第2話

 かちん、とぶつかる感覚があって、陽介ようすけはトイレの床を拭く手を止めた。紗代子さよこご指定銘柄のトイレお掃除シートの下に、白いものが光っている。つまみ上げてみるとそれはピアスだった。五円玉の穴ほどのパールで、裏の留め具がない。

 まったく、女の人というのはどうしてわざわざ痛い思いをして身体に穴なんぞ空けて、こんなものを突き刺してみたり、足の指が曲がるようなハイヒールをはいたりするんだろう。そのくせ、生理痛がひどいからお薬買ってきて、とベッドの中から命令してきたりする。だったら痛いことなんて、最初から一つでも減らしておけばいいのに。

 とにかく、このピアスをどこかに保管しなくてはならない。かなり潔癖症の紗代子だから、トイレの床に落ちていたものをそのまま身に着けるとは思えないが、水洗いしていいのかどうかもよく解らない。とりあえず洗面所に行き、キャビネットに置いてあるアクリルのピルケースに入れて蓋をすると、リビングのローテーブル、紗代子が残していったメモの上に載せた。

 それからトイレ掃除を終えて風呂場に移動し、その後で一通り掃除機をかけてから玄関で靴を磨く。その時ふと、昨夜大野おおのさんが脱ぎ散らかしていたパンプスの事を思い出した。

 あのピアス、彼女のじゃないだろうか。

 よく考えたら、紗代子さよこは今までにピアスや何かを家の中で落とした事がない。全てすっきり整理しているし、キッチンには水仕事の時に外した指輪を置くためのトレイがあるくらいなのだ。それに比べて、大野さんは昨日かなり酔っていたし、職場では書類紛失の常習犯。私物のボールペンもしょっちゅうあちこちに置き忘れている。

 でも彼女、ピアスなんかしていたっけ。

 大野さんの耳など、ふだん気にもかけていなかったので、どうもその点があいまいだが、ピアスはしていなかったような気がする。じゃあやっぱりあれは紗代子の持ち物か。陽介はそう自分を納得させると、艶を取り戻した革靴をシューズラックにのせた。

 さて、あと一日と半分、このビジネスシューズとはお別れして、スニーカーで気ままに歩き回ることができる。それは奇妙にわくわくする感覚だったが、同時にまた、三十を過ぎたというのに、ただの週末で何を浮かれてるんだろう、という少し醒めた意識も自分を見ていた。

 とにかく、まずは自転車屋に行って、最近調子の悪かったブレーキの具合を見てもらって、それから買い替え候補を検討する。いつも「次のボーナスが出たら」と思うのだけれど、何だか言い出せないのと、もしかしたら半年後には値下がりしているかもしれないという、未練がましい理由で買い替えをためらっている。本音を言えば、今乗っているものを半ば衝動買いして帰宅した時の、紗代子の反応がまだ後をひいているのだ。

「やーだ、それだけ払ったら二泊三日で温泉旅行できるんじゃない?」

 冗談めかした口調ではあったけれど、明らかに非難されていた。もちろん全て陽介の貯金から払ったのだけれど、それでもやはりまとまった金額の買い物をする時は、一言相談すべきだと釘をさされた。

 紗代子の賢さは、まず自分が率先してそのルールを実行してしまうところにある。通勤用のバッグ、スポーツジムのシューズ、圧力鍋。そんなものまで?というところまで「申告」されてしまうと、軽い気持ちで買い物なんてできなくなる。

 家計は基本的に半々で出し合って、基本給が多い陽介が貯蓄に回す分と生命保険を負担していた。その残りがそれぞれの小遣いで、親類と友人関連の交際費も各自そこから負担するという取り決めになっていて、あとは自由にしていいはずだったのに、自転車事件からこの方どうもやりにくい。

 まあ別にいいんだけど。

 シャツとジーンズに着替え、スニーカーを履くと、一階の駐輪場に降りて自転車を出す。天気は相変わらず快晴、風は乾いていて、その気になったらどこまでも走っていけそうなサイクリング日和だ。

 タクシーを使う時の目印になる神崎橋を渡って、バス道路と並行している旧街道に入る。車二台がやっとすれ違える程の幅しかなくて、路上駐車も多いのでそんなに速度は出せないが、何といっても交通量と信号が少なく、懐かしさを感じさせる建物があちこちにあるのが気に入って、いつもこのルートを通って出かけた。


 結局、今日も買い替え候補をじっくり見るだけ見て、陽介は自転車屋を後にした。部品を交換した後のブレーキはなかなかいい感じだし、これならまだしばらく乗ってもいいかという方向に自分を納得させられそうだった。けど、自転車なんて車に比べれば安いもんだし、他にとりたてて金のかかる趣味もないのに。

 微妙に吹っ切れない気持ちを頭の中で転がしながら、ペダルを踏む。旧街道とバス道は今や川に隔てられていて、桜並木が続く対岸に比べて、こちらは何故かずっと柳が植わっている。道路もあまり整備されておらず、時折ガードレールが途切れている場所もあるのだけれど、それでも走りやすいことに変わりはない。しばらく行くと、醤油屋の蔵を改造した喫茶店が見えてきて、陽介はそこで自転車を停めた。

 重い木のドアを押して中に入ると、ひどく薄暗く感じるが、それは一瞬のことだ。目が慣れてくると、天窓の真下、店の中央にあるテーブル席がまず浮かびあがり、それから奥にあるカウンターだとか、壁を覆い尽くすように並べられたレコードのコレクションなどが焦点を結び始める。

 幸いあまり混雑していないので、陽介は二人掛けのテーブル席に座った。ここではいつも炭焼きコーヒーにシナモントーストと決めていて、ウエイターがメニューを差し出す前に注文を伝えると、入口のラックから拝借した雑誌を開く。会社の昼休みみたいに一時十分前に席を立つ必要もなく、ただのんびりと自分の時間を過ごせるのはなんという幸せだろう。学生時代には当たり前、むしろ持て余してさえいた「暇」というものを、今ではまるで高価なワインのように惜しみながら味わっている。

 運ばれてきたシナモントーストは、いつも通りバターの塩味とメープルシロップが絶妙のバランスで、大きめのカップになみなみと注がれた炭焼きコーヒーは、一口や二口では少しも減らないように思える。開いた雑誌のページにはスイス製の高価な腕時計が並び、自分の預金通帳では見ることのない金額が添えられている。

 店には週刊誌や新聞も置かれているが、陽介はいつもこの手の月刊誌を選んだ。紗代子が呼ぶところの「浮世離れ系」で、扱うジャンルはアウトドアだったり、建築だったり、エコツアーの似合う海外だったり、時計やカメラ、ナイフの類だったりする。確かにそれらが欠落したところで、陽介の日常生活に何の支障も来さないのではあるが、この世に存在することを確認すること自体が、何かを見失わないための目印のように思えるのだ。

 女性のバッグだとか、アクセサリだって同じことじゃないか。極論を言えばキャンバス地のトートバッグを一つ持っていれば事足りそうなところを、着るものに合わせてだの何だの言って何種類も揃えたがるのは「浮世離れ」以外の何物でもない。しかし紗代子に言わせれば、バッグもアクセサリも、日々の生活に密着している実用的な必需品で、陽介の好む「浮世離れ系」は余暇に属する物事らしい。

 まあ、彼女と何か論争するとほとんど勝ち目はないので、陽介はたいがい「まあそういう事にしとけばいいんじゃない?」というフレーズで、事態がヒートアップする前にはぐらかすことにしていた。

 腕時計の特集に続く、ボルネオ島のトレッキングに関するページをめくったところで、ポケットに入れていた携帯が震えた。

 紗代子からだ。

「ごめん、歯医者さん行ってたから電源切ってたの。何か用だった?」

 そう言われても、咄嗟の事にさっき電話した理由が思い出せない。しばらく「えーっと、そうだよね」と間をつなぎながら、ようやく探し当てる。

「ピアス落としてない?パールの奴」

「ピアス?どうかしら。パールのって最近つけた記憶ないけど」

「とにかく、ピルケースに入れてテーブルに置いてるからさ、今度帰った時に見といて」

「わかった。用ってそれだけなの?」

「うん、まあそんなとこかな」と答えると一瞬の沈黙があり、紗代子は「了解」と短く返して通話を切った。陽介は携帯をポケットに戻し、コーヒーを二口ほど飲むと、残っていたシナモントーストを平らげた。そして雑誌をめくると、野生のオランウータンがバナナの葉を頭にかぶって雨宿りをしていた。その写真を見ているうちに、陽介は肝心な事を思い出した。

 ピアスなんかじゃない、大野さんだ。昨日の夜、大野さんを家に上げてしまって、おまけに紗代子に車で送らせた事。

 慌ててまた携帯を取り出したが、よく考えてみれば、紗代子もそれについて何も言わなかった。本気で怒っていたなら、「何か用だった?」などと悠長な切り出し方はしないだろう。多分、彼女の中で昨夜の事はもう終わっているのだ。だったら、この場でわざわざ蒸し返す方が却って言い訳がましいに違いない。そして携帯を再びポケットに戻そうとした時、それは息を吹き返して鳴り始めた。

 やっぱり紗代子だ。自分からかけ直さなかった事を後悔しながら、陽介は「ごめん!言うの忘れてたけど、昨日のことは単なる偶然で」と、話を切り出した。少し間があったので、よしよし、これで向こうも出端をくじかれただろうと安心する。

「もしもし?あの、陽介?」

 ためらいがちに、耳に入ってきたのは男の声だった。「あれ?誰?」と慌ててディスプレイを見ると、結城ゆうきとおると出ている。

「ごめん、ちょっと間違えてた。久しぶり。どうした?」

 鏡を見なくても自分が赤面しているのが判る。しかし相手はこちらの間違いなど全く気にしていない様子で「今しゃべってて大丈夫?誰かと電話の途中?」と聞いてくる。

「いや大丈夫だよ」と言いながら、陽介は周囲を見た。音楽も控えめで静かな店だから、話が長引きそうなら移動する事も考えなくてはいけない。

「今、こっちに来てるんだ。時間あったら、ちょっと会えないかな」


 市営の駐輪場に自転車を止めて、陽介は道路を隔てた敷地にある外資系のホテルに向かった。さして大きくはないけれど、周囲にある美術館や市民公園の緑地と釣り合いの取れた、瀟洒な印象のある建物だ。

 陽介と亨が知り合った大学生の頃、この場所にはさびれた動物園があって、猿に狸に山羊といった地味な動物ばかりが飼われていた。そこを訪れたカップルは必ず三ヶ月以内に破局を迎えるという都市伝説のおかげもあってか、動物園は五年ほど前に閉鎖されて、昨年ようやくホテルに生まれ変わったのだ。

 このホテルを紗代子はけっこう気に入っていて、友人とアフタヌーンティーを楽しみに来たりもしているらしいが、陽介は初めてだった。動物園時代から残っている銀杏並木を抜けて建物に入ると、ロビーに座っていた男が軽く手を上げて立ち上がった。

「よう、久しぶり」

 懐かしさに思わず声を上げて歩み寄ると、向こうも「急に呼び出して、ごめん」と笑顔を見せた。

「いいとこ泊まってるんだなあ。出張っていえばうちの会社なんか、下手したらカプセルホテルだよ」

 天井の高いロビーを見回し、それからあらためて旧友の姿を確かめる。学生時代は本当に毎日のように顔を会わせていたのに、亨が卒業して地元に帰ってからは数えるほどしか会っていない。最後に会ったのは一年半ほど前、共通の友人の結婚式だったけれど、その時よりも少し痩せたように感じる。

「今回は別に仕事ってわけじゃないんだ」と、亨は何だか他人事のように言う。確かに、Tシャツにジャケット、チノパンにスニーカーといった格好だ。

「悪いね、わざわざここまで来てもらって」

「いや、一度来てみたかったし、ちょうどいい運動になったよ」

 電話をとった喫茶店からホテルまでは、自転車で半時間近くかかったけれど、この晴天だし、コースも交通量の少ない道路だったので全く苦にならなかった。

「ちょっとこの場所を離れられなくて。二階にコーヒーショップがあるんだけど、そこでいいかな」


 そして二人は吹き抜けになっているロビーの階段を上がり、コーヒーショップに移動した。どうやらホテルでは結婚披露宴があったらしく、招待客らしき人々がいくつかのテーブルに分かれて談笑している。彼らはその集団から少し離れた、窓際の席に案内された。

「俺はコーヒーだな。陽介は?」と、亨はメニューも見ずに言う。

 コーヒーはさっき飲んだところだし、自転車で走って喉も渇いたので、陽介はレモンスカッシュを選ぶ。ホテルならでは、ファミレスの三倍近い値段がついているけれど、まあそれも仕方ない。味にどれほどの違いがあるか、確かめてやろう。

「最近どうしてる?」

 ウェイトレスに注文をすませると、亨は椅子に深くもたれ、あらためてこちらを見た。

「どうって、相変わらずかな」と、陽介は反射的に答える。「で、亨は?こっちに来たのは仕事じゃないにしても、何か用事があって?」

「用事っていえば、用事かな」

 窓の外に視線を投げて言葉を途切れさせた彼を見ながら、陽介は妙に懐かしい気持ちになっていた。そう、夏休みだとか正月だとか、少し長い休みの後で顔を合わせると、亨はいつも人見知りの子供のように居心地が悪そうにしていて、今もまさにそんな感じだ。

 沈黙が気まずいという仲でもないので、返事の続きを待ちながら、陽介も窓の外を眺めた。このホテルの周辺は昔の城跡なのだが、今それを物語るのは、ホテルを囲んでいる緑地の向こうに見える勾玉のような形の池だけで、城の外堀の名残と言われていた。そこから先が街の中心だが、陽介たちの住むマンションはそのまた外側の、新興住宅地にあるのだった。

 そうしてぼんやり過ごすうちに、コーヒーとレモンスカッシュはテーブルに並べられた。陽介は早速一口飲んでみたが、ホテルのレモンスカッシュという奴は、そう甘くもなく、レモン本来の苦みが強く感じられた。これがファミレスの三倍という味か。しかし喉が渇いているので、その苦さが却って心地よいのも事実だった。

「相変わらず、子供みたいなもの頼むよなあ」

 亨はふいに視線を窓の外からこちらへ向け、少し笑った。学生時代、彼はいつも陽介の食べ物や飲み物の好みを「ガキじゃあるまいし」と笑ったけれど、そういう自分もオムライスなどというお子様メニューを偏愛していた。

「たまたま、だよ。コーヒーはさっき飲んできたから」

「なるほど」と頷いて、亨は自分のコーヒーをブラックで飲んだ。それからまた外を見ると、「奥さん元気?」と尋ねた。

「うん」

 紗代子がペクの世話でしばらく実家にいる事は、敢えて話すほどではないので言わずにおく。実際、元気なのだから嘘でもない。「そっちは?」と質問すると、亨は少しだけ眉を上げ、「別れた」と答えた。

「ああ、そう」

一瞬、何だかわけが判らず、適当な相槌をうってしまったけれど、その後でようやく言葉の意味が頭に入ってきた。

「あの、今日こっちに来たことと、離婚…したことと何か関係ある?」

 別れた理由を問うのが普通かもしれないのに、何故だかそんな質問が出た。

「それはないかな。多分」と答えて、亨はまたコーヒーを飲んだ。

 彼が結婚したのは二年ほど前だ。地元の同級生の紹介で知り合った女性と、半年ほどつきあって結婚を決めたと聞いたけれど、身内だけの簡単な挙式ですませたらしくて、写真すら見せてもらっていない。だからだろうか、別れたと言われても、今ひとつ実感がなかった。

 元々、亨は必要以上に照れ屋なところがあって、こと自分の恋愛関係になると、仲の良い陽介にもほとんど語らなかった。一方の陽介は誰かを好きになると、人に話さずにいられない性分だった。

 今になって考えてみれば、亨もよく面倒くさがらずに彼の話につきあってくれたものだ。これって彼女、どういうつもりだと思う?どっちの映画を見ればいい?俺、何か悪いこと言ったかな?下宿に訪ねていっては、同じような事を夜中まで延々と語って、悩むというよりは人を恋する自分に酔いしれていたのだと今では思う。

 そんな学生時代に比べると、紗代子と出会ってから結婚するまでの陽介はかなり冷静だったというか、自分が盛り上がる前に、現実が結婚という責任を引き連れて追いつき、追い抜いていった感じだった。

「何で、別れたの?」

 陽介がようやくその質問をすると、亨は軽く口角だけ上げて無言のまま笑顔をつくった。

「あれかな、性格の不一致って奴?」

「まあね。人が二人いれば一致しない部分は色々とあるわけだし」

「そりゃそうだ」

 陽介は頷くと、あらためて亨の顔をよく見た。この前会った時はまだ別れていなかった筈だが、その時より今の方がどことなく余裕があるというか、飄々とした気配さえあるのは、解放されたという事なのだろうか。

「原因は一つじゃないな。色んな事が絡まりあって、気がついたらそれが離婚って文字に並んでた、みたいな感じかな」

 そこでようやく、亨は身体の向きを変えて、陽介を正面から見た。

「そもそも俺は独りの頃から、仕事がかなり忙しかった。まあそう珍しい事じゃないよな。週に一日しか休みがなかったり、下手したらその休みも吹っ飛んだり、終電で帰ったり。営業なんて景気がよければ当然忙しいし、悪けりゃ悪いでどう売るかで忙しい。だからまあ、結婚したところで、家で過ごす時間なんてそんなになかったんだ。それに共働きだったし」

「それは仕方ないよな」

 陽介は我が身を省みて、こっちはまだマシなのだと納得した。食品包装材の問屋で、地場産業に大口の顧客が何軒かあって、営業といってもルートセールス中心。週休二日は保証されているし、有給もすんなり取得できて、残業も遅くて九時頃までだ。文句があるのは基本給の安さとボーナスが夏冬合わせて二か月というところか。それでもこのご時世、出るだけでも有難いという事になる。

「でもさ、結婚して半年ほどしたら、向こうが仕事辞めるって言い出したんだ。引っ越したせいで、通勤時間が増えてキツいから、パートか派遣でのんびり働きたいって。俺も別に反対する理由はなかった。でもその、次の仕事ってのがなかなか決まらなかったんだ」

「まあ、焦って変なところに入る必要もないだろうし」

「確かに。まあそんな感じで、向こうが家にいるようになったのと反比例する感じで、俺の方は忙しくなったんだよな。きっかけは支店長が変わったせいなんだけど、俺のいる部署が売り上げ悪いって目をつけられて、こっちもそれに反発してしまって、悪循環。わざと面倒な仕事ふられたりしてさ、毎日残業で、家に帰っても飯食って風呂入って寝るだけ」

「そりゃキツイいなあ」

「もちろん休みの日は昼まで寝てるし。そしたらある日、話があるって言われて」

「支店長に?」

「いや、嫁さん」

 ずっと使っていた「向こう」という表現の代わりに、亨は初めてその言葉を使った。

「とにかく毎日会話がないのが辛いって言うんだ。自分はもっと和やかな、夫婦で一緒に色んなことをして楽しめる家庭がほしかったのに、あなたはいつも疲れていて、何を言っても上の空だ、みたいな事」

「でもその忙しさなら仕方ないよな?」

「そうなんだけど、残業なんて断ればいいんだとか、仕事と家庭とどっちが大事だ、なんて正論を持ち出されて。まあ喧嘩ってほどじゃないにしても、責められてることに変わりはない。とはいえ、見方を変えれば心配してくれてるって事でもあるし」

 確かに、一緒に住んでいる相手がそれだけ仕事で消耗しているのを見たら、気がかりにはなるだろう。

「でもさ、俺としてはその心配のしかたが煩わしかったんだ。疲れて口をきくのも億劫って状態で家に帰ると、色々話しかけてくるし。その内容ってのが、テレビでこんな事やってたとか、友達がこんな事言ってたとか、正直なところ、どうでもいいような話ばっかりで。けど面と向かってそう言うわけにもいかないから、適当に相槌を打った結果が上の空につながるわけだ」

「まあね、女の人って自分ひとりがしゃべってても、こっちの相槌に気持ちが入ってないのをすぐに見抜くよな」

 陽介もその辺りは身に覚えがあったのでよく判った。紗代子の「聞いてる?」に込められた、苛立ちと甘えが微妙に入り混じった感情。

「でもそうやって話しかけられるほど、こっちはもういい加減にしてくれという気持ちになるわけだ。そういう俺の態度は、向こうにしてみれば、私がこれだけ会話をしようと努力してるのに、何が気に食わなくてそこまで非協力的なの、って怒りの原因になる」

「怒るっていっても、こっちは仕事で疲れてるんだろ?」

「そう言い訳をすると、貴方の会社はどうかしてる、残業なんて断ればすむはずだ、なんて具合に、話は堂々巡りになるわけだ。それで俺は、向こうがあれこれうるさいのは、結局のところ時間と気力を持て余してるんだろうと思って、もう一度正社員で仕事を探した方がいいんじゃない?って言ったんだ。そしたら、私は身体が弱いから家事をしながらフルタイムなんてもう絶対に無理だって言うんだ。そしたらやっぱり、俺が残業や休日出勤を受け入れて働くしかないだろ?でもそうすると夫婦としての時間がないって話になる」

「うーん」と曖昧に答えて、陽介はレモンスカッシュを飲み干した。自分が亨の立場だったらどうするかと考えると、これはなかなか難しい。既にコーヒーを飲み終えていた亨は、汗をかいたグラスを手にすると水を飲んだ。

「で、そのまましばらく家も職場も鬱陶しい状態で続けてたんだけど、ちょっとした事で支店長とぶつかってさ、そのまま勢いで、辞めますって言ってしまった。本当に下らない事だよ、本社から役員が来るのに、派遣の女子社員を接待要員にするのしないのって。女子なら社員にもいるのに、派遣の子の方が可愛いからって、あからさま過ぎるんだよ」

 陽介は思わず笑ってしまい、ごまかすように「亨ってそういうとこ、変な正義感あるよな」と付け加えた。

「だよなあ。家庭を大事にしない男がだよ、なんで職場でそういう事が気になるわけ?って」

 自分も苦笑いしながら、亨はばつが悪い時の癖で、髪を何度かかき上げた。

「それでさ、家に帰って嫁さんに仕事辞めるって言ったら、黙りこんじゃって。こっちも色々気が立ってたから、これで家庭で過ごす時間が十分できたから本望だろ、なんて思ってたんだけど、朝になったら実家にさようなら。それからメールが来て、貴方は私に対する責任を果たす気がないって言われた。

 あとはもう向こうの親が出てきて、今までずっと娘に止められて黙っていたけど、とか何とか色々と罵られて、あっという間に離婚届に名前書いてたなあ。大した金額じゃないけど慰謝料も払ってさ」

「でもそれって、亨だけに非があるって話じゃないだろ?少なくとも、失業したから離婚というのは一方的過ぎると思うけど」

「かもしれない。でも俺も、早いとこすっきりしたかったんだ。向こうが慰謝料を欲しがったのは、次の結婚に向けての証拠づくりって部分もあるだろうし、そこは別に協力してあげてもいいか、なんて」

「私が悪くて離婚したわけじゃありません、って事?」

 陽介がそう問いかけると、亨は自分を納得させるように無言で頷いた。

「じゃあ今は充電期間中って事か。新しい仕事はもう探してるの?」

「いや、もう働いてるよ。東京に住んでるんだ。ちょっと普通の勤め人とは違うけど」と答えて、亨は背筋を伸ばし、視線を陽介の背後に投げた。

「あれが今の雇い主」

 振り向くと、一人の女性がウェイトレスに導かれてこちらへと歩いてくるのが見えた。年の頃は二十代半ばぐらいだろうか、光沢のある深い藍色のワンピース姿で、しなやかな足取りで歩むたびに、小さな顔を縁取る豊かな髪が波打つように揺れた。



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