第9話

 よく晴れてはいるが、梢から漏れてくる日差しはどこか弱々しく、嫌でも冬の近いことを感じさせる。陽介ようすけは読みかけの文庫本を開いてみたが、そんな事で居心地の悪さが解消されるわけでもなかった。

 美術館の傍にあるカフェを待ち合わせ場所に指定され、来てはみたものの、オープンエアだとは予想していなかった。注文したコーヒーが運ばれた時にテーブルで精算という形式にもとまどったし、料金の高さにも目を疑った。にもかかわらず、けっこう席が埋まっていることにも驚いた。

 若い子でも都内ではけっこうお金を持ってるのかなと、ちらちら周囲の様子を伺いながら考える。まあ、案外ほとんどの客が遠くから来ているのかもしれない。ふだんはコンビニのおにぎりや菓子パンを食べて、貯めたお金で自分にご褒美という感じだろうか。ともあれ、陽介にとってそこが自意識を無駄に刺激する場所である事は確かで、くつろぐ、というのはとうてい無理な状況だ。

 いったんは手にした文庫本をテーブルに置き、携帯を取り出してみる。着信はないけれど、遅れるという連絡もないのだから、このまま待つしかない。ともあれこういう場所が彼女の日常の行動圏というのは、何だか納得できる気がした。


「陽介さん?もう寝ていた?」

 昨夜、とおるの携帯から電話してきたのはみおだった。亨と会話せずにすんで、何だかほっとしたというのが正直なところで、陽介は「起きてたけど、ちょっと出歩いてたから電話をとれなかったんだ」と答えていた。

「そう、よかった。あのね、とても急で申し訳ないんだけど、亨さん、明日はどうしても都合がつかなくて会えないのよ。それを伝えてほしいって言われて」

「そうなの?残念だけど、まあ仕方ないよね」

 口ではそう言ったものの、残念どころかありがたい。明日のホテルの予約はキャンセルして、まっすぐ帰宅しようという考えが頭にうかぶ。

「それで、もしも、だけれど、よかったら私と会ってもらえないかしら」

「澪さんと?どうして?」

「だって、まだこの間のお礼をちゃんとしてないから。勝手に押しかけて泊めてもらって、さっさと帰ってしまったでしょう?亨さんも気にかけていたし、よければお食事でもどうかしら」

「別にお礼なんていいよ。友達なんだから、あの位は大したことじゃない」

 とはいえ、陽介の心には別の考えが芽生えていた。亨が来ないなら、まあいいか。一人で家に帰って週末をぼんやり過ごすよりも、澪と会っていた方が楽しいかもしれない。


 やっぱりやめとけばよかったかな。いきなりこんな場所で待ち合わせという時点で、ハードルが高い。一人で秋葉原でも少しうろついて、あとはスカイツリーでも寄って帰った方が気楽だったかもしれない。携帯をポケットに戻し、再び文庫本を手にとる。

 近くの美術館に向かうのか、目の前を途切れることなく人が歩いて行くが、彼らは当然ながらカフェの店先に座っているこちらの事など全く目に入らない様子だ。

 毎日こうしていれば慣れるんだろうかと思いながら、ぬるくなったコーヒーを飲んでいると、車のクラクションが聞こえた。とても軽く、一度だけ。顔を上げると目の前の通りに深緑色のジャガーが停まっている。全く格好つけてるな、オープンカフェに外車で乗りつけるなんて、と思いながら再び文庫本に目を落とすと、携帯が鳴った。

「お待たせしました。いま車停めてるの、見える?」

 なるほどこういう時のために、先に精算しておくというシステムは便利かもしれない、そう思いながら陽介は小走りにジャガーを目指した。左ハンドルの運転席にいる澪は、サングラスをしたままこちらに手を振っている。

「驚いた。澪さんこんな車に乗ってるんだ。あ、ご主人の趣味かな」

 初めて乗り込むジャガーの助手席に少々興奮しながらも、陽介はまだ若い彼女が人妻である事を思い出していた。

「これは私の車よ。ちょっとやかましいけど、一番好きなの」

 一番って事はもしかして、他にも持っているという事か。シートベルトを調節しながら視線をめぐらすと、澪の好みだというマニュアルトランスミッション。彼女は自然な動作でギアを入れると車を出した。

「うちの夫はトヨタ一筋よ。修理やなんかが簡単だからだって。合理的なのよね」

「澪さんは見た目重視?それとも走り?」

「やっぱり走り重視ね。メリハリが大事かな」

 そうは言うものの、街なかでの彼女の運転は相変わらず落ち着き払っていた。

「この車ね、しばらくガレージでお休みしてたのよ。たまには思い切り走らせてあげないと調子悪くなるんだけど、ちょっとドライブにつきあってもらってもいいかしら」

「もちろん」

 仕事でも家でも軽自動車しか運転しない陽介には、ジャガーでドライブ、しかも澪のように若く美しい女性と二人など、降ってわいたような幸運に思える。ただ少し情けないのは、ハンドルを握っているのが自分ではない点だ。

「じゃあ神奈川の方を目指そうかしら。陽介さん、葉山とか行ったことある?」

「ないけど、どこでも全然構わないよ」

「そう?だったら葉山に決定ね。箱根の方の山道も面白いんだけど、今の季節は混んでいるからやめておくわ」

 葉山という場所は山という字がつくのに海辺らしい。耳にしたことのある地名ではあるが、正直いって葉山でも箱根でも、馴染のない土地という点では陽介にとって同じだ。そしてどこをどう通ったのかも定かでないうちに、目の前に高速道路のゲートが迫っていた。

 高速に入った途端、窮屈な仮面を脱ぎ捨てたように、ジャガーはのびのびと走り始めた。とはいえ、車線変更と追い越しを繰り返すというわけではなく、やはり本当に好きなのは頻繁なギアチェンジを必要とする、入りくんだ山道のようだ。

「お天気がよくて気持ちいいわ。ちょっと車は多いけど」

「土曜だからね」

 そう答えてから、陽介はふと考え込んでしまった。この前は亨が一緒だったから、彼としゃべっていればそこに澪が加わってくるという形でうまく行っていたのだ。いざ彼女と二人きりになってみると、何をどう話していいかわからない。

 亨に頼まれて澪を家に泊めた時には、それなりに話もしたけれど、あの夜の距離感と、今日の感じはまた違う。そもそも自分が彼女の何を知っているかといえば、ほとんどゼロに近いのだった。

 しかし澪はそんな陽介の戸惑いなど気に模していない様子で、軽い微笑を浮かべたままハンドルを握っている。せめてFMでもつけてくれないだろうかと思いながらも、共通の話題はやはりこれしかないと自分に言い聞かせて、陽介は口を開いた。

「亨の奴、どうしたの?今日は仕事か何かで?」

 本音を言えば、亨の話はあまりしたくない。昨日の夜、有希子ゆきこに聞かされた話が余りにショックで、紗代子さよこと彼のことばかり考えてよく眠れなかったのだ。大学四年の年末から新年にかけて、亨が紗代子と少しはつきあったりして、紗代子が一方的に想いをつのらせて、自殺未遂までして。亨からは元々、恋愛関係の話は全くといっていいほど聞かされた事がなかったし、深刻な悩みの相談なんてものも受けたことがない。だから彼の身にそんな事件が起こっていたなんて、夢にも思ってみなかった。

 とはいえ、よくよく考えてみると、腑に落ちない事はあったのだ。亨は本来、卒業後もUターンはしないつもりで、陽介が今も住む街の地銀に内定をもらっていたのに、急に地元に戻ると言い出したのだ。家の事情だとか言っていたけれど、その時期から就職活動をやり直したことはかなり響いたらしく、あまり条件の良いところに入れなかった。

 それが件の、上司と喧嘩して辞めた不動産というわけで、となると彼の離婚もそもそもの発端は紗代子の事件ということになるのだろうか。まあ、物事なんて遡ってみれば何だって原因になるだろうけれど。

「亨さんね、仕事で急な出張が入ったの」

 まっすぐ前を見つめたまま、澪はそう答えた。

「それってこの前澪さんが言ってた、占いサイトの仕事?」

「…そうね」

 少し間があったのは、前を走る車が急に車線変更したからか、彼女が何かを考えていたせいなのか、判然としない。

「まあ、占い師さんって、少し気まぐれだったりする人もいるから、こうして急な出張になるのも仕方ないんだけれど」

 そう言う彼女の声には、どこか不安げなものが潜んでいて、それは亨と離れている事に起因するように思えた。二人はやっぱり、仕事だけの関係というわけではないのかもしれない。それをどうにかして、遠回しに探ろうかと思い始めたところへ、澪は急に明るいトーンで「やっぱり陽介さんと亨さんて仲いいのね」と言った。

「え?なんで?」

「だって今日の陽介さんって、何だかこの前とは別の人みたい。亨さんがいないと、借りてきた猫って感じだわ」

「俺ってどっちかというと、犬に例えられる方が多いんだけど」

 すると澪は、くすっと笑って「失礼な事いってごめんなさい」と謝った。

「別に失礼じゃないよ。ただちょっと、東京はアウェーだから」

「だったら、ほとんどの人がそうじゃないかしら」と、澪は笑いを含んだ声でそう言うと、少し速度を上げた。

「ね、亨さんとずっとお友達でいるのは、どんなところが好きだから?」

「そんな事、ちゃんと考えたことないなあ」

 陽介は落ち着いていることを強調しようと、わざとゆっくり返事をしてみせた。澪がこんな質問をするのは、やはり亨に対して特別な感情を持っているからなのだろうか。しかし本当のところ、友達でいる理由なんて、誰についても真剣に考えたことがなかったので、いきなり聞かれると返答に困るのだった。

「単純に、気が合うってことじゃないかなあ。しゃべってて面白いとか、一緒にいて楽だとか」

「でもその程度だったら、別に知り合いでもいいじゃない?」

「うーん、それと何ていうか、俺のこと判ってくれてるような気がするのかな。いちいち説明しなくても、ああ、お前ならそうだよな、なんて感じでさ」

「それは自分と共通点が多いから?」

「いや、俺たちそんなに似てないっていうか、違うところの方が多いもの。第一、俺って亨ほど男前じゃないし、背も低いし」

 そう、陽介は誰が見ても「童顔」というジャンルに属する顔立ちだったし、亨はといえば、鼻筋の通った細面で、色白であるのに加えて、瞳の色が薄いのも少し日本人離れした印象を与える。関西出身の友人は「結城みたいなんを、シュッとした感じって言うんやで」と、よく冗談のネタにしていたけれど。

「おまけにあいつの方が頭いいんだよな。ゼミの発表なんかいつもAもらってたし、準備も淡々と終わらせてるんだ。俺は毎回ぎりぎりまでああでもないこうでもない、で、しかもAなんか滅多にもらえない。語学だってさ、漢字が楽そうだから中国語にしたらけっこう難しくて、俺は追試で何とか通ったのに、亨なんか先生に発音いいねえ、耳がいいんだねえ、なんて絶賛されちゃってさ」

 思い返せば次々と、出てくるのは亨が自分よりもできる奴だ、というエピソードばかりだ。しかも努力の成果ならまだしも、何事も大した苦労なしにすいすいとこなしているという印象で、彼の口から「大変だった」というようなエピソードを聞くことはまずなかった。

 けれど、と陽介は思い直す。この年になってようやくわかってきたのは、亨は努力なしにできる人間ではなくて、努力や苦労したことをあえて他人に語るようなタイプではなかったらしい、という事だ。そんなの格好悪いだとか、わざわざ言う程の事じゃないとか、理由は色々あるだろうけれど、とにかく亨はそういった内面についてはごくごく一部しか明かさなくて、一方の陽介は何事も包み隠さず、下手をすると見苦しい程にあけっぴろげだったような気がする。

「多分俺と亨って、対照的だから続いてるのかもしれない。俺は何ていうか、とにかく人から舐められるタイプで、亨の奴は逆に一目おかれるんだよね」

 それはどうしてなんだろう。たぶん、亨が誰に対しても同じ態度で、目上の人間だろうと、バイト先の上司だろうと、一度たりとも媚びたり、おもねるような真似をした事がないからではないだろうか。それを単純に、若さ故の潔癖さで括れないのは、同じ年頃の仲間にも色々な人間がいて、それなりに軽蔑や嫌悪感を刺激するような振る舞いはあったからだ。

 ほんの少しだけれど楽をしたいだとか、いい目を見たいだとか、面倒を避けたいだとか。誰だって自覚がありながら己に許している怠惰を、亨は嫌っているように見えた。そして自分が何故、会社で女の子連中に舐められているかといえば、憎まれ役を買うのが嫌で、言うべきことも呑みこんでしまうからに違いない。

「でも、似ているところもあるんじゃないかしら。趣味とかって同じじゃないの?」そう澪に尋ねられて、「趣味かあ」と考え込んでしまう。

「まあ、好きな映画とか、お笑い芸人だとか、そういうのは似てるかな。あとはどっちも、あんまりせかせかしてないというか、旅行なんか行っても予定にこだわらない。けど、スポーツの趣味は違うな。あいつは中高と陸上部で、確か中距離が得意なんだ。でも俺は中学の野球部で万年補欠だってのに燃えつきちゃって、高校では放送部に籍だけ置いてた」

「他に共通点とかないの?」

「共通点…ねえ。ゆで卵は堅いのが好きとか、熱い風呂は苦手だとか、」

 こうして考えると、亨と過ごした日々のあれこれが少しずつ蘇ってくる。長い時間のように思っていたのに、今振り返ればたったの四年。卒業してからは数えるほどしか会っていない。職場の同僚はもう十年以上もの付き合いになるのに、亨とのように判りあえているという感覚にはならない。学生時代の友達で、頻繁に会える場所に住んでいる奴も何人かいるけれど、やはりどこか違うような気がするのだった。

「じゃあ、靴は左右どっちから履く?」

「さあ、そこまで知らないな。俺は右からだけど。あとは何だろう」

 単調な高速道路を走るだめの、暇つぶしみたいな話題なのに、つい深く息を吸い込んで考えてしまう。亨と自分の共通点。冬よりも夏が好きで、早起きが苦手で、あまり酒が飲めなくて…

 紗代子。

 俺たちは二人とも紗代子とつきあって、一人は多分、とても気に入られていたのに、うまく続かず、予想もしない形で苦々しい破局を迎えた。そしてもう一人は、別な意味で気に入られ、そのまま結婚した。本当のところ、紗代子は亨と自分のどちらに強く惹かれたのだろう。知り合った年齢の違いはもちろんあるし、間違った形で互いの距離を埋めようとしたとしか言えないにせよ、彼女が亨の事を想ったその気持ちは、自分に向けられたものとは質も深さも桁違いという気がする。そして自分はといえば、姉の有希子が勧めた「買い物件」だったに過ぎないのだ。


 ふと我に返ると、辺りの景色は一変していて、澪の運転するジャガーは木立の中、緩いカーブを繰り返す二車線の道路を走っていた。いつの間に高速を降りたんだろう、と一瞬不思議に思い、それからようやく気がついた。

「あれ?俺、寝てた?」

 慌てて身体を起こすと、澪はちらりと視線をこちらに投げて笑った。

「気にすることないわ。昨日お仕事で疲れてたんでしょう?」

「いや大して疲れてたわけじゃないけど」

 一体どれくらい眠りこけていたのか、情けないやら恥ずかしいやら。女性に運転を任せておいてこんな事になったのは初めてだ。言い訳させてもらえるなら、昨夜は有希子に聞かされた話のせいでずっと寝つけず、横になってはまた起き上がってテレビを見たり、再び横になって読みかけの文庫本を開いたり、ストレッチしたり、そんな事を繰り返していたのだ。

「助手席の人が寝ちゃうとね、ちょっと嬉しいの。私の運転もなかなかのもんじゃない?って」

「高速降りたのも全然わからなかった。澪さんって、教習所は勿論だけど、誰かに運転ならったの?」

「うちの運転手さん。広川ひろかわさんていう人。今はもうおじいちゃんで引退してるけど、とっても上手っていうか、安心できる運転なの。私、自分で車を走らせる時はいつも、広川さんの運転を思い出してるわ。ただしそれは街なかを走る時だけ」

 お抱えの運転手とはあまりに浮世離れした話で、「そうなんだ」としか返事できない。

「まだ私が免許とりたての頃はね、広川さんが助手席で、急いでハンドル切り過ぎたかな、とか、色々とアドバイスしてくれたの。他にも、こういう走り方をする車にはあんまり近づかない方がいいとか、そんな事。でも何より、広川さんが運転している時の加速だとか、曲がり方だとか、ブレーキのきかせ方だとか、身体で憶えていることが一番多いかもしれないわ」

 そんな話をする内に車は木立を抜けていた。辺りには敷地の広い一軒家が立ち並び、遠くにはリゾートマンションらしき建物も見える。しばらく進んで緩やかなカーブを曲がると海沿いの道路に出た。途端に交通量が多くなり、速度が落ちる。対向車のナンバープレートを見ていると、思いがけず遠くから来ていたりして、今は週末なのだと改めて思った。

「あそこに赤い屋根の建物があるの、判る?昔はうちの別荘だったんだけど、今はレストランになっちゃったの。ご招待するわ」

 そして澪は再びハンドルを切ると、細い脇道に入った。




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