第8話

 地下鉄の揺れに身体を任せていると、いつの間にか瞼が重くなってくる。陽介ようすけは首を軽く振り、背筋を伸ばした。普段の通勤とは違うのだ。寝過ごしてとんでもない場所からまた引き返すなんて考えたくもない。膝から滑り落ちそうになった鞄を引き上げ、その上に小さなペーパーバッグを置き直すと、その中にある、ラップに包まれたサンドイッチが目に入った。

「残り物でごめんね」と有希子ゆきこは言っていたけれど、手早くこういうものを準備して、野菜ジュースまで添えて「朝ご飯にどうぞ。夜食でもいいしね」と持たせてくれる気遣いには、ただ感心するしかなかった。確かに紗代子さよこもよく気がつくけれど、有希子はプロフェッショナルを思わせる隙のなさだ。

 もうそろそろ深夜という時間なのに、地下鉄はけっこう混雑していた。偶然座れたのは幸運というべきで、飲み会帰りらしいサラリーマン、これからまだどこかへ行くつもりらしい学生グループ、残業していたのか、クマの浮き出た顔に乱れた髪でつり革にぶら下がっている若いOL、更には塾の帰りらしい中学生もいる。陽介は自販機で買ったスポーツドリンクのボトルを鞄から出して少し飲むと、有希子との会話を思い出していた。


「ペクって本当に、紗代子には特別な犬なのよ。一番大変な時期を支えてくれたんだから」

 彼女はそう言って、膝の上に重ねた自分の指を、全部揃っているか確かめるように見つめた。陽介はしばらくの間、後に続く言葉を待っていたが、彼女はじっと黙っている。仕方ないので「特別、ってどういう事ですか?」と尋ねてみたが、誘導されたような気がして、言った途端に撤回したくなった。

「陽介くんは、聞いたことはあるのかな、そもそもどうしてペクを飼うようになったかって」

「さあ…」と返事を濁してみたが、たしか紗代子の叔母がちらりと「ペクちゃんは失恋癒し犬だもんね」と言っていたような記憶はある。

「紗代子が大学の二年生の時なんだけど、初めて彼氏ができたのよね」と、有希子は彼女にしては随分ゆっくりとした口調で語り始めた。陽介は黙っていたが、心の中では少し驚いていた。紗代子は自分の過去の恋愛について全く触れたことがないし、二人の間でそれは持ち出さないのが暗黙の約束になっていたからだ。

「まあ、それまで彼氏ゼロっていっても、高校は英聖女子だから当然かもね、あそこの生徒は大人しいから」

 そう言う有希子は中学、高校と地元の教育大学の付属学校を出て、東京の大学に進学している。そして紗代子は、姉の代理のようにその教育大学を卒業していた。初めての彼氏、というのはその時の話になるわけだ。

「私はその頃ちょうど留学してたんだけど、紗代子からはもう毎日のようにメールが来て、展覧会に行くんだけど、どんな服着ていけばいい?とか、おごってもらうのに好きなもの選んでいいの?とか、もう大変。ちょっとした言葉のやりとりに一喜一憂したりね。まあ、普通より遅めだけど、これが初恋って奴か、と思って私も微笑ましい気持ちでアドバイスしていたの。でもそのうち変な事になってきて」

「変な事?」と陽介が聞き返すと、有希子はまた自分の指先に視線を落とし、「なんだかちょっと、現実が見えてないような感じになってきたのよ」と答えた。

「彼からの連絡が途切れてるのは、自分を妬んでる女の子が彼を監視しているせいだ。自分もつきまとわれてる。そういう事を書いた長い長いメールを、一日に何度も送ってくるようになったの。

 私もさすがに、これはおかしいと思ったんだけど、運悪くそれが大事なレポートと重なって、ちゃんと相手ができなかったのね。で、ごめん、落ち着いたらちゃんと返事するね、なんて言い訳していたわけよ。それでようやくレポートの発表会も済んで、一日だけゆっくり眠って、自分にぐうたらを許そうとしていたところに、お母さんから電話があったの。紗代子が自殺図ったって」

「自殺?」

「まあ、鎮痛剤をたくさん飲んで、軽くリストカットしたぐらいだったけど、冗談でした、って言い訳できる事じゃないわよね。おまけにそれが彼氏の部屋で、勝手に合鍵作って、留守の間に入り込んで、だったの」

 どうコメントしていいか判らず、陽介はただ黙っていた。自分が知っている紗代子だったら絶対にやりそうもない事。これは果たして現実なんだろうか。

「幸い、その彼氏が見つけてすぐに救急車呼んでくれて、大事には至らなかったんだけどね。紗代子ったらお母さんたちには彼のこと、ほとんど話してなかったみたいで、それもまたうちの親にはショックだったらしいわ。

 おまけに、紗代子の言い分と彼氏の話がかなり食い違ってたらしいの。まあ、要するに、紗代子の方がかなり思い込みの激しい状態だったわけ。彼氏は、たしかに何度かデートはしたけど、その後はフェードアウトしたつもりだったのに、紗代子はお付き合いがずっと続いてるって信じていたのね。ただ、二人の間に割り込もうとしている女の子がいて、その子をやりすごすために、彼は紗代子に気がないふりをしてるんだって、そう考えてたの」

「ややこしいですね」

「本当にね。とにかく、紗代子の心はそういう風にものごとを認識していたわけ。で、自分が自殺を図れば、二人を邪魔している女の子も、紗代子がどれだけ本気か判るから、身を引くだろうと考えたらしいのね。

 最初はうちの親も、その彼氏が二股でもかけたんじゃないかと疑ってたんだけど、問題はどうやら紗代子の方にあるみたいだと判って、病院にしばらく入院させたの。事が起こったのは一月だったけど、学年末の試験は受けられなくて、結局紗代子は一年休学したわ」

 そういえば、と陽介は記憶をさぐった。紗代子が大学を一年休学したのは知っているが、それは別の理由だと聞いていた。

「休学したのは、有希子さんの留学にあわせて語学留学したからじゃないんですか?」

「それも嘘じゃないっていうか、休学してる間にしばらく私のところに来ていたのは事実だけど。でもまあ、それは口実みたいなものよ。その彼氏が違う大学だったし、紗代子の友達も彼のこと知らなかったおかげで、学校の方には詳しいこと知られずに済んでラッキーだったわ。そういえば彼、陽介くんと同じ大学なのよね」

「え?うちの大学?」

「うん。模擬試験の監督か何かの、単発のバイトで知り合ったらしいわ。年は紗代子より一つ上だから、陽介くんと同じよね。もしかしたら知ってるんじゃない?えーと、結城ゆうきくん、っていったな。結城…とおるだ」

 陽介は「まさか」と言いそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。

「知らない?同じ学年よね?」

「いや、うちは人数が多いから、ゼミか語学でも一緒でない限り、判らないですね」

「あらそう。まあ、知り合いでも困るわよね」と有希子は軽く口をとがらせ、それから自分のために淹れたハーブティーを飲んだ。

「幸い、紗代子はしばらく入院したらすっかり落ち着いたんだけど、その後どう過ごすかってのが問題だったのよね。で、ちょうど私が向こうで夏休みに入ったから、呼び寄せて、語学留学みたいな感じで秋の新学期まで一緒に過ごしたの。長い旅行もしたりね。たまに落ち込んだりする事もあったけど、それでも随分よくなったっていうか、気持ちの切り替えはできたみたいで、自分の事もずいぶん客観的に見られるようになったと思うわ。

 でも私も両親も、日本に戻った後をどうするかで悩んでたのよね。紗代子が彼氏と知り合ったのがちょうど一年前の秋で、歯車が狂いだしたのがクリスマスあたり。また同じ季節が廻ってくるわけじゃない。お父さんはまだ働いてたし、お母さんもお婆ちゃんの介護で留守が多かったから、紗代子を一人にしておきたくなかったのね。そこにちょうど、お父さんの友達から、雑種の子犬いらないかって話がきて、それがペクなの」

「そうなんですか」と相槌をうってはみたものの、陽介は話についていくのが精一杯だった。

「最初はね、紗代子の気がまぎれるならそれでいいか、ぐらいの考えで飼い始めたんだけど、本当の意味で彼女を回復させてくれたのはペクだった。紗代子ってさ、小学校の五年生ぐらいから何でも私の真似ばっかりするようになって、そんなに好きじゃない事まで無理してやるようなところがあったのね。まあ、それはうちの家庭に原因があったと思うし、成績さえよければ他は好きにしていいでしょ?って感じに振舞ってた私にも責任あるんだけど。

 だからきっとあの子には、教育大学もそんなに合ってなかったんだと思うわ。そのまま英聖の文学部とかに進んでおけばいいのに、教育大の方が学費安いから、なんてさ。結局、教員免許もとらなかったし、ただ、私があそこの付属に通ってたからっていうのが本音じゃないかな。もしあの自殺騒動が起きなかったにしても、いつかは何かの形で、紗代子がずっと無理に抑えていたものが破綻していただろうって気がするのよ。

 でもね、ペクが来てからの紗代子は変わった。と言うよりも、元に戻ったと言うべきかしら。私がそれをはっきりと感じたのは、留学を終えて帰国した時ね。もう紗代子は大学に戻ってたけど、会った瞬間に、ああ、紗代子って本当はこんな顔してたっけ、って思ったの。それはもうずっと前、幼稚園だとか小学校の一年生だとか、それ位の頃の、彼女本来の表情だったのよ」

 そこまで一気に話すと、有希子はふう、と溜息をついて腕を組んだ。そして陽介に視線を向ける。

「でもね、今も時々、紗代子は自分で自分が判らなくなるみたい。そんな時はすぐに、お姉ちゃんどうすればいいと思う?って聞いてくるのよね。そのくせ心のどこかで、いつか見返してやるって考えてたり」

「それはないでしょ」と、陽介は慌てて否定した。

「紗代子にとって有希子さんは絶対的な存在ですよ。たぶんお義父さんやお義母さんより信頼してるんじゃないかな。有希子さんが認めないものは、何があっても認めないし」

 その言葉に、有希子は口元だけでほんの少し笑った。

「陽介くん、まだまだ修行が足りないみたいね。姉妹って、案外難しいものなのよ。あの子きっと、赤ちゃんだけは私より先に授かるつもりでいたの」

「そんなの聞いたこともないですけど?」

「当たり前よ、わざわざ言うわけないじゃない。でもあの子ね、私が不妊治療してた間は、神社でお守り貰ってきてくれたり、色々と応援してくれたけど、いざ妊娠したって報告したら電話口で黙っちゃったの。きっとショックだったのね。おめでとうって言葉は後から、メールでもらったわ。それもかなりそっけなく」

 正直言って陽介には、その辺りの微妙な気持ちというのはよく判らなかった。有希子が深読みし過ぎている気もするけれど、当たっているのかもしれない。たしかに陽介と紗代子はもう二年近く前から避妊していないが、成り行き任せという考えの陽介に対して、紗代子はさりげなくカレンダーに印をつけたりして、もっと積極的に進めたいと思っている気配はあった。

「紗代子には悪いけど、私も双子が産まれちゃったら、今までみたいには彼女をフォローできなくなるわ。だから、ペクの事も含めて、陽介くんにはこれまで以上に紗代子を支えてあげてほしいの」

「はあ…」

「なんで自分が、って顔してるわね」

「いや、それはもう、夫婦だから当然なんですけど」

「いいのよ、判るわ。どうして今までこんな大事なことを隠してたのかって、騙されたような気分でしょ?知ってたら紗代子との結婚もちょっとためらってんじゃない?」

 確かに、それを言われると反論はできない。彼女との結婚を決めた最大の理由すなわち、その優等生らしさというか、安定感だったからだ。間違っても自分が支えになりたいとか、守ってやりたいとか、そういう気持ちではなかった。

「でも信じて、紗代子は陽介くんがいれば大丈夫。もう絶対にあんな事は起きないから」

「はあ」と、何となく返事だけが出てくるが、陽介の思考は停止したままだった。

「私は心から陽介くんのこと信じてるし、だからこそ大事な妹をまかせられるって安心してるの。本当よ、陽介くんみたいな人って、そう簡単に巡り合えるわけじゃないもの」


 隣に座った学生らしい青年の頭が肩に落ちてくるのを、地下鉄の揺れに合わせて押し返す。青年は一瞬我に返った様子で座り直し、それからまた意識を投げ出し、ぐにゃりと陽介にもたれかかってくる。今度こそ文字通りの肩すかしを食らわせてやろうかと思うのだが、周囲の目を考えると、そこまで大胆な事もできない。

 結局、俺ってそういうところが駄目なんだろうな。

 温和だとか優しいだとか、そんな言葉でごまかされているけれど、要するに舐められやすいって事なのだ。そこのところを紗代子や、義姉の有希子にすっかり見透かされて、はいお世話係決定、という感じで結婚話を進められてしまったというのが真相だろう。最初からもっと疑ってかかるべきだったのだ、どうして自分みたいな安月給のサラリーマンに、紗代子のような女性が嫁いでくれる気になったのか。

 徐々に地下鉄の速度が落ち始め、それに伴って青年の頭が陽介の肩から浮き上がる。車内のアナウンスは次が彼の降りる駅だと告げていて、陽介はこれ幸いと立ち上がった。ドアに向かいながら何気なく振り向くと、青年の身体は再び陽介が座っていた空間へと大きく傾いている。既に空席の目立つ車内で、誰もそんな面倒な場所に座ろうとしていなかったが、青年はそこへ倒れこむというわけでもなく、絶妙のバランスを保ったまま眠り続けていた。

 ほら、別に俺が支えなきゃ駄目ってわけじゃないんだ。

 憮然として地下鉄を降りると改札を抜け、白々とした通路を歩いた。都内からの通勤圏とはいえ、千葉にある有希子のマンションまでの往復はやはり時間がかかった。泊まっていけば?と引き留められたが、義兄が留守でおまけに妊婦の彼女にそんな負担をかけるわけにいかないし、何より今は一人で頭を冷やす時間が欲しかった。

 足早に階段を上ってゆくと、不意に上着に入れた携帯が震えた。紗代子?と、一瞬思ってディスプレイを見ると、それは亨からだった。よく見ると一時間おきぐらいに二度着信履歴がある。そう、そもそも自分は彼に会うつもりで、わざわざ出張の後に残っているのに、今はどんな顔をして会えばいいのか判らない。それどころか、何か適当な理由をつけて約束を取り消してしまいたかった。

 ごめん、悪いけど急に都合がつかなくなって。

 そう言ったところで、亨はどうこう勘ぐるような男ではない。じゃあ、またそのうち、で話は終わる。陽介は思い切って通話に出た。


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