第13話
「
昼休みに出ようとしたところで、
「お誘い?」
「一課の忘年会に来ませんか?って」
「聞いてないなあ」と言いながら、今朝がた彼女がふらりと二課に現れたものの、マダム
「
「申し訳ないけど、遠慮しとくよ。前みたいな事になったら困るから」
「さすがに、もう無理やりお宅訪問はしないとは思うけど。まあ、それが高田さんの意思表示ね」
「まあね。大野さんにそう言っといてくれる?」
「私のこと、伝書鳩扱いしないでください」と、きっぱり拒絶して、西島さんは羽織っていたカーディガンの前を合わせるように腕を組んだ。
「一課で忘年会っていってもさあ、
「どうだかね。案外そういう人同士がくっついたりするんだよ」
「実は私もそう思ってたの。でも不思議ね、大野さんって、カップル成立しそうな相手ほど拒絶するんだから。それで、既婚者とかおじさんには構ってもらいたがるの」
俺は既婚者とおじさん、どっちのカテゴリーだろうか、と思いながら、陽介は「ふーん」と相槌をうった。それがどうやら思い切り適当に聞こえたらしく、西島さんは「つまんない事で引き留めちゃったわね。失礼しました」と、すこしきつい口調で締めくくると、「さっぶう!」と唸りながら足早に立ち去った。
まったく、冗談ではない。もう二度とあんな風に大野さんに上がり込まれるのはごめんだ。
空は薄曇りで、霧のような雨粒が時おり風に運ばれてくる。早い部署ではもう忘年会を済ませたらしいが、そこまで年末気分を味わうにはまだ中途半端な寒さだ。西島さんと立ち話をしていたのが響いたか、目あての定食屋は既にいっぱいで、陽介は座席に余裕のあるファミリーレストラン系の店まで足を延ばした。案の定、そこはまだ空席があり、彼は窓際のテーブルに案内されると和風ハンバーグ定食を注文して、携帯を取り出した。
メールの着信が三件。一つはレンタルビデオの返却日通知で、二つ目は紗代子から。
「クリスマスの件、ありがとう。いろいろごめんね。お歳暮のお裾分けの、野菜ジュース持って行きます」
クリスマスの件、というのは夫婦で毎年交換しているプレゼントの事だった。まあ大体の希望は互いに探りを入れておいて、予算も毎年同じ位で準備しておくという流れになっていたけれど、今年はちょっと休みたい、と紗代子から申し出があったのだ。ペクの病気で頭がいっぱいで、そういう事を考える気分になれないから、というのが理由だった。陽介にしてみれば、紗代子の希望にそって続けてきた行事だったので、見送り大歓迎だ。なので「こっちは全然OK。気にしないで」と返信しておいたのだ。正直なところ、このまま廃止できればいいとさえ思っている。
実際、これまで彼が贈ってきたプレゼントを、紗代子はそんなに喜んでいる風には見えなかった。確かに笑顔で受け取ってはくれるのだけれど、品物を気に入っているというより、贈るという行為が遂行された事に満足しているような印象があるのだ。そして陽介はというと、まあ、貰ったはいいが、わざわざ新調しなくてもまだ使えるのがあるんだけど、という感じの小銭入れやキーケース、手袋やマフラーといった小物のコレクションを増やし続けていた。
たぶん普通の夫婦なんて、こんなに熱心にプレゼント交換なんてしていない。
それが陽介が密かにリサーチして出した結論だった。子供がいる夫婦は、そんなところに回す金も暇もない、といった感じだし、まだ子供がいなくても、ローンだ貯金だと余裕のないところもあったりして、結局のところ彼らと同じ事をしているのは、紗代子の姉、有希子夫婦ぐらいなものだった。まあしかし、紗代子にとって有希子すなわち理想の夫婦なのだからしょうがない。ただ、その彼女も出産を控えているのだから、来年からはどうなるかわかったものではないけれど。
そして三通目のメールの差出人を見たところで、陽介は思わず「あ」と声をあげていた。「義山」と、取引先の一人みたいに登録してあるけれど、それは澪からのものだった。
「返信が遅れてすみません。土曜日は大丈夫です。お仕事がすんだら連絡してください」
短いけれど、そっけなくはない、というのは自分の思い込みだろうか。
最後に会った時に、今度は二人だけで会いたい、などと口走ってしまった事をひどく後悔はしたけれど、結果としてその願いは聞き入れられた。彼が知っている彼女への唯一の連絡手段は亨の携帯電話だったし、それを通じて彼女だけに接触するというのは無理な話だと半ばあきらめていたのに、彼女は思い出したように、自分の携帯から連絡をくれたのだ。それは亨が突然泊まっていった、翌週の事だった。
彼女はずっと電話しなかった事を詫びると、陽介に東京へ来る予定はあるのか、と尋ねた。だから彼は十二月の半ばにまた出張があると答え、その時に会おうともちかけたのだった。
正直いって、単なる社交辞令で連絡してきたのかとも思ったが、だとしたらそもそも「二人だけで会いたい」と言ってきた相手に電話などしないだろう。その証拠、というべきか、彼女はすんなりと会う事に同意して、メールアドレスまで教えてくれた。
出張先は正確には東京ではなくて群馬だけれど、まあとにかく東京経由にして、帰りに自腹で一泊すればいいだけの話だ。これまでは彼女に奢られてばかりだったから、今度は全部自分が払おう。とはいえ、彼女の好みそうな場所だとか店だとか、さっぱり想像もつかない。だとしたらやはり、彼女に任せるべきだろうか。少なくとも、全てお膳立てしてもらわないと機嫌が悪くなる、というタイプではなさそうだし。
「何をにやにやしてるんですか?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前に大野さんが立っていた。
「え?そっちこそ何してんの」
「お昼ごはんです。桔梗亭がいっぱいだったから、あきらめて出てきたら、高田さんが前を歩いてたんで、そのままついてきました」
「ストーカー?勘弁してよ」と言いながら、陽介はさりげなく携帯をポケットに滑り込ませた。大野さんは「人のこと変質者みたいに言わないでください」と口をとがらせ、彼の向かいに腰をおろした。
「ちょっと、誰がそこに座っていいって言ったよ」
「これはただの相席です。高田さんとお昼してるわけじゃないです」と彼女が答えたところへ、ウェイトレスが現れた。注文はシーフードオムライス。
「相席なのに、どうして伝票が一つなのかな」
「合理化じゃないですか?」
そう答えてグラスの水を一口飲むと、彼女はまるで業務連絡みたいに「奥さんからのメール見てたんですか?」ときいた。
「何か一人でにやにやして、高田さんの方がずっと変質者っぽかったですよ」
「大野さん、喧嘩売ってる?無理やり俺の前に座っといて、あーだこーだ、何なの一体。こっちは静かに食事したいんだけど」
にやにやしていた、と指摘されたのにちょっと慌てて、半分本気の少し厳しい声でやり返すと、彼女はまだ手にしていたメニューを勢いよくテーブルに伏せた。舞い上がった風が一瞬、陽介の頬を撫でる。何か言い返すのかと思ったら、目を伏せて黙ったままバッグから出した携帯をいじり始めたので、こちらは勢いをそがれた感じになった。
「大野さんてさ、お弁当派じゃないの?」と、とりあえず無難そうな話題に切り替えてみる。
「いつもじゃないです。お母さんには、もう作るの面倒くさいとか言われてるから、よくて週に三日」
「自分で作ればいいじゃない。ていうか、社会人になってからも、ずっとお母さんなんだ?」
「だって朝は時間ないし。でもいいんです、月に二万も入れてるんだから」
うちの給料で二万はちょっと少ないな、とは思ったが、ちょうど料理が運ばれてきたので、陽介はそれを言わずにすんだ。「お先に」と断り、急いで食べ始める。大野さんは相変わらず手元の携帯を見ていたが、「一課の忘年会、来ますよね」といきなり断定してきた。
「俺、もう二課に異動したんだけど」
「でも今年は四捨五入したら一課で働いてた事になるでしょ?忘年会は絶対です。来週の金曜ですからね」
「そりゃ絶対無理。木曜から出張」
「でも金曜の夕方に帰ってくるんでしょ?少しぐらい遅刻しても大丈夫です。二次会からでもいいし」
「いや、別に俺が参加する義務もないし。いいじゃない、いつものメンバーで楽しめば」
「私はあのメンバーじゃ、そんなに楽しくないです」
「そんな事言ったって、会社は別に遊ぶところじゃないんだから。忘年会を手放しで楽しもうなんて発想じたい間違ってんだよ」
いい加減相手をするのも面倒くさくなってきて、陽介はそれ以上何も言わず、勢いを増して食べ続けた。大野さんの前にも湯気をたてたシーフードオムライスが運ばれ、二人の間には沈黙が訪れた。
全く、一課は楽しくないだとか言っているが、いつもあちこちうろついて世間話をしている姿は、会社生活を楽しみまくっているようにしか見えないのに。そういえば今朝、二課をのぞきに来た彼女を見かけたマダム井上は「大野さんって、仕事は嫌いだけど会社は好きなのよね」と苦笑していたっけ。
「奥さん、まだ帰ってこないんですか?」
スプーンの先で器用にグリーンピースをよけながら、大野さんはいきなり口を開いた。
「まあね」
「でもちゃんとメールとかしてるんですね」
「別に仲が悪くて別居ってわけじゃないから。あのさ、人んちのこと、そんな風に詮索するの失礼だろ」
「詮索なんかしてないです。高田さんがあけっぴろげに、奥さんからのメールを見てにやけてるだけじゃないですか」
「これは別に、うちの嫁さんからってわけじゃない」と、口走ってから、大野さんの表情の変化で、陽介は自分の言い方がまずかった事に気づいた。
「やーだ、そうなんだ。高田さんって最低」
「なんでそうとるのかな、友達からのメールなのに」
「だったらそのメール、私に見せられますか?本当に友達からだって」
「冗談じゃない、何の権利があってそこまで他人のプライヴァシーに踏み込むんだよ」
「疚しいところがあるんでしょ。判りますよ。さっきのはそういう感じのにやけ方でした」
「それは大野さんの誇大妄想」
「妄想じゃないです。だって高田さんの奥さんも言ってましたよ、あの人は考えてることが全部顔に出る、そこが扱いやすいよのねーって」
どうして大野さんが紗代子とそんな会話をするんだろう。一瞬思考が停まって、それからようやく思い出す。あの日、マンションで鉢合わせして、紗代子が彼女を車で家まで送ったこと。敢えて平静を装って「それは俺がそう思わせてるだけ」と答えておいたが、内心穏やかでない。紗代子が自分で思っている分には仕方ないにせよ、どうしてよりによって大野さんにそれを言うのだ。扱いやすいだとか、「買い」だとか、俺はペットショップで売られている犬ではない。
陽介はもう何も言わず、大急ぎで食事を平らげると、「じゃ、俺ちょっと時間がないから」とだけ断り、千円札をテーブルに置くと立ち上がった。
「お釣り、どうするんですか」
まだ半分も食べ終わっていない大野さんに、「その分だけおごるよ」と答えて、陽介は足早に店を出た。
自販機で買ったコーヒーのカップを片手に部屋へ戻ると、マダム井上が一人、暗いデスクで仕事をしていた。一時までまだ十五分近くあるのに、と思いながら席につき、陽介はノートパソコンで、澪と行くのにどこかいい場所はないかと調べ始めた。小さな美術館なんかどうだろう、下町の散歩もよさそうだけれど、しょせんネットで調べられる場所なんて、おのぼりさん向けのルートだろう。だったらいっそ、超初心者向けの東京めぐりにした方が、彼女にとって物珍しくていいかもしれない。
「高田さん、出張来週だったわよね」
陽介の夢想はマダム井上の低い声で断ち切られた。
「ええ、芹川さんと木、金の二日で」
「直行直帰?」
「そう、ですね。向こうに夕方までいる予定だから」
「じゃあサンプルの上がりは週明けになっても大丈夫って事ね」
「だと思います」と答えながら、陽介は急いでスケジュールを確認した。試作品の最終チェックは芹川さんの責任だけれど、いまの返事で日程的に問題なかったんだろうか。慣れない部署での仕事は全てがこんな感じで、いつも心のどこかに膨らみ続ける風船を抱えているような、落ち着かない気分がつきまとう。そんな彼の様子を見て、マダム井上は「いいわ、芹川さんに直接確認するから」と言った。
「すいません」
「いいのよ。私が質問する相手を間違えただけ」
優しいんだか辛辣なんだか。彼女は自分と五つほどしか変わらない筈だが、妙な貫禄がある。身体はスレンダーなのにな。陽介はこっそり溜息をつくと、まだ十分に熱いコーヒーを飲んだ。
「井上さんて、いつも昼休みこんなに早く切り上げてるんですか?」
「大体そうね。できるだけ定時で終わらせるために。別に他の人にプレッシャー与えるつもりじゃないから、ゆっくりしていてね。さっきの質問は一時を回ってからすべきだったわ、ごめんなさい」
「いや、別にそういう意味で言ってるんじゃないですけど」
彼女があっさり謝罪してきたのに面食らいながらも、陽介は会話を続けた。
「帰りを急ぐのは、子供さんを保育所に迎えに行くからですか?」
「うん、まあ、お迎えはうちの親がやってくれてるから、それを実家に迎えに行くんだけど」
「それでも大変そうだな」
「まあ私なんて楽してる方よ。子供が熱を出しても、親に預けられるから、周りに頭を下げながら休みをとらなくてすむしね。それに、うちの子けっこう丈夫だから」
周りに頭を下げているマダム井上、というのも想像し難いけれど、小さい子供を迎えに行く、母親の顔をした彼女も何だかあまり思い浮かばない。
「ご主人は残業とか多いんですか?」
「そうね、サービス業だから時間が不規則なんだけど、頼めばお迎えなんかはやってくれるかも。でも、私が勝手に何でも背負い込んでる感じ」
「へえ、井上さんだったら、次はこれやって、あれやってって、ご主人に次々指示出してそうなのに」
そう言われて初めて、彼女は「失礼ねえ」と無防備な笑顔を見せた。
「高田さんこそ、家では一度座ったらずっと動かないで、奥さんに頼んでばっかりじゃないの?」
「まさか。俺は会社でも家でも、女性に対しては一貫して低姿勢です」
「そんな事言う人ほど怪しいわ」と、マダム井上が微笑んだところへ、「これ、返します!」という声がして、陽介のデスクに小銭が音をたてて置かれた。桜色のエナメルで彩られた指先。見上げるとそれは大野さんだった。
「さっきのお釣り?奢りだって言っただろ?」
「これっぽっちの金額で、奢った、なんて言い方されたくありませんから。結構です」
どうやら陽介が席を立ってから、猛スピードで食事を平らげ、走って追いかけてきたらしく、彼女は肩で息をしていた。化粧直しすら忘れているようで、きっちりメイクした顔の中でルージュの落ちた唇だけが妙に浮き上がっている。
「そりゃ失礼しました」
なんだこいつ、さっきからずっと俺の神経を逆なでするような事ばっかり。舌打ちしたい気持ちで、陽介は小銭を集めると財布に収めた。今だって基本的にそうだけれど、俺が二十代の頃は人から奢ってもらえれば百円だって大喜びしたものだ。彼女はしょせん実家暮らしのお嬢さんだし、可処分所得が有り余ってるんだろう。
「どうせ奢るんだったら、もっと豪華に奢って下さい!」
「なんで俺が大野さんにそんな事しなきゃいけないんだよ。もうコーヒー一杯だって奢らないから、安心してていいよ」
「なんでそんな意地悪言うんですか?」
だんだん意味不明な展開になってきたな、と陽介が思ったその時、昼休みの終わりを告げるチャイムが流れた。更にマダム井上が「はい、みなさん持ち場に戻ってね」と、駄目押しの一言を付け加えたので、大野さんはまだ何か言いたそうにしながらも、去っていった。
「あーあ、もう、大野さんて本当に俺の事を舐めきってんだからな」
陽介はぬるくなったコーヒーを飲み干すと、力任せに紙コップをつぶしてゴミ箱に投げ込んだ。何の因果でここまで絡まれる必要があるのだ。パソコンの画面は、はとバスを検索しかけたところで止まったままだった。
「愛されちゃって困るわね」と、マダム井上はかすかに笑うかのように口角を上げた。
「え?」
彼女何か答えようとしたところへ外線が回ってきて、二人の会話はそこで途切れた。愛されちゃって困るだなんて、一体どういう意味だ。そう思いながら「はい、お待たせしました、高田です」と電話に出る。棚のファイルを取るため後ろを通ったマダム井上が、少し首を傾けて陽介のパソコンを覗き込んだように見えたが、それは気のせいかもしれなかった。
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