第6話

「地雷ふんじゃったわけね」

 西島にしじまさんは少しだけ小鼻をふくらませてそう言うと、空になったパスタの皿を脇へよけた。

「でもね、なんでわざわざ地雷埋めるような事するのか、理解できないんだけど。一日働いて、疲れて帰ってきたところに、巻き寿司なんかで試されたくないんだよ」

「奥さんにしてみればさ、それ位の事をされたっていう被害者意識があるのよ。それでまた、家に別の女の人の髪の毛が落ちてたなんて、私だったらもう、旦那が帰ってきた瞬間に跳び蹴り食らわせてる。奥さんが冷静な人でよかったわね」

「そうかな」と、陽介ようすけが椅子の背もたれに身体をあずけると、ウエイトレスが食後のコーヒーを運んできた。昼休みに時たま入るレストランで、ちょうど西島さんも一人で来ていたので、ついついこの前の紗代子とのやりとりを愚痴ってしまったのだが、しょせん女性は女性の味方だというやるせなさは消えない。

「俺としては、もっとこう、のんびり構えててほしいんだけど」

「何言ってんだか。多分ね、奥さんは気づいてることが十あったら、その中の九までは黙ってるわよ。だから指摘された事なんかきっと氷山の一角」

 それが真実だとしたら、恐ろしすぎる。陽介はオリジナルブレンドの、少し酸味のきいたコーヒーを飲みながら眉をしかめた。

 店のテーブル席は全て埋まっていて、カウンターには少し空きが出てきた。慌ただしく食事だけ済ませていく客もいれば、コーヒーだけを飲みにくる客もいる。初老の夫婦二人で切り盛りしているこの店は古びているし、目新しいメニューがあるわけでもないけれど、値段も手頃で、あまり待たされなくて、まさにサラリーマンの味方という感じだ。

「ねえ、代休でもとって、奥さん誘って仲直りにどこか出かけてみれば?少し贅沢な温泉宿とか」

「でもそんな事したら、俺が悪うございましたって認めてるようなもんじゃない」

「高田さんって、損して得とれって言葉知らないの?営業でしょ?」

「まあ、言わんとするところは判るんだけど、俺、そこまで計算高くないし」

「そう言われると、こっちが計算づくの狡猾な人間だと思われてるみたいな感じ」

 西島さんはあからさまに不機嫌そうな顔をつくってみせた。

「計算って言葉を使うから冷たい感じに聞こえるけど、相手の事考えてシミュレーションしてみるのって大事よ。計算しないなんて、かっこよく聞こえるけど、子供が気ままに振舞ってるのと変わらないじゃない。それで後から言い訳がついてくる分、大人の方が始末が悪いわ」

「別に西島さんの事をどうこう言ってるわけじゃないんだけど」

「わかってるって。私も別に高田さんの事を言うわけじゃないけど、人間関係が不器用なんです、って開き直ってる人の肩を持つ気にどうしてもなれないの。改善すべき点はいくつもあるのに、自分でそれを放棄しちゃって、辛いよう、なんて弱音を吐いたりするから」

「厳しいなあ」

 陽介は空になったカップを置くと「じゃ、戻って会議の資料作るんで」と断って席を立った。西島さんは目だけで了解、という合図をして、バッグから取り出した文庫本を広げた。

 外は曇り空で、天気予報では夕方から雨模様だと言っていた。なのに傘を持ってこなかったな、とぼんやり思いながら、陽介は会社に向かって歩き始めた。

 紗代子さよこに色々と文句を言われたあの夜からもう十日ほどになる。直後の週末は職場の友人と出かけるから、という事で現れなかったし、その後は何度か陽介の帰宅前を狙ってマンションに戻り、冷蔵庫に惣菜を補充し、親戚からもらった焼き菓子や何かを置いていった。

 そういった、一見かいがいしく感じられることが、何だか妙に事務的というか、別の地雷のようで、陽介を複雑な気持ちにさせた。それでも「おかずありがとう」と短いメールを送り、向こうからは「作り過ぎちゃったから」といった、これまたあっさりとした返事が来るのだった。

 やっぱり俺がちゃんと謝るのを待ってるんだろうか。

 何だかそれも悔しいというか、自分がどうしてそこまで損な役回りを引き受ける必要があるのか納得できない。まあしかし、紗代子の両親が東京から帰ってくるのも来週あたりだし、彼女とまた一緒に生活するようになったら、少しずつ元通りになっていけるかもしれない。そもそも、すべてのトラブルは紗代子が実家に帰ってしまった事に起因しているのだから。


 月に二回の定例会議は滞りなく進んで、四時過ぎに終わった。今日はこのあと月間予定表を作って、新規の取引先に出す見積をまとめるだけだから定時で帰れそうだ。ちらりと腕時計を見て、それから会議机に広げていた資料をファイルに入れようと揃えていると、上司の岡本おかもと部長に声をかけられた。

「高田くんと、あと吉岡よしおかくん、ちょっと残って」

 何だろう。一人おいた席にいた吉岡の顔を覗き見ると、彼もけげんそうな顔をしている。他の営業社員がぞろぞろと出て行く流れに逆らうようにして、部長は陽介たちのところに歩み寄ると、「君ら、パケスポに出張行ってくれへんかな」と言った。

「パケスポって、あの、見本市ですか?」どうやら岡本部長が言っているのは、毎年東京で行われる包装材の総合見本市、通称パケスポの事らしい。

「でもパケスポには三課の上原うえはらさんが行くって聞きましたけど」と、吉岡が少し面倒くさそうに尋ねる。

「まあ、そやってんけど、あいつはちょっと退職することになってな」と、部長は角ばった顎を掌で何度かさすった。

「退職?全然聞いてませんけど?」

「そらそやろ、わしかて今日聞いたとこやで。まだ正式に退職願いも出しとらへんけど、どうも実家戻って仕事を継ぎたいらしいわ」

「上原さんちって、豆腐屋だったっけ。もう親父の代でつぶす、なんて言ってたはずだけど」

 陽介は出張の事よりも、二年先輩の上原の身の振り方のほうが気になった。早くに結婚しているから、今年小学校に上がった女の子が一人いるけれど、奥さんは賛成しているんだろうか。

「上原さんちが豆腐屋でもラーメン屋でもいいですけど、なんで代わりが俺たちなんですか?」と、吉岡は尚も不服そうだ。

「まあ、次代を担うホープっちゅう事やな。特に高田くん、君はそろそろ本気出していかんとあかんで。一昨年にパケスポ行ったんが初めてやろ?あの時のレポートはホンマに、遠足の感想文かと思たわ。今度は金魚のフンを卒業して、自分で商品見つけてきてバンバン売らんと」

「はあ」と、一応しおらしい返事はしてみたが、内心おだやかでない。後輩の吉岡の前でそんな事を言われた日には面目丸つぶれではないか。

「吉岡くんも、のんびりやってたらあかんで」

「了解っす」

「ほなそういう事で、OK牧場やな」と、岡本部長は一人で話をまとめ、「ワシのスマホ、誰か見てへんか~」と叫びながら会議室を出ていった。その背中に向かって吉岡は小声で「ありえねぇっす。面倒くさ」と毒づいた。

「なんで俺たちがいきなり出張なんすか。パケスポって来週でしょ?俺、マジでスケジュール満杯なんですけど。断れないっすかね」

「一度ぐらい行っといて損はないと思うけどな。それにまあ、多分日帰りだろうし」

「だから嫌なんすよ。朝早いし、夜遅いし、手当は出ないし。見本市なんか行かなくても情報ぐらいつかめるのに、昭和の近江商人はこれだから面倒なんすよ」

 いつまでたっても関西弁の抜けない岡本部長は、生まれ故郷の滋賀にひっかけて「近江商人」と呼ばれていた。面倒見はいいのだが、反面、自分の価値観を押し付けてくるところがあり、吉岡のように他人の干渉を嫌うタイプには、鬱陶しいとしか感じられないらしい。

「断るんだったら自分で部長に言えよ」

 あれこれ愚痴ってはいても、さすがに吉岡もそこまではしないだろう。彼は文句を言う割に、卒なく仕事を片づけたりする器用なところがある。陽介は一足先に会議室を出ると三課に向かった。

 パーティションから顔だけ出して部屋を覗いてみると、上原はもう自分の席に戻っている。陽介はそのまま中に入ると「上原さん」と声をかけて近づいた。彼は顔を上げ、「もしかして岡本部長から話聞いた?」と、人懐こい笑顔を浮かべた。

「うん。代わりにパケスポ行ってこいって」

「ごめんな」

「退職の話は本当ですか?家業継ぐって」

「本当。予定では二月頃のつもりだったんだけど、ちょっと母親が体調崩しちゃって、前倒しにしたんだ。来月いっぱいで辞めるよ」

 陽介は頷くと、隣の席に腰を下ろした。

「いつかは会社やめて、豆腐屋さんを継ぐつもりでいたんですか?」

「いや、親父の代でおしまいにすればいいと思ってたんだけど、ここで働いてて、あちこち客先に行くと、小さい店でも皆けっこう頑張ってるじゃない。そういうの見るうちに、俺もやるだけやってみようかな、なんてね」

「男ならやっぱり、一国一城の主って感じ?」

「まあねえ。それにさ、知らない仕事じゃないもの。高校まではけっこう手伝ってたし、今ならまだ親父も元気だから、ちゃんと教わることもできるかなって」

 そう言って少し神妙な顔つきになった上原はしかし、豆腐屋というよりは、アパレル系のバイヤーという雰囲気を漂わせている。細身のシルエットのスーツがよく似合っていて、デスクの上にさりげなく転がっている文具類も、彼なりのセンスで選んだらしい、一味違うものばかりだ。

「奥さんとか、黙って賛成してくれたんですか?」

「いや、ちょっと、騙された感じね、とは言われたけど。でもまあ、俺の実家の方が子育てには環境いいからね。ただ、転校を進級に合わせたいっていうんで、三月までは俺だけが先にUターン」

 陽介は思わず「へーえ」と声をあげてしまった。ありえない事だけれど、自分が兼業農家の実家を継ぐと言い出したら、紗代子はどんな反応をするだろう。

「パケスポの入館証とかはさ、こっちで変更の手続きやっとくから。あと、俺はついでに行きたいところがあったからホテル押さえてたんだけど、高田は日帰り?期間中はあの辺のホテルは全部埋まるから、泊まるんだったら俺の予約をそのまま使えばいいよ。いらないんだったらもうキャンセルするけど」

 そう言いながら、上原は抽斗を開けてファイルを取り出した。

「これがパケスポ関係の資料。もう渡しとく。うちの取引先には付箋つけてあるから、挨拶だけはしといて。青い付箋は俺がちょっと注目してるとこ」

 差し出されたファイルを受け取り、中をざっと見てみる。正直いって見本市なんて、軽く見て回って、取引先にちょっと挨拶して、あとは適当にレポート書いて、と思っていたが、上原は下準備からしてスタンスが違う。岡本部長に前回のレポートを「遠足の感想文」と言われたのも致し方ないか、という気がしてきた。

「何だか勿体ないなあ。上原さん、来年あたり係長狙えるんじゃないかって噂だったのに」

「そんなの単なる噂。本当ならもっと引き留められてるから」

「理由が理由だからでしょ。じゃ、ホテルの予約の件はちょっと考えさせてもらっていいですか?」

「了解」と頷く上原に軽く頭を下げて、陽介は三課を後にした。退職の噂はすぐに広がるだろうし、彼は女子社員にファンが多いから、きっと大きな騒ぎになるだろう。もし自分が同じように突然辞めるとして、どんな感じかな、とついつい想像してしまう。


 その日の帰り道、ふだんより一本早い帰りのバスで、珍しく座れたのをいいことに、陽介は手帳を開いていた。思えば何だか奇妙な一ヶ月だった。

 単純に独身時代に戻って、気楽な暮らしを満喫するつもりだったのに、あれやこれやで紗代子との仲はぎくしゃくしたままだ。しかしまあ、彼女が戻ってきていつもの生活が再開したら、全て何事もなかったかのように流れ出すんじゃないだろうか。そのためにも、自分が不在にしている間に紗代子が戻ってくれている、というのが一番無難なリセットの方法に思える。

 来週のうちに紗代子の両親が帰ってきて、次の週末が自分の出張。正確には金曜だけの日帰りだが、上原がおさえているホテルに二泊すれば、紗代子が戻って全てが元通りになった我が家に、「あー疲れた。やっぱり東京は人が多くて」などと言いながら帰宅できるわけだ。

 さりげなくその方向に話をもっていこうと考えながら、陽介はメールを打った。

 再来週、金土日と出張が入りました。入れ違いで申し訳ない。掃除はこの週末にちゃんとやっときます。

 これくらい殊勝なところを見せておけば、向こうも納得してくれるだろう。送信完了したところでちょうど、次は神崎橋、というアナウンスが流れた。

 バスを降り、少し遠回りをしてコンビニで牛乳を買う。今日は時間があるので、雑誌でも買おうかと品定めをしていると、携帯が鳴った。紗代子からだ。

「お疲れ。さっきのメール見てくれた?」

 向こうもちょうど仕事を終えて帰宅した頃だろうか。しかし紗代子の声は予想外に低く緊張していた。

「見たけど、私ちょっと、当分そっちには戻れないから」


 半時間ほど前に降りだした雨は激しくはないものの、あちこちに水たまりを作り始めていた。このあたりは街灯が少ないので、注意していないとまともに足を突っ込んでしまう。陽介は少し立ち止まると、スピードも落とさずに直進してきた自転車をやり過ごした。軽く溜息をつき、路地を曲がって二軒目の家のインターホンを押す。

「はい」という返答があり、陽介はドアが開くまでの間に傘をたたんで軽く振った。この場所に立つ時はいつも、正体のわからない居心地の悪さを感じる。できればこのまま帰りたい、いつだってそう思うのだけれど、そんな事ができるわけもない。

「雨なのにわざわざ、ごめんね」

 ドアを開けた紗代子はそう言いながら来客用のスリッパを出した。これがまた、陽介にとって違和感の源でもある。スリッパなどというものはトイレにしかなくて、あとはどこでもぺたぺたとそのまま歩き回るのが、彼の実家でのやり方で、紗代子にとっては「ちょっとだけ気持ち悪い」環境なのだ。

「晩ごはんは?」

「コンビニでおにぎり買って食べたよ」と答えて、陽介は広い玄関に上がった。彼らのマンションに比べるとほぼ倍の広さで、義父が撮った北アルプスの写真パネルがその正面で来客を出迎える。下駄箱の上には義母が十年来続けているという、パッチワークキルトが飾ってあった。

 紗代子の後について廊下を抜け、居間に入ろうとすると、その気配を察して、ペクがソファを飛び降りてこちらに駆け寄ってきた。コーギーと柴犬あたりの雑種らしい、短足で大きな耳が愛嬌のある中型犬だ。

「よう、久しぶり」と頭を軽く撫でてやると、彼は申し訳程度にぴろぴろと尻尾を振ってみせてから、再びソファの上に戻った。あっさりした挨拶はもう老犬といえる年齢のせいではなく、数年前に陽介が初めてこの家を訪れた時から、この「尊大」ともいえる態度は変わらない。ペクにとっての陽介は、ヒエラルキーの最下層に位置するからだ。

 まず一番上にいるのが、本来の飼い主である紗代子。それから現在、毎日世話をしている義母、次が週に何度か散歩を担当する義父、それからたまに帰省してくる義姉の有希子。その下に来るのはペク自身で、そのまた下に陽介が存在するらしいのだ。義姉の有希子に至っては、ペクを飼い始めた時から東京住まいだったし、陽介の方がずっと頻繁に会っているはずなのに、このピラミッドは揺らぐことがない。

「俺のこと、まだ覚えてるみたいだな」と、多少の皮肉も交えながら、陽介はペクのいない方のソファに腰を下ろした。ジーンズの裾が少し雨に濡れているが、じきに乾くだろう。紗代子はキッチンに準備していたらしいポットとカップをのせたトレイを運んでくると、テーブルに置き、「ごめんね、ちょっとコーヒー切らしちゃって」と紅茶を注いだ。陽介はその間、脇に置いてあった夕刊を手にしてみたけれど、一面だけちらりと見て元に戻した。

 ほんの一時間ほど前、紗代子は電話でいきなり、義理の両親が帰ってきても実家から戻ることはできないと言い出して、その理由をペクが病気だから、と説明した。しかし陽介にはどうも納得がいかず、こうして訪ねてきたのだけれど、どう見てもペクはお盆に会った時と同じくらい元気そうだ。

 紗代子はキッチンに戻ると焼き菓子を盛り合わせたガラスの器を運んできて、「よかったら食べて。香奈かなちゃんからの内祝い」と勧めた。香奈ちゃんは紗代子の従妹で、たしか先月出産したんだっけ、と思いながら、陽介はマドレーヌをひとつ手にとった。

 紗代子は何も言わずにペクの隣に座ると、ロールケーキに似たその黄褐色の背中をゆっくりと撫でている。テレビは消されていて、二人して無言でいると外の雨音が家に浸み込むように響いてくる。何だか喉につかえるなあ、と思いながらマドレーヌを食べ終わると紅茶を一口飲み、陽介は意を決して「ペクはどこが悪いの?」と質問した。

 紗代子はその手をペクの背中にのせたまましばらく黙っていたが、「肝臓にね、腫瘍があるんだって」とだけ言った。当のペクは関係ない、といった風情で、頭を下げると揃えた前足の上にのせた。

「なんでわかったの?」

「昨日ね、散歩から帰ってきてブラシかけてたら、なんだかお腹のあたりが張ってるような気がして。心配だから今日、会社を早退して獣医さんに行ったの。そうしたら」

 そこまで言って、紗代子は急に言葉に詰まると、手を伸ばしてテーブルに置かれたティッシュペーパーを一枚とった。

「かなり大きいです、もう手術も無理ですっ…て」

 もう後は言葉にならず、紗代子はあふれてきた涙をティッシュで押さえた。するといきなり、うずくまっていたペクが起き上がり、首を伸ばすと薄い舌でその涙をしきりになめた。しかしそのしぐさが却って紗代子を悲しませるらしく、涙は次々にこぼれるのだった。陽介は何も言えず、ただ彼女が落ち着くのを待った。

 正直なところ、紗代子がここまで感情を露にして泣くのを見るのは初めてだった。自分の結婚式では泣くどころか、その場にいた誰よりも冷静だった彼女だ。一緒に映画を見に行って、ちょっと感動したりだとか、喧嘩がエスカレートしての悔し涙だとか、そんなものは何度か記憶にあるが、それとはレベルが違う感じだ。

 半時間ちかく、あるいは五分と経たないうち。とにかく陽介にとって永遠とも思える時間の後に、紗代子はようやく気を鎮めると、再びペクの背中を撫でながら「ごめんね、私、まだ気持ちの整理がつかなくて」と言った。

「そりゃ、今日言われたばっかりだもの、仕方ないよ。でもまあ、ペク自身は辛くなさそうに見えるけど」

「そう。それだけが救い。けど獣医さんが言うには、もうそんなに長くないだろうって。早くてひと月とか、持って半年ぐらいとか」

「手術が無理でも、犬用の抗癌剤とか、そういうのは使えないわけ?」

「もちろん聞いてみたけど、この大きさじゃもう無理ですって言われた。私、なんでこんなになるまで気づいてあげられなかったんだろうって、本当に自分が許せなくて」

「でも紗代子が悪いんじゃないいよ。一緒に住んでなかったんだから仕方ない」

「だから許せないのよ。自分の犬なのに、結婚したからって置いて出ちゃって、それで病気になったのに気づきませんでしたなんて、最低だわ」

 また気が昂ぶってきたらしく、紗代子はティッシュをもう一枚とると目頭を押さえた。まあ確かに、結婚する時にペクと離れるのは嫌だからと、この家での同居を提案された事はある。あからさまに反対はしなかったけれど、たかが犬のために?と陽介が思ったのは事実で、代わりに借家を探してみたけれど、薄給の自分にふさわしい物件はなかった。そうこうするうちに義姉の有希子が助け舟を出してくれて、二人だけでマンションを借りて住むことができたのだ。

「だからね、私、ペクのことは最後までちゃんと面倒見てあげたいの。ずっとここで、ついていてあげたいのよ」

「そのために、お義父さんたちがこの家に帰ってきても、うちに戻らないってこと?」と念を押すと、紗代子は黙って頷いた。傍にいるペクは「もちろん」とでも言いたげにこちらを見ている。

「でもさ、お義父さんたちだってペクのことはずっと可愛がってくれてたし、これからもちゃんと面倒は見てくれるだろ?必要なら土日に会いにくるとかで十分じゃないのかな」

 紗代子の言い分では、両親にまかせっきりにしていたから病気に気づくのが遅れた、という事だから、自分の説得には明らかに穴がある。しかし陽介にはそれ以上うまい言葉が見つからなかった。案の定、紗代子はすぐに反論してきた。

「獣医さんは、これからだんだん、ごはん食べる量が減ってきたりするかもしれないって言ったわ。その分の栄養は点滴で補ってあげるしかないの。だから、必要なら毎日でも病院に行かなくちゃならないし、いつ容体が急変するかもわからないから、ずっとついててあげないと」

「けど仕事もあるし、それは少し難しいんじゃない?」

「仕事は辞める」

 短く、きっぱりと、紗代子はそう宣言すると、ちょうど身体を起こしたペクの首に腕を回した。

「お金の事なら心配しないで。ペクの病院の分は全部私の貯金から出すし、あっちのマンションの家賃とか光熱費は今まで通り払うわ」

「いや、それは別に」と言ってはみたものの、いらない、とは言えない自分がいる。正直なところ、紗代子の収入なしであそこに住むというのはけっこう厳しい。

「それより、仕事は続けておいた方がいいと思うんだけど」

「いいの、どうせ子供ができたら辞めるつもりだったし」

「でもさ、また次に正社員の仕事さがすの大変じゃない?」

「いまはそんな先の心配してる場合じゃないわ。私にはとにかくペクが大事なの。残された時間を、ペクがどれだけ幸せに過ごせるかが問題なの。仕事辞めて次がどうこうとか、そんなの大した事じゃない。だってペクは、ペクだけが、私のことを本当にわかってくれてる、百パーセントの味方だから。ペクがいなくなっちゃったら、私どうして生きていけばいいかわからない。それが本当に怖いのよ」

「…そう」としか言えず、陽介は冷めてしまった紅茶を口に含んだ。余命いくばくもない、と宣告されたペクには気の毒だけれど、たかが犬、という感覚はどうしても拭えない。

 陽介の実家でも犬を飼っていたことはある。それはペットというよりも番犬という役割で、ペクのように室内飼いではなくて、昼も夜も納屋の前につながれていた。そんな具合だから、餌も下手をしたら冷や飯に残り物のおかず、というのが定番で、多少元気がなくても寝れば治ることになっていた。怪我をすれば水道で洗って庭先のアロエをなすりつけ、獣医にかかるのは予防注射の時ぐらいだった。

 そんな事を考えていると、目の前でソファにふんぞり返っているペクに対して、何やら嫉妬めいた気持ちすら湧いてくる。自分を一番わかってくれているだとか、百パーセントの味方だとか、紗代子が本来そう思うべきなのは夫である陽介のはずなのに、何がどうなってこの犬なんだろう。

 ペクは陽介の心中を察したかのように立ち上がると、軽く一声吠えてソファを飛び降り、部屋の隅に置かれたケージの脇にあるボウルから水を飲んだ。紗代子はその姿を、まるでわが子を見守る母親のような目つきで追いかけている。陽介は思い切って口を開いた。

「あのさ、紗代子も今はまだかなり気持ちが混乱してるんじゃないかな。だから、お義父さん達が帰ってきたら、ゆっくり話をして、それからどうするか決めた方がいいと思うんだけど」

「それって、私は陽介のところに帰るべきだって事?」

「いや、そう断定してるわけじゃないけど」

「無理よ。いまペクを置いてくことなんかできない」

「でもちょっと変じゃない?特別な問題もないのに、その、ずっと別居状態ってのは」

 何でこんなに言いにくいんだろう。ただ単に、夫婦だから一緒に住むのは当然という話がしたいだけなのに。

「問題はあるじゃない。ペクの病気は大問題よ。もしかしたら陽介にとっては些細な事かもしれないけど」と、紗代子の言葉にはあからさまに棘があった。

「一緒に住むべきっていうなら、あなたがこっちに来ればいいじゃない。空いてる部屋はあるんだし、最初からそうすればどうかって何度も言ったよね。そうすれば貯金もできるからって。もし、陽介が一人でいるのが色々と不便だって言うなら、ここに住むことで全部解決できるはずよ。少なくとも、女手が二人分もあるんだから」

 そういう事が言いたいんじゃない。

 陽介は何だか自分が犬になったような気がしてきた。気持ちを伝えようにも人間に通じる言葉が使えない。口から出るのは空回りする鳴き声だけだ。一方、本物の犬であるペクは、水を飲み終えて満足そうな顔つきになり、ケージの前を何度か往復してから中にもぐりこんで丸くなった。

「とにかく、今日はもう帰るよ」

 なるべく不機嫌そうな声にならないように注意しながら、陽介は立ち上がった。紗代子が「車で送るわ」と言ったが、「ペクについててやりなよ。まだバスはあるから」と断った。もしかしてその言葉が、不必要に皮肉っぽくなかったかと、言った途端に気になり出して、あとはもう「またメールするよ」とだけ付け加えて玄関に向かった。

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