第11話

 定時の五時半で仕事を終えても、今の季節だとすっかり外は暮れていて、何となく一日を少し損したような気分でタイムカードを押す。一課、という表示の下にカードを戻しながら、あと一週間でこれが二課に移るわけか、と陽介ようすけは考えていた。

「お疲れっす」と、挨拶をしながら、足早に近づいてきた吉岡よしおかが手早くタイムカードを抜き取った。彼のスポーツバッグに目を留めて、「どっか行くの?」と声をかけると、「軽く走ってきます」という答えが返ってくる。

「最近社内で、ランニングのサークル作ったとかいうやつ?」

「あれは女子の遊びですね。俺はもっとストイックに走り込みます」

 軽くいなす感じで、吉岡は陽介の脇をすり抜けるようにして、「お先っす」と夜の中に飛び出して行く。全く、彼を見ていると自分はもうそんなに若くない、という事実を目の前につきつけられるような気持ちになる。単に傍若無人なだけかもしれないけれど、自分の世界に没頭している様子こそ、若さそのものに見えるのだ。

 外に出ると、もうとっくに吉岡の姿は消えている。朝よりも強まった風で吹き寄せられた街路樹の落ち葉が足元を転がり、踏みつけると乾いた音をたてて砕けた。

 今日はこれから紗代子さよこの実家で夕食だ。娘のわがままのせいで独身生活を強制していて申し訳ないから、という義母の発案らしくて、そういう気の遣われ方は却って面倒というのが正直なところだ。しかし、すき焼きを振舞ってくれる、と言われるとやはり嬉しくなってくる。

 自腹で牛肉を食べるなど、特別な事でもないかぎりありえない。そこは紗代子が仕切っている部分で、彼女は「高いものはお母さんに食べさせてもらえばいいじゃない」とよく言う。彼女の実践しているのは一種の「なんちゃって倹約」で、高級食材は全て実家枠で食べる仕組みになっているのだ。

 今や実質上別居生活だというのに、紗代子は時々帰ってきては陽介が保管しているレシートの類をチェックして、パソコンの家計簿ソフトに入力していた。あからさまに「これを買うな」と制限されるわけではないけれど、コンビニのレシートが増えてくると「牛乳とか、野菜ジュースとか、言ってくれたら私が買っとくからね」と言われたりする。だったらもうこっちに住んで、ペクの世話に通えばいいのに、とやり返したくなるが、それは陽介には無理な話だった。


 自宅に帰るのとは反対方向のバスに乗り、紗代子の実家までは半時間ほどだ。ふだんは門燈だけなのに、今夜は玄関の明かりもついていて、一応は来客モードらしい。それが嬉しいような気もするし、やっぱり自分は家族とは違う距離感の人間なのかとも思いながら、インターホンを押して声をかける。ややあって、奥から紗代子が出てきた。

 お出迎えとは珍しい。今夜は本格的に歓待してもらえるんだろうか、と期待したのも一瞬の事。彼女の表情を見た途端に、これは少しまずい事態かもしれないと気がついた。

「来ていきなりで悪いんだけど、車運転してもらえる?」

「何かあったの?」

「ペクの具合がよくないの。獣医さんに連れてく」

 コートは着たまま、とりあえず荷物を置かせてもらおうとリビングに入ると、紗代子の両親が何とも当惑した顔つきでソファに座っていた。続きの間にあるダイニングの食卓にはすき焼きの準備が整い、あとはコンロに火をつけるだけ、という状態だ。そして問題のペクはリビングの隅にあるケージの中にうずくまっていて、黒い鼻面だけがかろうじて目に入った。

「ごはん食べないのよ。水も飲まないし。昼間は普通にしてたのに、夕方から急におとなしくなっちゃって」と言いながら、紗代子はケージのそばにしゃがみこんだ。陽介に気を遣ってか、義母が「まあ、お医者さんは明日でもいいんじゃないの?陽介さんだってお仕事で疲れてるんだし」と声をかけたが、それは逆効果だったようだ。

「明日まで待って何かあったらどうするの?ペクは病気なんだから。少しでも変だと思ったらすぐに診てもらわなきゃ」

 苛立ちを含んだ紗代子の声に、義母もどうしていいか判らない様子で、義父に至ってはじっとテレビの画面を睨んだままだ。陽介は慌てて「俺は大丈夫だよ。すぐに出かけよう」と声をかけた。紗代子は「ありがと」とだけ言うと、準備していたキャリーケースにペクを移動させた。


 キャリーケースを後部座席に置いて、紗代子はそのままペクの隣に座ってしまった。まあ仕方ないか、と思いながら、陽介は車を発進させる。

「道、教えてくれる?」

「ひだまり幼稚園からもう少し行ったとこ」

「ごめん、その幼稚園を知らないんだけど」

 こんな時、この街に生まれ育った紗代子と、学生時代に居ついた自分との違いを実感する。彼女にとっての当り前が自分にはそうでなくて、しかもなぜか呆れられるのは自分の方だった。今夜もやはり彼女は、しょうがないわね、という口調で詳しい道順を教えてくれた。

「ちゃんと憶えといてね」

「ああ、一度いけば大丈夫だから」と返事はしたものの、これは多分、今後も運転手役でよろしく、という事なのだろう。俺はそんなに暇じゃないんだけど、と思っていると、紗代子はそれを察したかのように「あそこの獣医さんって駐車場が二台分しかないのよ。夜はたいていいっぱいだから、路上駐車して、誰かが運転席で待ってた方がいいの」と説明した。

 案の定、動物病院は金曜の夜という事もあってか混雑していた。運んできたキャリーケースを紗代子に渡すと、陽介は「じゃあ、外で待ってるから」とだけ言って、すぐに車に戻り、通り過ぎたばかりの幼稚園の傍まで移動した。昼間にこんな場所にじっと停車していたら警察に通報されても仕方ないが、夜はさすがに大丈夫だろう。よく見ると他にも二台ほど停まっていて、ここはどうやら動物病院の臨時駐車場として機能しているらしかった。

 ここで一体どれだけ待てばいいのだろう。動物病院がどれほどの速さで患者をさばいていくのか、陽介には見当もつかなかったが、とりあえずあの待合室の様子では一時間どころで済みそうにない。

 彼は一度車を降り、近くのコンビニでシリアルバーと缶コーヒーを買ってきて空腹をしのいだ。紗代子の実家に漂っていた、切りたての葱の香りだとか、ラップの下で艶やかに輝いていた霜降り肉だとか、豆腐の白さだとか、そんなものばかり思い出されてくる。

 いやいや、そんな悠長な事を考えてる場合じゃない、紗代子には一大事なんだから。コンビニのポリ袋を丸めながら、陽介は自分を戒めた。将来、子供が生まれて、急に高熱を出した、なんて時にはきっとこんな感じなんだろう。いや、自分だってもっと切羽詰るに違いない。それとも、やっぱりこういう風に、てきぱきと動く紗代子の指示を待機しつつ、空き時間に缶コーヒーなんか飲んでるんだろうか。

 そこへいきなり、携帯に着信があった。紗代子からだ。

「この調子だと、終わるの九時回っちゃいそうなんだけど、先に帰ってごはん食べてたら?済んだらまた電話するから」

「いいよ。待ってるから」

 今この状態で、義理の両親と三人ですき焼きを食べるという選択は無理だ。あたりさわりのない会話にも限度があるし、下手に紗代子やペクの話題になったらどういう受け答えをしていいか判らない。紗代子もその辺りの腰の引け具合は判っているようで、「じゃあ、お母さんには連絡しとくね」とだけ言って通話は切れた。

 闇に浮かぶ携帯のディスプレイをぼんやりと見つめながら、陽介はふいに、みおに電話してみようかと思いついた。あの日、こんどは二人だけで会いたいなどと大それた事を言ってしまって、結局彼女からは何の連絡もない。よく考えたら彼女はいつもとおるの携帯を使っていたわけで、何度か電話してみたがいつも留守電になっていて、伝えたいのが亨なのか澪なのかもわからないまま、「高田たかだです。時間あれば連絡下さい」というメッセージを一度だけ残していた。

 さて今もう一度電話してみたら、誰が出るだろう。亨か、澪か。そのどちらとも話したいような、つながってほしくないような、でもまたきっと留守電だという安心感がほとんどで、陽介はその番号を押した。八回コールが鳴って、無機的な留守電のメッセージに切り替わると、ほらね、という気分で通話を切る。知らない間に止めていた息を吐き出し、ハンドルに両肘をあずけてもたれかかると、陽介は夜の闇に視線を投げた。

 どうせつながらないという諦めの一方で、もしかしたら澪の声が聞けるのではないかという期待があって、それが裏切られた事が今更のように空しいのだ。

 自分のこの気持ちは何なんだろう。単純に恋と呼ぶにはあまりにもぼんやりとしていて、つかみどころがない。もしかしたら、何年もの間、身体のどこかが麻痺していた人が、何かのきっかけで神経がまた機能するようになったりしたら、こんな感じかもしれない。感覚はあるのに、まだ思い通りに動かすことができなくて、とてももどかしい気分。


 結局、紗代子からもう一度連絡があったのは、十時を少し回った頃だった。またしてもペクのキャリーケースと一緒に後部座席におさまった彼女は、疲れてはいても機嫌は悪くない様子だった。

「とりあえず悪い状態じゃなくてよかった。ごはん食べないのは、薬の副作用で食欲が落ちてるせいみたい。でも、脱水が怖いからって、点滴打ってもらってたの」

「じゃあ、一安心って事かな」

「そうね。でもまた明日、点滴してもらうことにしたわ」

「そう」と答えた陽介の声に何か感じたのか、紗代子は「明日はちゃんと予約してきたから、私一人で行くわ」と急いで付け加えた。

 それから実家に戻ってみると、玄関の空気には既に、あの食欲をそそる料理の香りが漂っていた。義母は申し訳なさそうに「もういつ帰ってくるか判らないから、とりあえず火を通しちゃったのよ」と言った。

「ほら、お父さんって自分の時間通りに動けないと機嫌悪くなるから」と、彼女はひそひそ声で続けたが、どうやら義父は既に布団に入っているようだ。紗代子は「いつもの事よね」と、平然としている。彼女はペクをケージに移し、中の様子をもう一度確認して声をかけてから、「私、何だかもう晩ごはん食べる気しなくなっちゃった。陽介だけ食べて帰ったら」と言った。

「いや、俺も、別に…さっき車の中でちょっと食べたし。今日はとりあえず帰るよ」と答えながら、陽介は壁に掛けられた時計を見た。既に十時半を回っている。共に六十代の義理の両親にとって立派に「深夜」という時間帯。今からこの家で自分ひとりが食事をするのも気が引ける。このまま引き上げて、途中でラーメンでも食べて帰った方がまだマシだ。

「あらそう?じゃあこれ持って帰りなさいよ。ね、そうしなさい」と、明らかにほっとした様子で、義母は大きな保存容器いっぱいに調理済のすき焼きを詰め込んでくれた。残念ながらそれは陽介にとって「すき焼き風煮込み」にとしか思えなかったが、横で見ている紗代子も「明日の方が、味がなじんでておいしいわよ」などと言っている。

 自分は目の前でちりちりと焼かれながら、肉汁をにじませて身をよじる霜降りの牛肉を食べたかったのだ、と反論したかったが、そんな事できるわけもない。新聞紙に包んだ生卵も二つ添えて、義母は手際よく保存容器を二重にしたスーパーのポリ袋に収めると陽介に手渡した。

 こうなるともうさっさと引き上げた方が得策だ。陽介は更に何か渡すものはないかと棚をのぞいている義母に、「じゃあ、もう行きます」と声をかけた。

「あら、紗代子ちゃん、車で送ってあげなさいよ」と、彼女は再びペクのケージの前にしゃがんでいる娘に呼びかけた。陽介はあわてて「いや、まだバスがあるから」と断ると、ちらりと顔を上げた紗代子に「じゃあまた」と、軽く手を振って廊下に出た。もう来客モードも終了して薄暗い玄関で靴を履いていると、いそいそと義母が追いかけてきて顔を覗き込む。

「本当に今夜はお疲れ様だったわね。紗代子ったらペクの事になると、誰の言うことも聞かないんだから。もう陽介さんに足向けて寝られないわねって、いつもお父さんと話してるのよ。さ、これも持って帰って。紗代子にはまた、おかず持って行くようにさせるから」   

彼女は戸棚から発掘してきたらしい蟹缶と塩昆布をすき焼きの上に押し込んだ。

「しっかりごはん食べてね。頼りにしてますから」

 微妙にプレッシャーを感じさせる言葉と共に、義母は陽介の背中を軽く叩いて送り出した。


 また一段と冷えてきたな、と思いながら、陽介は足早に歩いた。バス停までの短い道のりにすれ違う人もなく、夜の住宅街は静まり返っている。少し郊外に自動車部品の下請け工場が幾つかあるおかげで、この路線はかなり遅くまでバスが走っている。陽介は時刻表を確かめようと携帯を取り出したが、着信履歴があることに気がついた。どうやら紗代子とペクを病院に迎えに行った、その間らしい。発信元は亨になっていた。

 一瞬ためらって、それでも陽介はこちらから発信してみた。亨と澪、どちらが出るにせよ、今はむしょうに誰かと話がしたい。

「ごぶさた」と、電話に出たのは亨だった。

「何度か電話もらってたのに、ずっと連絡してなくて悪いね」

「それは別にいいんだけど」と答えながら、陽介は次の言葉に詰まっていた。それを察したのか、亨の方が話を続けた。

「どっか飲みに行ってたの?」

「ていうわけじゃなくて、家の用事。まだ外なんだ。これから帰るとこ」

「だったら今から寄り道して行かないか?」

「は?」

「実はさ、今日はわりと近くまで来てたんだ。さっき着信があったから、ちょっと思いついて、そのまま来たんだよね。今ちょうど駅前の「モグラ塚」に行こうかと思ってたとこ」

「うわ、懐かしい名前出すなあ」

 それは学生時代に二人でよく行った居酒屋だった。その近くのスーパーで二人そろってバイトしていた時期があり、週払いの給料が出た後はたいがいそこで散財してしまうのだった。一瞬、地下にある店の低い天井や、窮屈なカウンターが記憶に蘇ったが、陽介には別の考えが浮かんでいた。

「それより、よければうちに来ないか?嫁さんまだ実家だから」

 わずかだが、ためらうような間があって、「じゃあそうしようか」という答えが返ってくる。

「神崎橋のそばにコンビニがあっただろ?あそこで集合にしよう。どっちが早いか知らないけど」

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