第4話

 何だか長い週末だった。

 みおは帰り道もずっとハンドルを握り、疲れた様子も見せずに陽介ようすけを家まで送ってくれた。もう日はすっかり暮れていたが、がらんと静まり返ったマンションに戻って時計を見るとまだ六時前だった。夕食には早いし、もう風呂も入ったし、何だか手持無沙汰になって、陽介はリビングに腰を下ろすと、転がっているクッションをかき集めてそのまま横になった。

 帰りの車でも、三人でとりとめのない馬鹿話をして、結局のところとおるがいま一体どんな仕事をしていて、澪とはどういう関係なのかを知るきっかけさえつかめなかった。でもまあいいか。別に俺には関係のない話だし。

 目を閉じると、テレビの傍に置かれた時計が、その小さい身体に似合わない音で時を刻むのが聞こえてくる。それにかぶさるように、遠ざかるバイクのエンジン音と、マンションの誰かがこっそり飼っている室内犬の鳴き声と、キッチンで胴震いを始める冷蔵庫の音。


 ほんの少しのつもりが、ずいぶんと深く眠った気がして、陽介は慌てて身体を起こした。

 まさかもう月曜の朝ってわけじゃないよな。

 幸い、置時計はまだ十時を少し回ったところだ。今から夕食を作るのも面倒だし、カップラーメンでも食べておこうかと立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して少し飲み、更に目測で適当な量を片手鍋に注ぐと火にかける。それから流しの上にあるキャビネットを開き、買い置きのカップラーメンを取り出して蓋を開ける。

 まだ湯が沸くまでしばらくかかるので、リビングに戻ってテレビのスイッチを入れ、チャンネルを一通りザッピングしてから、バラエティ番組に合わせてキッチンに戻った。そしてラーメンに湯を注ぎ、生姜用のおろし金で蓋に重しをしてからトイレに行って、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出し、その場で少し飲んだあたりで準備完了。

 陽介はいまだかつてカップラーメンを作るための時間を正確に測ったことがなかった。そんなものは大体の感覚でわかるし、固ければゆっくり食べていけばそのうち食べ頃になり、柔らかければ大急ぎでかきこめばいいだけの話である。そんな彼を見て紗代子さよこはいつも、「メーカーの人が色々研究して、一番おいしいタイミングだから時間が決めてあるのに」と呆れていた。

 一瞬でラーメンを食べ終え、発泡酒の残りを重さで確かめながらテレビのチャンネルを替えてみる。明日からまた出勤とはいえ、まだ時間はあるし、さしあたってやるべき用事もない。この前録画しておいた映画でも見ようか、だったらいつもは一本だけと決めている発泡酒をもう一本あけようか。我ながら小さな決断だが、陽介は残りの発泡酒を飲み干すと、空き缶とラーメンの残骸を持って立ち上がった。

 そして再び腰を落ち着け、新しい缶を開けたところで、携帯の呼び出し音が耳に入った。さっきまで布団代わりにしていたクッションを次々とひっくり返し、それからキッチンのカウンターに置いたことを思い出して立ち上がる。手にしたディスプレイには亨の名前が出ていたが、今朝のこともあるから慎重に通話を始める。

「今日はあちこちつきあわせて悪かったな」という亨の声に少しほっとして、「こちらこそ。何かすっかりご馳走になっちゃって」と返す。結局のところ、昨日から今日にかけて、陽介はほとんど澪に奢られっぱなしで帰ってきたのだ。おまけに彼女が「奥さんにお土産どうかしら」などと言い出したので、しばらく別居状態という事情を説明してようやく納得してもらった。

「あのさ、すごく勝手なこと頼むけど」

 亨はどうも外にいるらしくて、後ろから時々車のエンジンらしい雑音が聞こえる。

「陽介のとこに、澪を今夜泊めてもらえないかな」

「え?」何かの間違いかと思って、つい聞き返した自分の大声が静かな部屋に響く。

「まあ、泊めるっていうか、居させてもらえればそれでいいんだ。別に何も構う必要ないから。多分、朝までには出ていく」

「ていうか、お前は一緒じゃないって事?」

「ああ。でも迎えには行くから」

 亨の声は昼間とはうって変って低く、尖っていた。一体何だっていうんだろう。でもそれを尋ねたところで、答が得られないことは明らかだ。陽介は「そうか」と言いながら時計に目をやった。まだ深夜というには早い、日曜の夜。

「判った。いいよ」と返事して電話を切り、それから手にしていた二本めの発泡酒を一気に飲んだ。


 そろそろ十一時を回ろうかという頃になって、澪は一人で訪ねてきた。昼間と同じ、白のTシャツとジーンズにカーディガン。更に大振りなミントグリーンのストールを羽織っている。彼女を迎え入れようと開けたドアから流れ込む夜気は、鋭く冷えていた。

「本当にごめんなさいね」

 澪はまっすぐに陽介の目を見上げてそう言うと、遠慮がちに中へ入ってきた。

「食事とかは済ませたの?」

 とりあえずコーヒーでも淹れようと思って、陽介は彼女を居間に座らせると自分はキッチンに向かった。

「ええ、もう本当にお構いなく。ただここに居させてもらえればいいの」

 それが一番困るというか、腑に落ちないんだけど。

 コーヒーが入るまで、何だか間が悪くて陽介はじっとキッチンに立っていた。亨がいた時は別に何とも思わなかったのに、いざ一対一で向き合うとなったら、途端に何をどうしていいか判らなくなる。

 陽介は自分が苛立っている事に気づいた。それは突如訪れた澪に対してというより、この場で如才なく振舞えない自分に対してだ。紗代子の実家に行くといつも生じる違和感にも似た、ここを離れて一人になりたいという衝動が、砂時計の砂みたいに積もってゆく。

「砂糖とか入れる?」

 来客には結婚祝いに貰ったロイヤルコペンハーゲンのカップとソーサーを使うように紗代子から言われているのだが、もう面倒になって彼女のマグカップで澪にコーヒーを出した。彼女は「私はブラックが好きなの」と答え、それから「陽介さんは今からコーヒー飲んだりして眠れるの?」と尋ねた。

「うん、俺は基本的にすごく寝つきがいいんだ」

「だったらいいけど。もう私の事なんか気にしないで、寝てちょうだいね」

 コーヒーの熱さを確かめるようにゆっくりと飲みながら、澪は「朝はいつも早いの?」と続けた。

「まあね。でも日曜の夜はけっこう遅くまで起きてるからなあ」

 いくらなんでも彼女が現れた途端に、自分は寝室に引っ込むというわけにもいかない。しかし気を遣わせないためには、放っておいた方がいいんだろうか。そんな事を考えながら、陽介は黙々とコーヒーを飲み続けた。自分の住まいなのに、まるで澪がこの部屋の主人であるかのような気分がしてくる。

「奥さんが実家に帰ってるって言ったけれど、陽介さん一人でも全然散らかしてないのね」

「けっこう頻繁に抜き打ち検査が入るからね。車で三十分ほどのところだし」

「そうなの。でもこの部屋、とてもすっきりレイアウトしてあるから、片付けやすいんだと思うわ。奥さんってインテリアのセンスがいいのね」

「まあ、収納名人ではあるかな」

 人に紗代子のことを褒められるのは、そう悪いものではない。そんなパートナーを選んだ自分の手柄のように思えてくるからだ。

「陽介さんも家のこと、お手伝いしてる?」

「勿論。やらないと殺される」と言うと、澪は楽しそうに笑った。

「澪さんは、明日は仕事とか大丈夫なの?」

 無駄な質問かな、と思ったけれど、他に言うことも浮かばないので陽介はそう尋ねた。資産家令嬢の「家事手伝い」あたりが、やたらと気前よく奢ってくれる彼女の正体のように思える。しかし澪は「明日は、午後に事務所で人に会うだけだから」と答えた。

「事務所って、どういう仕事してるの?何かのフリーランス?」

 なるほど、若くてお洒落で羽振りのいい女性であれば、当然それなりの仕事をしていてもおかしくはない。

「インターネットで有料の占いサイトを開いてるの。一応、私が経営者なんだけど」

「つまり、社長さん」

「肩書はそうなるわよね。でも本当に小さな会社よ」

「澪さんが自分で占ってるの?」

 言われてみればそんな雰囲気がなくもない。しかし澪は「まさか」と一笑に付した。

「私にはそんな事できないわ。それに、占いを信じてるわけでもないし」

「でも仕事にはしている」

 判るような判らないような。極端に言えば、下戸のバーテンダーみたいなものだろうか。

「そうね。だって別に悪いものだとは思っていないから。ほんの一言だけでも、幸せに感じたりする時ってあるじゃない?だから、契約してる占い師さんは、前向きなアドバイスをする人だけよ」

「それは澪さんが自分で見つけてくるの?」

「ええ、人からの紹介とか。でも最終的には、私のこと見てもらって決めるの。事前に何も教えないでね。当たってるかどうかが問題じゃなくて、どんな事を言ってくれるかとかが大切かしら。だって本当に、みんな色々なこと言うんだから」

「なるほどね。俺は占いは苦手かな。でもそれは信じてないというよりは、占いに引きずられるタイプだから。初詣のおみくじとかも避けるんだよね。凶だったら嫌だから」

「初詣の時は、凶は出ないっていうわよ」

「じゃあ来年はチャレンジしてみるよ。でもその若さで経営者って、なんか凄いなあ。俺はもう雇われ人生に馴染んじゃって、独立なんて考えられないもの」

「まあ、うちはずっと会社を経営しているから、そんなに抵抗がなかったのかもしれないわ」

 彼女が何気なく口にしたその言葉に、陽介は心の中で「社長令嬢!」と叫んでいた。しかも代々の資産家らしい。確かに言われてみれば、年齢にそぐわない落ち着きだとか、さりげない仕草の美しさだとか、身に着けているものの洗練のされ方だとか、納得する事ばかりだ。

「じゃあお父さんも喜んでるんじゃない?頼もしい後継者ができたって」

 澪は口元に笑みを浮かべたまま、「だと嬉しいわ。でも父は中学生の頃に亡くなったの」と言った。

「それは…残念、というか」

 その先をどう続けていいか判らずに、陽介は口ごもってしまったが、彼の気まずさを察したように、澪は軽い調子で「気にしないで。もう十年以上前の事だから」と話を続けた。

「じゃあ、お父さんの仕事は誰かご家族が継いだの?」

「今は、私の夫が全て引き継いでるわ」

「え?澪さんて、結婚、してるの?」

 一瞬、部屋が傾いたような感覚に見舞われながら、陽介は慌てて彼女の白い指に目を走らせたが、結婚指輪のあるべき場所には何もない。澪もその視線に気づいたようで、「そうね。指輪は別に必要ないからって、作らなかったのよ。私まだ高校生だったから」と笑った。

「高校生?でも、ええと」

 つまり十代で結婚を急いだということは、いわゆるデキ婚というものだろうか、澪はそんな陽介の混乱を見透かしたように落ち着いた様子でコーヒーを飲み、「まあ、そんなに早くで結婚した理由は確かに、父が亡くなったせいね。親戚の中にも、仕事を継げる人がいなくて、だったら私が、ちゃんと会社を経営できる人と結婚すればいいっていう話になって、高校の二年生に上がる春休みに結婚したわ」

「ご主人は幾つだったの?」

「三十五歳。ちょうど今の陽介さんぐらいかしら。あの頃は随分年上の人っていう感じがしたわ。でもまあ、結婚っていっても、夫がうちに越してきて、私は名字もそのままだったし、同じ学校に通っていたし、クラブ活動もあったし。それに家の事はほとんどお手伝いさんがやってくれたから、特別に変わった事ってなかったわ」

 いや、結婚って名字とか家事とか住む場所とか、その他にもする事があるんだけど。しかしとてもそんな質問ができる状況ではなかった。

「だから、父が受け継いでいた仕事は、今は私の夫がまとめて管理してるわ。とっても仕事熱心だし、頭のいい人よ」

「あの…澪さん、別に責めてるわけじゃないけど、結婚してるのにどうして家に帰らないの?」

 正直なところ、どうして家に帰らずに亨とほっつき歩いているのか、と質問したいのだが、さすがに初対面に等しい相手にそこまで言えなかった。


「…さん?」

 はっと我に返ると、澪が心配そうに顔を覗き込んでいる。

「大丈夫?疲れてるんでしょ?もう寝た方がいいわよ」

「あ、いや、澪さんが来る前にちょっとビール飲んでたから」

 慌てて取り繕ったが、本当のところどれくらいぼんやりしていたか記憶がない。

「ごめんなさいね、つまらない話につきあわせて。私のことはいいから、もう休んで。明日は仕事なんだから。私、一人で過ごすのはけっこう得意なの」

 澪に追い立てられるようにして、陽介は居間を出た。手洗いに行き、歯を磨いてからベッドに倒れこむ。腕を伸ばしてサイドテーブルの目覚ましをセットしてから、枕に頭を預けて目を閉じる。どうやら澪はテレビを消してしまったようで、マンションの中はしんと静まり返っていた。


 ドアが閉まる気配に、陽介は目を開いた。目覚ましを手にとってライトのスイッチを押すと、四時五十分という時刻が浮かび上がる。低い声で誰かが話し、廊下を歩いてゆく。陽介は起き上がると、寝室のドアを開けた。

 最初に目に入ったのは、亨の背中だった。昼間も着ていたジャケットは肩のあたりが雨に濡れていて、腕には澪の白い指が深く食い込んでいる。彼はすぐに陽介の方に向き直ったが、澪をその身体で庇うように移動させた。

「起こしてごめん。すぐ出ていくから」

「少し休んでいけば?」

「橋のところでタクシー待たせてるんだ」

 澪は亨の肩ごしに目が合うと「陽介さん、今夜はどうもありがとう」と小さいがはっきりとした声で呼びかけた。そして靴を履くと後ろ手にドアを開いて、先に外へ出た。

「じゃあな。また連絡するよ」

 亨はそれだけ言うと、軽く片手を上げると澪の後に続いた。

 そう、彼はいつもこんな感じで、とてもあっさりと別れを告げて去ってゆく。陽介は目をしばたきながら玄関の鍵をかけると、寝室に戻ろうとした。しかしふと気が変わってリビングに向かう。

 明かりは消されていて、テーブルの上は片付き、クッション類は一か所にまとめられている。彼は深いブルーの遮光カーテンを脇に寄せると、窓を開けてベランダに出た。

 外は闇に沈んで、空気は鋭く冷え、鉛色の空からは霧のような雨が静かに降りてくる。人通りは勿論、辺りを行き交う車もなく、昼間は街の喧騒にかき消されている川の水音が低く響くだけだ。その川を越えてバス道へと続く神崎橋のたもとに一台のタクシーが停まっているのを見つけると、陽介は雨に濡れたベランダの手摺から身を乗り出した。

 渡る者のいない信号が赤から青へと二度めに変わったところで、街灯の青白い光の下に二つの人影が現れた。彼らは互いを支えるかのように身を寄せ合って、急ぎ足でタクシーに近づいた。先に女が乗って、男が続く。一瞬、彼はこちらを見上げたように思えたが、それを確かめる前にドアは閉まり、柔らかなエンジン音とともに赤いテールランプは橋の向こう側へと消えていった。

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