031 恐怖

 恐怖という感情は、人間において、相当に根源的な位置にあり。それに逆らう事は、己の本能に相対することにほかならない。

 少女、シエラ・マーシャルは恐怖した。ブラザーフッド、5.9。15メートルの石灰岩のラインを登攀することを、真っ当な人間、それも少女が。登るなど、ありえないことだった。


 (アレン兄様。ジェイムズ兄様――)


 しかし兄達は、其れを史上の喜びと捉えている。あまつさえ、妹が登れるものだと考えている。


 (もう一度。登れと言われたら、登ります)


 兄達との戯れは楽しいものだ。此れが長く続くならば、もう一度壁面へ向かうとも。それでも、別だ。別なのだ。


 (また、登って。恐怖を乗り越えて。それで――)


 登りきれるわけじゃ、無いのだ。




 アレンは、先程のシエラの登りから、一度たりとも目を逸らさなかった。何故かと言われれば、どうにも言葉に詰まるだろうが。ただ、自分の心の底にあるものを擽られる様な。そんな、気分だった。


 (シエラは、悩んでいるな)


 チラリ、と。妹を見る。どうにも暗い顔をしているが、何もクライミングがそんなに嫌だったというワケでは無いだろう。

 シエラはずっと、先の見えない恐怖に臆病になっていたから――。


 (――ジェイムズも、何か言ってやれば良いのに……)


 自分が連れてきたのだから、そう思うけれど。もし、今のシエラに、ジェイムズが声を掛けたら。


 (励ましの言葉なんて、言わないんだろう)


 口を突いて出るのは、厳しい言葉の筈だ。其れがジェイムズの性なのだから。


 (アイツが、励ましたり、慰めたりするのは。結果を出すか、それか、試みた時だけだ)


 他の何かに囚われず。自分なりの理論と方法をもって。全力で成果を挙げようという、試み。その結果届かないようなときは、ジェイムズは優しさを見せる。


 (今のシエラは、そうじゃない。そして、俺も――)


 弟に優しい言葉を掛けて貰おうとするのは、可笑しいけれど。

 そうやって考えていたら、少しだけ。心が楽になった様な気がして。ああ。


 (俺が、弱気だったから、シエラも怖くなってしまったのかもな)


 そう、思った。だから――




 ブラザーフッドに打ってあるボルトは古くて、使えない。だから、アレンもトップロープで。

 スリングで作ったシットハーネスに、ロープを括る。手に染み付いた、八の字結びダブルエイト・ノットの動きは、数年を経ても、滑らかに。


 (シエラも言っていたが。此れだけは、慣れないな)


 ジェイムズの考えた、クライミングシューズ。自分のときには、無かったもの。

 同じ出自なのに、自分には、考えられなかったもの。


 (まあ結局、中途半端だったんだろう)


 山も。クライミングも。マーシャル家の人間としても。

 でも。


 「兄さん。準備は出来た?」


 ジェイムズに呼ばれる。ああ、出来ているとも。後は、登るだけだけれど。


 「ちょっと待ってくれ」


 そう言って、シエラの元へ行く。


 「アレン兄様……?」


 怪訝な表情で、シエラに問われる。そうだろう。シエラからしたら、登る前の人間が。自分の元へ来る心当たりは無い。

 でも、あるのだ。アレンには。言わなければいけない事が――




 「――よく、見てるんだ」


 別に、格好つけたいわけじゃあ無い。


 「お前に必要なのは、よく考えた末の、一手だ」




 シエラの顔をじっと見て。分かったかどうかは判断できないけれど。

 用は済んだわけで、踵を返して。


 「大丈夫だね」 


 ジェイムズが、言う。こいつは、此方の意図は分かっているだろう。


 「ああ。平気だよ」


 そう言って、岩壁へ向かう。

 最後に、一つだけ思う。


 (見せられるだろうか)


 自分なりの、ブラザーフッド。

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