第5話

 月曜、仕事を終えた陽介ようすけが帰宅すると、部屋には明かりが灯っていた。今日は酔っているわけでもないし、玄関に揃えられた靴を見ただけで、紗代子さよこが戻っている事に気がついた。「ただいま」と声をかけてリビングのドアを開けると、彼女はキッチンで洗い物をしていた。職場から直接来たらしくて、カットソーにタイトスカートという通勤着だ。

「どしたの?」

 鞄を床に置き、上着を脱ぎながら声をかけると、彼女はこちらに背を向けたまま「別に、自分の家にいて、どうしたもこうしたもないじゃない」と言った。あ、これはちょっと不機嫌のサインだな、と警戒しながら、陽介はいったん寝室へ退却し、服を着替えた。たいていの場合、こっちの質問に挑戦的な答えをしてくる時は何かあるのだ。まあとりあえず話があるなら聞いて、流して、必要ならば謝って、と、いつもの戦略を確認してから再登場。

 紗代子もちょうどリビングにいて、空のタッパーをエコバッグに入れているところだった。よく見ればそれは、彼女が金曜に惣菜を入れてきたものだ。

「あれ、捨てちゃったの?まだ食べられたのに」

「私は週末の分として持ってきたの。もう月曜の夜よ。それに、全然手をつけてなかったじゃない」

「いや、それはちょっとあちこち出てたりして」

 土曜は遅くまで寝ていて、それからはずっととおるみおにつきあっていて、今朝は寝坊して食事どころではなかった。明け方に亨たちが出て行った後でベッドに戻ったら、思いの他ぐっすり眠ってしまって、目覚ましも知らない間に止めていたので遅刻寸前だったのだ。

「冷蔵庫って過信しちゃ駄目なんだからね。この温度だと十分にばい菌は繁殖できるのよ」

 そして彼女はローテーブルに載せた白い包みをこちらへ滑らせた。

「今夜はこれ食べれば?安売りしてたの」

 中を覗くと、巻き寿司が何本か入っている。「太巻きと、サラダ巻と、葱トロ巻と、イカ紫蘇巻」紗代子は早口で言うと、「あと、これ、私のじゃないから」と言って、アクリルのピルケースをその傍に置いた。中にはパールのピアスが片方だけ入っている。

「ああ、それそれ、やっぱり大野おおのさんのみたいだよ」

 陽介はそして、今日の職場でのやりとりを思い出していた。


「大野さん、恒例の月曜欠勤でございますわよ」

 西島にしじまさんは午後の会議の資料を手渡しながら、陽介に報告したが、それはまあ大して珍しい事ではなかった。

 大野さんはたいがい、三連休の翌日は何故か体調が悪くなって四連休になり、普通の週末については月に一度くらいの頻度で月曜に具合が悪くなるという「約束」になっていて、周囲も何となくそれを容認していた。「身体がお休みモードから戻らないんですよね」という主張のどこが間違っているのか、冷静に指摘するような暇は誰にもない。

「彼女がいないと、いい意味で静かだよな」と陽介が冗談めかして言うと、西島さんは「それ本人に直接言えばいいのに」と苦笑した。

「ねえ高田さん、奥さんにはちゃんと謝っといた?」

「謝るって?」

「聞いたわよ。金曜の帰り、大野さんがお家に上がりこんだら、奥さんと鉢合わせしちゃったって」

「ああ、吉岡よしおかの奴、もう喋ったのか」

 週末に色々あったせいで、もう忘れかけていた金曜の飲み会の話だが、朝一番に吉岡から「あの後、どうしたんすか?」と聞かれて、正直に話したのだ。

「いきなりトイレに行きたいとか言い出して。彼女は酔っぱらうと本当に手におえないな。普段からかなり面倒くさいけど。でもさ、別にうちの奥さんは怒ってなかったから。ちゃんと彼女のこと、車で家まで送ってあげたし」

「それは社交辞令っていうか、高田さんの顔をたてて、後輩の前で物分りのいい妻を演じてくれただけでしょ?」

 西島さんは「わかんないの?」とでも言いたげな、アヒルのような口元の笑顔をつくってみせると、「じゃあまだ謝ってないんだ。知らないわよ、どうなっても。私だったらそんなの我慢できないもんね。ま、だから離婚しちゃったんだけど」

 これは彼女の持ちネタで、職場結婚した夫の浮気が原因で離婚、夫が退職しても自分はそのまま働き続けているという、開き直りのなせるわざだった。最近、取引先の課長と付き合っているらしいという噂も出ているけれど、職場で自分の現在の私生活を語ることは皆無に近い。

「そういえばさ、大野さんってピアスしてたかどうか知らないかな」

 話の流れで、陽介はトイレに落ちていたパールピアスの事を思い出していた。

「ああ、してるわね。ていうか、高田さんにも延々と相談してたじゃない」

「そうだっけ?」

「ピアスの穴あけたら、失明するって本当ですか、とか大騒ぎしてたの、憶えてない?」

「さあ、彼女いつもそんな事言ってるから、いちいち記憶にないし」

「そっけない事。とにかく、お盆休みを使って穴はあけてたわよ」

「そうか、だったらやっぱりあのピアスは大野さんのだな」

 陽介がそう言った途端、西島さんは目を大きく見開いて「やっだあ!」と叫んだ。

「奥さん留守って知ってて、トイレを口実に上り込んで、おまけにピアスまで落としていったんだ。大野さんも天然なんだか策士なんだか、怖いわよねえ」

「そん事を言うんだったら、彼女も一緒に連れて帰ってくれたらよかったのに」

 陽介は少しうんざりしてそう答えた。全く、女の人ってどうしてこういう小さな事で延々と盛り上がっていられるのだろう。

「無理無理。だって彼女あの日みんなに、私、高田さんのマンションまでついてきますって宣言してたもの。まあ、どんな暮らしぶりか見てきて報告するつもりだったらしいわ」

 陽介は呆気にとられてしまった。酔っていると思っていた大野さんが、そこまで周到に計画していたとは、ちょっと信じられない。

「じゃあ何、飲み会を企画した段階でそういう考えだったって事?」

「まあそうなんじゃない?」と意味深に笑いながら、西島さんは隣の吉岡の席に座り、彼がペーパーウェイト代わりに置いている、戦闘メカのフィギュアを手にとった。

「いいんじゃない?そういうのって、みんなに好かれてる証拠だと思うよ。ま、奥さんにしてみればいい迷惑でしょうけど。話きいてていつも思うんだけど、高田さんの奥さんってけっこう私に似たタイプじゃない?テキパキしてて、細かい事は言わなくて、愛想がよくて、誰とでもかなりうまくやれちゃう」

 自分でよく言うなあ、と思いながらも、陽介は「人類を二つに分けたら同じ側に分類されるだろうな」と控えめなコメントをした。

「別に自分で買い被ってるわけじゃないのよ。むしろその逆。こういう一見サバサバしてる、略してイチサバ女子ってのはね、案外色々と溜め込んでおりますのよ」

「イチサバって言葉、初めて聞いた」

「だって今作ったんだもん。溜めてるのはね、感謝されなかったとか、謝罪をごまかされたとか、気づかないふりして面倒な事を押し付けられたとか、日ごろの些細なあれこれよ。ちなみに私はそれが爆発して別れたけど、奥さん大丈夫かしらね。高田さん、愛妻銀行での積み立ては、小まめに引き出しといたほうがいいわよ。でないと夫婦関係がバキッ・・・」と言いながら、西島さんはフィギュアの腕を左右から引っ張ったが、何がどうなったのか本当に右腕がとれてしまった。

「あーら、どうしましょ」

「知らないからね」

「ちょっと、こういうの直すのは男の仕事でしょ?」

「俺、プラモとか苦手なんだもの。素直に自首したら?吉岡も西島さんには面と向かって文句言えないだろうし」

「それって、陰であれこれ言われるって事?私、吉岡くんから煙たがられてるのはよくわかってるけど」と言いながら、とれた右腕をああでもないこうでもないとこねくり回している内に、それはまた唐突にぱちりと元の場所に収まった。

「何これ?そういうもんなの?」

「色々トランスフォームできるタイプなんだよ、きっと」

「高みの見物しといて、トラブルが収まった途端に、偉そうにレクチャーするなんて嫌よねえ。とにかく、バラけちゃった夫婦関係はそんなにうまく収まらないから、気をつけてね」

 西島さんはフィギュアを注意深く元の場所に置くと、「愛妻銀行って利息いいのよ。半年複利で二十パーセントぐらい」と念押しして席を立った。


「本当に大野さんって、人の都合何も考えないんだからな。酔っぱらうと五割増しな感じだし。まあ憎めない性格ではあるけど」

「なるほどね。でも、これが私の持ち物だなんて、そもそもありえないから」

 紗代子は妙に平坦な声でそう言うと、片方だけのパールピアスが入ったアクリルのピルケースをテーブルに置いた。

「ありえないって?」

「国産でもない安物の小粒真珠に金メッキの金具。高校生が初めてのバイトのお給料で買ったって感じ」

 辛辣な言葉に似合わず、淡々とした声音のまま、紗代子は「私が持ってるアクセサリの中に、こんな安物なんか一つもないから。ちゃんと見ればわかるでしょ?」と続けた。

「いや、俺はそういうの本当によく判らないからなあ」

 返答に行き詰って、曖昧にごまかそうとすると、紗代子は更に「陽介っていつも、俺には判らない、で終わらせようとするわよね」と続けた。こっそりとその表情を盗み見ると、まるで能面みたいに凍りついた感じで、これはかなり状況としては危険だ。

「ついでにもう一つ聞きたいことがあるの。この部屋にこんなものが落ちてたんですけど、大野さん以外にも誰か来たんじゃないの?」

 そう言って紗代子がこちらに差し出したのは二つ折りにしたティッシュペーパーだった。質問を把握できないまま陽介が固まっていると、彼女はそれを開いて見せたが、そこには長い髪が一本だけ、何かの紋章に使われた蛇のように複雑な曲線を描いて挟まれていた。

 紗代子はショートカットで、大野さんの髪は肩にかからない程度。その長くしなやかな髪は澪のものに違いなかった。未だにバンド活動から抜けられない男友達、やたら毛の長いペルシャ猫、冷凍マンモス。咄嗟にできる限りの言い訳を考えてみて、陽介はすぐにギブアップした。

「実は、友達からいきなり連絡があって、今こっち来てるから会えないか、なんてさ」

 紗代子は表情を変えずにじっとこちらを見ている。

「まあ、俺が出かけて行ったんだけど、帰りにちょっとだけここに寄ったんだよ。で、そいつが女の人連れてたんで、たぶん彼女の、かな」

 できる限り平静を装って、軽く、事もなげに。

「友達って、誰よ」

「亨。大学の時の友達。紗代子は会ったことないかな。地元に戻ってるし、俺たちの結婚式には来てないし」

「それって、結城ゆうきさん…って人?」

「ああそう、結城亨。年賀状で憶えてる?」

 紗代子は少し首を傾けると「うん、あと、結婚祝い貰ったじゃない。あなたもお祝い贈ってたでしょ?」と答えた。やっぱり彼女の記憶力は並じゃないと、半ば恐怖を交えて感心し、これをきっかけに話題をそらせることはできないかと考える。しかし紗代子はその隙も与えてくれなかった。

「で、問題ないって思ってるの?私はすごく嫌なんだけど。自分のいない間に、あなたの友達が奥さん連れでうちに上がりこんでたなんて。コーヒー出したんでしょ?しかも私の年季の入ったマグカップ使って。なんで来客用のカップ使ってくれなかったの?洗面所やトイレのタオルだって新品とってあるのに、出してくれてないじゃない。クッションカバーだって交換してないし、そこに古新聞と牛乳パック積んであるし、そんなみっともない家の中に、はいどうぞなんて友達を上げてほしくないのよ!」

 話すうちに紗代子は段々と感情を昂ぶらせていった。いや、彼女の中ではもう十分に高まっていた怒りが、遂に外へと溢れ出してきたのだ。

「ここはあなた一人の部屋じゃない。私が管理してる家なの。私の許可なしに誰も入れてほしくないの、絶対」

 しかし紗代子はここしばらく実家に帰っているし、それは彼女の都合だ。そしてこの家は陽介の住まいでもある。反論したい気持ちはあったが、そうしたところで事態は面倒になる一方だろう。陽介は仕方なく「ごめん、そういうの、よく判ってなくて」と謝罪した。

 だが、「よく判ってなくて」と彼女は繰り返す。

「判らなかった、気付かなかった、で何でも済むから楽でいいわよね。私はもう、あなたが金曜に大野さんを連れてきた時点でうんざりしてたんだけど。そういうの指摘しても絶対に、それ位かまわないだろ、可哀相だし、なんて言うに決まってるんだもんね」

 陽介はひたすら黙って、嵐が過ぎるのを待った。たまにこういう事はあるのだ、自分があれこれ想像力を働かせず、気ままに振舞いすぎるといきなり手綱を引かれる。もしかすると彼女、生理前かも知れないな、と自分に言い聞かせて、更なる失言を繰り返さないように沈黙を守る。紗代子もすぐに彼の戦略に気づいたのか、いったん言葉を切ると肩で大きく息をして、「食事すれば?」とだけ言ってキッチンに姿を消した。


 何を洗っているのか知らないけれど、水の流れる音は絶え間なく続く。陽介は密かに、味噌汁でもあると嬉しいんだけど、と思いながら、紗代子が買って来たという寿司を頬張った。なかなか上等らしくて、鼻に抜ける海苔の香りが余韻を残す。こういう状況でなければもっと味わえるし、冷蔵庫まで行って発泡酒を取り出す事もできるのに、ただ黙々と食べることしかできない。

 背後から聞こえ続ける水音を消してしまいたくて、陽介はテレビのスイッチを入れた。音量は低めにして、バラエティのお笑いタレント出身校めぐり、というのを見るふりをしつつ、キッチンの気配には注意を払い続ける。

 そして少し多かったな、と思いながら寿司を全部平らげ、本気で何か飲みたいと思い始めた頃、紗代子がこちらに戻ってきた。手にはマグカップを二つ載せたトレイを持っている。

「飲む?」と差し出されたそれには、熱いほうじ茶が入れられていた。

「ありがと、おいしかったよ」と、少しあらたまって礼を言うと、紗代子はちらりとテーブルに小さくまとめられたゴミを見て、それから「やっぱりね」と呟いた。

「何が?」

「やっぱり一人で全部食べちゃった」

「え?でもさっき、食べれば?って言ったじゃないか」

「だからって一人で全部食べるの?私だって仕事帰りだし、夕ご飯食べたかどうかって、気にならなかったわけ?」

 罠だ。完全に罠だ。陽介は何故食べる前に一言「紗代子は食べないの?」と尋ねなかったかと、己の馬鹿さ加減にうんざりしていた。別に今日が初めてというわけじゃない、彼女は時々こうやって、抜き打ちで自分を試すのだ。もう随分慣れたはずなのに、つい油断すると面倒なことになる。

「ごめん、今からコンビニで何か買ってくるよ」と、仕方なしに自分の非を認める。

「いい。向こうに帰ってから食べるから」

 なんて、本当のところは最初からそのつもりだったに違いない。その後に続いた「あーあ、お腹すいたな」という一言には、さすがに陽介もカチンときた。

「だったらもっと沢山買ってくればいじゃないか。あんなのどう見ても一人分だよ。太巻きとサラダ巻は半分ずつだったし」

 つい言ってしまってから、しまったと思ったが、もう遅い。紗代子は自分のマグカップを口元に近づけ、息を吹きかけて冷ましながら「じゃあ、少なければ全部ひとり占めしていいと思ってるの?」と揚げ足を取りにくる。

 適性の全くない競技に強制的に参加させられている屈辱感をかみしめながら、陽介は憮然としてテレビの画面を睨んだ。都内屈指の名門女子高を卒業したという女芸人が、バニーガール姿で母校の門を突破しようとして、守衛に止められている。

 笑えないな、と胸の中でひとりごちながら、紗代子がもう見切りをつけて帰ってくれないかと願う自分がいる。いやしかし、帰るって言葉はおかしいんじゃないか?彼女も自分で使っていたけれど、だとしたらここが彼女の家だという主張はどうなるのだ。

 何となくその矛盾を突きたいような、しかしここでほとぼりがさめるのを待つのが得策のような。ぐるぐると考えながらテレビを見ていると、紗代子が静かな声で「どんな人?」と尋ねた。

「え?」思わずそちらを見ると、彼女は妙に血の気のひいた顔で、マグカップに視線を落としている。

「誰のこと?」

「その、結城さんの奥さんって人」

 不思議なもので、女性というのは男を気にしているようでいて、実際には同性の視線がすごく気になるらしい。多分今回のことも、紗代子はどんな女に自分の領土を値踏みされたかと苛立っているのだろう。

「ああ、すごくとっつきやすい、何も気にしてないような感じの人。うちの事、褒めてくれてたよ。奥さんのインテリアのセンスがいいって」

「そんなの社交辞令じゃない。わざわざ言うくらいだから、かなり細かくチェックしてたのね」

「そんな事ないと思うけど。でもさ、その人、結城…亨の奥さんってわけじゃないんだ。あいつ、離婚したんだってよ」

「離婚?」と言葉を切り、紗代子は口元に寄せかけたマグカップをテーブルに置いた。しめた。今度こそ話題を逸らせることができそうだ。

「何が原因だったの?」

 そう聞かれると、陽介は考え込んでしまった。亨から一通りの話は聞いたものの、あの入り組んだ内容を一言でまとめる才能は自分にはない。かといって最初から最後まで話すと、紗代子から「やっぱり男の人って」という非難が飛び出すのは必至と思える。

「まあ要するに、性格の不一致って奴?」

「どういうところが?」

「そりゃ色々じゃない?」

「例えば?」

「いやそこまでは」と、陽介はつい笑ってしまったが、紗代子の表情はいたって真剣だった。

「男どうしってさ、そういう事あんまり詮索しないもの。もう済んじゃった事だし」

「人の経験から学ぼうとしないって事よね」と、紗代子は呆れたように溜息をついた。

「学ぶ?」

「そうよ。何がまずくて失敗したのか、それをきいておけば自分は同じミスをしないですむじゃない。経験値の共有って、男の人って仕事では重要だって言ってる割に、目の前にいい例があっても、俺には関係ないって見過ごすわよね。自分はそんなに馬鹿じゃないという自信があるんだ」

 そっちこそ亨の事を何も知らないくせに。口に出したいのをこらえて、陽介は「どっちかっていうと、失敗というより必然って感じの離婚だからかな」と答えた。

 亨の話を聞いた限りでは、離婚はむしろ正解だったように思えたのだ。会ったことはないけれど、彼と別れた妻は、どうも相性がよかったという印象がない。

「続けようっていう努力をしないから、離婚は必然なんて言葉が出てくるのよ。まあ、そういう人って自分で気づかない限り、同じことを繰り返すんでしょうけど」

 紗代子は厳しい口調でそれだけ言うと、マグカップのほうじ茶を少し飲み、それから「じゃあ、一緒にここに来た女の人って何なの?離婚ってその人が原因じゃないの?」と尋ねた。

「それはないと思うよ。仕事関係の人らしかったし」

 そう説明してみたものの、陽介自身もその回答に納得していなかった。今朝、夜明け前、この部屋に戻ってきた亨の腕に食い込んでいた澪の指。その瞬間に引き戻されそうになったところへ、「本気で信じてるんだ」という紗代子の言葉が鋭く刺さった。

「きっと結城さんって、あなたのそういうとこが気に入ってるのよね。何でも素直に信じちゃうとこ」

 反論したいとは思うものの、何をどう言っていいかわからない。彼のそんな気持ちを知ってか知らずか、紗代子は「じゃあね。遅くなるから」と、バッグを肩にかけて立ち上がった。気をつけて、というのもわざとらしい感じがして、陽介は「うん」とだけ答えてその場を動かない。あれだけやり込められた後で、見送りも何もあったもんじゃない。ドアが閉まり、外から施錠する音が、一人のマンションに冷たく響いた。


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