第3話 栗毛の跳ね駒、大貫陽登場
西暦2024年12月20日 大阪市某所。
クリスマスを待ちきれない夕暮れ時の街を、大貫陽(おおぬき ひなた)は、彷徨い歩いていた。腰まである長い栗毛色の髪をなびかせ、颯爽と歩いていた。スレンダーながらセクシーなプロポーションを強調するショートコート、ミニスカートとやや季節的に寒々しい服装ながら、肩で風を切るが如く歩いていた。
すれ違う男達は、誰もが彼女を振り向いた。それは、大貫の端正な美貌に目を奪われたり、匂い立つフェロモンに触発されたりしたためでもあったが、最大の理由は別のところにあった。
大貫が今歩いている街、そこは獣老が現れた場所であったからだ。街を歩く女性は、彼女の他には誰もいない。そんな街を、彼女は、堂々と闊歩していた。
歩き回ること暫く、大貫は、背後に人の気配を感じ取る。そして、道角を曲がり、わざと人通りの少ない場所へと足を向けた。背後から、何とも表現しがたい不気味なオーラが迫ってくる。
大貫が振り返ったその瞬間、背後から、ものすごい瞬発力で男が飛びかかってきた。間違いない、獣老だ。
彼女は、獣老の右腕を手繰り寄せると柔道の一本背負いの体制に入る。しかし、彼女の一本背負いは、かなり特徴的だった。柔道の競技であれば、相手にかわす余裕を与えずに素早く一本を取る為に小さく回る所だが、彼女の場合は違った。獣老の右腕を肩に担ぐと、前方上方へとかがみ込んだ脚を伸ばし大きく跳ねた。
彼女は、綺麗に一本を取る気など毛頭無かった。出来るだけ最大限のダメージを相手に与える事。それこそ彼女が上に跳んだ最大の理由だ。空中で体を回しながらアスファルト目掛け獣老を叩き付けるのだ。
投げを食らった獣老は慌てたが、反射的にダメージを受けまいと思いっきり背中を反る。足から着地しブリッジを組んで堪えるつもりだ。
しかし、彼女はそれを許さない。背中から叩き付ける優しさなど持ち合わせては居ない。アスファルトに叩き付けるのは獣老の脳天だ。高く描いた放物線は、角度を急激に変え垂直落下に切り替わる。これは大変に危険な技だ。下手をすれば首の骨が折れ致命傷ともなりかねない。
獣老は脳天がアスファルトに着弾する瞬間にあごを引き、最悪の状態を回避する。だが後頭部からうなじにかけての部分をしこたま強打する。高い到達点からの垂直落下。これだけでも相当なダメージだ。
「ドガッ」と言う激しい地響きが辺りにこだまする。ストリート・ファイトの始まりのゴングが鳴った。
大貫陽、年齢二十?才。陸上自衛隊所属。武芸百般に通じ、男勝りの強気の性格が彼女の持ち味だ。
獣老は、たまらずそのまま仰向けの状態で大の字に倒れ込む。しかし、この男もしぶとさでは他の獣老に引けを取らない。ゆっくりとうつ伏せの状態に体制を変え、首を激しく振りながらダメージを振り解こうとする。そして静かに立ち上がる。
それに狙い定めていた彼女は、右太ももに隠し持っていた、ホルスターの中から、スタンガンを手に取り、獣老の首へ押し当てた。
「グア!」
獣老の筋肉が固まる。一瞬だけ苦悶の声を絞り出す事を許されたが、その後は、彼女のスタンガンに完全に制圧されることとなる。彼女のスタンガンは、110万ボルトの超高電圧タイプだ。情け容赦なく、獣老の体に電撃を加え続ける。やがて獣老の体は完全に硬直し、ピクピクと弱々しい痙攣だけをし始めた。
「うちらを舐めとってもろうたら困るさかい、たっぷりしごいたるわ」
彼女は、決め言葉の関西弁を発するとスタンガンをホルスターに仕舞う。そしてスマートフォンで警察へ連絡を入れる。
「たった今、獣老を捕獲しました。引き取りに来て下さい。場所は、――――」
落ち着き払った様子で、淡々と事務的に用件だけ伝える。
通話が終わった後、彼女は、スマートフォンを録画モードに切り替える。そして、持ち合わせていたバッグの中からスプレー缶を取り出すと、うずくまっている獣老を蹴り上げ、仰向けにした状態で顔面めがけて、スプレーを吹きかける。
「ガア、ゲ、グ――――」
獣老は、何とか声を振り絞るが、悶絶することさえできない。目や鼻の粘膜が焼け焦げるような痛みを感じ取っていた。彼女が吹きかけたのは、痴漢撃退用の催涙スプレー。ハバネロエキス配合の超強力タイプだ。彼女は、スプレーが空になるまで吹きかけ続けた。そして、その様子を余す所なく動画で撮っていた。
「どや? 痛いやろ? 苦しいやろ? あんたらが今まで女性にしてきた事や。利子付けて払ろうてもらうさかい、覚悟せや」
独特の関西弁のイントネーションで獣老に語り掛ける。
獣老の体が痙攣から解放されて、動き出そうとする。そこへ更にスタンガンを押し当てる。繰り返し何度も、何度も。
彼女は、明らかに怒っていた。この情け容赦の無いサディスティックな行動が、それを如実に証明していた。これまで多くの女性達が受けてきた仕打ちに対する、復讐であった。
その間、彼女の顔からは端正な美貌は消え失せていた。それはまさしく鬼の形相、そう般若だ。復讐に燃える般若の形相、それこそ彼女が持ち合わせるもう一つの顔。そしてこの顔を見た者は例外なく地獄へ落ちるのだ。
警官達が現場に到着した時には、周りに人だかりができていた。そして、その中央に、今まで見たことの無い、無残な状態となった獣老が横たわっていた。
彼女は、録画を終了すると、その場から足早に立ち去った。
動画は、その日のうちに、ネット上で公開された。
「これ撮ったのって、女の人? マジで、ヤバくねぇ」
「女王様、やり過ぎじゃ無いの(笑)」
「何だか、獣老が可哀想に見える」
「明日からスタンガンと催涙スプレーは、必需品だな」
ネット上で繰り返し、繰り返し放映され、話題騒然となった。彼女の勇ましい行動は、獣老を只ひたすら恐れてきた女性達に対して、希望と勇気を与えた。
「獣老なんて怖くない」
女性を中心とした一般市民、食料品店や飲食店でもスタンガンと催涙スプレーが常備され始めた。突然の需要の急増により、スタンガン、催涙スプレーの業者は嬉しい悲鳴を上げる。品切れが続出し、購入希望者は、再入荷まで何ヶ月も待たされることとなった。
しかし、こうした状況も長くは続かなかった。獣老は、学習するのである。スタンガンと催涙スプレーは、自分の自由を奪いかねない脅威であることを。
獣老撃退劇から一週間が経とうとしていた。
一人の若い女性が、人通りの少ない住宅街を歩いた。
先ほどからずっと背後に人の気配を感じている。付けられている。彼女がそう確信したとき、右手にスタンガン、左手に催涙スプレーを握りしめて、後ろを振り向く。すると、目をランランと輝かせながら、舌なめずりをして近付いてくる男がいた。獣老とみて間違いないだろう。
彼女が大きな声で叫ぶ。
「獣老がいます。誰か助けて下さい。警察を呼んで下さい」
恐ろしい獣老の目を見つめながらも、落ち着いた様子だ。
彼女は、スタンガンをバチバチ鳴らしながら獣老を威嚇する。
「これが何だか分かるわね? 近付いたらただじゃ済まないわよ」
だが、次の瞬間、獣老は一気に間合いを詰め、彼女の左手の催涙スプレーを叩き落とした。慌てた彼女は、咄嗟にスタンガンを獣老に突きつけた。
しかし、スタンガンは獣老の体には届かなかった。獣老が彼女の右手を掴む方が早かったのである。
獣老はバチバチ音を立てているスタンガンを彼女の顔の方へ、ゆっくりと押し戻そうとする。「誰か、誰か助けて!」
慌てて彼女は叫ぶ。しかし、スタンガンは彼女の顔へ、じわりじわりと迫ってくる。彼女も全力で押し返そうとするが、獣老の力にかなうはずが無かった。
「誰か~っ」
次の瞬間、スタンガンは彼女の首に突きつけられ、電撃で彼女は意識を失う。後は、獣老のやりたい放題だ。
彼女の悲鳴を聞きつけ、付近の住民が、スタンガンと催涙スプレーを手に集まってくる。
だが忘れてはいけない。獣老も既に同じ物を手にしているのだ。同じ武器ならば、動きの速い獣老の方が圧倒的に優位だ。獣老は、催涙スプレーを噴射しながら住民達に向かってゆく。一番近くにいた男性が、もろにスプレーを浴び、スタンガンの餌食となった。他の人達は、逃げ惑うしか無かった。
「警察です。獣老は何処ですか?」
警官隊の到着が間に合った。しかし、スタンガンを手にした獣老と対峙するのは初めてだ。獣老が素早い動きで、一人ずつ警官をスタンガンで仕留めてゆく。残された警官が慌てて応援要請をする。
「こちら現場です。獣老がスタンガンを使って暴れています。すぐに応援をお願いしま、グア――――」
警察の応援が来るまでの間に、獣老は、たっぷり楽しみ、辺りに散らばっていたスタンガンと催涙スプレーをかき集めて持ち去った。
その後、この獣老は、手に入れた武器を使い、好き放題に暴れまくった。人々に希望と勇気を与えたスタンガンと催涙スプレー。それが獣老の手に渡ると、逆に大いなる脅威となる。この事件は、そのような教訓を残すこととなった。
獣老と安易に対峙することなど出来はしない。大貫陽が例外だったのだ。人々は改めてそのことを胸に刻んだ。
そして獣老の被害は拡大の一途を辿った。何せ獣老の出現頻度が倍々に急上昇し始めたのだ。始めは、数日おきだったのが、やがて毎日の様に発生し、今では毎日数人が獣老と化して暴れまくっている。
最初の頃は、まさしく本能の赴くまま、後先を考えない突発的な犯行が多かった。コンビニやスーパーの食品をその場で貪ったり、通りすがりの女性を襲ったりなどがその典型だ。その場合、警官達との追いかけっこを経て、最終的には肉弾戦により御用となる場合がほとんどであった。
欲望が暴走し、理性で制御する事が不能となった瞬間から獣老の傍若無人な振る舞いが始まる。理性が欲望に完全に制圧された状態、それが獣老であった。
しかし、時が経つにつれ犯行の内容が次第に計画的なものへと変貌してゆくのであった。重度の認知症を発症しているからと言っても、完全に全ての判断力が失われるとは限らないのだ。残された知能を駆使し、獣老の犯行は計画的かつ巧妙なものへと変容して行く。欲望が理性を支配下に置く事により犯罪は高度化するのだ。
獣老達は自分が獣老となった後、どうなるのかを既に知識として持っている。それは連日のマスコミ報道などを通して学んだ知識だ。その知識が、獣老となった後の犯行に役立っているのだ。つまり、言い換えれば獣老は日々学習している様な状況である。警察はどの様にして獣老を捕まえるのか、それを知れば、逆にどうすれば捕まらない様になるのか学ぶ事になるのだ。
その結果、犯行時間を短くしたり、人目につかない場所を選んだり、逃走経路を確保した上で犯行に及んだりするようになった。警官が現場に到着した時には、既に行方をくらませている場合が多くなったのだ。
獣老は、貪欲な食欲や性欲など本能の赴くままに行動するのが基本ではあるが、自由に対する強い欲求も持ち合わせている。そしてそれを計画的に遂行する能力も。そこが、他の獣との決定的な違いだ。自由のためならば、本能を抑制し逃げる事ができるのだ。
そのため、獣老の身柄確保にかかる日数が、次第に伸びてゆく。最初のうちは、即日逮捕が可能であったが、やがて2、3日たっても捕まえられないようなケースも増えてきた。場合によっては、一週間以上も費やすことすらあった。
そして、更に厄介なことに、犯罪の内容がエスカレートしてゆくのであった。
ある者は、犯行時に金属バットなどの武器を使い、ある者は、逃走用に車を使う。また、ある者は、公共交通機関を使い、遙か離れた場所に移動して犯行に及ぶ。
彼等の犯行時以外の行動は、一般人と大差が無い場合が多い。外見も普通で不気味なオーラを発する事もない。そのため、一旦、その姿を見失うと、次の犯行に及ぶまで、全く通報が入らない状態となることも少なくない。まさしく、神出鬼没なのである。
食欲を満たすための犯罪行為は、当初、食料品店内でむさぼり食うだけであったのが、やがて、万引きをしたり、引ったくりをしたりすることも覚え、多様化していった。
更には、レストランなどを襲撃するようにもなった。店内に入ると、客が食べている料理を奪い取り、貪るのだ。その際、客に対して暴行を働く場合が多々あった。獣老の頭の中では全ての料理が自分の物であり、それを食べている客は自分の料理を奪い取る敵だと理不尽な解釈をするのだ。そのため、獣老が店内に入ってきたときのテーブルマナーは、すぐに食事を止め料理を獣老に差し出すのが最善なのである。
また、美味しそうな臭いを店の外に流す、焼き肉屋や焼き鳥屋などは、獣老の格好のターゲットとなった。どうぞ店に入ってきて下さいと、誘導しているようなものだ。楽しいはずの酒席が、一瞬にして修羅場と化す。
当然、獣老は食事のマナーなど一切守らない。店の中は激しく荒らされ、床には食べ終えた食器のかけらが散乱する。壁や椅子も食べ物の汚れで酷い状態となる。更には、厨房にも獣老が入り込み、めちゃくちゃにする場合もある。獣老に襲われた店の評判はがた落ちとなるため、まさしく招かれざる客なのだ。
また、一般家庭に上がり込むケースも少なくなかった。一家団らんの場が荒らされ恐怖の晩餐と化す。
学校給食が狙われる事件もあった。今や、学びの場とて安心はできないのだ。
獣老の食欲は、とにかく旺盛である。きっと獣老の肉体の新陳代謝は常人のそれを遙かに超えている為であろう。一度に10人前くらいの量なら平気で平らげる。そして、短時間で犯行現場から逃走することを選択するようになったため、一カ所だけで食欲を満たすことをせず、複数箇所を襲う傾向に変わっていった。その結果、被害の範囲は次第に拡大してゆくのであった。
食欲の被害においては、レストラン等での食事中を除き、特に人々に暴力を振う事は無かった。獣老の食事の邪魔をすると激しい暴力を奮われることは、誰しもが分かっている。そのため獣老が出現し食い散らかしていても、警察への通報はするが警察が到着するまでは、皆それを遠巻きに眺めているだけであった。食事中の獣老が放つオーラは飢えた野良犬が放つものと同等であり、近付くことさえ許さない。
そしてそれが迷惑な存在であるのは、間違いない。まるで、巨大なゴキブリが、街中を暴れ回っているかのようなものだ。ただ、迷惑な存在ではあるが、近付かない限り危険な存在ではなかった。
しかし、性欲を満たすための、婦女暴行については、深刻な事態であった。人通りの少ない場所を選んでは女性を襲い、路地裏へと連れ込む。抵抗する女性に対しては、情け容赦なく更なる暴行を加える。意識が遠のき無抵抗になるまで暴行を加え続ける。
大声を上げ、周りに助けを求めようとしても無駄である。みぞおちに強烈なパンチをもらえば、声を出すことすら許されない。例え声を上げることに成功したとしても、助けを期待することは先ず難しい。誰も自分の身を挺してまで、女性を助ける勇気はないであろう。獣老は邪魔をする者全てを敵と見なし、執拗な暴力を奮う。この時の獣老の暴力は半端ではない。最悪、命を落とす危険性すら伴う。従って助け声を聞いた者は、警察に通報はするが、警察が到着するまでは遠巻きに女性が襲われる様を見るしか無い。
その間、獣老は嬉しそうに女性の体を舐め回し事に至る。そして用が済むと、さっさとその場から立ち去るのだ。
被害を受けた女性の様態は深刻だ。大抵の場合、激しい暴行と性行為による心的外傷を負い、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に一生悩ませ続けられる。
よって、獣老が出現した地域に住む女性は、獣老が捕まるまでは、車無しで外出することが困難となる。いつしか女性達は、著しく行動の自由が束縛される状況に追い込まれた。これが獣老の跋扈する社会における最大の問題であった。
更に悔しいことに、この連続強姦魔は無罪なのである。獣老という心神喪失者は刑事責任能力が無いため、例え訴えを起こしたとしても無罪なのである。獣老の家族に対し保護観察の怠りで犯罪を引き起こしたことへの慰謝料を請求しても、ほとんどの場合、それは退けられる。この突発的な認知症に対し、その家族に監督責任が及ぶことは先ず無かった。ノンエイジン発売元の上杉製薬も、それを認可した国も、当然のごとく責任を取ることは無かった。
そのため、獣老に襲われた女性達は、泣き寝入りをするより他に無かった。
毎日のように現れ、好き放題に犯罪行為を繰り広げる獣老。その凄惨な犯行は、連日、ニュースで取り上げられた。初めは全国規模のショッキングなニュースとして取り上げられたが、それが次第にローカルニュースの枠へと切り替わっていった。これは人々の獣老に対する関心が薄れた事を意味するのではない。奇異な事件から日常的な事件へと変貌した結果なのだ。交通事故の様なありふれた事件へと変わったのだ。
その為、人々は付近に獣老が発生していないか、常に注意する必要に迫られた。いつ、どこで自分が巻き込まれるか分からないのだ。
治安維持に対し、人々は声を上げ始めた。
「一体、警察は、何をしているのだ!」
「若返り過ぎた老人は、全て危険人物として扱い、収容所に監禁すべきだ」との過激な意見もあれば、「罪を犯していない人を監禁するなど、非人道的すぎる」との反論もあった。
「危険な獣老は、射殺してもやむなし」との意見もあれば、「獣老といえども、人間である以上、基本的人権は守られるべきだ」との反論もあった。
世の中は、度重なる獣老の出現により、混迷を極めていった。
この獣老が跋扈する世において、治安を維持するのが、警察の役目であった。彼等も、ただ手をこまねいて、犯罪を許していた訳ではない。彼等なりに、できるだけ迅速に獣老を捕獲するよう、試行錯誤を繰り返していた。
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