第10話

 その洋館は海に臨む丘の上にあった。周囲の家々の敷地も十分に広かったが、古びた煉瓦塀にゆったりと囲まれたその場所は、まるで植物園か何か、特別な施設であるかのような印象を与えた。開放された門を入り、よく手入れされた前庭の一角にみおが車を停めると、待ち構えていたかのように一組の男女が玄関から飛び出してくる。

「澪さん、ようこそいらっしゃいました」

 年の頃は五十代だろうか、夫婦と思しき二人は、どうやら澪とは随分親しいらしくて満面に笑みを浮かべている。

「急でごめんなさいね」と謝ってから、澪はしばらく彼らと近況報告らしいやりとりをしていた。その間に、陽介ようすけはあらためて、過去には澪の家族の別荘だったという二階建ての洋館を眺めた。

 決して大邸宅というわけではないが、それでも下手をしたらレストランどころかペンションでもやっていけそうだ。かなり年季の入った建物だが、その古さが却って暖かみを感じさせる。玄関にはポーチがあり、そこに小さな木製の看板が下がっているが、店の名前はシェ・トモノとなっているから、どうやらフランス料理らしい。

 澪に誘われて建物の中に入ると、そこはホールになっていて、布張りの古びた椅子が三脚並んでいた。正面は二階へと続く階段、そして向かって左手の、海に面した天井の高い部屋がどうやらレストランとして使われているらしい。

「ここは昔、居間と食堂だったのを、一つにまとめちゃったの」

 陽介の好奇心に答えるかのように、澪はそう説明して中を覗くと、「今日は貸切なの?」と尋ねた。

 彼女が「ここを切り盛りして下さってる、友野とものさんと、奥様の裕美ゆみさん」と紹介してくれた夫婦の、友野氏の方が「ええ、三時からウェディングパーティーのお客様が入っているんです」と答える。陽介が澪の肩ごしに中を覗いてみると、既に全部で七卓のテーブルがセットされている。部屋の突き当たりはテラスになっていて、ガラス戸の向こうは抜けるような秋の青空だ。パーティーが一番盛り上がる頃には、海に沈む鮮やかな夕日が彩りを添えるに違いない。

「でも、お花が何だかちょっと寂しい感じね」

 どうも澪が言っているのは、それぞれのテーブルに置かれた盛り花の事らしい。確かに、ウェディングパーティーというには少し地味な感じで、新郎新婦のテーブルと思しき場所に飾られているものが若干華やか、といった程度だろうか。

「ええ、ちょっとご予算が厳しいらしくて」

 その辺りの折衝は妻の裕美の役目らしいが、彼女もあからさまには言いたくないようだ。澪はしばらく黙って部屋を見ていたが、裕美の方を向くと「お花は伊藤花壇さん?」と尋ねた。

「ええ、うちはいつもあちらで」

「それじゃ、今から伊藤さんに連絡して、少しお花を足してもらえるかしら。テーブルにあるのはもうそのままでいいけど、メインテーブルはもっと華やかなのがいいわね。それと、サイドテーブルを三つ置いて、それぞれに飾ってもらって、あと、ホールにもね。請求は全部私宛にしておいて」

「あ、はい、判りました。すぐにそうします」

「急に言い出してごめんなさいね」

「いえ、きっとお客様はお喜びになりますわ」と、笑顔で言うと、裕美はあたふたとその場を離れた。傍でその様子を見ていた友野が、頃合いを見計らったように「いつものお部屋でご用意してますよ」と声をかけると、澪はにこりと笑って頷いた。


「ここはお客様用の寝室だったの」

 陽介の先に立って階段を上がり、短い廊下の突き当たりにある部屋に入ると、澪はそう説明して、一つだけ置かれたテーブルにはつかず、正面にある窓に向かった。そこは階下にあるテラスの真上にあたるらしい。陽介も後に続くと、彼女の隣に立った。

 澪がフランス窓を開け放つと、冷たいが、心地よい海風が髪をすり抜けてゆく。目の前に広がるのは小春日和の太陽に輝く穏やかな海と、刷毛で描いたような雲が幾筋か流れる青い空だ。水面にはプレジャーボートらしい船影があちこちに浮かんでいる。視線を落とすと、建物の下は灌木の繁みに覆われた緩やかな崖になっていて、その更に下には小さな砂地の入り江がある。澪は陽介が何を見ているのかに気づいたらしく、「庭の裏手からあそこまで降りていく小道があるのよ。後で行ってみましょうか」と言った。

「まるでプライベートビーチだ」と陽介が呟くと、彼女は「でも泳ぐにはちょっと向いてないのよね。水が急に深くなっていて、けっこう潮の流れが速いのよ」と残念そうに言う。

「やっぱり開けっ放しはちょっと寒いわね」と、窓を閉めると、澪はテーブルに近づき、陽介に眺めのよい席を勧めた。

「ここがお客さんの寝室って事は、家族の部屋はまだ他にあるって事?」

「ええ、隣が兄の使っていた部屋で、今はそこにもテーブルをセットしているわ。両親は二階の山側の部屋を使っていたけれど、そこは今、事務所兼スタッフルームね。私の部屋は三階よ。といってもほとんど屋根裏だけれど」

 確かに。二階建てだと思っていたこの階には、更に上に向かう、やや狭くて急な階段がしつらえてあった。

「天井が低くて狭いから、今は物置として使ってるんだって。でもね、ベッドに横になったままで海が見える、素敵なお部屋だったわ」

「じゃあ、どうして別荘のままにしておかなかったの?」

「それはまあ、夫の考えね」

 澪はそこで言葉を切るとしばらく沈黙した。その時になって陽介は、自分が随分と不躾な質問をしてしまった事に気づいた。たいていの場合、持ち家を手放すとなれば、そこには経済的な事情が関わるに決まっている。しかし澪は、淡々とした調子でまた話し始めた。

「私も自分で判ってなかったんだけど、うちってお金の管理がかなりいい加減だったの。このまま行ったら十年しないうちに没落しちゃうよって、結婚した頃に夫からそう言われたわ。それで彼は、あちこちにあった別荘やなんかの不動産を全部処分することに決めたのよね。管理人さん達にも別のお仕事を紹介したり」

「ここも管理人がいたの?」

「そうよ。離れに家族で住んでいたわ。今はそこに友野さんが住んでいるけれど」

 澪がそこまで話したところでドアがノックされ、裕美が入ってきた。彼女の後ろに続く、アルバイトらしき二十歳ぐらいの女の子は、ワゴンを押している。

「今日はちょうどスズキのいいのが入りましたので」と、テーブルに並べられた料理を見て、陽介は一瞬目を丸くした。切り身の焼き魚とけんちん汁に白ごはん。そしてひじきの煮物と白菜の浅漬けが添えられている。

「ふふ、どうして?って顔してるわね」と、いたずらっぽく言うと、澪は部屋を出ようとする裕美たちに軽く会釈して、再び陽介に向き直った。

「確かにここはフレンチレストランだけど、私はいつも賄いを出してもらってるの。その方が自分のお家に帰ってきたって感じがするから」

「いやあ、俺はこういうのの方が好きだな」

 それは陽介の素直な気持ちだった。正直言って、元別荘でフランス料理などという状況に少し気おくれしていたところへ、焼き魚定食と呼ぶのがぴったりの献立にほっとさせられた。

「お世辞でなければいいけど。よければおかわりしてね」

 賄い、と澪は言ったが、実のところそれは陽介がふだん出入りしているような定食屋のレベルをはるかに超えていた。焼き魚一つとっても、炭火を使ったことがよくわかる香りのよさだし、新米らしいご飯は粒がたってつやつやと輝いている。そして一見地味に思える器は、どれも作家ものらしくて、しっくりと掌になじんだ。


 デザートに出された洋梨を食べ、熱いほうじ茶で一息ついてから、澪は陽介を散歩に誘った。この館にはもう一つ、裏導線とでも呼ぶべき狭い階段があって、それは澪の両親の部屋だったというスタッフルームの脇に作られていた。降りた先は厨房の裏で、目の前に勝手口のような小さいドアがある。そこを開けて裏庭に出ると、コンクリートを打った資材置き場があり、その先には煉瓦を埋めて作った小道が緩やかな曲線を描いていた。

「あれが管理人さんのお家で、今は友野さんが住んでいるところよ」

 母屋から遠からず近からず、たぶん声は聞こえないけれど何かあればその気配はわかるだろう、という距離に、小さな二階建ての家があった。街中の建売住宅ならよく見かけるサイズだが、別荘に比べると「小さい」としか言いようがない。

「管理人さんは今、どうしてるの?」

「今は別の場所の管理人さん。都内に一つだけ残してある、アパートを見てもらってるわ」

 そのアパートってのが、また豪華だったりするんだろうな。陽介は勝手に想像をめぐらせながら、灌木のトンネルの中へと続く煉瓦の小道を歩いた。それはやがて下り坂となり、右へ左へと何度も折り返した後に、先ほど食事をした部屋の窓から見えた、砂地の入り江につながっていた。

「思ったより広いね」

 足元の黒っぽい砂は水気を含んで、今は引き潮であることを教えてくれた。ところどころに岩がのぞき、フナムシらしきものがこちらの足取りを察知してざわざわと移動してゆく。妻の紗代子さよこはこの手の生きものが大嫌いで、視界に入っただけで悲鳴を上げるが、澪は気にもかけていないようだ。

「俺が小学生だったら、このまま帰りたくなくなってるところだな」

 陽介は立ち止まり、砂に半分埋まった淡いピンク色の、貝殻の破片らしきものを拾い上げた。

「そうね。子供の頃、夏休みはほとんどこの家で過ごしたけれど、本当に楽しかった。夜はここで花火したりしてね。秋や冬でも、集めておいた流木で焚火したり」

 澪はそして、何かを探すように歩き回ってから上の方を指さした。

「ほら、ここから建物が見えるでしょ。あそこに梯子がついてるのが判るかしら」

 言われて首を廻らすと確かに、外壁に沿って屋根へと続く、細い梯子がとりつけられている。

「屋根の点検や修理の時に使うんだけど、私はよくあれを伝って夜中にこっそり出かけてたの。廊下の窓から出てね」

「怖くなかった?その、暗いのもあれだけど、高さとか」

「慣れてるから平気よ。それに一人じゃなかったし。管理人さんの息子さんで、しゅんちゃんってお兄さんがいて、その人と遊んでたわ。五つぐらい離れてたから、すごく頼りになる感じで、花火したり、お星さま見たり、ボートに乗ったり」

「澪さんのお兄さんは?」

「うちのお兄さんはね、部屋で本読んだりする方が好きなの。それに、八つ年上で、もうこっちにはあんまり遊びに来てなかったから。とにかく、私の方が活発だったのは確かね。男女逆だったらよかったのにって、よく言われたもの」

 澪はそして、仕方ない、といった感じの笑みをうかべながら、風に乱された髪をかき上げた。

「瞬ちゃん、中学の頃はけっこう遊んでてね、夜遅くに帰ると家に鍵がかかってるから、こっそりあの梯子で上がってきて、私の部屋の床で寝てたわ」

「泊めてあげてたの?」

「だってその頃私まだ小学生だもの。ミオキチって呼ばれて、瞬ちゃんには弟みたいな感じね。寝てると、ぽんぽんって私の頭をたたいて、ミオキチ、ちょっとごめんな、って。私はたいがい、わかった、とか言いながらまた寝てしまうんだけど、たまにそのまま目が覚めたら、ちょっとおしゃべりなんかしてね。

 瞬ちゃんには彼女っぽい女友達が何人もいて、ミオキチ、女なんてもんはさ、その気持ちわかるよ、とか言っとけば機嫌がいいからな、とか色々教えてくれるのよ」

「でも澪さんも女の子だろ」

「あんまりそうは思ってなかったみたいね。でもまあ、瞬ちゃんは中学を出るとすぐに板前さんの修業を始めて、遊ぶ時間もなくなっちゃった。いきなりちゃんとした大人の人みたいになったんでびっくりしたのを憶えてる。それでもまだ私の事はミオキチって呼んでたけど」


 それから二人で元来た道を戻って前庭の方へと回ると、ジャガーの隣に何台か車が停まり、ウェディングパーティーの出席者らしい客が辺りを散策していた。再び玄関からホールへと入ると、さっきは何もなかった正面の空間に小さなアンティークのテーブルが置かれ、その上に深い赤を基調にした艶やかな盛花が飾られていた。

 つい好奇心にかられてパーティーの行われる部屋を覗いてみると、こちらも同様にサイドテーブルが幾つか配置され、それぞれに花が飾られている。ただし色は白とピンクにまとめられていて、ホールの落ち着いた様子とは対照的に、明るく活気のある雰囲気を醸し出していた。

 これは半端な金額じゃないなあ。自分が結婚した時の費用のあれこれを思い出しながら、陽介は半分呆れ返っていた。赤の他人にこういう贈り物をするという澪の好意というか、金銭感覚はちょっと理解の範囲を越えている。

「見違えるほど豪華だな」と、思わず唸ると、澪は彼の内心を見透かしたように寂しげな笑いを浮かべた。

「ただの自己満足って事かしら。でもやっぱり、花嫁さんにとって今までの人生で一番素敵な日になればいいなと思ってしまうの」

「優しいんだね」

「夫に言わせれば、私はお人好しで計画性のない人。だから君の一族は放っておくと没落するしかないんだ、なんて言われちゃう」

 でも元々は澪さんの家族が築いた財産だろ?陽介はそう言おうとしたが、彼女はちょうど顔を出した裕美と話を始めていた。

「急に言い出してごめんなさいね」

「とんでもない、花嫁さんも大喜びでしたわ。控室におられますけれど、お会いになりますか?」

「それは遠慮しておくわ」

 その答えに裕美は黙って頷き、「二階でコーヒーでもいかがですか?いちじくのタルトもありますよ」と勧めた。

「私達そろそろおいとまするわ。タルトは白鴎館でいただくから」

「そうですか?またいつでもいらして下さいね」と言いながら、裕美が厨房にいる友野氏を呼ぼうとするのを断って、澪は「じゃあまたね」と手を振った。


「白鴎館っていうのは、この近くにある喫茶店なの。友野さんが焼いたケーキを出してるんだけど、行ってもいいかしら」

 ジャガーを発進させながら、澪はそう尋ねたが、陽介には何の異存もない。

「そこも澪さんちの別荘だったとか?」

「残念ながら違うわね」と彼女は笑う。門を出ようとすると、パーティー客を乗せたタクシーが入ってきた。中には髪を美しくセットした若い女性が二人、高揚した顔つきで座っている。

「こんなところでウェディングパーティーなんて、呼ばれる方も嬉しいだろうな」

 陽介は思わず後ろを振り返り、いま一度、かつては澪とその家族の別荘だった館の姿を目に収めようとした。

「だったらいいわね。陽介さんが結婚した時は、披露宴とかどんな感じだったの?」

「ごくごく一般的に、ホテルのチャペルで式を挙げて、身内中心の簡単な披露宴と、友達主催の二次会。しかし思い出すだけで疲れるなあ」

「どうして?」

「だってあんなのさ、楽しみにしてるのは新婦だけで、新郎はとにかく義務感だけだもの。やれ貸衣装はどうするの、料理だ引き出物だ席順だ」

 言ってしまってから、何だかこれでは先ほどの澪の新婦に対する気遣いに水を差すようなものだと気が付いた。しかし彼女は別に気に留める様子もなく「たしかに、男の人で自分の結婚式や披露宴が楽しかったっていう人は少ないかもね」と言った。

「澪さんはどうだったの?自分が結婚した時は」

「私?そうね、周りがどんどん準備していく感じで、あれれ?なんて思ってるうちにドレス着せられちゃって。だからあんまり記憶がないかもね」

「たしか、高校の時に結婚したって言ってたよね」

「そう。不思議ね。子供の頃は、女の人って結婚する時はみんな幸せなんだと思ってたんだけど、いざ自分がするとなると、まるで誰か別の人の事みたいな感じだったわ」

 それって、かなり嫌だったって事じゃないんだろうか。

 陽介はもちろん、自分が女性の心理について鈍感な方である事は認識していた。それでも、澪のこの言葉は奇妙だ。というかやはり、今の時代に、十六、七で自分の意志とは無関係に結婚するというのは普通ではない。

「そのせいかもしれない、私ね、誰かが結婚するって聞くと、わけもなく盛大にお祝いしたくなるの。それまでの人生で最良の日だって、ちゃんとわかってほしいから」

「人生最良の日かあ、なるほどね」

「それまでの人生で、よ」

「どう違うの?」

「多分ね、人生で最良の日は子供が生まれた日なの。たいがいの人はそう言うから。だから結婚は、それまでの人生で、って区別しておくのよ」

「なるほど」と頷きながら、陽介は我が身を振り返っていた。自分にとって人生最良の日は結婚だったろうか?

 前に誰かと話したことがあるのだ、女にとって結婚とは積立預金が満期になるようなもので、男にとってそれは、年貢の納め時であると。しかしまあ、澪の理論でいくなら、自分にとっての人生最良の日はこれから訪れるという事になる。

「陽介さんが結婚した時って、とおるさんは招待したの?」

「え?ああ、亨ね」

 正直なところ、陽介はすっかり亨の事を忘れていた。一瞬、後ろのシートに彼が座っているような錯覚に捉われながら、そもそもどうして自分が澪とこうしてドライブなんぞしているのか、慌てて思い出す。

「二次会に呼んだんだけど、都合が悪くて来てもらえなかった。あいつが結婚した時は、事後報告だったから勿論行ってないし」

 言ってから気づいたが、そもそも亨は自身の結婚と離婚について澪に話しているのだろうか。うかつにも不必要な事を暴露してしまったのではないかと、恐る恐る澪の横顔に視線を向けたが、彼女は涼しい顔でハンドルを握っている。

「男の人って、その辺けっこうあっさりしてるのね」

「まあ、逆によかったかな。単にうちの奥さん側の招待客と数を合わせる必要があったから呼んだだけで、本当の事いうとあんな恥ずかしい姿見せたくなかったんだよね。タキシードなんか着せられて、雛壇に座らされて」

 しかし今になって考えてみると、亨は何があってもあの場には来なかっただろう。彼は招待状を見てすぐに、陽介の妻となる女性が誰なのかを悟ったはずだ。だからこそ、陽介が結婚してからというもの、急に連絡をくれる頻度が減って、年賀状だけの付き合いのようになってしまったのだ。しかしそうであれば、どうして今になってあの街に立ち寄ったりしたのだろう。

「澪さん、こないだ亨とうちの街に来たのは、動物園を見るためだけだったの?」

「そうよ。行ったら絶対にカップルは別れちゃうっていう、さびれた動物園なんて面白いじゃない」

「そりゃまあそうだけど」と言ってはみたものの、ネットで調べればそこが閉鎖されてホテルに生まれ変わったのはすぐに判る筈だ。

「で、次の日の夜にさ、うちに泊まりにきたじゃない。あの時は何かあったの?」

「あれはちょっと、急な用事」

 澪はそれまでに比べると、随分弱々しい口調でそう言った。

「いや別に、文句言ってるわけじゃないんだけど」と、陽介は少し慌てて取り繕う。そもそも疑問があるならあの夜、あの時に言えばよかったわけで、いったんは泊めておいて、今更のようにあれこれ聞くのは潔くない。

「たんに不思議だっただけなんだ。泊まるだけなら動物園だった、あのホテルだってあるし、駅のあたりにもビジネスホテルは何軒かあるから。でもさ、俺としては自分を頼りにしてもらって嬉しかったんだ。やっぱり友達だし」

 何をどうしても言い訳めいた口調になってしまう。澪は心なしかこわばった表情のままでいたが、やがてぽつりと「私ね、知らない場所に一人で泊まれないの」と言った。

「いや別に、そういう人がいてもおかしくはないと思うよ」

 まるで泣き出しそうなのをこらえているような澪の気配に、陽介は何だってこんな話題を持ち出してしまったのだろうと激しく後悔した。もう過ぎたことなのに、ただの好奇心で詮索めいたことをやらかして。亨なら絶対にこんな真似はしないはずだ。

「あ、やだ、どうしよう。白鴎亭に入る道を通り過ぎちゃった」

 どうやら話に気をとられ過ぎていたらしい。澪は慌てた様子でUターンできる場所を探しているようだったが、道もかなり混んでいて、このまま流れにのってゆくしかなさそうだ。

「無理して戻らない方がいいんじゃないかな」

「でも、友野さんのタルトって本当においしいのよ。陽介さんにも絶対食べてほしかったのに」

「だったらまたいつか、次の機会まで待つよ」

 澪をそこまでぼんやりさせたのは、自分の不躾な質問のせいなのだ。それをどうにか挽回したい気持ちで、陽介は言葉を続けた。

「まあとりあえず、どこか適当な店で一休みしようよ。俺はコーヒーが飲めればそれで満足だし」

「そう?本当にごめんなさいね。私ったら」

「何も謝る必要ないよ」

 ちょっと不思議だな、と陽介は思った。彼女のように若く、容姿に恵まれて、経済的にも余裕がある女性が、「ごめんなさい」を頻繁に口にするのは奇妙に違和感がある。職場にいる同世代の女の子を思い出してみても、誰一人そう簡単に謝ったりしない。仕事のミスを指摘されたところで、つまらなそうに「そうですか」がいいところ。余程の事があって初めて、若干不服そうに「すいません」といったところだろうか。下手をすると笑ってごまかして終わり、なんて具合で、まあそれは要するに自分が舐められているだけかもしれないが。


 それからしばらく走ったところで見つけた喫茶店で、陽介と澪はコーヒーを飲み、シナモンのきいたシフォンケーキを食べた。そして渋滞気味の高速で都内に戻った頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。澪は夕食も誘ってくれたが、陽介はそれを断ってホテルに戻ることにした。

 本当は昨夜書くつもりだった見本市の報告書を今夜のうちに仕上げないと、絶対に明日、家に帰ってからではやる気になれないと思ったからだ。月曜の朝イチ提出、というのが岡本部長からの厳命だった。

「そういうのって会社で書いちゃだめなのね」と、澪は少し腑に落ちない様子だったが、彼をホテルの近くまで送ってくれた。

「見方によっちゃ時間外労働だと思うんだけど、そういう事を言ってると一生出世できないからね」

 そしていざ車を降りようとしたその時になって、陽介はふいに動けなくなった。

「じゃあね、今日は色々ありがとう」という一言で終わればいいのに、何故だかそれができず、車を降りそうな素振りをしておいてまだドアに手もかけない。澪は少し戸惑ったような顔つきで、彼の次の動きを待っていた。

「あの、よければ、だけれど、また会ってもらえないかな。二人だけで」

 そう言っている自分を、もう一人の自分がどこかで見ている気がした。本当の陽介自身はそのどちらなのか判然としないまま、いきなり身体のどこかに触れられたように、うっすらとした怯えを宿す澪の瞳を見つめている。

 それでも、彼女が小さく頷いたのを確かめて、陽介は「いつでもいいから、連絡して」とだけ言うと車を降りた。周囲の雑多な明かりに照らされ、昼間とはまるで違った色に見えるジャガーはしばらく蹲っていたが、やがて獲物を嗅ぎつけたかのように緩やかに動き出し、見る間に加速して夜の闇に溶け込んでいった。




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