028 長兄
薄暗い部屋。切れかけの電灯の灯りに、蛾が一匹、誘われてきた。飛び回る姿が煩わしくて、はたき落とす。
(窓は、閉めるべきか)
どうにも淀んだ部屋の雰囲気に、耐えきれず開けていた窓。でも、窓を開けたくらいじゃあ、解決はしていなかった。
ギィ――。窓を閉める。音が鳴る。先ずは、この心の濁りを紛らわせてしまおう。紙束を掴む。工場の、計上の書類。
アレン。マーシャル家の長兄もまた、言い知れぬ苦しみを抱えていた。
「なあ。ジェイムズ」
アレンが問いかける。不安が滲み出したような、声。アレン・マーシャルという男は元来、弱音を漏らす様な性分では無かった。何処でそうなってしまったかは分からない。でも、言葉の端には。入るのだ。弱々しい、悲鳴のような慟哭の色が。
「俺は、どうしたら良い――」
俯いたまま、アレンは嘆く。こんな姿は、父にも、従業員達にも見せられない。見せてはならない。だから頼る相手も、ジェイムズだけ。
会っていなかった半年。溜まっていた鬱積が、漏れ出る。
「何をだい、兄さん。会社を? シエラを? それとも、其れ以外の何かかな――」
厳しい返し。だけれども、此れで正しいのだ。ジェイムズは、悪戯な慰めなんてしないし、関わりの深い人間は其れを求めたりはしない。
淡々と返ってくる返事を聞いて、何とか。自分の心を落ち着けたいのだ――
「分からない。もう、自分が正しいと思える事が、何もない」
隈のこびり付いた目で、ジェイムズを見返した。
アレンは、時期の経営者としての自分と、マーシャル家の長兄としての自分の板挟みになっていた。
彼はこと経営において、非凡では無いものを持っている。他社との競合という概念を、重要視し始めたのもアレンだ。だからこそ工場の製品を、質を中心に売り出すことはかれの理念であると言っても差し支えは無かった。ただ――
「縁談さえ無ければ。そう思っているんだね」
ジェイムズが言った。そう、縁談。
シエラの縁談の相手の、革工場。質もさながら、取り扱う革の種類でも優秀だと聞く。また、地理的にも近い。余計な輸送コストも最小限で済む。けれど。
「ああ。本来、政略結婚なんか無くても、契約に支障は無かった」
アレンの返事。そう、お互いに需要と供給が一致する相手だった。余計な、時代遅れな手段を用いる必要なんて無いのに。
「でも、相手は求めてしまったんだね」
ジェイムズの声に、情の色が交じる。そう。相手方はそれ程までに怖かったのだ。急進する国外の勢力が。だから、絶対の味方を求めた。
その心を理解できてしまうからこそ、アレンも父も、飲まざるを得なかったのだ。そうやって、シエラを。最愛の家族を戦略の道具にせざるをえなかった。
「なあ、俺は何時からこんなにも弱くなってしまったんだろう。昔の俺なら、幸せになれと。気楽に送り出していた筈だ」
思えば、ジェイムズやアレンの母も、政略結婚であった。それでも、今は幸せそうに見える。新しい家庭を作る事が、不幸だと外野が決めるものじゃ無い。
「兄さん」
ジェイムズが、兄を呼ぶ。
優秀だった兄。けれども長兄という立場に、沢山のものを奪われた兄。家族しか、縋るモノがなくなってしまった兄。彼の心の重しを、ジェイムズが軽く取り払うことなんて、出来やしない。だから。
「登ろう」
ジェイムズの知っている、強かった頃の兄。山の遠影を喜々として見る兄。使い込んだギアを丁寧に手入れする兄。怖がるジェイムズを、壁の上へ導いた兄。シエラと一緒に、背中を眺めた兄。
「登りに行こう。シエラも連れて」
登って何もかも、解決なんてするわけがなかった。そう上手く行くもんじゃあない。でも。でも――
――まだ結果も出ちゃいないのに、ウジウジする兄と妹。どっちも、引っ張り上げてやりたくなったのだ。
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