曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
@ungorillaimo
曼珠沙華
私の母は三十四の若さでこの世を去った。病名は胃癌だ。当時、私は小学校に通い始めたばかりであった。母の死を信じることができず、幼い私は思い出の場所を一人さまよった。母の姿を探した。
あれは雨の日のことだ。私はその日も母を探し求めて歩いた。曼珠沙華が艶麗なそこは、母が私に見せてくれた御伽の国である。私はここが好きだと言った。母もここが好きなのだと笑った。不思議に私はここに母がいるのだと確信していた。
唐紅の海に一人の女性を見つけた。艶やかな黒髪は霧雨にしっとりと潤み、白磁の肌を引き立たせている。暖かな日のような黒い瞳が大海の慈を孕みこちらを見つめていた。私の知る生前の彼女の姿と今の姿は随分と違っていたが、私は自然にそれが母なのだとわかった。
「やはり、貴方はここへ来てしまうのね」
母は少し悲しげに言った。
「お母さん、どうしてそんなに美人さんなの?」
「女性はね、いつだって美しくいたいものなのよ」
母はそう言って小さく笑った。母は笑顔の人で、生前も辛い顔一つ見せなかった。その強さのためだろうか。綻びた花のような、自然に溢れた微笑みは長い間見ていなかったことに今更気がついた。私はその瞬間母の死を自覚した。何日も信じることのできなかった事実を呆気なく自覚した。母は矢庭に泣き出した私をそっと抱きしめてくれた。
「もう体は痛くない? 無理して笑っていない?」
私は情けなく震える声でしゃくり上げた。
「もう大丈夫よ。
私と母はそれからたくさんの話をした。算数のテストで百点を取ったこと、逆上がりが上手くできないこと、覚えていないほど小さな私が起こした珍事件ーー
「もう日が暮れてしまうわ。お別れの時間ね」
気がつけば、すでに黒い山が陽を半分ほど呑み込んでしまっていた。雨はいつの間にか上がったようだ。嫌だ、ここにいる。愚図る私に母はゆっくりと語りかけた。
「景太は強くて優しい子よ。だから、お母さんがいなくても大丈夫。お母さんはずっとお空で貴方を見守っているわ。これから先、貴方は色々辛いことを知ってしまうかもしれない。でもこれだけは絶対に忘れないで。私にとって、景太はたった一人の愛しい家族なのよ」
それから、母は私の手に一輪の紅い花を握らせた。
「これは貴方と私の約束よ」
「約束?」
「そうよ」
母の手が私の手から離れると、透き通った白の光となって消えていった。私の手には凛とした曼珠沙華が母のように咲き誇っていた。
もう私は泣いてはいなかった。どうか、安らかに。私は一輪の約束を両手に孤児院への帰り道を歩いた。再開、転生、また会う日を楽しみに。これらは曼珠沙華に込められた花言葉。母が愛した花からの遺言である。
こうして私は今までこの「約束」を頼りに生きてきた。しかし、母の十四年目の命日である今日、私はこの約束を打ち捨てよう。
母は私にこういった。
「これから先、貴方は色々辛いことを知ってしまうかもしれない」
私はある日この言葉に込められた本当の意味を知ってしまった。私を根底から揺るがしかねない事実を知ってしまったのである。
きっかけはとても些細なもので覚えていないが、その日私は母の日記を見ることにした。母らしい端正な文字で淡々と綴られた事実は私に取っても母にとっても残虐なものでしかなかった。まず、私は望まれて生まれてきた子供ではなかった。そして父も、母が望んだ相手ではなかった。日記の記述によればその「事件」の二週間後、父は検挙された。
ページはまだ続いていたが、もうめくることはできなかった。私は生まれて初めて己に明確な殺意を抱いた。己の中に流れる醜悪な血を恥じ、逃れようのない憎悪にねっとりと包み込まれていった。同時に分厚いうねりのような不安が足音を忍ばせ背後に歩み寄ってきた。母はあの時本当に笑っていただろうか。心からの笑顔を私は一度でも見たことがあったのだろうか。私は、母の死因そのものなのではないか。
そして私は今日、母に最初で最期の親孝行をしようと決めた。私は母の墓へ赴き、お参りを一通り済ませた。弔いの花を手向ける代わりに一輪の造花を花瓶に生けた。青色の曼珠沙華。この世には存在しない嘘の花。生まれ変わっても私と二度と再開しないように。また会う日が永遠に訪れることのないように。
全てを済ませた私は憑き物が落ちたかのような、晴れやかな気分でさえあった。あとは己のこの腐りきった血を断つのみである。私はあの大好きな曼珠沙華の絨毯に包まれて静かに目を閉じた。首から流れ落ちる汚物は天界に咲くといわれるこの紅い花たちがやがては清めてくれるのだろう。私を静観する、彼女の悲壮な面持ちに私は最後まで気がつくことはなかった。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ) @ungorillaimo
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