第2話 獣老人の増殖

さいたまの射殺事件に端を発し、若返り過ぎた老人が暴力沙汰を起こす事件が、日本中で散発し始める。そして、それは遂に残虐な強姦事件にまで発展する。

認知症を発症した事により、健全なる肉体を誇る老人が己の性欲を抑える事が出来ず、犯行に及んだのだ。このショッキングな事件も、一瞬にして日本中へと拡散する。


そして、人々は、これらの事件の背景にノンエイジンの副作用が絡んでいる事を噂する。若返り過ぎた老人は、既に全国で多数報告されている。そして、その数は優に一万人を超えるとも言われている。

しかし、その老人達の脳は、決して若返る事は無かった。脳細胞自体が若返るには、細胞の新陳代謝が必要だ。しかし、人体において脳細胞は新陳代謝する事の無い数少ない細胞である事は周知の事実だ。仮に脳細胞で新陳代謝が起これば、記憶した事が忘れ去られるという不都合が起きる。その為、脳細胞には新陳代謝は起きないのだ。

だから肉体がいくら若返ろうが、脳細胞だけは確実に老化が進む。その結果、例えノンエイジンを服用していても、認知症を防ぐ事は不可避である事が予測されていた。当然、認知症を防ぐ為の薬も広まりを見せてはいたが、認知症の発生を完全に防ぐ事は、この時の医学を持ってしても不可能であった。

しかし、これらの事件での認知症、それは、これまで私達が知っている認知症とは症例が明らかに異なる様だ。これまでの症例では、数ヶ月、数年という長い期間を経ながら緩やかに進行するものであったが、これらの事件に関わる認知症は、どうやら発作的に発症するらしい。その為、一緒に暮らしている家族ですら異変に気が付く事が出来ないのだ。

「この発作的認知症もノンエイジンの副作用なのであろうか?」

人々は、ノンエイジンの過剰作用による若返り過ぎと、発作的認知症とを併発した時に、この様な悲劇が起きるのではと噂し合った。そして、何故だか未だに疑問として残るのは、女性に比べ圧倒的に男性に発症する数が多い事だ。性差も影響するのであろうか?

そして、何時しか人々は、獣の様に猛り狂い犯行に及ぶ者達を「獣老人(けだものろうじん)」と呼ぶ様になり、更にそれを短縮して「獣老(じゅうろう)」と呼ぶ様になった。


しかし、これらの事件が起こる以前は、この若返り過ぎの現象は、世の中から好意的に受け止められていた。この現象は既にノンエイジンが広まり始めて一年も経たない内に、つまり、これらの事件が発生する一年以上も前から全国で広く見られる様になっていた。そして彼等は、ノンエイジンの過剰な恩恵に与った幸運な人であると周りの人々から羨望の眼差しを集めていたのだ。そして、その様な人達は一様に筋肉質の体を自慢していた。特段の筋力トレーニングを積んでいる訳では無いのだが、ほぼ全員が自慢の肉体を誇示していた。

「ノンエイジンには、底知れぬ恩恵が隠されているのかも知れない」

人々は過剰な期待を抱いた。そしてこの頃から、決められた摂取量を大幅に上回る量を服用する者達が増えていった。この様な状況に対し国や製薬会社は警告を発し、過剰摂取を控える様に注意を喚起したが、その様な者達は後を絶たなかった。

皆が「可能であるのならば、20代まで若返りたい」と強く望んだ。自分の身にも幸運の女神が舞い降り、永遠の若さを手に入れる事を強く望んだ。

「20代まで若返られるなら」と、30代、40代の者達も、次々とノンエイジンに手を出していった。その結果、ノンエイジンは飛ぶ様に売れた。日本国内だけで無く、世界中でも大ヒットした。そして、ノンエイジンを開発した製薬会社は、一躍、世界最大の製薬会社へと変貌を遂げた。そうなると注意喚起する気など起きなくなり、会社の更なる成長の為に、市場へ大量のノンエイジンを投与し続けた。

一応、臨床試験の段階では、この様な過剰作用は報告されていなかった。現在においても、過剰作用で20代に若返っている者の割合は、高々数千分の一に過ぎない。その為、過剰作用の発見が臨床試験をすり抜けた事は、仕方の無い事だと世の中は容認した。国や製薬会社に対する目立った批判は起こらなかった。

それどころか過剰作用に対する期待の方が異常な高まりを見せていた。このメカニズムさえ解明されれば、更なる若返りの恩恵を皆が平等に受けられる。世の中の関心は、むしろどうやって自分自身に過剰作用を起こさせるかに集まっていた。それが、ノンエイジンの過剰摂取へと世の中を突き動かしていった。

こうして世界中で若返り過ぎ協奏曲が際限なく盛り上がっていった。


しかし、これら一連の残虐事件が、過剰作用への期待感に冷や水を浴びせた。過剰作用に対する世間の見方は確実に変わったのだ。

「過剰作用には、恐ろしい副作用が潜んでいるのかも知れない」

過剰作用が犯罪の温床となるかも知れないのだ。世間では、ノンエイジンの過剰摂取に対する自粛ムードが広まろうとしていた。自分も同じような犯罪者となるかも知れない、世間に迷惑をかけるのかも知れないのだと。

だが、今や服用者は国内だけでも6000万人とも7000万人とも言われている。中には、「自分だけは大丈夫」と過剰摂取を止めない者達も多数含まれているのだ。

「今後、この様な犯罪は増えてゆくのであろうか?」

人々は漠然とした不安を抱くが、もうノンエイジンの服用を止める事など出来ない。何故なら、この薬には若返りという何物にも代えがたい恩恵をもたらしてくれるのだ。超高齢化社会に苦しんでいた日本を救ってくれたのだ。一度この恩恵を教授すれば、手放す事など出来はしない。

犯罪と言った所で、死人は殆ど出てはいないでは無いか。強姦された女性には気の毒だが、この程度の被害であれば社会的に十分に許容出来る範囲だと皆が考えていた。

しかし、日を増す毎に過剰に若返る者達は加速度的に出現していった。遠い存在であった過剰作用が、次第に身近な存在となる。そして、それに比例するかの様に、同様の犯罪が拡大してゆく。

「一体何処まで広がるのであろうか?」

薬の成分は体内に蓄積されて行く傾向にある。長期間にわたってノンエイジンを服用した場合の臨床データは不十分だ。現在、過剰作用が発生する確率は、数千分の一だが、それが最悪で10倍、100倍と増えるかも知れない。この事実に関する知見は、全くもって無いのだ。漠然とした不安だけが一人歩きし始める。

ただ、10倍、100倍になった所で、若返り過ぎが発症する確率は、数百分の一、数十分の一に過ぎないであろう。更にその中で認知症を発症する者は更に数分の一と言った所であろうか。そして、その中から死者が出る犯罪にまで至るのは、更に数分の一、いや、数十分の一程度かも知れない。基本、獣老に抵抗さえしなければ、殺されるリスクは先ず無いのだから。

それに獣老は一斉に発生する訳ではない。長い年月に分散して起きるとしたら、年間に発生する死者の数は千人にも満たないのではないか? それならば未だ未だ社会的には許容範囲だ。

何せ、自殺者だけでも、未だに年間2万人近く居るのだ。そちらの方が、よほど大きな社会問題であろう。


こうして、これらの事件に対する免疫が世の中に広まっていった。例え獣老が現れたからと言って、抵抗さえしなければ殺される事は無いのだ。社会的に迷惑な存在が広まって行くかも知れないが、我慢すれば良いのだと。

しかし、女性の側からすれば、たまったものでは無い。ある日突然、強姦される危険性が日増しに広がって行くのだ。強姦は、「魂の殺人」とも呼ばれ、その罪は厳罰化されている。それ程、女性としては耐えがたい屈辱なのである。

だが、犯罪者は認知症を発症した獣老である。認知症を発症した本人に対しては、罪は問えないのだ。認知症が犯罪や事故に繋がった場合、その家族に観察責任が問われる事があるが、これらの認知症は突発的なものである為、家族に責任を問う事も出来ない。つまり、強姦された女性は、泣き寝入りするしか無いのだ。何とも理不尽な事では無いか。

この騒ぎの沈静化の裏には、時の政府や製薬会社が居ると囁かれた。彼等は、自分の利益を確保する事を優先し、女性を貢ぎ物として差し出したのだと。


ちなみに、読者の中には、この様な薬が回れば、病気になるリスクが極端に減る為、平均寿命が極端に延び、人が死ににくい世界が訪れると考える人が多い事であろう。そうなれば、人口の増加に歯止めが効かなくなり、逆に人間社会に脅威が訪れる事に繋がりかねないと。

しかし、不思議な事にこの薬による平均寿命の延びは、ほとんど見られなかった。老化に伴う衰弱死は確かに減ったのであるが、逆に突発的な病気による死が増えたからである。やはり、生き物には寿命というものが存在するのであろう。そして、この薬、ノンエイジンは寿命を延ばす効果までは発揮出来ないのであった。

理由は明らかになってはいないが、不自然に若返ると言う事は人体にとってストレスとなるのかも知れない。そのストレスが内臓の酷使、免疫系のバランスの崩壊へと繋がり、突然死を誘発しているのかも知れない。

そして、それこそが、この薬が認可された、もう一つの大きな要因でもあった。健康寿命の延びと突然死。この二つがセットになった事で、超高齢化社会を迎えた日本にとって本当の意味での福音となったのだ。

獣老の登場という副作用はあるが、効能の方が圧倒していた為、世の中もこの薬を受け入れる事が出来た。

しかし、事態の沈静化は、長くは続かなかった。


西暦2024年、12月5日、午後0時30分。

福岡市天神の繁華街。昼食を取る為のサラリーマンやOLで賑わっていた。

さすがに師走に入ると、福岡でも寒い風が吹く。人々はコートやマフラーに身を包みながら街の賑わいの中を歩いていた。

そして、その人混みで獲物を狙う獣のように目をぎらつかせながら、一人の男が徘徊していた。見た目は20代後半ぐらいか。あそこをギンギンに勃起させ、ズボンをもっこりと膨らませながら歩いている。しかし、分厚いコートを着用している為か、周りは、そのもっこりに気が付いてはいない。ただ、ふらふらと歩き回っている為、すれ違う者には邪魔な存在ではあった。

しばらく徘徊した後、男は、コートの丈が短く比較的肌の露出が多い、お気に入りの獲物に目をつけた。男は突如、そのOLにつかみかかると力尽くで、その場に押し倒した。

「いゃー、何するのよ、止めてー!」

彼女が助けを求める悲鳴を上げる。

周りの人々は、一瞬、何が起こったのかを全く理解できないでいた。しかし、男が彼女の上に馬なりになり、衣服を引き剥がしにかかったとき、白昼、公衆の面前での婦女暴行事件だと皆理解した。

「きさん、何ばしちょっかっ!」

目の前で繰り広げられる蛮行に通行中のサラリーマンが激昂し、この大胆で不埒な犯行を止めに入った。

しかし、この犯人も凄い怪力の持ち主であった。止めに入ったサラリーマンを片腕で軽々と吹っ飛ばした。吹き飛ばされたサラリーマンは、大きく宙を5メートルほど舞い、ドスンと激しく路面に叩きつけられた。

辺りにざわめきが広がる。今の怪力は何なんだ? もしかして、獣老? しかし、ここで怯んでいては、九州男児の名が廃る。平然と行われている、この蛮行を許す事など出来はしない。次々と新手の男達が野獣と化した犯人を取り押さえようと挑みかかる。

だが、この犯人は、寄り付く男達を千切っては投げ、千切っては投げ、邪魔することを許さない。そして、一枚ずつ女性の衣服を剥ぎ取ってゆく。

一対一では勝ち目がなさそうだ。周りの男達は、集団戦で犯人を取り押さえようと試みる。そうなると、犯人の方も婦女暴行に集中することができなくなる。かくして、大勢の男達が犯人を取り囲み、激しい殴り合いの乱闘を始めた。その間に、襲われていた女性は周りの者達に救出される。

女性を見失った犯人は怒り狂い、邪魔をする男達との格闘にのめり込んでいった。壮絶なるストリート・ファイトの勃発に、周りの者達は熱くなっていった。次第に人垣が厚くなり、やんや、やんやの大騒ぎとなる。

しかし、この犯人、相当に強い。大勢を敵に回した公開リンチであるにもかかわらず、動じること無く逆に返り討ちにしている。その動きは、まるでプロボクサーの様だ。素早い身のこなしで相手をかわしては、確実にカウンターパンチを繰り出して仕留めるファイティング・スタイルだ。何らかの格闘技の経験者なのであろう。

彼の腕力が、相手を吹き飛ばすほど強力なのは、既に証明済みだ。それにより、次々と男達がダウンを喰らうが、新手の男達が割って入るため、戦いはエンドレスの様相を呈していった。


「はい、天神交番です」

西川大海巡査長が電話に出る。彼は、決してイケメンとは言えないが、スポーツ万能で現役の国体福岡県代表だ。主に中距離走を得意としており、車無しでは彼の足から逃れられる犯人は先ずいない。

電話の内容によると、婦女暴行を働いた犯人に対し周りの男たちが止めに入り、大立ち回りを演じているとのことであった。しかも、この犯人は凄い怪力の持ち主で、一人で10人近くの男達と対等以上に渡り合っているとのことだった。

西川はリーダーの内川警部補と相談。そして、犯人逮捕には人数が必要だと判断し、留守番の警官を数人残し、警官6名を伴い現場へと急行した。


西川が快速を飛ばし真っ先に現場に到着した。既に相当数のやじ馬が取り囲んでおり、「行けー」、「決めろ!」等のヤジが飛び交い、お祭り騒ぎだ。

「警察です。通してください」

西川が野次馬をかき分けて進んで行くと、辺りは血しぶきで染まっていた。犯人は、ほぼ無傷であるが、周りの男たちは顔が腫れあがっていたり、服が破れていたりでボロボロだった。中には失神している者もいた。激しい乱闘の結果を物語っていた。

「警察だ、暴行をやめろ」

7人の警官が揃って犯人を取り囲もうとしたとき、犯人は意外な行動に出た。非常に好戦的な態度だったのに、あっさり、その場から逃走を開始したのである。犯人の感が状況不利と判断したのであろうか? 逃げると予想していなかった野次馬達は、犯人が突入してきたとき、自分に襲いかかってくるものだと思いパニック状態となった。

そのパニックの群衆を突っ切って犯人が飛び出す。続いて西川が俊足を飛ばして飛び出す。

「俺は、追いかけっこじゃ負けたことがないんだ。相手が悪かったな」

西川のギアがトップスピードに入る。その後を、6名の警官達と勇敢な九州男児達が追いかける。

しかし、西川は犯人に追いつくことができなかった。それどころか、どんどんと距離が引き離されていく。西川は焦りを感じた。

「この俺が引き離されるなんて。まるで世界のトップ・アスリートの走りだ」

西川が敗北感に打ちひしがれようとしていたそのとき、犯人の逃走方向からパトカーが現れ、4名の応援の警官達が降り立った。挟み撃ちだ。

「しめた、これで犯人の逃走経路を塞ぐことが出来る」

西川の心に希望の光がさしかけたそのとき、犯人は、またしても意外な行動をとる。交通量の多い片側3車線の車道に向かって強引に横切ろうとしたのだ。

突然の飛び出しに対しては、車両の自動停止機能も十分に機能しない。中途半端に機能し、急ブレーキをかける車やら、急ハンドルを切る車やらで、車道もパニック状態となった。その車の間を巧みにかわしながら、犯人は逃走を続ける。そして、最後の車線を渡り切ろうとしたとき、ドンという鈍い音が響き、犯人の体が宙に舞った。自動停止機能が十分ではない古い型の車にぶつかった様だ。


犯人がうずくまっている所に、警官達が集まった。犯人は、ゆっくりと身を起こすと、もの凄い眼光で彼等を睨み回した。その眼光は、まさしく手負いの虎のものであった。彼らは、恐怖で身動きが取れなかった。かなりの深手を負っているはずだが、まだ戦う余力を残している様だ。

「なんてタフな野郎ばい」

リーダーの内川が、ゆっくりと包囲網を狭めるよう指示を下す。

しかし、犯人は隙を見逃さなかった。一番怯んでいた若い警官に体当たりを喰らわせると包囲網を突破し、再び全速力で逃走を開始するのであった。しかし事故のダメージにより、そのスピードは明らかに落ちていた。

これなら西川の足ならば楽勝で追い着ける。西川は犯人の直ぐ横に追い着くと、並走しながらこう言った。

「俺から逃げられると思うなよ。いい加減、諦めろ」

しかし、その瞬間、犯人が渾身の右ストレートパンチを打ち込んできた。西川は寸での所でかわし、バランスを崩し尻餅をついた。西川は自慢の反射神経の良さでかわすことが出来たと悦に入ったが、それは誤りであった。犯人が怪我を負っていなければ、間違いなく顔面にクリーンヒットしていた。

「西川、単独で深追いするな」

後ろから走りながら、内川が注意を呼びかける。

「分かっていますって。上手く犯人の足止めをしますので見ていて下さい」

西川は再び猛ダッシュすると犯人を追い越し、振り向いて通せんぼをする。犯人は西川をぶっ飛ばそうとパンチを繰り出すが、西川も巧みなフットワークでそれをかわす。

「俺から逃げようなんて、10年早いんだよ」

西川は己の運動能力の高さを再び自慢した。この調子に乗りやすい性格が、西川の悪いところである。犯人が深手を負っていることで、自分が有利な状況になっていることを忘れている。まだ本当の危険を分かっていない。

二人は、ファイティングポーズを取りながら、暫し睨み合った。

そのうちに、後ろから内川達が近づいてくる。

犯人は挟み撃ちを嫌い、建物の間の路地裏へと逃走を始めた。再び西川が快速を飛ばして、犯人を追い越し通せんぼをする。犯人は更に路地裏へと向かう。そしてとうとう、うまい具合に、ビルに囲まれた袋小路へと追い込んだ。

「追いかけっこは、もうお終いだ」

西川が、にやりと笑う。

内川が西川に追い着き、皆に声をかける。

「いいか、奴は人間で無か。手負いの獣たい。慎重に、慎重に追い込むばい」

警官達が横一列になって、警棒を片手に、犯人との距離をじわじわと詰める。さいたまでの射殺事件が彼らの脳裏に焼き付いていた為、拳銃の使用は選択しなかった。この手の相手には、拳銃による威嚇は効かない。

犯人との距離が、あと2メートルに近づいたとき、西川に向かって犯人が全身のばねを使い飛びかかってきた。西川が組み付こうとした瞬間、犯人は巧みなサイドステップを使い、隣の警官に体当たりを喰らわせる。さっきから一番怯んでいた警官だ。その警官は頭部をビルの壁に激しくぶつけ失神する。犯人が包囲網を突破したかに見えた瞬間、西川の両腕が犯人の右足首をしっかりと掴んでいた。犯人が西川の手を蹴飛ばしながら、引きずるようにして走り出す。しかし西川は、離しはしなかった。懸命にしがみつく。周りの警官も犯人に組かかる。激しく暴れる犯人を肉弾戦で制圧し、両手首と両足首に手錠をかける。それでも犯人は、必死にもがき続ける。犯人の手首と足首の皮が手錠と擦れて血がにじむ。

犯人を見下ろしながら内川が呟く。

「一体、何者たい、こいつは? これが噂に聞く獣老か?」

西川が自分の隣で倒れ込んでいる警官に声をかける。

「おい、松本、大丈夫か?」

松本巡査は、配属されたばかりの新人で、西川が教育係として面倒を見ている。彼にとって弟のような存在だった。

「内川さん、松本の意識がありません。頭から多量の出血が――――」

「頭を打ってるばってん、動かすな。救急車の手配たい」

やがて救急車が到着し、担架で松本が運ばれていった。西川が病院まで付きそう。病院までの間、西川が必死に祈る。「どうか無事であってくれ、松本」


この事件も、白昼の都会のど真ん中で起きた、常軌を逸した犯行として、とにかく目立った。襲われた女性を始め、数多くの負傷者を生んだ。そして痛ましいことに、頭を強打した警官は、搬送先の病院で意識が戻らぬまま帰らぬ人となった。

マスコミも、この事件を大々的に取り上げた。そして、さいたまの事件以降の一連の事件との共通点が話題に上った。

今回の犯人のプロフィールは、以下の通りだ。

福岡市内在住、アルバイト従業員、川口武、68才

肉体年齢は、25才前後と異常に若返っており、非常に鍛え上げられた筋肉を持つ。それにより、プロボクサー並みの俊敏な身のこなしとパンチ力、トップ・アスリート並みの走力を持ち合わせていた。

また、正常な認知、判断能力に欠けた、場当たり的な行動。これも重度の認知症を発症していたと思われる。

今回の事件は、警察の間でも深刻に受け止められていた。遂に身内に犠牲者が出てしまったのだ。

そして、獣老の扱いに対して熱心に議論が繰り広げられていた。確かに獣老の邪魔さえしなければ殺される危険性は少ないかも知れない。しかし、それでは人々の安全を守るという警察本来の職務が果たせない。だからと言って無理をすれば、今回の様に犠牲者を出しかねない。この様な激しいジレンマに悩まされるのである。

何と言っても相手は化け物である。猿の様に素早くて、ゴリラの様な怪力を誇る。しかも頭は完全にいかれており、拳銃による威嚇も通用しない。こんな相手に一体、どう対応を取れば良いのか?

正当防衛を主張しても拳銃による殺傷は許されない。何せ相手は認知症を発症しており、責任能力を持たない。犯罪に対する罪を問う事さえ出来ないのだ。そんな相手を射殺すれば、批判の矛先は当然の如く警察に向かう。

下手に獣老を刺激した事で無用な暴力沙汰を生み、その結果が射殺では警察側の正義は通らないのだ。

だからと言って、余りも及び腰になると、獣老の逃走を許す事に繋がりかねない。そうなると2次被害、3次被害と拡大して行く恐れが出てくる。一体、どうやって被害の拡大を食い止めれば良いのか?

そして何と言っても今回事件の最大の特徴は、獣老が警官から「逃げる」と言う選択を躊躇いなく取った事である。これまで場当たり的な対応に終始してきた獣老が、初めて逃げる選択をしたのがこの事件だ。この事実は、何を物語っているのか?

専門家の見解によれば、今回の行動は、これまでの一連の事件の間に獣老が学習し身に付けた行動との事だ。より正確に言うと、獣老となる以前に見聞きした情報を獣老となった時に活用しているのだ。

もし、それが正しいとすれば、今後発生する獣老の犯行は、手口がより巧妙化する危険性も孕んでいるのだ。その様な状況になった場合、獣老を捕獲することが次第に困難になると予想される。

犯行は突発的に起きる為、予測不能。警官が到着する頃には、獣老は既に逃走している場合も出てくる。

そうなった場合、現在の警察の能力で対応可能なのか?

人々は、エスカレートする獣老の犯罪に危機感を強めていた。もはや警察の力だけでは被害を防ぐ事は困難なのかも知れないと。


西暦2024年、12月9日。

日本列島に衝撃が走る。ノンエイジンの製造元である上杉製薬の研究員達が、内部告発に踏み切ったのだ。これらの事件は、ノンエイジンの副作用による狂暴化現象だとマスコミを集め発表したのだ。臨床試験の追跡調査をしていて分かった事だが、彼等の研究室で、3例目の患者を確認したとのことだ。会社側は、この事実を揉み消そうとしたが、研究員側が自責の念に堪えきれず内部告発に至ったのだ。

この告発によると、臨床試験の被験者およそ5千人から3人にこの症状が確認されており、今後何処まで膨れ上がるかは予測不能との事だった。

狂暴化現象の前段階で異常な若返りが起こるのは間違いないが、若返った者全てが凶暴化するのかは、未だ不明との事である。既に、被験者の数パーセントに異常な若返りが確認されており、その数は100人を超えるらしい。その100人超の中から現在3人が凶暴化しているとのことだ。

本格的な臨床試験を開始してから8年近い歳月が流れているが、この現象は月日が流れる程、発症確率が高くなると予想されている。何故なら、この薬の成分は長い年月をかけて人体内部に蓄積されてゆくからである。その為、今後、爆発的に増える可能性が有る事を国民に注意喚起する目的で告発に踏み切ったのだ。

この事実は、極めて重い。臨床試験の5000人だけで、3人以上発生する可能性を指摘しているのだ。

現在のノンエイジンの服用者は、6000万人から7000万人。少なく見積もっても3万人、4万人の獣老が出現するのだ。少なく見積もってもこの数なのだ。実数は10万人を超える事だって十分にあり得る。凶暴で無慈悲な化け物が日本各地で暴れまくるのだ。これでは、国が大混乱に陥る危険性がある。社会秩序への大いなる脅威となり得るのだ。

我々は、この事実とどの様に向かい合って行けば良いのか?


翌日、この記者会見の火消しの為に、ノンエイジンの製薬会社である上杉製薬社長等が記者会見を開いた。

彼等の口から出た言葉は、「獣老に対して手出しさえしなければ、殺される危険は極めて低い」、「自動車事故による死者や原発事故による被害者と比べれば、取るに足らない事象だ」、「最悪の事態を回避したければ、若返り過ぎた者達を隔離さえすれば、犯罪を未然に防ぐ事が出来る」等、およそ人権を無視したものであった。

若返り過ぎた者が獣老になる可能性は、現段階で3パーセントと言った所である。その3パーセントの被害を防ぐ為に、何の罪の無い97パーセントの人達も隔離する事が倫理的に許されるのか? 若返り過ぎが予想される人数は、100万人を超えるとも推計される。これ程多くの人達を隔離する事など物理的に可能なのであろうか? この会見に対しては、「余りにも非人道的だ」、「実現性に乏しい」、「無責任すぎる」等の非難の声が殺到した。

しかし、彼等は非難の声に対し、「ノンエイジンの普及は国策であり、責めるべきは推進している国である」との一点張りで、自らの非を全く認めようとはしなかった。「ノンエイジンの服用を止めたければご自由にどうぞ」とも言わんばかりの高慢な態度で、火に油を注いだのだ。

これに慌てたのは、時の内閣である。

ノンエイジンの普及を確かに国策で進めたが、この様な副作用の情報は聞いていないと上杉製薬側の情報隠蔽体質を非難した。副作用の情報さえ知っていれば、対策の打ちようがあったとの見解を示した。

しかし、国と上杉製薬とが責任のなすり付け合いをした所で、事態の改善には繋がらない。そしてノンエイジンから多大な恩恵を受けているのは両者なのだ。責任をなすりつけ合いながらも、事態の沈静化と言う点では協力関係にあるのだ。

多大な恩恵を受けていると言う点では、国民もそうである。若さという恩恵を、今更、手放せと言われても無理である。獣老となる可能性は、僅か0.0数パーセントに過ぎないのだ。その為に若さと言う魅力を手放す事など、最早あり得ない選択なのだ。

かくして、世論はノンエイジンの服用停止などあり得ない、獣老の発生はやむなし、発生した獣老に対し、どう対処すべきかが重要であるとの流れに向かうのであった。これは、至極当たり前の結論であろう。永遠の若さと言う強烈な魅力の前では、多少の犠牲には目をつぶるしかないのだ。科学の発展の前には多少の犠牲はやむなしなのだと。強姦の被害に遭った女性は気の毒だが、泣き寝入りしてもらうしかないのだと。

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