第15話

「東京のカフェって、色んなものがあるな」

 陽介ようすけは感心したいような気分で、壁の小さな黒板に書かれたメニューを眺めていた。だからといって何か珍しいものを頼もうという冒険心は持ち合わせておらず、自分はコーヒーにして、みおの注文したホットオレンジなるものの味を少しだけ想像してみた。

「絞りたてのオレンジジュースに少しリキュールが入っていて、暖かいから余計に甘いわ」

 そう言う澪の頬は、アルコールのせいもあってかほんのりと赤みを帯びていた。アンティークめいた金属のホルダーにおさまったグラスの受け皿には、香りづけに添えられていたシナモンスティックが置いてある。やっぱりこれは女性しか好まない飲み物かもしれないな、と思いながら、陽介は「うちの街でこういう店やったら、流行るかなあ」と呟く。

 深い色調の木材をふんだんに使った内装で、狭いけれど天井は高くて、照明は控えめで、椅子もテーブルも小さくて、立ち飲みもできるカウンターがあり、縦長の窓から外がよく見える。新婚旅行で紗代子さよこと訪れたパリには、こんなカフェが沢山あったけれど、どうも日本の喫茶店ほど寛げないと感じた記憶がある。あの時紗代子は、こんな機会ぐらいしか海外には行けないから、とヨーロッパ周遊を主張したけれど、陽介はむしろ国内でゆっくりしたかったのを思い出す。

「お店やってみたいとか、思ったりする?」

 澪はすっかり落ち着いた様子で、陽介に尋ねた。雪の中を取り憑かれたように歩き続けた彼女をようやくつかまえて、それからどこか、暖かいものでも飲める場所はないかと探して、真っ先に目についたのがこの店だったのだ。ここのドアを開けるまでの短い距離ではあったが、陽介と澪はまるで恋人のように手をとり、身体を寄せ合って歩いた。

「現実逃避って意味では考えるね。喫茶店だけじゃなくて、蕎麦屋とか、自転車屋とか。でも俺って多分、人に雇われてるのが一番向いてるんだ」

 なんでこんな話してるんだろう。

 いま、陽介が一番気をとられているのは、先ほどの澪の突然の変調だった。あれは一体何だったのか?聞きたいが、平静を取り戻したかのように見える彼女の変わりようこそが、あれは何か触れてはいけない事だったと告げているように思えた。

「でも、澪さんはその年で経営者だもんな。尊敬するよ」

「そんな大したものじゃないわ。うちは普通の会社とも違ってるでしょうし。子供が真似事で遊んでるのと大差ないかもしれないわ」

「でもちゃんと回ってるんだろ?」

 経営状態に首を突っ込むのは不躾だとは思うのだが、やはり興味はある。澪は「私、これまでちゃんとした会社で働いた経験がないから、よく判らないわ」と、軽い溜息をついた。

「大学院を中退して、それから…今の仕事を始めたの」

「大学院?それってさっき言ってた、美術史の?」

「そう」

「すごいね。でも中退って、なんだか勿体ないなあ」

「まあ、私なんて研究者になる目標がはっきりしていたわけじゃなくて、ただ先生に勧められたから院に進んだようなものだったの。でもね、一緒に勉強してた人に言われたわ。みんな限られたポストを狙って必死で頑張ってるんだから、あなたみたいに結婚していて、生活を保障されて、中途半端な気持ちの人は、他の人に道を譲るべきだって」

「いや、それは何か、言う相手を間違えてるんじゃない?」

「でも、私は彼女の言うとおりだと思ったの。しょせん自分なんて特別に才能があるわけでもなくて、ただ学生生活を引き伸ばしてるだけだって」

「でも学校だって生徒が納める学費で儲けてるんだから、そこは気にしなくていいんじゃないの?」

「もしかしたら陽介さんの方が正しいのかもしれない。でもその時私は、出て行けと言われたように感じたの。自分が結婚してるって事は、あまり言わないようにしていたけれど、いいわよね、自分が働かなくても大丈夫な人は、なんてよく言われたわ。別に意地悪じゃなくて、単純に、うらやましいって風に。でもそんな事が繰り返されると、色んな事が段々とわからなくなるの」

 そこで澪は言葉を切って、まだ雪が断続的に降っている窓の外に視線を投げた。その放心したような様子がさっきの、突然歩いていってしまった時に似ていると気付いて、陽介は胸騒ぎを覚えた。自分はいつのまにか、また余計な質問をしているようだ。

「ま、済んだことをあれこれ言っても意味ないよな」

 かなり唐突だというのは百も承知で、陽介は己の能天気さを総動員した声でそう言った。澪は虚をつかれたように、ぽかんとした顔つきでこちらに視線を向けたが、ややあって穏やかな笑みを浮かべた。

「どうしてとおるさんと陽介さんがずっと仲良しなのか、わかったような気がする」

「え?」

 ここで亨の名を出すのは反則だろう、と一瞬思ったけれど、どこか不安な方へ傾いていた話の流れが切り替わった事に、陽介はとりあえずほっとしていた。

「男どうしが三十過ぎて、仲良しって言われるのも何だかなあ。それに俺たち、何年も会ってなかったんだから、その定義からは外れるんじゃないかな」

「だからこそ、じゃない?何年も会ってなくても、普通にお友達でいられるんだから」

「さあ、男どうしってそんなもんだと思うよ。いったん友達だと思ったら、よっぽどの事がない限りはずっとそのまま」

 そう答えながら、陽介はカップに少しだけ残っている、冷めたコーヒーを飲み干した。ちらりと腕時計を見ると、もう一時を回っている。さてどうするか、迷いはあったが、思い切って「ねえ、俺はそろそろお腹が空いてきたんだけど、澪さんはどう?」と尋ねた。ここでありがちな気まずいパターンは、私は別に…という奴だが、予想に反して澪は「そうね、何か食べたいわ」と言った。


 またタクシーを拾って、澪は贔屓にしている老舗の小さな洋食屋に案内してくれた。陽介はここの看板メニューだという分厚いカツサンドを食べ、彼女はハーフサイズのマカロニグラタンを注文した。食事を終えて外に出ると、雪はようやく止んでいたが、ガードレールや停められた車の上にはうっすらと白く積もっていた。

 相変わらず太陽は分厚い雲の向こうで、これから深まってゆく冬を予感させるような、弱々しい光しか与えてくれない。それでも食事をしたおかげで身体が温まり、何かが切り替わって、二人は落ち着いた足取りで街を歩いた。あと十日もすればクリスマスという事もあって、通りすがりにのぞく店は必ずといっていいほど、ツリーや雪だるまなどの飾りがほどこされていた。

 そんな風に街を歩くのは確かに楽しかったが、陽介の気持ちはいま一つすっきりしなかった。多分、今日の自分たちはこれ以上気分が高揚するという事はなくて、あとしばらくしたら澪は「じゃあ、私はここで」とか言って帰ってしまうに違いない。しかし原因は、自分がそれと知らずにおかした過ちにあるのだ。もし時間を巻き戻せるなら、画廊に足を踏み入れる少し前からやり直したかった。

「…とかある?」

 気がつくと、澪が何か尋ねている。

「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」

「奥さんに買って帰ってあげたいものとかある?って言ったの。もうすぐクリスマスだし」

「ああ、いや、確かにせっかく東京に来てるわけだけど、今年はプレゼントをやめにしようって、言ったところなんだ」

「そうなの?どうして?」

「いや、前に確か言ったと思うけど、彼女の実家にいる元飼い犬が病気で、とてもそんな気分じゃないんだって」

「確かに、それは仕方ないわね」

「でもさ、俺としてはその方が気楽なんだ。プレゼントなんか誕生日だけで十分だよ」

 そう言うと、澪はくすん、と諦めたように笑った。

「やっぱり男の人ってそういうものなのね。うちの夫は、欲しいものは自分で買えばいいんだから、プレゼントなんて意味がないって言うの。だから私、彼から何も贈ってもらった事ないのよ」

「それはちょっと合理的過ぎるな」

 人の配偶者をどこまでけなしていいものか、判断に迷うところだけれど、ここは女性寄りの意見を出しておくことにした。

「じゃあ、澪さんもプレゼント何もしないの?」と尋ねると、彼女は少し目を伏せた。

「結婚して最初のクリスマスに、ペーパーウェイトをあげたの。綺麗な青い色ガラスで、中に空気の粒がたくさん封じ込められているのが、海みたいな感じがして素敵だと思ったのよね。でも、彼はその包みを開けもしないでこう言ったわ。僕が君と結婚したのは、君の家の財産がこれ以上浪費されないように管理して増やすためだ。僕は必要なものは全て自分で手配するから、今後僕のためにこういう無駄遣いをするのは一切やめなさい」

「いやあ、なんていうか、はっはっは」

 率直に言って凍りつくような話だが、敢えて笑ってごまかすしかない。ところがその話をしている当の本人である澪も、仕方ないという感じで微笑を浮かべていた。

「呆れちゃうでしょ?おまけに、返品するからレシートをくれって言われたの。今じゃ笑えるけど、その頃はまだ高校生だったから、何だか落ち込んじゃった」

「俺だったら、今でもそんな事言われたら立ち直れないと思うな。でもさ、澪さんがずっと年下だってわかってて、そんなに厳しいこと言う人なの?」

「悪気はないのよ。真面目で頭がよくて合理的なだけ。彼からすると私の話って半分以上は無駄みたいで、必要な事だけまとめて話しなさいってよく言われるわ。こんな風に言うと意地悪な人みたいに聞こえるけど、そうじゃないの。意地悪をするっていうのも彼には無駄な事。だから何ていうか、とっても公平で冷静なの」

「その、ご主人って澪さんと結婚するまでは何の仕事してたの?司法関係?」

「どこかのシンクタンク。でもどんな研究かよく知らないわ。一度きいてみたら、君に言っても理解できないから話す意味がないって」

 そんな男と一緒にいて何が楽しいの?

 女友達なら率直にそう質問するところだろう。陽介の脳裏を、あまり幸福とはいえない結婚生活を送っている、紗代子の友人たちのエピソードがよぎっていった。彼女たちとのランチや飲み会を終えて帰ってきた紗代子はいつも、自分の割り切れない思いを整理するかのように、その日の会話を陽介に語って聞かせるのだったが、男である自分から見て、それは妻のわがままだと思える話もあれば、自分にも少し思い当たる節があったり、同性ながら庇う理由を見つけ難いケースがあったり、様々だった。しかし澪の話は何だか、それとはレベルが違う感じだった。

「頭の良すぎる人ってのは、難しいもんだね」

 言いたい事は他に山ほどあったが、それを口にしたところでどうにもならない気がして、陽介は敢えてお茶を濁すことにした。澪だってきっと、嫌になるほど何度も考えたに違いない。

「そうね。私、一度でいいから夫婦喧嘩をしてみたいって思ってるの。どんな気分がするかなって」

「そんなの経験しない方がいいよ。本当に下らないから」

「じゃあ陽介さんは夫婦喧嘩したことあるのね」

「もちろん。必ずこっちが先に謝るけどね。これは生活の知恵で、本当は納得してない時もあるけど、何かと楽だから」

「そうなの?」

「世の中なんてそんなもんじゃない?それとも、サラリーマン根性のせいかな。長いものには巻かれろって」

「奥さんの方が長いのね」

「そうだね」と頷いて、陽介はしばらく考えに沈んだ。紗代子が長いのか、紗代子をとりまくものが長いのか。彼女の両親だとか、姉の有希子だとか、大勢の親戚だとか、彼女の地元に住み続ける事だとか。要するに、俺は名実ともに完全アウェーなのだ。

 でも仕方ない。何からどう逃れたいという、はっきりとした不満があるわけでもないんだから。何故だかその時、陽介は澪が夫に対して感じている事を少しだけ判ったような気がした。すると自然に手が伸びて、隣を歩く彼女の指先を捉えた。さっき食事をして温まった筈なのに、その細い指は相変わらず冷たい。一瞬、戸惑うかのような反応があったけれど、彼女はすぐに力を抜いて彼の掌に自分の柔らかな掌を添わせた。

「もう今日は、お互いの相手の事を言うのは止めにしよう」

 陽介はそう言うと、澪の身体を引き寄せ、つないだ手を自分のコートのポケットに入れた。ぴたりと寄り添った彼女の腕から、ほんのりと暖かさが伝わってくる。通りは緩やかな下り坂で、そのせいもあって二人の歩調は少しだけ早くなる。澪は俯いたままで「わかったわ」とだけ答えた。





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