第7話

「じゃ、お疲れさまっす」

 吉岡よしおかは軽く手を挙げると、後も振り返らずに地下鉄の階段を駆け下りていった。明日は朝からサバイバルゲームに出かけるらしいが、やっぱり二十代は元気だな、と思いながら陽介ようすけはポケットからコインロッカーのキーを取り出した。

 朝、彼と駅で待ち合わせして、新幹線で東京に出てきて、終日ここの見本市会場を回って過ごしたのだ。後輩を連れているという緊張感もあるし、何より岡本おかもと部長から発破をかけられた事もあって、自分としてはかなり気合を入れて下準備もしたし、それを十分に生かせるよう、効率よく動けたという達成感はある。あとはこれをうまく報告書にまとめられるかどうかだが、結局のところ、その辺りの文章力が問題なのだ。

 同じように見本市会場を後にする人々の流れにのり、陽介も地下鉄の階段を降りる。仕事に集中していたり、誰かと一緒だと忘れているけれど、一人になるとどうしても、この前の紗代子さよこの言葉が思い出されてきて、迷路に閉じ込められたような息苦しさがのしかかってくる。

 ペクだけが、私のことを本当にわかってくれてる、百パーセントの味方だから。

 その言葉に何の反論もできずに帰ってきてしまったけれど、あれからいくら考えても、紗代子を説得する方法は見つからない。気持ちだけは胸の内側に溜り続けて圧力を増しているというのに、それを言葉に変換して外に出すことができないのだ。

 駅の階段を降りきって、通路沿いにあるコインロッカーからキャリーバッグを出す。それから改札を抜けて、長いエスカレーターでホームに降りる。人はかなり多いが、移動はほんの三駅だからまあ楽なものだろう。陽介は携帯を取り出すと、ホテルへの道順を確かめた。

 あの日紗代子に、病気になったペクの面倒を見るために退職すると言われて、まっさきに頭に浮かんだのは、その少し前にとおるから聞いた彼の離婚の顛末だった。妻が仕事を辞めて、その辺りから少しずつ何かがずれていった結婚生活。

 下手をすると自分も同じような展開を迎えそうな気がして、すぐに電話を入れてしまった。そして、何気ないふりをして出張のついでに会えないかと誘ったのだ。彼はこの前の礼ができるから、と快諾してくれたが、できれば土曜にしてもらえるとありがたい、と言った。いずれにしろ、陽介には妻のいない家に急いで帰る必要はないし、上原うえはらはホテルを二泊で押さえていたので、別に不都合はなかった。


 地下鉄で三駅移動しただけなのに、そこにあるのは見本市会場周辺の無機的な景観とは対照的な、混沌に近い街並みだった。年季の入ったオフィスビルに混じって、ドラッグストアや定食屋、ファストフードにクイックマッサージ、ありとあらゆる業種の看板が入り乱れ、日暮れの早い秋の宵闇を蹴散らすように光を放っている。

 山あいの農村で育ち、大学は地方都市で、卒業後そのまま就職してしまった彼にとって、東京は全くの別世界だ。仕事で年に一、二回は来るけれど、物珍しかったのも最初のうちだけで、最近はただ用のある場所だけを回ってさっさと引き上げることが多い。東京でなければ買えないものなんて大して興味はないし、むしろこの、人の多さと雑然としたところがどうも落ち着かない。紗代子の姉の有希子ゆきこは大学からずっと東京暮らしだが、本当のところ、嫌になったりしないのかと疑問にすら思う。

 そう、有希子だ。

 陽介は腕時計で時間を確かめると、キャリーバッグを引いて足早に歩いた。駅を出てすぐの道を脇に入ったところに、予約しているビジネスホテルはあった。信じられないほどに間口が狭いが、どうやら奥にむかって細長い形らしく、チェックインをすませて五階に上がると、けっこうな数の客室が並んでいた。部屋に入り、ベッドに腰を下ろすと、携帯で有希子の番号を選ぶ。


「どうも、お久しぶり!もっと早くに連絡くれてたら、鹿肉があったんだけどね。あ、陽介くんは山間部出身だからジビエなんて珍しくもないか。ねえ、ワインどっちがいい?オーストラリアとチリだけど、馬鹿にしたもんじゃないのよ。こないだホームパーティーで目隠しで飲み比べしたら、ブルゴーニュの上にランクインしたんだから」

 歯切れのいい言葉が間断なく続き、陽介には返事をする余裕もない。有希子は赤ワインのハーフボトルを両手にそれぞれ持ってテーブルの傍まで来ると、「どっちにする?」と尋ねた。しかし陽介にはその区別もろくにつかなかった。

「あ、もうどっちでも。有希子さんのお勧めの方で」

「そうお?じゃあチリ。値段きいたら安くてびっくりするぐらい、コクがあって切れもいいわよ」

 そして彼女は再びカウンターキッチンの向こうへ姿を消したが、その勢いのある声だけは途切れることがない。

「本当に紗代子が色々と迷惑かけてるみたいで、ごめんなさいね。陽介くん、家庭料理に飢えてるだろうって、強引にうちにご招待しちゃったけど、本当はイタリアンとかお寿司屋さんの方がよかった?」

「いえ、こっちの方がいいです。俺、外ではあんまり寛げないんで」

 それは陽介の本音だった。この出張を利用して、紗代子との事を少し相談したいと連絡はしたものの、有希子の趣味で選ぶ外食の店となるとかなりの本格派で、以前遊びに来た時に連れていかれたフレンチレストランなど、他の客は白人ばかり。おまけにモデル顔負けに美形のギャルソンがテーブルにつく始末で、却って気疲れしてしまった。

 だからといって自分にも払えそうなランクの店を選ぶと、有希子はスタッフにお構いなく「何?この百均で揃えたみたいな食器」だとか、「あら、この野菜は冷凍よね」などと口にするのでこれまた落ち着かない。

「だからといって何も特別なものは出せないんだけど」と、有希子は言うが、テーブルには様々な料理が並んでいた。温野菜のミモザサラダ、厚切りのローストビーフにサワークリームを添えたベイクドポテト、煮込んだ玉葱の冷製、チーズとハムの盛り合わせに、きのこのマリネ。家庭料理、というよりはケータリングサービスのような献立だ。

「十分すぎるほど豪華ですけど」

「まあ身内なんだし、お世辞はいいからさ」と言いながら、有希子はチリワインのハーフボトルを片手に戻ってくると、それを二つ並べてあったワイングラスの片方に注いだ。それからボトルをテーブルの脇にあるワゴンに置かれたワインクーラーに沈める。

「お付き合いできなくて申し訳ないわね」と一言告げると、彼女は既にワインクーラーに入っていたペリエのボトルを引き上げて雫を拭い、封を切った。

「あれ?飲まないんですか?」

「うん。聞いてない?」と、空のグラスにペリエを注ぎながら、有希子は妹の紗代子によく似た角度で首を傾け、口元に笑みを浮かべた。

「え、聞いてない、ですけど」

「そっか。私ね、ようやく妊娠したの」

「あ?え?あ、そうなんですか?」

 突然の事に陽介はうろたえるしかなかった。紗代子は勿論、ついこのあいだ有希子のところから帰ってきたという義理の両親からも何も聞いていない。判っていればこのややこしい時に押し掛けたりしなかったのに。しかしここに来る事は彼らには内緒だったから、怨み言を浴びせるのは筋違いというものだった。

「じゃ、久々の再会を祝して」

 有希子は自分も腰を下ろし、ペリエのグラスを持ち上げる。陽介も慌ててワイングラスを手にすると「おめでとうございます」と、ようやく祝いの言葉を口にした。

「さ、遠慮なく食べてね。私、悪阻はもう収まったけど、今もちょっと味覚がずれてる感じなのよね。味が変だったら適当に塩とか使ってね」

「いや、すごくおいしいです」

 それは別にお世辞というわけでもなく、どの料理も長い一日で知らない間に疲れていた身体に沁みるようにおいしかったし、お勧めのチリワインはその味を一層引き立ててくれた。彼女も働いているのに、その後でこれだけの料理でもてなしてくれるのは有難いとしか言いようがない。

「予定日って、いつなんですか?」

「四月のあたま。三月だと早生まれで色々大変だから、それまでねばってほしいと思ってるんだけど。おまけにさあ、双子なのよ」

「へえ、二倍おめでたいですね」

「そう簡単に言うけど、どうかしらね。まあ、誘発剤打ってたから仕方ないんだけど」

「誘発剤?」

「うん。排卵誘発剤。聞いてない?私がずっと不妊治療してたの」

「いや、全然」

 そんなの聞いたこともない。おまけに陽介は不妊治療というものが具体的にどういうものかよく知らなかった。

「ま、要するに排卵を促す注射を打つわけだけど、結果として、どうしても多胎妊娠が増えちゃうわけ。まだ三つ子や四つ子じゃなくて助かったって思わなきゃね。それに体外受精までいかずにすんだんだし、まだまだラッキーだわ」

 悪阻どころかお腹の双子の分まで食べてしまう勢いで、有希子はサラダを口に運んでいたが、陽介は排卵だの受精だのという単語を何のてらいもなく言ってのける彼女に少々たじろいでいた。

孝太郎こうたろうさんも喜んでるでしょ?」と、さりげなく話題を義兄の方に逸らすと、「ある意味、私より嬉しがってるかもね」という答えが返ってきた。

「出張からはいつ戻る予定なんですか?」

「実は仕事はもう終わってるのよね。そのまま向こうで有給使って、アルプスでトレッキングしてるのよ。木曜の朝に戻ってくる予定」

 何というか、全てにおいて想像のつかないハイクラスな生活だと半ば呆れて、陽介は「それはいいですね」と相槌をうった。

「まあ、双子が生まれたらそれどころじゃないから、今のうちに遊んどけば?って、勧めたのは私なんだけど。でも彼がいなくてちょうどよかったわ。紗代子の話だからね」

 有希子はちゃんと話の本題を気に留めていて、グラスに残っていたペリエを飲み干すと軽く溜息をついた。

「で、あの子まだ陽介くんのところには戻らないって言ってるの?」

「まあ、あらためて聞いてもないんですけど、何も言ってこないし」

 あの日、ペクの看病を最後まで続けるために実家に残ると宣言されてから、陽介は紗代子と再びその事を話し合わないままで過ごしてきた。あまりしつこく言うと却って逆効果かと思ったのもあるが、もう一つの理由は、紗代子が本当に退職届を出してしまったせいだった。

 あれからすぐに義理の両親が有希子のところから戻ったので、とりあえずペクの世話をする人手はあるし、有給休暇の消化を含めて、実質半月ほどの出社で紗代子は引き継ぎやマニュアル作成など、退職の段取りを進めているらしかった。

 義母は陽介が出勤している間に、土産のお菓子をマンションの宅配ボックスに入れていった。お礼の電話をすると「色々と不自由させてごめんなさいねえ。もう言い出したらきかない子なんで、私達も逆らえないのよ」と、開き直りともとれる事を言った。

「お父さんも、陽介君に失礼じゃないかって、私と二人の時は怒ってるんだけどね、やっぱり紗代子にはいい顔しちゃうのよね。本当に申し訳ないわ」

 そう言ってころころと笑われると、本気なのか冗談なのか判断しかねるが、とにかく義父だけでも少しは自分の気持ちをわかってくれていると思いたかった。

「まあね、紗代子は言い出すと聞かないからね」

 義母と同じ事を言うと、有希子はペーパーナプキンで口元を押さえ、それから陽介のグラスにワインを注ぎ足した。

「他の理由なら、私も何とかして紗代子に戻るように説得するんだけど、ペクがそんな病気ってなると難しいわね。それに陽介君はもう、我慢するしかしょうがないかっ、て気持ちになってるでしょ」

「え?」

「言わなくてもそれくらいは判るわよ」と言って有希子は立ち上がり、キッチンに姿を消した。確かに、と陽介は思う。もうこの状況は変えようがないし、なんだかんだ言ってもペクの寿命が長くてあと半年というなら、単身赴任でもしたつもりで我慢するしかないと自分に言い聞かせつつあったのだ。

「だってね、最初に陽介君に会った時から私、紗代子にはこの人しかいないって思ったのよ」

 キッチンから有希子の声と、何やら香ばしい匂いが漂ってくる。ややあって彼女はラザニアの皿を持って戻ってきた。あちこちが焦げたチーズはまるで生き物のように盛り上がっては湯気を吹き出して、次々と弾けてゆく。彼女はサーバーでそれをとり分けると、皿に盛って陽介の前に置いた。

「さ、熱いうちにどうぞ。私最近ね、どうした事かチーズがおいしくて仕方ないの。このままの割合で行ったら、出産までに十五キロは増えてる計算になるわ」

 それが妊婦として適正な体重なのかどうか、陽介にはいまひとつ判らなかったが、黙って頷くと熱々のラザニアを口に運ぶ。濃厚なラグーと溶けたチーズの組み合わせは、抗いようもなくワインの量を増やしてゆく。それでも酔っぱらってしまわないようにと、陽介は自分に言い聞かせていた。

「まあ、体重の話はおいといて。陽介くんってさ、人間関係のもめごとは基本的に回避する性格でしょ?本当はそれなりに思うところもあるんだけど、あれこれややこしい話をするくらいなら、自分が折れて収めちゃえって感じ」

「そうかもしれない、ですね」

「そんなに珍しい事じゃないわ。男の人って、知ってることを話すのは得意でも、思ってることを話すのが苦手ってタイプが多いもの。でもさ、そこで不機嫌になったり、手が出たりしそうにないのが陽介くんの長所なんだな」

 有希子は自分で自分の意見に賛成するように何度か頷くと、陽介の皿にラザニアを追加した。

「とにかく穏やかで我慢強いのよね。かといって何考えてるんだか判らないってほど無口でもなくて、ちゃんと会話が成り立つ。ユーモアのセンスもあるし、仕事も真面目にこなせる」

「別にどれも大したことじゃないと思いますけど」

 大げさにおだて上げられ、居心地が悪くなってきた陽介は、冷静になろうと部屋の中を見回した。清潔で広々としたダイニングルーム。テーブルと四脚の椅子は、飛騨の家具職人が手掛けたものらしくて、吸いつくような座り心地だ。カウンターキッチンはすっきりと片付いていて、必要最低限のものしか出ていない。

 反対側のリビングにはイタリア製の皮張りソファが置かれ、大画面の液晶テレビの脇に飾ってあるのは、義兄の孝太郎が趣味で集めているウルトラ怪獣たちの精密なフィギュアだ。この分譲マンションにはまだ他に、ウォークインクローゼット付きの寝室と、夫婦それぞれの書斎と、生まれてくる子供たちのための部屋があり、ベランダは二人分のデッキチェアとパラソルを並べて置けるほどだった。

 マンションといえばせいぜい3DKぐらいしか見たことがなかったので、初めてここを訪れた時には、その広さに本当に驚いたものだし、同世代の夫婦としてここまで収入が違うものかと圧倒されるしかなかった。賃貸に住む自分たちは、ダイニングテーブルもソファも諦めて、フローリングの床にローテーブルという生活をしているけれど、有希子からはままごとみたいに見えることだろう。

 ともあれ、この豊かな暮らしを生み出しているのは有希子とその夫、孝太郎の人並み外れた才能と努力なのだから、凡人の自分がどうこう言う筋合いのものではない。その有希子にここまで持ち上げられるというのは、やはり何とも言えず奇妙な感じがするのだった。

「紗代子ってああ見えてけっこう難しい子だからね。いくら仕事が立派で収入がよくても、少しでも性格がきつい旦那さんだと絶対にうまくいかないと思ってたの。それこそペクじゃないけど、いつも機嫌よく、穏やかにじっとあの子のそばにいてくれる人がいいってね。だから陽介くんの事を紹介された時は、ビンゴ!って思っちゃった」

「それは有難いです」と言ってはみたものの、「ペクじゃないけど」というフレーズは嫌でもひっかかる。

「紗代子はね、陽介くんがどれだけ大切な人か、まだ自覚できてないのよ。そばにいてくれて、自分の言うこときいてくれるのが当たり前、ぐらいに考えてるんじゃないかな。だから、ずっと実家に帰っていても、黙って待っててくれると信じてるの。それで怒ったりするはずがないと思ってるのよ」

「いや、俺は別に怒ってるわけじゃないですけど」

「あら、怒って当然のシチュエーションだと思うけどね。私が紗代子だったら、悪いけどペクは両親に任せるし、どうしても看病が難しかったら安楽死って選択も考えるわ」

 平然とその言葉を口にした有希子の顔を、陽介は一瞬だがまじまじと見つめてしまった。そう、彼女はとても聡明だし、社交的で思いやりもある。けれど時として、自分にはちょっとできないような冷酷さで物事を判断する。多分、頭脳が明晰すぎるせいではないかと思うのだが、とにかくそんな時の有希子はどこか別の惑星から来た人間のような印象を与えた。

「夫婦ってさ、好きなもの同士が一緒にいるんだから、うまくいかないはずがないって思うじゃない。でもそれは残念ながら幻想」

 有希子はそこで一息つくと、取り皿に一つだけ残ったブロッコリを口に運んだ。もうテーブルの料理は大半が空になっていて、陽介も満腹だった。

「毎日ちゃんとメンテナンスしておかないと、気づいた時にはちゃんと形に戻すのがすごく難しいって事、あるのよ。その小さな努力がほとんど無意識にできる人もいるらしいけど、私には無理。友達の失敗は全部教訓にしたし、そっち関係の本も山ほど読んだし、いつも旦那の気持ちを第一に考えて、話し合いする時には言葉を選んで。ある意味、仕事するよりずっと気を遣って努力努力。私ってこっち方面、本当に才能ないんだ」

 そう言ってグラスにペリエを注ぎ足す彼女の顔を、陽介はまた別な気持ちで見ていた。

「あの、それはちょっと謙遜しすぎじゃないですか?俺から見れば、有希子さんたちってすごく自然体でうまく行ってると思いますけど」

「そう見えてるなら嬉しいけど。ねえ、コーヒー飲む?」

 有紀子はふいに話を打ち切り、陽介が「いただきます」と答えると、「じゃあさ、ちょっとソファの方に移動してくれるかな」と立ち上がった。


「うわ!やっぱり陽介くんて気がつくよね。言わなくても判ってくれてる」

 コーヒーを運んできた有希子は、陽介が危うく忘れそうになって差し出した紙バッグを覗き込むと、声を上げた。

「いつもワンパターンですみません」

「何言ってるのよ、私にはどこのスイーツよりこれが有難いんだから」

 そう言って取り出したのは、有希子たちの実家から歩いて五分ほどの場所にあるパン屋、キリン堂のラスクだ。たしかに近所でも評判の店で、ラスクはすぐに売り切れてしまう上に賞味期限が短い。この味で育ったという有希子が帰省する時には、必ず準備しておくことが暗黙のルールになっていた。

「早速いただいちゃっていいかな」

 彼女は慣れた手つきで袋を開け、ラスクを一枚つまみ出すと、軽やかな音をさせて噛み砕いた。

「やっぱ最高だわ。発酵バターとシナモンが絶妙!陽介くんもどう?」

「いや、俺はいつでも食べられますから」

「よかった。実は私、これだけは旦那にも食べさせないのよね。でも安心して、陽介くんのデザートはちゃんと用意してあるから」

 ラスクの袋をしっかり両手に抱えたまま、有希子はキッチンに戻っていった。コーヒーを準備する間に料理を片づけ、洗い物は食洗機にセットしたらしく、振り向くとテーブルはすっかりきれいになっている。呆れるほどに手際が良いというか、常に次の動きを考えている彼女に、ぼんやりする瞬間など訪れることがあるのだろうか。

「いただきものなんだけど、おいしいわよ」と出されたのは、リンゴのタルトにバニラアイスクリームを添えたものだった。

「お茶の教室でご一緒してる人がね、毎年この季節になると長野からお取り寄せするんだって。違うわよね、こだわってる人は」

 一人がけのソファに腰を下ろし、そう言って笑う有希子だが、陽介から見ると彼女だって十分に「こだわってる人」だ。目の前に出されたコーヒーはイタリア製のエスプレッソマシンで入れたものだし、カップとソーサーも何とかいうブランドのものを思い切って揃えたと、以前訪れた時に聞かされた記憶がある。

「ね、陽介くん、紗代子の事なんだけど、何とか我慢してもらえないかな。あの子、ペクの看病は絶対に自分がやりたいと思ってるはずだから」

 彼がタルトを食べ終えたところを見計らって、有希子は再び元の話題に戻った。

「ペクには可哀相だけど、長くてあと半年っていう事だし、場合によっては一、二か月かもしれないし。もちろんその間、陽介くんが生活に不自由しないようにちゃんとフォローすることは、私からも紗代子と、あと、お母さんにも念は押しておくから」

 本心を言えば、もう少し自分寄りの意見を出してくれることを期待していたのだけれど、やはり有希子も紗代子サイドの人間である事に変わりはなかったようだ。

「まあ別に、その辺は俺も一人暮らしが長かったから構わないんですけど。でも何ていうかその、変な言い方するかもしれないですけど、犬より下って扱いのような気がして、そこが納得できないんです」

 ワインの酔いも手伝ってか、思いのほか率直な気持ちがこぼれ出た。有希子もさすがに「犬より下」という表現にはひっかかたらしく、軽く眉を上げると一瞬唇を引き結んだ。

「確かに陽介くんがそういう気持ちになるのも無理はないわよね。でもさ、ペクって本当に、紗代子には特別な犬なのよ。一番大変な時期を支えてくれたんだから」

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