獣老捕獲隊
21世紀の精神異常者
第1話 獣老人、登場
西暦2024年10月8日、木曜日の夕刻。
さいたま市のとある商店街は、買い物時とあって、大勢の人々で賑わっていた。
そこに隣接するコンビニの自動ドアが開いたとき、下半身をむき出しにした20代半ばと思われる筋肉質の男が店に入ってきた。その肉体は、まるでプロレスラーの様に良く鍛え上げられていたが、着衣はTシャツ一枚のみ。一応、靴は履いているが、否が応でもブラブラしているその下半身に衆目が集まる。
「変質者だ!」店にいる誰もがそう思った。
一瞬、ざわめきが起こるが、その後、気まずい沈黙が店内に広がる。
客の中には、年頃の女子中学生か高校生の子達もいた。彼女達は、目を背けつつも、ちらちらと男の一物に目をやる。隠しきれない好奇心が伺い知れる。
男性客には、自分の物とどちらが大きいかを品定めしている者もいた。体は鍛え上げられているが、あそこまで鍛え上げることはできない様だ。サイズは標準だが、体格が立派な分だけ、かえって品祖に見える。「俺の勝ちだ」との隠れた声が伝わってくる。
それにしても、ほれぼれするほどの筋肉だ。Tシャツの上からでも良く分かる。ミケランジェロの彫刻よりも完成度が高そうだ。男は、意識してか、せずにか、その肉体美を周りにアピールしていた。きっと、ものすごい力の持ち主に違いない。
だが、男の顔にはナルシズムの様な物は無く、言い知れぬ狂気が漂っていた。目はぎらぎらと輝いているが、何処か焦点が定まっていなく、口からは、よだれが垂れかけていた。それは例えるならば、飢えた野獣の顔であった。
「やばい野郎だ!」周りの者達は関わり合いになるまいと、男との距離を取り始めた。
店員達も出て行ってもらうよう男に声をかけようとするが、男が放つ威圧的なオーラに圧倒され恐ろしくて声が出せない。やむなくバックヤードに引っ込み、警察へと通報する。
男は、辺りを物色し始めると、乱暴に棚に手を突っ込んで、商品を引っ張り出し睨みつける。そして、何が気にくわないのか思いっきり床に叩き付けた。その様な事を繰り返している内に、次第に店内に商品が散乱する。男の行動は明らかに異常であった。「嫌だ、こっち睨んでいる。嫌だ」店の中に恐怖に引きつった悲鳴が流れ始める。
男が雑誌コーナーの方へ移動すると、立ち読みしていた者達は一斉に店の奥へと逃げ出した。店の出入り口が空いた隙に、逃げ出そうと試みる者達が集まってくる。しかし、男は、再び出入り口の方へと引き返す。客達は慌てて店の奥へと引っ込んでいく。男が店内をうろつき回っている間、客達は男と距離を取るよう動き回っていた。
そして突然、男は弁当コーナーの前で立ち止まった。その後、弁当のふたを引きはがし、素手で無心にむさぼり食い始めた。
「チャンスだ!」客は一斉に店の外へと流れていった。そして、多くの者が店の外から興味深げに男の様子を眺めていた。新たに店に入った客は速攻で引き返し、店の出入り口には次第に人垣が出来ていった。
「ちょっと、お客さん、止めて下さい」
一人の店員が勇気を振り絞って男に声をかけた。しかし、男は凄みを効かせた目で店員を睨みつけた後、何事もなかったかの様に再び弁当をむさぼり始めた。男は食欲が旺盛で、次々に弁当を開けては飢えた野良犬の如く食い散らかしていった。そして男は一息つくと、店の奥のビールコーナーから一番高いプレミアムビールを選んで持って来て座り込むと酒盛りを始めた。
「こいつ、ただ頭がおかしいだけじゃない。確信犯だな」
そう思った店長が男に近寄り声をかける。
「お客様、店内でのご飲食は、――――」
男は振り向きざまに、強烈なパンチを店長の顔面にぶち込んだ。店長は、そのまま宙に舞い床に崩れ落ちると失神した。
店の中に居た他の店員達は、恐怖で身動きが取れなかった。その間も男は弁当を黙々とむさぼり続けた。
「警察はまだか? 何時になったら来るんだ?」
パトカーで巡回中の中田翔馬警部補に無線連絡が入る。
「根岸のサークルマートに下半身を露出した男が現れ、店員に暴行を働いたとの通報あり。至急現場に向かって下さい」
「了解。おい加藤、現場はすぐそこだ。急行しろ」
今日も平穏な一日が過ぎますようにと、望んでいた中田の心に軽い緊張感が走る。もう季節は10月だが、午後の気温はそれなりに暑い。日に焼けた中田のごつい顔に汗が滲む。そして大きな目を見開くと深呼吸を一つ。
何も無いに越した事は無いが、あまりにも平穏すぎると、自分の存在意義そのものが否定される。たまには、こんな面倒が飛び込んで来るぐらいが丁度良い。しかし、「暴行」という言葉が気になる。取りあえず現場を確認することが先決だ。こう言う場合に備えて、日頃から武術の鍛練を積んでいるのだ。鍛え上げた体と正義の心がうずく。
一方、加藤は余り危機感を持っていないようだ。今時の若者らしく、軽い乗りで答える。
「さっきから露出狂の通報が何度も入っていますけど、きっと同一人物っしょ。未だ明るいのに、ちんちんをブラブラさせて現れるなんて完全な変質者っしょ。さっさと片付けまっしょ」
中田は入署以来、現場で経験を積み重ねてきた叩き上げのベテランだ。生来、滅法強い正義感を持ち合わせている。周りから「うざい」と思われることも多々あったが、警官は彼にとって天職と呼んでもいいであろう。
一方の加藤は現場に配属されてから未だ日が浅く、教育係の中田の元で鍛練を積んでいるところだ。彼は中田のことを、心強く面倒見の良い上官として尊敬している。
中田達がサイレンを鳴らしながら、現場の駐車場に到着した。野次馬をどかせ、店の中へと入る。筋肉質の男は未だ、弁当コーナーの前で黙々とむさぼり続けている。確かに下半身には、靴以外の着衣は全くない。
店内を見回すと、未だ数人の買い物客が残っており、遠巻きに男の行動を注視していた。全員が店外に避難している訳ではなさそうだ。中には、スマホで動画を撮っている者もいた。多分、邪魔さえしなければ関わり合いにならないと高をくくっているのであろう。こう言った場合、好奇心の強い野次馬達は邪魔以外の何者でも無い。
鼻血を出して、うずくまっている店長に対して、加藤が声をかける。
「お怪我は大丈夫ですか?」
店長は大丈夫だと頷き、男の方へと目を配る。
中田が男の肩に手を置き、声をかける。
「君、何をしているの? 下半身、何もはいていないよね?」
しかし、男は無視をして弁当を食い続ける。
中田の手に凄まじい熱気が伝わってくる。鍛えられた筋肉が放つ熱のエネルギーだ。この男がただ者では無いことは、すぐに分かった。この鍛えあげられた体躯。中田自身も己の体躯には自信がった。学生の頃より柔道の鍛錬で鍛え上げてきたこの体。県警の中でも一目置かれる存在であったからだ。しかし、この男のものは、それを遙かに上回る。だが怖じ気づいている場合では無い。
中田が男を振り向かせようと力を入れて肩を引っ張ったとき、男の動きが止まった。
男はゆっくりと振り返り、警官が二名来ていることに気付いた。おもむろに立ち上がったかと思うと、素早い動きから両腕で二名の警官の胸ぐらに掴みかかり、店の入り口に向かって渾身の力でぶっ飛ばした。
激しい音を立てて、中田と加藤はレジや棚にぶつかりながら転げ回った。
だが、中田とて伊達に体を鍛えている訳では無い。しっかりと受け身は取ったが、軽い脳震盪を感じながら、上体を起こす。そして無線に手をやり、応援を呼ぼうとするが、男が無線を奪い取るとケーブルを引き千切り、店の奥へと放り投げた。
加藤もダメージを喰らうが、未だ未だ若い。柔軟な身のこなしで衝撃を吸収した為、動きに余裕があった。中田の代わりに無線を使おうとする。しかし、素早く駆け寄った男に取り上げられ、再び店の奥へと放り投げられる。
中田が自慢の体で男を制しながら、加藤に命令する。
「至急、パトカーの無線で応援を呼べ。我々だけでは手に負えない」
加藤はよろめきながら、無線連絡の為にパトカーへと向かう。野次馬の群れが左右に割れて道を作る。
その時、加藤の背後より、もの凄い勢いで何かが迫ってきた。加藤がその気配に気づき、慌てて後ろを振り返るが、そこには誰もいない。加藤の右肩が前方から強烈な力で押し下げられる。そして加藤はよろめき、自分の真上を何か黒い影が通り過ぎたことに気づく。
その黒い影の正体は何か? 尻餅をついた加藤が再びパトカーの方へと目を向けたときに仰天した。パトカーの屋根の上に、先ほどの男が飛び乗っていたのだ。右肩を押した力は、男の蹴り足に違いない。自分を踏み台にし、パトカーの屋根に飛び乗ったというのか? 何という運動能力! あっけにとられていると、男は屋根の上から加藤の頭に向かって強烈な跳び蹴りを喰らわす。加藤は、一瞬にして意識を失った。
「加藤!」
中田が店の奥から声を上げる。一旦は男を制しようと試みたが、あっさりと振り飛ばされ、無残に店の奥で転倒していたのだ。
野次馬が引き潮の様に、パトカーの周りから遠のく。
そして男は再び、パトカーに近付くと、車の下に手を入れ渾身の力を込めてパトカーを横転させた。ゴロンと激しい地響きが鳴り、男が勝利の雄叫びを上げる。群衆から驚きの声と恐怖の叫びがとどろく。
その様子を極力心を落ち着かせ冷静に見届けながら中田は思う。これで緊急応援の道は絶たれた。応援部隊が到着するまで、暫く時間を稼がなければ。それまでは俺一人で、ここにいる全員をこの化け物から守らなければならないのだ。中田は、いい知れない焦りと恐怖を感じた。気が付くと、右手が拳銃に伸びていた。
銃声が鳴り、男は店内の中田に目をやった。
「動くな! 動いたら撃つぞ。暴行の現行犯で、お前を逮捕する」
全身に震えを感じながら、よろめく足で中田が男の足下に向けて威嚇射撃をしたのだ。
しかし男は動じること無く、猛然と中田に向かって低い姿勢で突っ込んでくる。
中田が慌てて二発目を撃つが、男には当たらない。群衆が居る為か、無意識に下へ向けて発砲したのである。
中田は男から強烈なタックルを喰らい、床へと倒れ落ちる。再びショーケースに頭を強く打つが、意識は失わなかった。幸い、拳銃も右手に残っていた。
しかし男は更に中田の体に密着すると、怪力で中田の体を締め上げる。あばらがミシミシときしむ音がする。中田自身は自分の体を、かなり頑丈な方だと思っている。柔道、剣道の有段者でもあり、筋トレを欠かさず体を鍛え上げている。しかし、この男の怪力の前では、抗うことすら許されないのだ。
「不味い。このままでは、絞め殺される」
中田は身の危険を感じ、男の肩口に拳銃を当てると、三発目の引き金を引く。
「ぐあっ!」
男が苦悶の声を上げながら、中田の体を離して立ち上がる。
「動くな、動いたら撃つぞ!」
上半身を起こしながら中田が叫ぶ。店内には悲鳴が響き、パニック状態に陥る。床は男の食い残しとひっくり返ったビールにより、ぬちゃぬちゃとしている。中田は何度も手を滑らしながらも身を起こし、両手でしっかりと拳銃を構える。
しかし、中田の言葉は、興奮状態となった男の耳には入らなかった。男はフライドチキンの入ったショーケースを両腕で振り上げると、中田に向かって投げつけようとした。
「確かに左肩を銃弾で撃ち抜いたはずなのに、何故、左腕を使えるのだ? 拳銃が通用しない! こいつは鬼神か?」
更なる恐怖が中田を襲う。中田の頭もパニックに近い状態だ。しかし、ただ一つだけ確信できることがある。それは、このままだと自分が殺されるということだ。
興奮の頂点に達した男には、銃創の痛みすら感じる事は無かった。男の体内を濁流の如く流れる大量のアドレナリンが痛みを消し去っていたのだ。今は、ただ目の前の獲物を仕留める事しか、男は関心が無かった。
銃声二発。
銃弾が男の胴体に深く命中する。そして、男は、静かに床へと崩れ落ちた。
ショーケースが中田の頭のすぐ横へと、激しい音を立てて激突した。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。「終わったのだ」。中田は自失呆然となった。
その日の夜には、この事件がニュースで大々的に報じられた。
人通りの多い夕方の商店街での発砲事件。死者一名。大勢の目撃者が居た為、とにかく目立った。横転したパトカーの映像。荒らされた店内。毛布で覆われ、担架で運び出される男の死体。床の血痕。
そして、大勢の目撃者が事件の様子を生々しく興奮気味に語るのであった。
「雑誌を読んでいたら、下半身裸の男がいきなり入ってきて、店内があり得ない雰囲気になって。で、あちこち商品棚を荒らしたかと思うと、弁当コーナーでいきなり商品を食べ始めて、止めに入った店員をぶっ飛ばして。もう、あり得ないっしょ。で、危険だから店から逃げ出して」
「いやあ、パーン、パーンと銃声が全部で四回かな? もう何が起こったかとびっくりしました」
「なぜパトカーが横転しているのですか?」アナウンサーの質問に対し、目撃者の女性は自慢げに答える。
「裸の男が持ち上げてひっくり返したの。そう、一人で。すんごい怪力だった。その前は、パトカーの屋根にジャンプして飛び乗ったし。私あんなの初めて見た」
また、死亡した男の身元が判明したときにも、衝撃が走った。
男は、市内在住の無職、太田弘一さん。76才。
家族の証言によると、昨夜から家族の顔も分からなくなる程の認知症を突発的に発症していたとのことである。
認知症が引き起こした異常行動である、下半身の露出と店内での勝手な飲食、および暴行。
それを射殺によって止めた、警官の行動。その行動が正しかったのか、真偽が問われていた。マスコミから埼玉県警への質問が飛び交う。
「「正当防衛のための射殺」との警察発表ですが、何故、凶器も持っていない相手を射殺したのですか? 過剰防衛とは言えませんか?」
「認知症による異常行動だと遺族側は主張していますが、その場合、責任能力を持たない相手を射殺したことになりますよ。行き過ぎた行為ではありませんか?」
この事件は、埼玉県警の内部にも混乱をもたらしていた。
「調査報告書によると、76才の男がパトカーの屋根に飛び乗り、警官一人を跳び蹴りでKO。その後、パトカーを横転させ、もう一人の警官にも激しい暴行を加え正当防衛により射殺されたとなっているが、こんなもん誰が信用すると言うんだ。ノンエイジンで若返ったとは言え、身体能力は、せいぜい50才だぞ。」
警察部長の本間が担当課長の竹中を睨み付けた。
ノンエイジンとは、2年前から国の認可が下りた薬剤で、老化防止および若返りの効能がある。通常は50歳前後まで肉体が若返る事が出来、老化に伴う健康状態の悪化を心配しないで済むという、とてつもない恩恵を人々にもたらしていた。国は少子高齢化に伴う財政悪化への切り札としてこの薬をいち早く承認した。その結果、膨れ上がる医療費の抑制、介護費の抑制、年金支給開始時期の後ろ倒しと言う財政面での恩恵を享受し、日本国の活力が一気に蘇った。
しかし、今回の事件では、この若返り効果が20代まで及んだという。
担当課長の竹中は、その事実に間違いは無いと主張する。
「本件に関しては、コンビニの店員、客、その他多数の目撃者からも同様の目撃証言を得ております。また、男の体を監察医が検死したところ、プロレスラー並みの体格で推定肉体年齢は25才前後とのことです」
本間が驚く。
「25才だと! 本当にちゃんと調べたのか?」
「本当です。本件に関しては、ノンエイジンの過剰作用の疑いがあります」
本間が深いため息をつきながら言う。
「それにしても、射殺は不味かったな。マスコミ連中は過剰防衛ではないかと騒ぎ立てている。明日には正式に記者会見を開いて説明しなければ収まらないだろう。本当に正当防衛を主張できるのか? 射殺した中田警部補は、今どうしている?」
「中田には、自宅待機を命じています。本人にも深い贖罪の念があるようですし、今、彼をマスコミの目に晒すのは控えた方が賢明だと判断しました」
竹中が続ける。
「パトカーを横転させるほどの怪力です。応援要請の道も絶たれました。この状況でまともにやり合った場合、命の危険を感じてもやむなしだと判断します」
「やむなしか、――――」
本間は、再び深いため息をつくのであった。
その日の夜、中田は遅い時間に帰宅した。
子供達は寝静まっているが、妻は起きて待っていてくれた。中田は無言で居間へと入り、夕食が用意されているキッチンの椅子に座る。妻が心配そうに声をかける。
「今日は大変だったみたいね。あなたの管轄でしょ、射殺事件があったコンビニって。今、食事を温め直すから」
妻が中田の顔をのぞき込むと、深刻な表情であることに気が付いた。眼光は鋭いが、何処か虚ろである。更には、顔に傷やあざが残っている。きっと事件と何か関係があったのかもしれない。この話題は避けようと妻は思った。
「酒だ。酒をくれ」
中田が催促する。妻が冷蔵庫からビールを取り出すと、
「ビールじゃ無くて、ウイスキーを出してくれ」
意外な言葉に妻は戸惑った。今まで、家でビール以外を飲んだことが、ほとんど無かったからである。元来、中田は酒があまり好きでは無い。たまにビールを飲むくらいで、アルコール度数の高い物は苦手であった。その為、もらい物のウイスキーは、戸棚の奥で何年も眠っていた。妻はそのウイスキーのボトルを開けると、飲み方を尋ねた。
「ストレートだ。コップだけをくれ」
妻がコップを手渡すと、中田は手酌でグラスの半分程までウイスキーを一気に注いだ。
妻が夕飯のおかずをつまみとして、テーブルの上に置く。中田は箸を取るが、口へ運ぼうとはしない。食欲が湧いてこないのだ。中田はグラスに持ち替えて、ウイスキーを飲もうとするが、その手前で動きが止まった。
「何をやっているんだ、俺は」
心の中で呟いた。不満やストレスで酒に逃げることは、メンタルが弱い人間のすることであり、恥ずかしい行為だと思っていたからである。
しかし、今、その心境が分かるような気がした。飲んで忘れることができたら、どんなに楽であろうか。しかし、飲む気力さえも湧いてこない。中田はグラスをテーブルに戻した。そして両手で頭を抱え込み、ふさぎ込んだ。
妻は心配そうに中田のことを見つめている。きっと事件と大きな関係があるに違いない。時間だけが、ゆっくりと過ぎてゆく。
「あなた、今日はもう床に入ったら。明日も早いんでしょ」
「明日から暫くは自宅待機だ。気を遣わせて悪いが、今日は一人にさせてくれないか」
妻が寝室へ消えた後も、中田は固まったままだ。
生まれて初めて、この手で人を殺してしまった。しかも相手は、痴呆症を発症していた老人だ。その贖罪の念が、片時も頭から離れない。俺は取り返しのつかないことをしてしまった。
あの時、男を無理に引き寄せず、直ぐに無線連絡していれば、こんな事にならなかったのでは? 筋骨隆々としたボディービルダーの様な相手だ。そもそも二人だけで対応しようとしたのが、間違いだったのでは無いか? 自分の判断の甘さを責める。
加藤のことも心配だ。幸い病院で意識を取り戻したと聞いたが、部下を危険な目に晒してしまった。彼の様態は、今、どうなのだろうか? 自宅待機の身の為、見舞いに行くことさえできない。
そして、最も痛恨な判断は、威嚇射撃を選択してしまったことだ。男がパトカーを横転させたことに対し、必要以上の脅威を感じ、正常な判断能力が失われたのでは無いのか? つまり、自分の身の危険を一番に感じ、過剰なリアクションをしてしまったのでは無いのか? 執拗に自分の心の弱さを責めるのであった。威嚇射撃さえしなければ、事態をここまでエスカレートさせることは無かったと感じているのだ。
しかし、あの時、選択すべき手段は何が適切だったのだろうか? 応援が到着するまで待ち続けたとしたら、一体どうなっていただろうか? 相手は、化け物のような怪力の男だ。しかも、極度の興奮状態にあった。一般市民を暴力沙汰に巻き込んでしまった場合、別の犠牲者が出ていたかもしれない。何が起きても不思議では無かった。
中田は頭の中で、同じような思いを反芻し続けた。いつしか、飲むまいと思っていたグラスが空になっていた。酔いが疲れきった中田を眠りへと誘う。ソファーに横になると、そのまま寝込んでしまった。夜中に起きて来た妻が、中田の体に、そっと毛布を掛ける。
翌朝、目覚めた中田は独りぼっちであった。家族は既に出払っており、テーブルの上に朝食が用意されていた。妻の簡単なメモが置いてある。「あまり深刻に考え過ぎないで」。家族の優しさが胸に染みる。
気晴らしにテレビをつけてみる。すると、ワイドショーが昨日の事件を大々的に取り上げていた。射殺したことが正当防衛に値するのか? その様な話題になったときに、耐えきれずテレビをリモコンで切ってしまった。
中田は再び深く思い悩む。酒で飲み潰れて眠っても、心がリセットされる様な事は起きなかった。心臓の中に、何かずしりとした鉛のような物があり、それを非常に重く感じていた。
頭の中を昨日の記憶が何度も何度もフラッシュバックする。怒り、恐怖、興奮、そして、後悔。それらの感情が複雑に渦巻き続ける。生まれて初めて、この手で人を殺してしまった。最悪の結果を招いたことに対し、己を激しく攻めるのであった。本当に、自分が取った行動は正しかったのかと。
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