妻と犬、および陽介

双峰祥子

第1話

「でさ、ユキくんの初節句だから兜を飾ってあげたいって言ったら、そんなのメットでいいんだよ、って。ライダーである俺にとってのヘルメットは、戦国武将にとっての兜なんだから、これを飾っとけばいいいんだ、って」

「それで本当に、そうしたんだ」

「うん。もう反論するの面倒くさくなっちゃったから、フルフェイスのヘルメット飾って、その横に小さい鯉のぼり立ててお祝いしたんだって。そんなの絶対にネタだと思って、私が大笑いしてたら、真弓まゆみはすごく真剣な感じで、昔は旦那のそういうとこ、すごく面白いって思ったのに、今じゃそこが最大にイヤなのって、うんざりしてた」

「その旦那って確か、同棲始めたときに、玄関からでんぐり返りして入ってきた奴だよな」

「そう。転がり込んできました~、って。今思えばあれにウケた私が馬鹿だったって、真弓は後悔してる」

 そこまで話すと紗代子さよこは一息ついて、マグカップのコーヒーを飲んだ。半年ぶりに高校時代の友達に会って思い切りガールズトークを炸裂させてきたせいか、今日はいつもより機嫌がよさそうに見える。まあしかし、彼女はあからさまに不機嫌になってみせたりするほど愚かな女ではないから、これはあくまで陽介ようすけの印象、というところだ。

「ねえ、さっきママからメールもらったんだけど、やっぱり有希ゆきちゃんとこに行くんだって。だからさ、私はこないだ相談させてもらったように、留守の間、ペクの世話に行きたいの」

「まあ、別にそれはかまわないけど」

「ごめんね。できるだけ陽介の負担は減らすから」

 そして彼女は拝むように軽く掌を合わせ、にこりと笑顔になると「お風呂、先に入れば?」と言った。


 別に無理強いされているわけではないけれど、結局全ての事は紗代子の思い通りに運んでゆく。湯船に深々と身を沈め、陽介はユニットバスの天井を見上げながら考えた。

 結婚して今年で四年目、交際期間を含めればもう六年のつきあいになる彼女とは、別れ話に発展するような大喧嘩などしたことがないし、小さないざこざも早いうちに収めて今日まで続いてきた。うわべは何となく、紗代子が陽介に譲ったり、合わせたりしてうまくやってきたように見えるのだけれど、それでも何故だか陽介は時々、俺は本当にこうしたかったのだろうかと立ち止まりたくなった。幸か不幸か、その疑問は風呂の湯気のように一瞬だけ形をとったかと思うと、次の瞬間にはもう姿を消してしまうので、はっきりと見定めたことはなかったけれど。

 陽介が三十五で、紗代子はひとつ年下。とはいえ、周りの誰が見てもしっかりしているのは紗代子の方だったし、陽介もそこが気に入って結婚した。まず何より人当りがいいし、容姿も平均より上だと思える。万事にてきぱきしていて、料理の腕も問題なければ、収納マニアだから2DKの賃貸マンションでも十分に広く暮らせる。スポーツも人並みにこなすし、出歩くのも大好きで、それと同じくらい家で読書などしてのんびり過ごすのも好きだった。敢えて欠点を挙げれば、かなり潔癖症なところがあるが、それはまあ、きれい好きという言葉に変換できる。だから結局のところ紗代子はほぼ満点のパートナーと言えた。

 それに比べると陽介自身はあまり誉められたものではない。名前を言えば「ああ…」と微妙な反応のある私大を出て、中小企業でルートセールス担当。入社十年を超えても何の役職もなく、今後の出世や昇給もあまり期待できない。身長は平均よりやや低め、顔立ちは至って地味で、「昭和の小学生みたい」と言われたことがある。取り柄といえば健康ぐらいで、煙草は吸わないし酒を飲めばすぐに眠くなる。

 彼と紗代子は共通の友人のウェディングパーティーで知り合った。何だか向こうの方が積極的だと思ううちにつきあいが本格化して、すんなり結婚に至った。一度だけ、どうして自分と結婚しようと思うのか質問したことがあるけれど、彼女は「有希ちゃんが、陽介は“買い”だよって言ったからね」とだけ答えた。なるほど、というのが陽介の率直な感想だった。

 有希子ゆきこは紗代子の四つ違いの姉だ。優等生タイプの紗代子の、さらに上をゆく秀才。紗代子にとって有紀子の存在は絶対で、彼女の言う事に従っていれば失敗がないという確信のようなものがあるらしい。

「“買い”って、どの辺が?」と彼が突っ込むと、「次男で、性格が素直で、健康で、真面目に働いて、私のこと大切にしてくれそうだから」という返事がかえってきた。思えばあの時、紗代子はかなり酔っていたのだ。彼女がそんな風に「手の内」を明かしたのは後にも先にもそれっきりで、その後も似たような質問をしたことはあるけれど、いつも適当な冗談にはぐらかされて終わりだった。

 まあ確かにその通りなんだけど。

 陽介は湯船に身を沈めたまま、額に浮き出た汗を掌でぬぐった。何となくペットショップで子犬を選ぶのに似ているような気もするが、彼も結婚というのは恋愛とまた違った、もっと現実的なものだと理解していたから、紗代子の言い分に腹が立つという事はなかった。まあ、それは紗代子、というよりも姉の有希子の言い分なのだけれど。

 有希子は有名国立大の大学院を出て、現在は新聞でよくその名を見かける経済研究所に在籍している。大学の先輩にあたる夫とは学生時代に結婚していて、こちらは会計事務所で堅実に働いていた。陽介も何度か遊びに行ったことがあるけれど、将来の子育ても視野に入れたエリアに早々とマンションを購入していて、自分とのあまりの格差に羨むことすら忘れて、ただひたすら感心してしまったのを思い出す。

 その有希子の夫が少し長い海外出張を命じられたのに合わせて、義理の両親は上京するのだという。この春で定年を迎えた義父の骨休めも兼ねて、あちこち東京見物を楽しんだり、更に足をのばして東北方面も回る予定らしかった。ただ問題は犬のペクだ。十何歳だかの雄の雑種で、元々は紗代子の飼い犬。彼女はこの犬をとても可愛がっていて、結婚話が出た時も、離れたくないからと実家での同居まで考えたほどだった。だがそれを止めてくれたのも有希子で、彼女にはそういう冷静さがあった。妻の紗代子と義理の両親という連合軍に押され気味の陽介には、ある意味で非常に心強い味方といえた。

 とはいえ、紗代子は何かにつけてペクの世話をするため実家に帰った。彼女にとって好都合なことに、紗代子の職場は実家と新居のほぼ中間に位置している。今回、両親の留守中に実家に寝泊りしたところで、通勤には何の不自由もなく、むしろ陽介の世話が減って楽になるというのが本音らしかった。

 まあとにかくしばらくの間、自分も独身生活を満喫すればいいだけの話。結局のところ、紗代子の言うことに従っておけば、万事それなりにうまく回っていくに違いない。陽介は湯船に寝そべったまま目を閉じると、一人暮らしの間に楽しむべき事をひとつひとつ考えてみたが、それは少し夏休みの計画に似ているような気がした。


「高田さん、独身生活慣れました?」

 陽介がデスクで弁当を広げていると、営業事務の大野おおのさんがいきなり肩越しに覗き込んできた。

「もうそこまで伝わってんの?」

「だって、西島にしじま先輩に言うって事は、女子全員に言うのと変わらないですから」

「まあそうだよな」と、我ながら歯切れの悪い返事をぼそぼそと呟きながら、齧りかけの冷凍焼売を口に運ぶ。

「せっかくお弁当作ってるんだから、休憩室で食べればいいのに」

「あそこは賑やか過ぎる。俺、静かに食べたいんだよね」

「でも皆、高田さんが自分でどんなお弁当作ってるのか興味津々ですよ。今日は私が報告しちゃおうかな。焼売と、卵焼きと、プチトマトと」

「勘弁してよ」と言いながら、陽介は慌てて弁当箱に蓋をした。全く、二十代の女子社員というのは妙なところに食いついてくる。ふだんは営業車の中や、公園のベンチで弁当を食べるのだが、今日は少し時間があるので、食べてから出ようと考えたのが間違いだった。

「大野さんも、さっさとお昼食べたら?」

 遠回しに追い払おうとしても彼女は全く意に介さず、「私、ダイエット中だからシリアルバーと野菜ジュースでおしまい」と言い放ち、隣の席に座るとノートパソコンを開いてソリティアを始めた。

「駄目じゃない、吉岡よしおかのパソコン勝手にさわっちゃ」

「いいんです。これは吉岡さんのじゃなくて、会社のですから」

 そう言いながら、顔はパソコンに向けたままで、別に楽しくもなさそうにマウスを動かし続ける。陽介はこれ幸いと、大急ぎで中断していた食事を再開した。ところがそうなると、彼女はまたこちらに注意を向けてくる。

「で、独身生活はどうですか?大変?寂しい?」

「別に。だって俺、大学から一人暮らししてたから、自炊とか平気なんだよね」

「じゃあ、自由で楽しいって事ですね?」

「そこまでは断言しないけど」

「じゃあ、大変じゃないけど寂しい?」

「うーん」と、思わず首をひねってしまう。紗代子が愛犬ペクの世話のために実家に戻ってから二週間が過ぎ、帰宅後誰とも口をきかず、シャワーを浴びて、一人で食事してテレビを見て、ネットをチェックしてから寝るという生活にもすんなりと馴染んだが、やはり何か物足りないような気はする。

 この前の日曜、紗代子は実家にあったという海苔の佃煮と、ズワイガニの缶詰と、これまた実家で焼いたパンを携えて現れた。コーヒーを片手に半時間ほどたわいない話をして、着替え類を紙袋に詰め込むと慌ただしく去って行った。

「けっこう綺麗にしてるね」と、一応は褒められたと思うのだが、ベランダの洗濯物をちらりと見て「やっぱり、皺をのばさずに干してる」と言われもした。

「ねえねえ、寂しいんだったら有志一同で遊びに行ってあげましょうか。金曜の夜なんかどうです?食糧とお酒は途中で買っていくか、ピザのデリバリーでもいいし」

 大野さんはもうソリティアに飽きてしまったらしく、ずっとこちらを向いている。

「別に来てもらう必要もないし」

「だったら外で飲み会しません?独身だから帰りの時間も気にしなくていいでしょ?ね?最近、新しいお店開拓したんですよ。まだクーポン使えるから、行っちゃいましょうよ。人選は私に任せてもらっていいですか?」


 結局、総勢十名ほどを集めての飲み会は実行されて、金曜の夜、陽介は会社近くの洋風居酒屋で賑やかな女子社員たちのおしゃべりに耳を傾ける羽目になった。

「じゃ、今度はこの、巨峰ヨーグルトサワーにしてみます?バナナスペシャル?」

 大野さんは次から次へとメニューにある飲み物を注文して、かなりのハイテンションだった。陽介はビールさえあれば別に何も不満はないのだが、彼女がいちいち「これどうです?好きな味?」とグラスを差し出してくるので、一通りは口にしてみた。「まあ、こういうのも有り、なのかな」と言ってはみるものの、正直なところ金を出してまで飲みたいという味ではない。何というか、妙に甘ったるくて子供っぽいくせに実はアルコール、というところに往生際の悪さを感じるのだ。

 その夜はメンバーの何人かが翌日に予定があるとかで、二次会はせずに解散という流れになったのだが、大野さんはその時点でかなり出来上がっていた。

「高田さーん、二次会どこにしますぅ?」と繰り返しながら、彼女は店の外に出ても陽介の傍を離れない。彼女と同期の吉岡は「大野さんはいつも三次会、四次会まで参加してるから、こんなにあっさり解散なんてありえないんじゃないすか?」と分析している。

「だったら吉岡がどこか付き合ってあげろよ」

「無理っす。俺、明日はサバゲーのサークルだから、体調整えとかないと」などと言いながらも、彼はまだ帰ろうとせず、「高田さんこそ、次の店どうなんです?せっかく独身に返ってるんだから」とふってくる。そこへまた大野さんが「そうですよ。今日は高田さんを励ます飲み会なんですよ。主役なんですよ。ずっといないと駄目なんですよ」と言いながら、陽介の肘をつかみ、右へ左へと振り回す。

「はい、解散解散。もう十時回ってるし」さりげなく彼女の腕をほどきながら、陽介は時計を見た。家の遠いメンバーは既に姿を消していて、残る女性四人もタクシーを拾おうとしている。

「高田さん、大野さんをよろしくね」

 四人の中でリーダー格の西島さんが振り向き、まだ仕事中という感じの声で呼びかけてきた。

「ちょっと待ってよ、女の人が一緒に帰ってあげたら?」もう一人いたはずの男性社員、村瀬むらせもいつの間にか消えているので、陽介は少し慌てていた。

「でも方向が正反対なんだもの。彼女と同じ方向って、高田さんだけよ」

「あれ?そうだっけ?」

 いつも飲み会の時には、長居をしても二次会で切り上げて帰るので、陽介は大野さんがどこに住んでいるかなど、気にもしていなかった。

「大野さんの家って、東高校の近くよね」と西島さんが声をかけると、彼女は「そうですよ。すぐそばに東高があるのに、一時間半かけて英聖女子に通ってたんです。制服可愛いから」と言ってケラケラと笑った。

「だったら確かに同じ方向だし、俺んちの方が近いけど」

 もうバスは少ないし、タクシーに相乗りするのは構わないが、いったん彼女の家まで送ってから帰るのでは金額も馬鹿にならない。まあ、泥酔というほどではないから、自分が途中で降りても一人でも帰れるだろう。

「じゃあよろしくね。お疲れさま」と、肩越しに軽く手を振ると、西島さんは他の女の子が停めていたタクシーの助手席に乗り込んだ。全く、彼女に言われると何事も業務連絡というか、やらない貴方は何様ですか、という雰囲気にされてしまう。仕方なく自分もタクシーを停めようと辺りを見回すと、吉岡が「お先っす」と言いながら立ち去ろうとしていた。

「一緒に乗ってけば?」大まかに言えば同じ方向だと思って声をかけたが、「お疲れっす」と軽く手を上げただけで、彼は小走りに道路を渡っていってしまった。もしかしたら一人どこかで、しばらく気分転換してから帰りたいのかもしれない。

「高田さーん、タクシー来ましたよ。停めて下さい」

 大野さんの声に我に返り、「見てないで自分で停めなよ」と言いながら慌てて手を挙げる。先に彼女を乗せ、「最初に神崎橋で、それから東高校に回って下さい」と告げてシートに落ち着いた。

「吉岡さん一人で行っちゃいましたね。なんで一緒に来ないんでしょうね」

 たぶん酔っているせいだろう、大野さんはいつもよりも大きな、すこし鼻にかかった声で喋った。

「さあ、こっそり彼女と会う予定だったりするんじゃない?」

「それはないですよ。あの人は絶対に彼女いないです」

「なんでそんなに自信満々で断定するわけ?」

「いないったらいないんです。そういう人だから」

「そういう人ってどういう人だよ」

「だからそういう人なんです。そういうってどういう人か判ってます?」

 こっちも多少酔っているのでお互いさまだが、大野さんは酔っ払い特有のループ思考に入っていて、その後はひたすら「そういう人はそういう人なんです」という話のバリエーションを展開し続けた。幸い、道は空いていて、陽介が「そういう人」にうんざりし始める前にタクシーは神崎橋に近づいていた。

「橋を越えたところで右にお願いします」と言いながら、陽介はメーターを確かめて財布を取り出し、彼女の分も少し負担しておくことにした。

「じゃあこれ、俺の分だから」と、紙幣を差し出すと、彼女は受け取ろうともせずに「私も一緒に降ります」と言った。

「何言ってんの。はい、ちゃんとお金預かっといて」

「駄目です。私、トイレに行きたいんです」

「はあ?」いきなり何を言い出すのかと面食らっているうちに、タクシーは右折して陽介の住むマンションに差しかかった。

「あ、ここでちょっと停めて下さい。ほら、自分ちまであと少しなんだから我慢して」

 ドアが開いたのを幸いに降りようとすると、大野さんは陽介の鞄に手をかけて引っ張った。

「無理。高田さんちのトイレ使わせて下さい。でないと私、車内でやっちゃいます」

 どうも彼女はタクシーに乗ってから急に酔いが回った感じで、居酒屋にいた時よりも目が座っている。面倒くさい事になったな、というのが正直な気持ちだったが、陽介は尚も「そんな事言ってる時間があれば、早く帰りなよ」と言い聞かせた。しかし大野さんは「無理ですう」と、鞄から手を離さない。何とか引きはがそうとすると「ダメダメダメ、そんな乱暴にされたらマジでヤバいです」と大声をあげた。

 見かねた運転手が「お客さん、どうします?」とこちらを振り向いたが、その声には明らかに「迷惑」というトーンが漂っていた。多分彼は今までにも、酔客で随分と嫌な思いをしてきたに違いない。そう考えると陽介は途端に気弱になってしまうのだった。「すいません」と謝って料金を支払うと、急いで大野さんを連れてタクシーを降りた。

「本当にしょうがないなあ」と文句を言ってはみたものの、大野さんはどこ吹く風で「ここですか?ここに高田さん住んでるんですか?本当にここですか?」と、次のループに突入している。

「声がでかいってば。ほら、さっさと入って」

 オートロックを解除してマンションの中に入ると、陽介はちょうど止まっていたエレベータに大野さんを押し込んだ。自宅のある四階で降り、念のため廊下を見回したが、幸い誰もいない。「四階で本当に合ってるんですか?」と声を張り上げる彼女を引きずるようにして歩き、玄関のドアを開けると大急ぎで中に入らせた。とにかくさっさとトイレをすませてもらって、それから電話でタクシーを呼んで一人で帰らせよう。

「ほら、一番手前のドアがトイレだから」と言った瞬間、何かが変だと気付いた。

 明かりがついている。

 朝出かける時に消し忘れたんだろうか、不思議に思いながら、トイレに駆け込んだ大野さんが廊下に脱ぎ散らかしたパンプスを拾っていると、そこに見慣れたスニーカーが揃えてあるのが目に入った。

「おかえり」と紗代子の声がする。顔を上げると、彼女は廊下の突き当たり、居間の入口にもたれて立っていた。

「あれ、どしたの?」

 自分でも変な事を言うな、と思った。ここは陽介と紗代子、二人の家なのだから、どうしたもこうしたもない。むしろこの質問は紗代子のものだった。しかし彼女は平然としている。

「ちょっと荷物取りに来ただけ。別に連絡もいらないかと思って、電話しなかったんだけど」

「ああ、そっか」と答えながらも、陽介は玄関に突っ立っていた。紗代子は軽く口角を上げ、小首をかしげて「会社の人?」と尋ねる。そこへトイレの水を流す音がして、ドアにひざか何かぶつけるような音が聞こえ、それから大野さんが出てきた。

「あれ?奥さんですか?実家に帰ったんじゃないんですか?本当に奥さんなんですか?」

「こんばんは、いつも旦那がお世話になってます。せっかくだからお茶でもどうかしら?」紗代子はあくまでにこやかだ。

「お茶ですか?高田さん、お茶ですって、どうしましょう。奥さんお茶ですって」

 大野さんの血中アルコール濃度はまだ下がる気配を見せない。陽介は慌てて「もう時間も遅いし、早く帰った方がいいって」と促した。彼女もさすがに、なんとなく自分が招かれざる客である事は理解しているのか、「そうですか?私帰った方がいいですか?」と言いながら、玄関に戻ってきてパンプスを履こうとした。

「あら、だったら車で送るわ。お家はどの辺りですか?」

 紗代子はどうやらちょうど家を出ようとしていたところらしく、手にしていた赤い皮のキーケースを振って見せた。

「東高のすぐそばです。でも私、制服が可愛いから一時間かけて英聖に通ってたんですよ。紺のブレザーにグレンチェックのプリーツスカート。ボウタイは学年ごとに色が違うんです。違うんですよ。違っちゃうんです」

「そうなんだ。ま、東高なら近いわね」と言うと紗代子はいったん居間に引っ込み、それから大きなボストンバッグを肩にかけて出てきた。そして陽介に向かって「じゃ、送ってくわね」と言った。

「あ、俺も行こう、か」

「必要ないわよ。私はそのままあっちに帰るし。冷蔵庫にお惣菜入れてあるから食べてね」

 それだけ言うと、彼女は陽介の脇をすり抜けて玄関のドアを開けると廊下に出た。大野さんも素直にその後に従い、「じゃあ帰りますね?帰っちゃっていいですね?」と繰り返す。慌てて「だから声がでかいって!」と注意すると、彼女の向こうから紗代子が「じゃあねえ、おやすみ」と言うなりドアを閉め、ご丁寧に外から鍵までかけた。

 少しサイズが緩いらしい大野さんのパンプスがたてる、奇妙に虚ろな足音が遠ざかるのをドア越しに聞きながら、陽介はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。

 何だかまずいな。

 それだけは判る。しかし大野さんほどではないにせよ、自分も酔っているせいか、そこから向こうがよく見えてこない。さっき、マンションの横手にある駐車場をのぞいていれば、紗代子が車で帰宅していることも判った筈なのだが、急いでいたからそれどころではなかった。しかし紗代子だってまあ、事情は理解してくれるだろう。別にやましい事は何もないんだし。

 紗代子と大野さんを乗せたエレベータが降りて行く低い響きが完全に消えて、周囲に静けさが戻った頃、陽介はやっと靴を脱いだ。廊下を抜け、さっきまで紗代子がいた居間に入ると上着を脱ぎ、そのままキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、紗代子が持ってきた惣菜の容器が四つきちんとまとめて入れられていた。一つ手にとって開けてみると、きんぴらごぼうだった。それを元に戻し、ドアに入っていたミネラルウォーターのペットボトルを手にして居間に戻る。床に転がるクッションに腰を下ろし、冷たい水を一口飲んで、反射的にローテーブルに置かれたテレビのリモコンを手にとってスイッチを入れていた。

「それが男の戦略っちゅうもんや!」

 関西系のお笑いタレントが断言し、スタジオが笑いに包まれたところで、画面はコマーシャルに切り替わった。

 

 翌朝、というかほとんど昼、目を覚ますと外は運動会にうってつけの秋晴れだった。昨夜の飲み会がなければもっと早く起きられたのにと思うと、少し損をしたような気分だが仕方ない。Tシャツとジーンズに着替えて、窓を開けて部屋に風を通す。キッチンに行くと冷凍してあった食パンを一枚トースターに入れ、コーヒーメーカーをセットする。それから顔を洗って、洗濯機を回し、キッチンに戻ると朝食は出来上がっているという具合。

 片手にマーガリンを塗ったトーストを載せた皿、もう片方の手にスプーンを突っ込んだコーヒーのマグカップ、そして口にはアロエヨーグルトの容器を咥えて、陽介は居間に移動した。

 一人暮らしに戻ってからの習性で、彼は腰を下ろすとまずリモコンでテレビのスイッチを入れた。画面では一昔前にアイドルで売り出していた女の子が、見知らぬ土地でヒッチハイクという、目新しくもない番組をやっている。

 雨は降る、日は暮れるで、無理やり「まゆっち、がんばりまーす!」とはしゃがない事には、魂まで夕闇に呑みこまれてしまいそうな場所だ。この子はきっと今、玉の輿で芸能界電撃引退を真剣に夢見てるだろうなあ、などと勝手な事を考えながら、陽介はトーストをかじり、アロエヨーグルトをスプーンですくった。

 半分ほど開いた、狭いベランダに続く窓からは乾いた秋の風が流れ込み、外を走る車の音を時たま運んでくる。そして遠くの空を、ヘリコプターの力強い律動が横切って行く。テレビの中は既に真っ暗に暮れていて、まゆっちは半ばパニックだった。まあ、こういう番組は最終的に何とかなるのだ。間違っても山中で一晩放置とか、変質者の車を停めてそのまま行方不明という展開にはならない。そしてお約束通り、もう限界というその時に、親切な若夫婦の乗った軽自動車が「どうしたんすか?」と停まってくれた。

 色は違うけど、うちと同じ車種だ。

 陽介はコーヒーを飲みながら、「90秒後、まゆっち号泣!」というテロップを残して走り去る軽自動車を眺めていた。そして次の瞬間、昨夜の出来事がいきなり脳裏によみがえってきた。

「ヤバい」

 マグカップをローテーブルに置くと、「ヤバいな」ともう一度呟いて、陽介は大きく溜息をついた。妻が留守の家に、酔った女の子を招き入れる。こういう行動は客観的に見て、何か下心があったように思われかねない。

 しかし陽介はあの状況で、大野さんを振り切って逃げられるタイプの人間ではなかった。別に責任感が強いわけではない。ただ、相手の押しの強さが少しでも自分を上回れば、あっさりと土俵を割ってしまうのはいつもの事で、あとは何だか、まあ可哀相だし、とか、ここで断ったら鬼だと思われるし、といった理由が申し訳程度についてくる。だが本当の理由は、もうそれ以上相手と攻防戦を続ける根性がないからだ。

 自分がもっと強気で「俺様」な人間なら、トイレに行きたいとゴネる大野さんを、近くの植え込みまで引きずって行って、「お前にはここで十分なんだよ、このメスブタが!」などと罵倒してみせるのだけれど。

 未練がましくアロエヨーグルトをスプーンで何度も浚えながら、陽介は昨夜とれたかもしれない別の行動について考えていた。運転手に一万円握らせて一人だけ車を降りる、タクシーを大通りまで走らせて、交番でトイレだけ借りる、大野さんの家まで一緒に乗って行く。どれもこれもベストとは言い難い。大体、大野さんが本当にそこまで切羽詰っていたかどうか怪しいものだ。彼女は素面の時だって、大して急ぎの用でもないのに「速攻やって下さい」とか、自分の都合しか考えてないのだから。

 いつの間にか、テレビの中のまゆっちは風呂まで借りて、満面の笑みでハンディカムに向かって「おやすみっち」とポーズを決めている。自分の方が彼女よりもよっぽどピンチだという事に気づいて、陽介はテレビを消した。リモコンをローテーブルに戻そうとすると、紗代子が昨夜残していったらしいメモが目に入った。


 お疲れさま。野菜ちゃんと食べてる?冷蔵庫におかず入れてます。レジャーシートとクーラーボックス借りるね。


 「ヤバいなあ」

 紗代子の思いやり溢れるメッセージは、今の自分には鋭い皮肉としか感じられない。陽介は立ち上がると寝室に行き、枕元に置いたままだった携帯を手に戻ってきた。紗代子からは着信もメールもなく、少し拍子抜けしてしまったが、とりあえずメールぐらいすべきだろう。

 昨日はごめん、と打って、すぐにいや違う、と消去する。いきなり謝罪では、疚しい事があったと認めるようなものだ。しかし、お手数かけました、でもない。そうやって「昨日は」で始まるフレーズをいくつも打っては消し続け、ついに陽介は観念した。

 だいたい自分はメールが苦手なのだ。仕事みたいに具体的な連絡事項があればまだいいけれど、こういうちょとしたご機嫌伺いになると、途端に頭が真っ白になる。親戚がらみの時はいつも紗代子に助けを求めて、気の利いたメッセージを考えてもらうのだが、相手が彼女ではどうしようもない。

 いっそ直接話した方が早い気がして、陽介は紗代子の携帯を呼び出していた。まず最初は、今なにしてる?から始めて。そう段取りをつけたのに、通話はつながらなかった。電源オフ、または圏外。拍子抜けした執行猶予の気分を味わいながら、液晶画面をシャツの裾で拭う。「レジャーシートとクーラーボックス借りるね」というメモから察するに、彼女は友達とバーベキューにでも行ったのかもしれない。

 まあいいか、夕方また電話してみよう。

 とにかくまず食器を片づけて、一週間分の掃除でもして、品行方正に過ごそうではないか。

 


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