第2話
検死の結果報告を渡され麗華は眉をしかめた。
「これ本当ですか?」
検死の報告を見せられて麗華は検死を担当した老人医師に聞き返した。
「わしの見立てが信じられんのか」
「そんな、
麗華はそう答えたが信じられなかった。
少し猫背で頭の白髪も薄くなった初老の飯山は30年以上この仕事をしている。
些細な遺体の異常も見逃さない彼の目は誰もが信頼している、飯山の検死のおかげで糸口が見つかった事件はいくつもある。
「食いちぎられたって……いくら何でも」
「それだけじゃない、傷からみて一口で食いちぎった。その大きさから逆算すればとんでもない大きさの獣になるじゃろ」
そんな巨大な獣がうろつけば周りの住人が気付かぬわけがない。
公園に住み着くこともありえない。
どこから来てどこへ去ったというのだ。
いや、それ以上にそんな獣が存在するのか。
「熊とかはどうです?」
土上は日本に生息する獣でも大型に分類される熊ならば意外とありえるかと思った。
「もっとでかい口じゃよ。横幅にして1メートル近いじゃろ」
「1メートル! ワニじゃないんですから!」
土上が叫んだ。
「ワニ?、近所に飼っていたワニが大きくなり飼えなくなって捨てた。そのワニがさらに育ち大型化して……」
麗華は推測をしてみたが飯山の見解は違うようだった。
「傷口からみて横にでかい口じゃな」
横に1メートル近い口の持ち主が直ぐには思い浮かばない。
「で、無くなった腕と脚はどうなったとお考えです?」
「何を言っておる。食われたにきまっとろうが」
「食われた……ですか」
事件を起こしたのは既に人ではなく獣類である方向に飯山は結論つけているようだ。
「飼い猫は殺したネズミで遊ぶことはある。しかし、野生の獣はそんなことはせん。自分が襲われた側でなければの」
つまり被害者は襲った獣にとっては食欲を満たす対象だったということだ。
「ただ気になることはある。獣でもワニでもいいが」
飯山が頭をペンペンと叩いた。
「その食べた本人の痕跡が全くないことが腑に落ちん。毛も足跡も見つかっていない。通常は傷口に付く分泌物も、全く見当たらん。もちろん歯の欠片すらない」
飯山はお手上げだとでもいうように両手をあげた。
上司にそのまま伝えるべきか迷った。
大型の生物が被害者を襲い腕と脚を食べて逃走中と思われます。
話としては無いとは言えない。
だが、近所の住人はその獣らしい物すら見た形跡が無い。
逃げ込める下水溝も無い。
大型の生物が身を隠せる場所はあの公園近辺には何も無いのだ。
もし獣が移動を繰り返しているならば目撃情報が無い事自体がおかしい。
理論派の上司にこのまま伝えれば怒鳴られかねない。
もし獣類だった場合、根本的に捜査方針を変えていく必要がある。
とりあえずこのまま上司に報告するしかない。検死をしたのが飯山となれば頭ごなしに怒鳴られはしないだろう。
夕暮れ。
もう後一時間もすれば太陽も沈みきり辺りは暗くなるだろう。
麗華の予想はハズレ上司からはこっぴどく怒鳴られた。
「飯山さんも、もう歳だな」
それが上司の感想だ。
とにかく聞き込みを続けるしかないと、被害者の家と会社付近をまわったが手帳には新しい証言は書き込まれていない。
しかたがないので現場を再度見ておこうと公園まで足を運ぶことにした。
土上に現場を見に行くことを携帯で伝えた時に危険だからと反対されたが、被害者を襲った何かが未だにあそこに居るとは思えないことを説明し渋々納得させた。
会社から公園までは電車にのれば2駅だが歩く事にした。
時間的には1時間ほどかかりそうだが歩きながら調べた事をまとめるには丁度いい時間だ。
公園に着いたころにはすっかり日が暮れて公園内の街灯がついていた。
被害者が襲われたのは、街灯と街灯の間、灯りが届きにくい場所だった。
「こんなに暗かったの……」
思ったよりも暗く明りが無ければ周りの状況を確認することも難しい。
麗華は鞄からポータブルの懐中電灯を取りだし辺りをてらした。
遠くで走る車の音と風に擦られた木々の葉の音がするだけで静かな公園だ。
『やっぱりおかしい。これだけ静かなら被害者の叫び声くらい辺りに響くはず。なのに誰もそれを聞いたと証言していない』
もう一度辺りを照らす。
違和感があった。
明かりを戻すとその違和感の理由がわかった。
照らされているはずの暗闇に暗闇のままな部分がある。
宙に黒い塊が浮いているような感じだ。
距離がある為にはっきりとそれが何なのかはわからない。
麗華はゆっくりと暗闇に近付いていった。
距離感がつかめないがおそらく暗闇まで10メールくらいまで近付いた時に暗闇から横に並んだ赤い2つの光が現れた。
直感で麗華は危険を察知し暗闇から距離をとる為に数歩後ずさりした。
その麗華に向かい赤い光が近付いてくる。
人の顔?
それは巨大なマネキンの顔のようだった。口が耳元まで裂けている。左右に2枚づつ鳥のような4枚の翼が生えている。腕はない。頭に翼が生えただけの何かだ。
その顔マネキンの目が赤く光っている。
飯山が話していた傷口の大きさと同じ大きな口から赤い舌と白い牙が見えている。
「こ、これが犯人……」
人でないそれを犯人と呼ぶべきかは別として、間違いなく被害者を襲ったのはこのマネキンのような頭をもった何かだと結論づけた。
とっさに左胸の辺りに右手が動く。
拳銃所持の許可を受けていなかったのを思い出した。
顔マネキンが麗華を睨む。
目が合った気がした。
その瞬間、辺りの雰囲気が変わった。
気温が下がったかのようだ。
同時に暗闇だったはずの辺りが明るくなった。
何の音も聞こえない。先ほどまで聞こえていた音が一切聞こえなくなっていた。
自分の口から漏れる息が白い。
首筋がチリチリと痛い。
顔マネキンがゆっくりと近付いてくる。
麗華は走って逃げたかったが何故か気持ちと体がバラバラのように動かない。
『金縛り?』
本当に恐怖したとき人は動けなくなる。
交通事故などはその典型的な状態だ。危険を察すると人は体が委縮する。本能的に体を丸めようとしてしまうのだ。
その場から急いで立ち退けば助かったかもしれない状況でも座り込んでしまう人すらいる。
麗華の脳裏に食いちぎられた男の遺体が浮かんだ。
叫びたかったが声がでない。
被害者も今の自分と同じ状態だった、だから誰にも気付かれずに食われたのだ。
死ぬ。
刑事になった時から危険が付きまとうことは覚悟していた。
だが自分が死ぬことすら恐れずに犯罪に立ち向かえるかといえば嘘だ。
実際、警官になって死ぬような場面に出くわしたことなど無かった。
海外と違い死を覚悟しなければならない捜査はかなり限定されている。
凶悪犯罪と呼ばれてはいるが、捜査員に危険が及ぶような事はほぼ無い。
凶悪なのは犯罪の手口を表すだけで逮捕時まで危険という事はほとんど無いのだ。
突然、自分と顔マネキンの間に黒い何かが上から落ちてきた。
何の音もなかった。
明りに照らされてスーツを着た男だとわかった。黒か紺。暗い色のスーツだ。
「動くな」
マネキンに向かって言ったのか自分になのかわからないが、逃げろと言われても動けない、声すらあげられないのだから言葉にしたがうしかない。
見ると男の両手に銃が握られている。
警察資料でも見たことのない形をしている。
警察で支給されている小型ではなくかなり大型の拳銃だ。
「やはりこの辺をまだうろついていたか」
やはり?
この男はこの生き物が何かを知っている。
あの事件を起こした犯人だとわかっていてここにいるのだ。
男が右の銃だけを構えた。
「でかい的だな」
どこか緊張感が無い。
引き金が引かれた。
轟音と共に弾丸が顔マネキンに向かって放たれる。
眉間に命中したのに顔マネキンは一瞬後ろに押されたようになっただけでブルブルと頭を揺らし再びその巨大な口を開け牙を光らせた。
恐らく薄い鉄板なら打ち抜くであろうその弾丸を受けて平気な顔をしている。
どうやら弾丸は顔マネキンに当たる寸前で見えない何かに弾かれたようだった。
ガン!
2発目も同じだ。
「さすがに普通の弾は弾きやがるか」
今度は両手の銃を向ける。
「数で押せばどうかな」
連続で引き金が引かれ2丁の銃が火を吹いた。
雨のように弾丸が襲いかかる。
顔マネキンの前に弾かれた弾丸がボトボトと落ちる。
どのような仕組みになっているのか撃ち続ける拳銃は弾を補給することもないのに弾切れが起きていない。
地面に弾丸が敷き詰められていく。
それでも顔マネキンは怯んだ様子がない。
「硬すぎだぜ」
左右の銃をクルリと回転させると手の中から銃が消えた。
男が何かを呟いた。
何を口にしたかまではわからない。
すると男の手の中に先程よりもさらに大きな銃が現れた。
ライフル。
ハンターが使う大型の銃だ。
男は構えると
「こいつはどうだ」
そう言って引き金を引いた。
放たれた弾丸は顔マネキンの前にある見えない壁を貫く。
眉間ではなく左目に命中した。
『キー!』
叫び声なのかマネキンが声をだした。
徐々に後ろに下がり始めた顔マネキンに向かい男は銃を構えたままだ。
やがて暗闇の中に顔マネキンは消えていった。
「とりあえずは引いたか」
男の手から銃が消えていた。
とたんに麗華は息を大きく吸い込んだ。
『私、息をしてなかった?』
動きがとれない間、体の全ての機能が停止していたかのようだった。
「さてと」
男が初めて振り返った。
暗闇に戻った為、あまり顔がはっきりしない。
「あ、あなたは……」
男が近付いてくる。
「お前、どこのエージェントだ」
「エージェント? 何それ」
男は自分の考えが違っていたのを知るともう興味がなさそうな素振りしている。
ポケットから小さな金属の筒を取り出した。
「それよりも、今のは何! あなたは……」
何者かと聞こうとしたが、漂う匂いを嗅いだ瞬間に意識が途切れた。
そのまま深い闇の中へ落ちていく自分を感じ麗華は何もわからなくなった。
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