ミラーワールド〜もう一人の自分

京那珂時雨《きょうなかしぐれ》

プロローグ

不幸なんかじゃない

 機嫌が悪かった。俺の身に起こる全てのことが嫌で仕方無かった。


 何で、何で、俺がこんなに不幸でなければいけないんだ。憐れむな、哀れむな、こんな俺を見るな。


 鏡の中の俺はそれはもう酷い有り様だった。涙で腫らした目がこれでもかというぐらいに強調されている。掻き毟ったボサボサの髪は何日も洗っていない。


 俺の脳裏焼き付けられるのは燃え盛る自宅。喉が焦げ付きそうなくらいの熱気にむせ返りながら、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 社長の親父を恨んでいた元社員が家にガソリンをぶちまけて、火を放ったらしい。運良く出掛けていた俺と妹は死なずに済んだが、親父と母親は殺されてしまった。火葬なんて必要がないくらいに良く燃やしてくれた。


 この報告を受けて、友人や彼女は俺を慰めた。「辛かっただろう」とか「お前が生きてて良かったよ」とか「何かあったら言えよ」とか。

 その優しさが辛かった。俺は不幸なんだと実感させられるからだ。妹の空元気が辛かった。不甲斐ない俺との差が明確になるからだ。


 もうどうでも良かった。俺は特別親を慕っていたわけでもないし、ごく普通の家族関係だったと思う。ただ、不幸のレッテルを貼られるのが嫌だった。今まで何不自由ない生活をしてきた代償だろうか? 不幸になった途端、自分が何も出来ない甘ったれた奴だと分かった。

 全てを捨てて逃げ出したかった。妹も彼女も友人も。もう俺は消えてしまいたかった。


 鏡の前に立つ俺が不気味に笑う。ニヤけたその歪んだ笑みに腹が立って仕方無かった。

 安いアパートの洗面台の鏡を粉々になるまで殴り付けた。拳が傷付こうが、破片が飛び散ろうが、俺には関係の無いことだ。

 真っ赤に染まった鏡は、まだ笑っていた。どうしたんだ? もう終わりか? と俺を嘲笑うかのように。


 自分の中で何かがプツリと切れた。怒りに任せて、自分の腕を大きく振るう。血塗れの拳が鏡に激突する――いや、しなかった。不思議と衝撃は感じず、前に目をやると拳が鏡に呑み込まれていた。そのまま勢いを殺し切れなかった俺は鏡の世界に放り出された。


 そこは真っ暗でなにも見えない。しかし、振り返ると人がやっと通れそうなくらいの穴があった。そこからあの安いアパートの洗面台が見えた。

 俺はこの鏡の向こう側に来てしまったということだ。


 遂に頭が可笑しくなったのか? まだ酒もクスリもやってないっていうのに。幻覚にしてはやけに鮮明で、そのことが余計に俺を混乱させた。


 真っ暗な鏡の世界に声が響いた。その声はやけに聞き覚えがあった。低くも高くもない男の声だった。

 少し顔を上げると、足が見えた。こいつが声の主だ。見えた足には、履きやすそうな薄汚れた革のブーツ、土がこびり付いていて、相当年季が入っていそうだ。


 俺は少し恐怖にも似た感情を感じながらも、顔をしっかりと上にあげた。

 着心地の悪そうな布で作ったシャツに肩半分を隠すように出来た革のベストを羽織っていて、ズボンも恐らく服と似たような素材だろう。それらはブーツと同じように土などで汚れていた。

 自分と身長はほとんど変わらないが、筋肉は付いていた。何か格闘技のようなものを数年は全力でやらないと付かなさそうな、しなやかながらもがっしりとした筋肉だ。

 体格に合わず、目は大きく可愛げがあった。髪も短く切り揃え、五人のうち四人は好青年だというような顔立ちをしている。


 これは恐怖というよりも困惑に近い感情だった。絶対にこの目で直接見ることの出来ないものが、目の前にあった――居たのだ。


 目の前にいた人間は、俺だった。目も鼻も口も耳もそっくりそのままだった。道理で聞き覚えのある声のわけだ。自分の声なのだから。

 目の前の奴と自分の相違点を探す方が難しい。違うのは、服や髪型ぐらいのものだ。後はガタイの良さ。でも、そんなのは些細なことだ。顔が同じ、これだけで十分過ぎる。

 目の前の俺は一体誰だ? 俺には妹以外に兄妹はいない。


 そこで俺は思い出した。ここが鏡の中だと言うことを。つまりあいつは本当に俺自身だ。

 目の前の俺はさっきのような気持ち悪い笑みを貼り付けて、俺にこう語りかける。


「よう、俺」


 俺にしてはやや男らしい印象を受ける声色だった。きっと、こいつは俺であって俺じゃない。そう直感した。


 だから俺はこいつに、


「誰だよ」


 と問い掛けた。するとあいつはより一層顔を歪ませ、


「お前だよ」


 と淡々と告げた。俺はこいつの表情が醜く、下手な笑顔だと思った。口角をただ吊り上げただけの笑み、そこには感情は見えなかった。むしろ、俺を威圧するような、蔑むような、そんな下手な笑みに見えた。


 俺はそれに張り合うように笑みを浮かべた。きっと、こいつに負けず劣らずの下手くそな笑みだろう。


 それが気に入ったのか、こいつは「いいね」と言いさっきとは違う、人らしい笑顔をしていた。


「お前は俺で、俺はお前だ」


「ドッペルゲンガーか、何かなのか?」


「ドッペルゲンガー? ああ、見たら死ぬとかっていう」


「お前はそれか?」


「いいや、現に死んでないだろ? それに俺からすれば、お前がドッペルゲンガーだよ」


「お前は偽物じゃないのか?」


「言ったろう? 俺はお前だって」


 考えれば考える程に頭が混乱する。ドッペルゲンガーという怪奇の類いかと考えたがそれも違う。なら、何だというのだ。

 俺はお前で、お前は俺。その割にはこいつは俺でありながら、俺でない。服装や体格、鏡写しのように見えてそうではない。


 もう降参だ。俺のちっぽけな頭じゃ分かりそうにない。

 手を挙げて頭を振り、降参だとアピールする。


「まあ、仕方ないか。お前の世界じゃ知れないようなことだしな」


「俺の世界? お前とは別の世界なのか?」


「ああ、お前らからすれば羨ましいかも知れないし、羨ましくないかも知れない世界だ」


「何だそれ」


「俺からすれば、お前の世界は羨ましいけどな。安全で楽しい、いい世界だ」


「そうでもないさ、俺はこんな世界嫌いだよ」


「そうか、なら安心した」


「何が?」


「俺も自分の世界には飽き飽きしてたところなんだ」


 俺は頭に疑問を浮かべる。自分の世界に飽きた。だから何だというのだ。

 言葉の意味が理解出来ない。これが俺の世界では知れないようなことなのか? 何もかもがさっぱりだ。


 こいつは馬鹿にするように鼻を鳴らして、俺の方にゆっくりと歩いて来る。


「俺とお前は入れ替わる。まあ何、悪いばかりの世界じゃないさ」


「入れ替わるって何言って……」


「両方共、自分の世界には飽きた。いいじゃねぇか、俺もお前も楽しめるんだからよ」


「待てよ。俺はいいなんて一言も」


「主導権は俺にある。なーに、飽きたら戻してやるよ」


「おい!」


 あいつはカツカツと足音を立てて、俺の後ろの方に歩いて行く。そこには俺の世界が見える穴がある。

 あいつが近付いた瞬間、穴は大きく広がり、人が通れるサイズになる。手をかけて、そのまま潜り抜けようとした時、あいつは俺の方に振り返った。


「ああ、忘れてた」


 ピンっと指を弾いたかと思うと、俺の体は宙に浮いていた。あいつはニヤリと笑って、手をぶんぶんと大袈裟に振る。


「楽しんで来いよ! 俺もこっちでよろしくやっとくからよ!」


「死ね! 糞がッ!」


「ハハッ、血気盛んなこった」


 あいつは目の前から消え、穴は元から無かったかのようにふっと閉じて消えた。


 ああ、糞が。何で俺ばっかりこんな目に。


 これから鏡に見る度にあいつのムカつく顔がチラつきそうだ。


 飛びながらにして思った。

 次あいつに会った時は全力でぶん殴ってやる。仮に死にかけていたとしたら、とどめを刺すぐらいの強烈なやつを。


 それまでしばらくの間違う世界に行かないといけないのか。


 あいつを見る限り、文明は俺の世界と同等レベルの発展は見込めなさそうだ。

 スマホ、なんてきっとあるわけがない。もしかしたら、電気さえも。

 それに今から行く別の世界には、恐らく不思議なことが山ほどあるだろう。

 この鏡の世界も然り、あいつが俺を吹き飛ばした奇妙な技も。全てがあいつの世界では普通なのだろう。

 俺の世界では科学が発展しているように、あいつの世界では不思議な何かが発展している。


 あいつは楽しめと言った。なら、楽しんでやろうじゃないか。

 俺からしても悪い話じゃないんだ。嫌な世界から逃れられるのだから。


 全てを放り出して別の世界へ……悪くない。


 どんな世界であっても今の俺の世界よりはマシなはずだ。それに不思議な何かが発展した世界、まるでファンタジーの世界で楽しそうじゃないか。


 そうだ。悪いことばかりじゃない。俺は不幸なんかじゃない。


 ――ああ、待ってろ。嫌なことを忘れられる素晴らしい世界よ。

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