一章
記憶喪失の勇者①
うるさい。体を揺するんじゃない。誰だ、香澄か? それとも、夏美か? ああ、分かった。起きるから、耳元で叫ぶのは止めてくれ。
脳髄まで響く声を疎ましく思いながら、俺は重い瞼を持ち上げた。
光が眩しかった。電気とは違う自然の光、太陽の輝きは俺の目を焼き尽くそうとサンサンと照り付ける。
……太陽?
いや、おかしい。俺は外に出てなんかいない。だが、ここは明らかに外だ。目に映るのは天井ではなく空だし、電球ではなく太陽だ。それに心地よい風も感じる。下は土と草か? 草原のような場所に何故か居た。
周りには連立した木と壊れた大きな石の柱。壊れる前は恐らく柱だけで俺のボロアパートよりデカい。俺の記憶と照らし合わせて一致するのは、ギリシャの神殿の柱。それと比べても遜色ない。
色々と疑問はある。ここはどこだ? とか何故俺は外にいるか、だとか。
そんなことがどうでもいいと思えてしまう、それが隣にはあった。
女の子だ。目には大量の涙。それが玉のようになって、俺の額へとポツポツと降ってくる。
誰だこいつは? 顔をじっくりと凝視するが、覚えがない。見たら一生忘れなさそうな整った顔立ちをしているというのに。
鼻が高く目が青い、日本人離れした美貌を持ち合わしている。髪は肩の辺りまでで切り揃えられている。その髪は目を引くほど真っ白だった。低身長で童顔、俺とタメ、もしくは歳下の印象だ。
その後ろにはもう一人いた。長い黒髪の女だ。目付きが鋭く、そして赤い瞳をしている。長身でスラッと伸びた脚、白い女とは違い、歳上の印象を受けた。
どちらも美女であることは間違いない。海外の女優と言うには少し体が貧相な気もするが、通じないことはないといったレベルだ。
二人共に共通して疑問があった。
それは服装についてだ。いや、お洒落だとかダサいだとか言う話ではない。かといってこの場に相応しくない格好というわけでもない。むしろぴったりだと言えるだろう。
白の女は、いわゆるローブ。イメージとしてはファンタジーの世界の魔法使い。白のローブで、少し大きめのフードが付いている。所々に緑色で四角が不規則に並んでいて、何かの模様のようだ。
黒髪の女は、銀色の鉄線で編んだものを着込んでいるようで、腹や肘、膝などから禍々しく覗いている。鉄のセーターとでも言おうその上からは、麻で出来た服を着ている。
それを見た後に気付いた。俺自身も黒髪の女と似たような服を着ている。こんな服は持っていないし、着た覚えもない。
俺の知らぬところで何かが起きている。
見覚えのない場所に見覚えない人物。俺の知っているものが一つもない。俺の見ているものが全て虚像のような、そんな錯覚さえも起こす。
まるで違う世界に居るようだ。
そこで何かが頭の中を駆け巡った。酷い頭痛と共に色々と思い出してきた。
ああ、そうか。今は俺であって俺じゃないのか。
あれは夢ではなかった。俺の妄想ではなかった。確かに俺は鏡の世界に行き、俺に会った。そして、今この有り様か。
俺は周りが驚くのも気にせずにむくりと起き上がった。
自分の体を見れる範囲内でくまなくチェックをする。手や足、体なんかを重点的に。確認して気付いた。薄々勘づいていたことだが、この体は本来の俺のものでない。あっちの俺のものだ。
服が違う時点で察しが付いてた。体の傷や筋肉の付き具合、それは俺のものではない。
傷はほとんどが刺し傷や切り傷。といっても俺の世界で体感することはほとんどないであろうレベルのものだ。例えるなら、刀傷。それが無数に体にあった。
いきなり自分の体を凝視するものだから、目の前の彼女達は困惑して俺に話しかける。
「だ、大丈夫? 怪我したの?」
「ん、いや、してない」
「そう、良かった。リュウガにもしものことがあったら、私どうしようかと……」
「龍牙……」
「どうしたの?」
そうか、龍牙か。あっちの俺も同じ名前なんだな。
宮野龍牙。それが俺の名前だ。そして、あっちの俺の名前でもあるはずだ。
俺が自分の名前を不思議そうに呟いたから疑問に思ったのだろうか、白の彼女は俺に寄り添って、顔を凝視してくる。
「本当にどうしたの? 鏡の迷宮に行ってからおかしいよ?」
「い、いや、大丈夫だ」
俺だって、彼女がいる身だ。それに妹だっている。全く女性経験がないわけじゃない。それでも、こんな近くでモデル顔負けの美貌を持った美女に迫られると、緊張だってしてしまう。
この子とあっちの俺は親密な関係なのだろうか? 付き合っている……ふうではない。ただ彼女が慕っている、そう見える。まだこの関係であるということは、奴は気付いてないのか? こんな分かりやすく接しているのに?
俺も彼女である夏美に鈍感だと言われたことがあるが、奴はよっぽどだろう。それとも、他人に向けられている好意だから分かるのか?
彼女の潤む目から、俺を本気で心配していることが窺える。
俺の服をギュッと掴んだその小さな手を俺は自然と握っていた。精一杯の笑顔で大丈夫だと伝えると、ふっと手を離した。
だけど、彼女は晴れない。むしろ、表情はさっきよりもどんよりと曇っていく。
「やっぱりおかしい」
「え?」
「リュウガはそんな顔で笑わない。もっと引き攣った笑み。普通の笑顔は下手くそなくせに、人を嘲笑う時だけは一丁前の笑顔なの。後、リュウガはギザなの。自信に満ち溢れてて、慰める時はおかしなことを言う。間違っても普通の優しさなんか見せない。ひねくれた優しさだけなの」
「えっと……」
彼女は少し早口であっちの俺の特徴をベラベラと語っていく。どうやら俺は地雷を踏んでしまったらしい。
確かに俺はあっちの俺とは、性格が大きく異なる。鏡の世界でもそれは十分に体感した。
しかしこうも簡単に見破られるとは思っていなかった。よほど彼女が奴のことを知り尽くしているか、もしくは奴がよほど変わった性格をしているか。いや、両方か。
どちらにしろ、俺は危機的状況だ。何も分からない世界で敵を作ることは避けたい。せっかくの味方候補だ。敵に回すなんて勿体ない。
こうなったら、仕方が無い。俺はある作戦を思い付いた。
「君は誰だ?」
「え?」
「俺のことをそんなに詳しく知ってるのか?」
「え? え?」
「俺は龍牙だ。それしか、思い出せない。ここがどこか、君達が誰なのかも分からない」
「記憶喪失……?」
彼女の目の焦点が合っていない。壊れたロボットのように同じ言葉をただ発している。
それに動揺したのか、後ろに控えていた黒髪の女も俺の方に寄ってくる。
「記憶喪失……本当か?」
「ああ、何も思い出せない」
「いつものタチの悪い冗談じゃないんだな?」
「俺はそんなことを言っていたのか? 悪かった」
「……っ! お前からそんな言葉が出るなんて……寒気がする。だが、これは緊急事態だ。勇者の記憶が失われたなんてことになれば、抑制されていた悪魔達がどう動くか」
「勇者……悪魔……」
この勇者というのは俺のことか? そして悪魔だ? 何のことだ。ゲームの話……じゃないよな。この世界の文明は見たところ遅れていそうだし。
ゲームなんて作れるくらいなら、こんなもう少し近代的な服装だろうし。どう見たって文明は俺の世界より低い。
ただ昔の世界というわけではない。違う何かが発展している世界のはずだ。
俺の予想では不思議な何か。あっちの俺が俺を吹き飛ばした時に使ったような不思議な技だ。それにあの鏡の世界に引き込んだのもあいつだろう。
イメージとしてはファンタジーに近いはずだ。それならこの服装や周りの情景も納得がいく。魔法や超能力のような何か。俺の世界には無いもののはずだ。あったとしても明るみには出ていない。
俺が勇者や悪魔といった言葉に疑問を抱いているのを見てか、二人共本当に記憶喪失をしたと思ってくれたようだ。ひとまず安心だ。
「ど、どうしよう。記憶喪失なんて……私のプルーフじゃ多分治せない」
「記憶喪失なんてものは、基本的に一時的なもののはずだ。勇者の力を持っているリュウガだ、治るのも早いだろう」
「で、でも、戻らないと思うと……」
二人は神妙そうな顔で俯く。悪いが俺もこっちの世界で生きるためには仕方ないことなんだ。中身が別だと分かればどうなるか分かったものじゃない。それに俺は勇者らしい。勇者といえば重要な役割であるはずだ。それが別人となれば尚更に。
俺はしばらくは道化を演じる。何も知らない無知であり続ける。何、この世界では本当に知らないことも多いんだ。仮に演技をしなくても十分に通用する。
とりあえず知らなくてはいけないことが幾つかある。
まず、この世界について。勇者や悪魔といった存在や魔法のようなものの存在。
次にこの二人についてだ。恐らくはあっちの俺の仲間のはずだ。見たところ白の女は、回復――ゲームでいうヒーラー的な役割のはずだ。そして、黒髪の女は剣士だろうか? いや、格闘家か? 防刃の服を着ているようだから、近接戦闘が得意なタイプではあると思う。見たところ鍛えているようだし。
筋肉隆々というわけではない、だが無駄のないしなやかな筋肉を持っている。ボディビルダーのような筋肉ではなく、ボクサーのような筋肉。パワーではなく、スピードでといったような、実戦重視の体をしているといえるだろう。この今の俺の体も同じだ。
俺は今の記憶喪失という状態をフルに活かし、二人から怪しまれることなく聞き出す。
「君達は誰なんだ?」
聞く順番としてはこれが正しいはずだ。世界のことを聞くにしても、いきなりじゃあ不自然だ。最初に取り乱していれば、それも自然だったかも知れないが。
別に気にする事はない。どうせ、全ての情報を聞き出すつもりだ。最悪一人になってもしばらくは生き残れるように。
とりあえずは、食料にあり付けるようにしたい。この体であれば、動物ぐらいは殺すことが出来るだろうか? 駄目だ、俺に解体の知識などない。そのまま食べれるようなものでなくては。
それでも駄目だ。例えば果物。毒が含まれていた場合どうする? 元の世界ならまだしもこの世界の食べ物に関する知識など皆無だ。
やはり、街で食料を買う必要がある。だが、金はどうする? 少なくとも今の俺は身に付けていない。
物乞いのようなものをすれば可能か? それとも食べ物に関する情報を聞くか。どちらにしろ、一度は街に出向く必要がある。
二人に不自然に思われないように、俺は笑顔を見せる。どうも逆効果のようだが。
「私達のことも忘れているとはな……困ったものだ」
「悪いな」
「いや、気にするな。お前が悪いわけじゃない」
「俺の記憶が無くなったことに心当たりがあるのか?」
「ああ、まずは私達の自己紹介からにしようか」
「頼む」
黒髪の女は少なくとも俺に警戒心は抱いていない。だが、問題は白の女だ。彼女はあっちの俺に好意を抱いているからだろう、俺の変化が不気味のようだ。魔法のような存在もあるようだから、別人の可能性も頭に入れているのだろう。
白の女は爪を噛んでいて苛立ちのようなものを感じる。血走った目は俺をギラギラと睨み付けている。
初めて、女の子に対して恐怖というものを感じた。
「私はレイナ、一応君の仲間で剣士だ」
「レイナか、それにしても剣士という割には物はないようだけど……」
「まあ、それは気にしないでくれ。今のお前には必要ないことだ」
「……分かった」
「物分りが良くて助かるよ。元に戻ってもそこだけはそのままでいて欲しいものだ」
「元の俺がどんなのかは分からないが、そんなに酷いのか?」
「酷いというか、性格に難ありという感じだな。良い奴ではあるんだが、まあひねくれていてな」
「そ、そうか……」
こいつらの関係は良く分からないな。仲が悪いわけでもないようだが、とても良いということも無さそうだ。憎まれ口を叩き合うような関係なのだろうか? 少なくともレイナと名乗った彼女とは。
レイナのことは分かった。一番俺が危ないと感じている白の女の情報が知りたい。
俺はレイナに目を配らせ、彼女の情報が知りたいと訴える。
「ああ、サツキ。君も自己紹介を」
レイナからの紹介を受け、サツキと呼ばれる女は顔を上げる。目は俺の方をしっかりと見据えている。
その目は、俺の心の中まで覗かれているような気さえしてくる。
彼女の赤い目から刺すような視線。俺は近付いてくるサツキに気圧されて、反射的に後ずさる。
「サツキ」
「えっと、それだけか?」
「私のことを覚えていないリュウガなんて知らない」
彼女は怒りとも悲しみとも取れる表情をしていた。自分が忘れられたことに腹が立ち、悲しんでいる。
申し訳なく思うが、俺にはあいつの記憶はない。あいつの性格すらまともに把握し切っていないのだから、真似事すら出来ない。
俺は涙を拭ってやろうとした。だけど、恐らくまた拒絶される。
「頑張って、サツキのことを知るよ」
それしか言えない。俺には奴の代わりは務まらない。だから、サツキを悲しませないようにだけしようと思う。それにはまだ、しばらくの時間はかかりそうだ。
サツキは沈黙。打ち解けるまでにどれだけの時間を費やすか。
彼女が奴に向けていたのと同等の表情を見ることが出来るのだろうか?
俺は早くこの世界について知り、慣れないといけないようだ。
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