第14話
シベリアから今年一番の寒気団が南下するため、明日は首都圏でも降雪の可能性があります。昨夜テレビで見た予報そのままに、今日の東京は冷え込みがきつい上に風が半端じゃない。空は鉛色の雲で覆われて、太陽は頑なに居場所を教えない。
「あちこち歩き回る気になれない天気だね」
傍にあるソファに座って、同じように空を見上げている
待ち合わせ場所はどこがいい?と尋ねて、彼女が指定してきたのは、
タクシーでここまで来たという彼女は、カシミアらしい光沢のあるコートを腕にかけ、その下にインディゴの薄いニットを着て、膝丈のフレアスカートの足元はロングブーツだった。襟元には陽介がむかし紗代子に贈ったものの倍ほどある、ダイヤのペンダントが光っている。
「じゃあ、コーヒーでも飲みに行こうか?」
澪の言葉をうけてそう提案してみたが、彼女は「まだそこまで冷えてないわ。ねえ、ちょっとだけ家具見るの、つきあってもらっていいかしら」と言った。もちろん異存などない。
「陽介さんがこの近くに泊まるっていうから、ちょうどいい機会だと思って」
彼女はそのまま彼の先に立って、ショウルームに入っていった。何度も来たことがあるらしくて、迷う気配もなくダイニングテーブルやベッドのコーナーを抜け、ソファの展示されている一角に着く。
「
「ひっかいたとか、そういう事?」
「駄目って言ってるのに、爪とぎするのよね。もう買い替えるのは何度目かしら。適当なの選んでおいて、って頼まれていたんだけれど、時間がなくって」
そう言いながら、澪は柔らかそうな皮張りのソファの間をゆっくりと歩いてゆく。横目で値札を確かめてみると、ボーナス一括払いでも無理そうな金額がついていたりする。しかし彼女は金額には興味がなさそうで、むしろ問題なのは大きさだとか、手触りだとか、そういう事らしかった。
「コート、持ってようか?」
澪がアイボリーの三人掛けのソファの前で足を止めたので、陽介はそう声をかけた。「ありがとう」と、答えた彼女が差し出すコートを受け取ると、それは見た目よりもずっと軽く、深い森を思い出させる香りに柔らかく包まれていた。
「今、使ってるのにこれが一番近いみたい。猫ちゃんたち、自分でソファを駄目にしちゃうのに、ソファを変えると嫌がるのよね。新しいソファが入ると、みんなしばらく遠巻きにして見ているんだって」
そう言って彼女は座り心地を試すように腰を下ろし、「陽介さんはどう思う?座ってみて」と彼の意見を求めた。
「どうもこうも」と言いながら、陽介は遠回りして彼女の反対側の端に軽く腰かけた。自宅にいるかのようにくつろいでいる澪とは対照的に、背筋を伸ばし、いつでも立ち上がれる体勢だ。
「俺には十分すぎるほどいい座り心地だよ」
「そう?私には少しクッションが弱いみたいに思えるけど。身体が沈んじゃう感じ。でもまあいいわ、あれこれ迷っていてもきりがないし」と、自分に言い聞かせるように宣言して、澪は身体を起こし、先ほどから遠巻きにこちらの様子を伺っていた、若い女の店員に声をかけた。どうやら澪はこの店では上顧客らしく、短いやりとりの後にマネージャーらしきスーツ姿の男性が急ぎ足で現れると丁重な挨拶をした。
「また買い替えたいんですけど、このソファのサイズで大丈夫だったかしら。少し大きいような感じもして」
「はい、すぐに確認して参ります」と軽く頭を下げ、男は再び足早に去ってゆく。まだソファに腰掛けたまま、澪は「このお店にね、静香おばさまのお家の図面を預けてあるの。わざわざ測ったりしなくていいから、楽でいいわ」と言った。立ち上がるタイミングを見失っている陽介は、彼女のコートを抱えたままで「なるほど」と感心するしかなかった。人間関係がよく見えないけれど、この程度の出費で迷うような一族でない事だけはよく判る。
「私が結婚した時に、ちょうどいいからお家を改装しましょうって話になって、最初はここのコーディネーターさんが、インテリアを全部選んで、配置も決めてくれたのよね。でも静香おばさまのお部屋は猫ちゃんたちが予想以上に大暴れしちゃって、ソファだとか、カーテンだとか、もう何度も買い替えてるの。おばさまはいつも、澪ちゃんにお任せするわ、って言うんだけど、難しいのよね」
「まあ、家具ってそうしょっちゅう買うものじゃないから」
「でも、陽介さんのおうちって、すごく素敵だったものね。あれはやっぱり奥さんのセンスがいいからだと思うわ」
ここで
夫婦の間では「片づける」という言葉の意味が完璧に一致していないようで、彼が「片づけた」と理解しているものでも、紗代子にとっては「積んである」とか「立てかけてある」としか見えないものが多々あるらしかった。
「このソファのサイズですと、前回お買い上げのものより若干幅が狭くなりますので、スペースとしては余裕があります」
マネージャーらしき男性は、いそいそと戻ってくるとそう告げた。澪は「じゃあ大丈夫ね」と頷き、次の瞬間にはもうカードを取り出していた。
「できたら明日、配達してもらえたら」と、最後まで言い終えない内に、マネージャーは「そのように手配させていただきます」と頭を下げ、カードを押し頂いた。陽介はさりげなく立ち上がると、背もたれの裏にある値札をチェックしてみたが、やはり冬のボーナス全額でも払いきれない立派な値段がついていた。
「ふう、用事がひとつ片付いてすっきりしちゃった」
ショウルームのドアを抜けると、澪は指を組んだ両腕を軽く前に伸ばした。その時ようやく、コートを陽介に預けたままだった事に気づいたらしい。
「ごめんなさい、私ったら自分のお買いものに気をとられちゃって」
「いや、こんなところ滅多に来ないから、いい勉強になったよ」
そう言ってコートを広げてやると、彼女は慣れた様子で「ありがとう」と袖を通した。思えば自分は元々こういう気遣いを全くしない人間だったけれど、紗代子に口うるさく言われたおかげで、多少は気働きのできる男の真似事ができるようになった。今ので少しは点数がとれたのか、彼女にとっては当たり前すぎて評価の対象になっていないか、どちらだろう。
「ねえ、ついでにもう一つ、つきあってほしい場所があるんだけれど」
頬にかかる髪を一筋かき上げて、澪は陽介に微笑みかけた。もちろん、その方が気楽な事に間違いはないから、陽介は自分なりに組み立てたはずのプランをあっさりと放棄して「いいよ。一つでも二つでも」と答えていた。
二人を乗せたタクシーは黒っぽい煉瓦造りのビルの前で停まった。そこは小さな画廊で、ショーウィンドウには、団子のように絡まりあって眠る猫たちを上から見下ろした構図の、新聞を広げたほどの大きさの絵が飾られていた。その下に「マブチマミコ個展 ねこのうちゅうきらきら」と書かれたプレートが出ている。
陽介がドアを引いて開けると、澪は「ありがとう」と先に入る。マブチ氏は不在らしくて、留守番と思しき青年が一人で受付をしていた。澪は途中で立ち寄った店で買った手土産のチョコレートを預けると、慣れた様子で芳名帳に名前を書いた。「陽介さんもどう?」と勧められたが、こんな場所に足跡を残していって、何もいい事はないだろうと遠慮しておいた。
画廊は思ったよりも奥が広くて、陽介たちの他にもう一組、OLらしい女性の三人連れが、ひそひそ声で談笑している。展示されているのは絵の他に、掌に載るほどの木彫りだったり、焼き物だったり。ただ、そのモチーフは全て猫だった。
「この人と知り合いだったりするの?」
「静香おばさまがね。一番可愛がってた子が夏に死んじゃって、少しでも思い出を残しておきたいからって肖像画をかいてもらったの。だから本当はおばさまが来るべきなんだけど、このごろ少し風邪気味だから、行ってご挨拶しておいてって言われてたの」
「肖像画って、猫、だよね?」
「そうよ。まあ、死んじゃった後だから写真を何枚か用意して、それを見て描いてもらったの。でもとてもよく描けていて、おばさまもベルちゃんが生き返ったみたいって喜んでたわ」
正直言って、いくら可愛がっているとはいえ、飼い猫の肖像画を画家に頼むというのは陽介には理解できない。でもまあ、紗代子もそういう事を言い出すかもしれないし。後学のためには少し話を聞くべきだろうか。目の前に掛かった、深紅のクッションの上に座るシャム猫の絵を見ながら、陽介は「これって油絵?」と尋ねた。
「この人の作品は技法でいうと日本画ね」
「そうなんだ。日本画っていうと、お城の襖とか屏風みたいなイメージしかなかったなあ。澪さんてこういうの、詳しいの?」
絵画といえばまあ、「モナリザ」がどんなものかは知っている、という程度の陽介にとって、油絵と日本画の違いを説かれても大してぴんと来ない。だいたい、画廊という場所に足を踏み入れるのだって、今日が初めてだったりするのだから。
「大学で美術史とか勉強していたから、普通の人よりは詳しいかもしれないわね」
「美術史?いつの時代が専門?」と質問したものの、答えを聞いたところでその意味するところは多分わからないはずだ。澪はそんな陽介の心中も察しているかのように、軽く笑うと「安土桃山時代。派手好きなのかもね」と答え、「ねえ、自分の肖像画って描いてほしい?」と、話題を変えた。
「いやあ、別にいらないかな。そんな立派な人間じゃないし。俺、写真もあんまり撮られたくないんだけど」
「そうね、自分じゃ必要ないかもしれない。でも、死んだ後の思い出として、誰かに持っていてもらうとしたら?」
「うーん、写真があればそれでいいかな?でも絵の方が多少は美化してくれるから、そっちの方がいいのかもね。でも外国の貴族みたいなのはありえないな」
次から次へと続く猫の絵に、内心少し呆れながら、陽介は「澪さんはどうなの?俺はむしろ、澪さんぐらい綺麗な人なら肖像画にする値打ちはあるって気がするけど」と尋ねた。
「私は別に、死んだらそのまま忘れてほしいと思ってるわ」と答えたが、その横顔をよぎった一瞬の翳りに、陽介はこの間、亨から聞かされた話を思い出していた。ネットで見つけた自殺サイトに誘われて、集まったメンバーの中にいた亨と澪。亨はもうそんな事は考えもしないと言ったけれど、彼女の方はどうなんだろう。
「不思議ね、うちの静香おばさまを見ていると、人間よりも飼っている猫ちゃんを亡くした悲しみの方が深いように思えるのよ。私の父や兄が亡くなった時よりも、夏にベルが死んだ時の方がずっと辛かったみたい。じっさい、眠れなくなって、食事もできなくなって、私本当に、このままおばさまが亡くなってしまうんじゃないかって思ったほどよ。だから、私が死んでも、後に残った人にはそんなに悲しんでほしくないの。あっさりと忘れてほしいのよ」
それが君の死にたいと思った理由?そう質問できるわけでもなく、陽介はただ、「でもまあ、澪さんのおばさんは、その猫の肖像画を描いてもらったことで少しは気が休まったんだろう?」と言った。
「それはそうね。ベルはやっぱりおばさまには特別な猫だったから」
「でもさあ、澪さんって本当にその、おばさんの事を大切にしてるんだね。今日だって、ソファを選んであげて、ここに個展を見にきて、全部おばさんのための用事だし」
そう言われて、澪の表情は一瞬だが凍りついたように見えた。それからすぐに目を伏せて、微かに笑顔を浮かべる。
「確かにね。さあ、もう行きましょうか」
まだ見ていない絵は数点あるのに、それを気にかける様子もなしに踵を返す。あまりに唐突な彼女の変化に、陽介はもしや自分の言葉が何か気に障ったのではないかと不安になった。しかしそれを質問できるような雰囲気でもなく、澪は陽介を後に残したまま留守番の青年に別れの挨拶を告げ、ドアに手をかけていた。
外に出ると、空気は朝よりも更に冷えているように思えた。空は鈍い色に沈み、風花が時折思い出したように舞い降りてきては、頬にあたって溶けてゆく。そんな中で澪は何も言わず、陽介の存在も忘れてしまったように先に立って歩き続けた。やっぱり俺は何か彼女の機嫌を損ねる事を口走ったらしい。舌打ちしたいような気持で陽介は澪のブーツの踵が刻む軽快なリズムを追いかけて、画廊の前の緩い坂道を上った。
猫、おばさん、肖像画、ソファ、死ぬこと、忘れること。
自分の何がいけなかったのか、陽介はさっき口にした言葉を次々に思い出してみた。その目の前、手を伸ばせば届きそうな場所で、澪の艶やかな髪に乾いた雪の結晶が舞い落ちる。少し俯き加減で、まるで約束の時間に遅れまいとしているように、彼女は歩き続け、陽介はその後をついて行く。
角を曲がり、高級そうなブティックだとか、作家ものらしい器の店だとか、チョコレート専門店だとか、紗代子が時々買ってくる、セレブ御用達総カタログといった雑誌でしか見かけないような店が続く通りに出て、それからどうやら学校らしい敷地の塀に沿って延々と歩く。次の角を曲がり、信号を渡って、小さな公園を越え、クリスマスの飾りつけをすませた教会の前を過ぎて、パン屋とビストロと花屋と骨董屋を通り越して、また角を曲がる。
行き交う人はほとんどなく、車もあまり通らない。ここは一体どこだろうと訝りながら、陽介はポケットに手を突っ込んだまま、澪の影のように歩き続けた。雪は徐々に勢いを増し、目の前にレースのカーテンが降りてきて、風になびいているかのようだった。乾いた雪の粒はまるで金平糖のようにコートにぶつかっては転がり落ちてゆく。そして肌に触れたものは、身体の熱を奪って溶けていった。陽介はだんだんと澪のことが心配になり始めた。こうして一心不乱に歩き続けたところで、身体が温まるというほどになっているとは思えない。
「澪さん」
思い切って声をかけた。だが反応はなく、彼女は尚も前へ前へと歩を進めて行く。
「澪さんってば!」と、陽介は少し大きな声を出し、小走りに追うとその肩に手をかけた。瞬間、彼女はまるで見知らぬ人に突然声をかけられたかのように、目を大きく開いてこちらを振り返った。その顔色は寒さのせいか随分と青ざめている。
「どこかで一休みした方がいいんじゃない?こんなに雪が降ってるのに、ずっと歩いてたら風邪ひくよ」
そう言葉をかけた短い合間にも、風に踊る雪が口に飛び込んできそうだった。澪の長い睫毛に落ちた白い結晶が、見る間に透明な雫へと変わっていったが、それでも彼女は黙ったままだ。やっぱり俺のこと、怒っているんだろうか。ここで別れを告げて立ち去るべきなのか、傍にいた方がいいのか、途方に暮れそうになった彼に、澪は小さな声で「私、ずっと歩いてた?」と尋ねた。
「ずっと、っていうか、十分ぐらいかな」
「気がつかなかった」と呟いた唇から、長い吐息が白く溢れてゆく。
「何か俺の言ったことで、怒ったのかと思ったんだけど」
「そんな事ないわ」と答える彼女は、少しだけふだんの様子を取り戻したように見えた。風に乱れた前髪をかき上げ、それからいきなり「手が冷たい」と、細い指先をこすりあわせた。
「当たり前だよ。こんな雪の中を、手袋もせずに歩き回ってるんだから」
陽介は彼女の凍えた手を温めようと、ふたつの掌で包み込んだ。その指先の冷たさが、自分のしている事をあらためて知らせてくれたが、だからといって今更、両手をポケットに戻すわけにもいかなかった。
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