婚した時、私はまだ十代だったし、もちろん男の人なんて知らなかった。それでも結婚した以上そういう事は受け入れるものだと覚悟はしていたわ。でも、初めて二人きりで夜を過ごすことになった時に言われたの。僕は女の人の身体が苦手だけれど、それなりに努力はする。けれどもし君が処女なら、そんな面倒な人の相手は無理だから、誰か別の男とつきあってからにしてほしいって」
「そ、それでどうしたの?」
「今考えると、じゃあ辞めておきましょう、でよかったと思うんだけど、あの頃は、彼の言う通りにするべきだって、そう思ったのね。結婚したら何でも旦那さまに従うのよって、静香おばさまから繰り返し言われていたから」
「素直だったんだね」
「ちょっとしたお馬鹿さんかもね。とにかくそれで、私は誰か他の人を探す必要があったんだけれど、学校は女子高で、もちろん男の人とつきあった事もなくて、結局、瞬ちゃんしか頼る人がいなかった。憶えている?あの葉山の別荘」
「澪さんのこと、ミオキチって呼んでた人?」
「そう、管理人さんの息子の。私、夫には親戚に会うって嘘をついて、別荘に行ったわ。それで瞬ちゃんに何もかも打ち明けたの。最初は断られたわ。ミオキチは妹みたいなものだから無理だって。それに、瞬ちゃんは私の結婚にはずっと反対だったの。でも私、泣いてお願いしたわ。この結婚がうまく行かなかったら、うちの事業も駄目になって、お金がなくなって、おばさまや猫ちゃんたちの住む家もなくなってしまうから」
「追い詰められてたんだね」
「そうね。それで結局、瞬ちゃんが私に全部教えてくれた。ちょうど夏休みで、七日ほどいて、いったい何度抱かれたのかしら。女の人の身体って不思議ね、最初はあんなに無理だって思ったのに、本当に少しずつ馴染んでいくの。でも最後の夜に舜ちゃんは言ったわ、俺は自分のことが情けない。親がミオキチの家に高いお給料で雇われていたおかげで不自由なく暮らせたのに、何も助けることができないって。私はむしろ彼に感謝していたのに」
「俺は、彼の気持ちはわかるよ」
「そう?そんな風に思うものなの?」
澪はそして、枕に預けた首の角度を少しだけ変えると話を続けた。
「別荘から帰る日、荷造りをすませて、まだしばらく時間があるからぼんやりと窓の外を見ていたら、煙が見えたわ。何かを燃やしている、白い煙。どうしたのかと思って、窓から乗り出してみたら、瞬ちゃんが下の入り江で焚火をしてたわ。燃やしていたのは私のベッドにあったシーツだった。風のない日で、煙がどこまでもまっすぐ登っていったのを憶えてる。私が見てるって判っていたはずなのに、瞬ちゃんは俯いたままだった。それが私の子供時代のお葬式だったって、気がついたのは少し後の事。もうその時は、夫と夫婦になっていたわ」
「つまり、ご主人も義務を果たせたというわけか」
「そう。彼には何か自分のルールみたいなものがあるのね。だから曜日も時間も、ちゃんと決まっていたわ。どんなに忙しい時でも帰ってくるの。時にはまた、仕事に出て行ったり。たまに私が体調が悪かったりすると、どういう風に具合が悪くて何故できないのか、手紙に書いてくれって言われたわ。そうしないと納得できないんだって」
「体育の見学みたいな感じかな」
「陽介さんてうまい事言うわね。本当にそんな感じ。真面目なのよね」
「じゃあ、今もずっとそうなの?」
多分違うであろう事を確信しながら、陽介はわざとそう質問してみた。澪は少し考えている様子だったが、はっきりと「今はそうじゃないわ」と答えた。
「ある事がきっかけで、もうそういう生活は続けたくないと思ったの。でも、それを言うと夫に悪いような気がして、随分迷ったわ。あれこれ考えて、やっぱり手紙に書いたの。うちの夫はとても頭がいいから、議論するのなんて絶対無理なのね。別に喧嘩にもならないんだけれど、淡々と、君の言う事は矛盾してる、だとか、だったらこういう時はどうなるんだって、ほとんど起こらないような可能性まで挙げられて、気がついたら、ほらやっぱり僕が正しいだろう?ってなってるから」
「手紙はうまくいったの?」
「ええ。それにきっと、彼も本当は楽になったんだと思うわ。自分が決めたことは守るべきだって意識が強くて、嫌だという気持ちもなかった事にしてたみたいだし」
「そんな事、できるかな」
「できるんだって。嫌だと思うから嫌になるんだ、人には本来、無限の可能性があるってよく言ってるわ。まあお仕事とかはそういう考え方もありかな、って思うけれどね」
そして澪はしばらく沈黙した。何か言おうか、と陽介が思った時、彼女は「ごめんなさい」と言った。
「私こんなに長く、夫との話をするつもりじゃなかったの。もうやめにしましょう」
「わかった。でも、俺は澪さんが自分のことを話してくれたのが嬉しいよ。距離が縮まったような気がして」
「距離?私ってそんなに遠くにいる?」と、澪は笑いを含んだ声でそう尋ねると、手を伸ばしてその柔らかな指先で陽介の喉元に触れた。彼は自分の掌をそこに重ねてみる。
「何かね、澪さんて不思議なんだ。まだ大学生みたいな感じもするのに、結婚していて、とても綺麗で、会社を経営していて、車の運転が上手で、エステが好きで、おまけに俺のことこんな風に受け入れてくれるから」
本音を言えば「俺のことこんな風に愛してくれるから」と強気でいきたいところだけれど、そう断言できないのがつまり、彼女との間にある距離という奴だった。
「私には不思議なところなんてないわ。とても平凡で、むしろ退屈なぐらい」
澪はそう言いながら、彼の掌に捉えられた指先で、確かめるように彼の首筋をなぞった。
「でもね、もしかしたら私の一族は不思議かもしれないわ。ねえ、うちがどうやってちょっとお金持ちになったか知りたい?」
「うん。でもちょっと、じゃなくてすごくお金持ちだろ?」
「まあそれは見方によると思うわ。うちの一族はね、むかし長崎にいたんだけれど、まだ鎖国をしていた時代に、オランダ人に人魚のミイラを売って大儲けしたんですって」
「人魚のミイラ?」
それって、ちょっとさびれた温泉街につきものの、うさんくさい秘宝館なんかにひっそりと飾られている、あれだろうか。
確か大学のゼミ旅行でひやかし半分にそういう場所に入って、あれこれ大笑いした記憶があるけれど、人魚のミイラなる物体は握りこぶし位のしなびた頭に、全体のプロポーションからすると随分長い腕を地面にふんばって、新巻鮭を思わせる干からびた下半身を支えていた。あの有名な人魚姫の像に比べるとまるで小さくて、幼児くらいの背丈しかなくて、おまけに思い切り不気味な容貌をしていた。
「オランダの人には、遠い東洋にいる幻の生きものだって、大人気だったらしいわ」
「でもあれは作り物って聞いたけど」と、陽介はゼミ旅行に同行していた教授の言葉を思い出していた。これはね、猿と魚をつないであるんだよ。日本人というのは昔から、西洋受けするキャラクターのフィギュアを作るのが上手かったんだな。
「そうらしいわね。でも、うちの一族は本物の人魚も扱っていたの」
「本物?」
「ええ、本当の人魚って、その肉を食べると年をとらないんだって。何か昔話で、そうやっていつまでも若くて美しかった尼さんのお話があるらしいけれど、聞いたことある?」
「さあ、俺ってそういうの全然知らないんだよね」
紗代子ならもしかしたら知ってるかな、と思いながら、陽介は澪の指が耳の後ろに触れるのを感じていた。
「年をとらないのは無理でも、それを食べればお医者様に見放された病気でも治るって、すごく高いお金で売れたらしいわ。しかもお役人には秘密で」
「闇取引か。澪さんのご先祖さまって結構やるじゃない。でもそれ、本当は何の肉だったの?」
「え?だから人魚よ。本物の人魚の肉を売っていたの」
澪があまりにも平然とそう言うので、陽介も「そうなんだ」と納得するしかなかった。まあ多分、熊とか鹿の肉で、栄養状態の悪かった昔なら、病人に食べさせれば少しは元気になったのが、大げさに伝わったんだろう。
「そうやって儲けたお金を元にして、明治になってから事業を手広く始めたらしいわ。でもね、そのせいでうちの一族には人魚の呪いがかけられているのよ」
「呪い?人魚の?」
「そう。お金はあっても、好きなように生きられない。もし思う通りに生きようとしたら、死んでしまうの。だから、陸に打ち上げられた魚みたいに、自分では何もできないの。」
「それ、信じてるの?」
澪はその質問には直接答えず、「私の兄は、自分のしたい事をするから、うちの事業を継がないって決めて、半年もしない内に死んじゃったわ」と言った。陽介が何と答えていいか迷ううちに、彼女は言葉を続けた。
「でもね、それって、代々引き継いだ財産をあてにして、自分で何も始めない事の言い訳かもしれないわね。それでも私は時々、この呪いの事を考えたりするわ」
「俺は言い訳っていう説を支持するな。でも、これでまた少し澪さんとの距離が縮まった気がする」そう言うと、陽介は思い切って澪を抱き寄せた。
寝返りをうつと何故だか眩しいような気がして、陽介はうっすらと目を開いた。締め切っていた筈のカーテンは開けられ、レースのカーテンごしに朝の白い光が差し込んでいる。どうやら雪雲は夜のうちに遠ざかったらしい。
この分だと今日は足元が大変だ、と思いながら、伸びをする。何故だかベッドには彼一人だ。澪は先に起きてシャワーでも浴びているのだろうかと思いながら起き上がると、ソファに腰掛けてこちらを向いている人物と目が合った。
「おはよう」
亨はそう言うと、口元だけで軽く笑った。
「え?なんで?」と、驚きのあまり固まってしまった陽介に視線を向けたまま亨は立ち上がり、「ここのコンチネンタルはなかなか評判だから、朝飯一緒にどう?下で待ってるけど、別に慌てなくていいから」と言い残して部屋を出ていった。
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