Scene6 大切なことは失った後で気づく

「どうして彼女を作らないんですか?」

 夏美はさらに追及しにかかる。

 僕はビールの缶を軽く指で凹ませながら考える。

「今言ったとおり、そういう気になれないからだよ」

「1人の方が落ち着くってことですか?」

「まあ、そうとも言えるのかな」

「結婚とか考えないですか?」

「考えないね」

 それは本心ではない。


 もうすぐ僕は30歳になる。この年になって自らの人生というものを深刻にとらえるようになっている。

 これは僕だけのことなのだろうか、それともこの年齢になると誰しもが突き当たる壁、というか、通過儀礼のようなものなのだろうか? 

 そんなことを最近よく考える。

 ただ、今話したように、僕には具体的行動を起こすための「思いきり」が決定的に足りない。朝起きなければと思いつつも、ついつい布団の中に潜ってしまう時の感覚に近いかもしれない。

 しかし、そんな個人的感慨を語ったところで彼女には何の得にもなるまい。 


「男と女の違いですかね?」

 夏美は、手にした缶ビールに視線を落としながら、何も言わない僕の口に上書きするかのように言う。

「私、25歳を過ぎた頃からすごく焦りはじめたんですね、ほんとうに今のままでいいのかって。正直に言うと、私は結婚するよりも子供を産みたいんです。自分の子供の顔を見てみたいんです。そのためにはあまり遅くならない方がいいなって」

 夏美はそう言ってから、ゆっくりとビールを口に運び、かすかな音を立てて飲む。

「正しいと思うよ」

 そうコメントした後、どういうわけか突然むなしくなってくる。


 夏美の話を聞いていると自分の愚かしさだけが強調される。深い洞窟の中に1人でしゃがみ込んでいるかのような気分になる。


 今頃裕子はどこで何をしているのだろう? 

 不意にそんなことまで考える。どうしたことか、急に裕子が恋しくなったのだ。それはまったく予期せぬ未練の介入だった。


 夏美が言うように、たしかに裕子は魅力に満ちた女性だった。ただひとつ残念なのは、そのことに気づいたのは彼女と別れた後のことだったということだ。

 彼女がプーケットに向けて旅立ってからというもの、寂しさと後悔で眠れない日々が続いた。しばらくの間、アパートの外に出る気さえ起こらなかった。

 やっとのことで外に出たその夜に、ふとたどり着いたのがこの海岸だった。


 独りぼっちになった僕は、その後何人かの女の子と付き合った。さみしさを埋めるためには新たな恋を見つけるしかないという結論に達したのだ。

 しかし裕子ほどの女性と出会うことはなかった。むしろ余計にさみしくなるばかりだった。

 新しい女の子たちとの付き合いに、裕子と過ごした時間の再来を希求していたのだと気づいたのは、かなり後になってからのことだった。


 大切なことはそれを失った後になって初めて気づく。

 僕は、そう学んだ。


「先輩」

 夏美は子猫が甘えてくるような声を出す。

「ワイン、飲みたいです」

 僕もまさにそう思っていたところだ。

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