3章 おわりに

1 耳なし芳一

第42話 琵琶法師

 平家物語のジャンルは軍記物で、鎌倉時代にできたそうです。

 当時のボクは知りませんでした。


 ボクが亡くなったのは、平安時代と鎌倉時代の間。

 平家を滅ぼした功労者と言われていますが、鎌倉幕府の成立が1185年だとちょっと生きてますが、1192年だと平安時代に死んでることになります。


 鎌倉時代のはじまりは1185年(兄上が守護・地頭を置く権限を得られた年)~1192年(兄上が征夷大将軍に就任した年)だそうです。


 この間に、ゆるやかに鎌倉時代になったということらしいです。

 この辺りは教科書を読んでください。


 その時間を生きていた人間には、時代の変わり目とか関係ありません。

 年号なんて勝手に変わってしまいます。西暦は知らなかったし。


 ボクが死んだ後に、流行った物語で

 死んでるわけだから、どう伝わって来たのかもわかりません。


 メインキャラなのにね。


 平家物語はいつできたかわからないお話だそうです。

 作者もわかっていないらしいです。


 琵琶法師という人たちが、琵琶を弾きながらお話していたそうで、口伝というものです。文字ではなく人々の口で伝えられます。


 その様子は、『耳なし芳一』を読むと、わかるような気がします。

 ボクもそれは想像するしかないんですけど。


 琵琶法師は目の見えない人が多くやっている職業だったそうです。

『耳なし芳一』は目の見えない琵琶法師が平家の怨霊に平曲を聞かせるという話です。


 芳一はお坊さんではなくて、琵琶と語りが上手だったためにお寺の和尚さんに気に入られてお寺にいた人だったようです。

 絵本にはそう書かれていました。


 法師なのに、お坊さんじゃないんだ?

 鎌倉時代くらいに琵琶法師によって語られ、

「こういう風に話したらウケた」のように、琵琶法師のアレンジも加えられていったようです。


 平家の栄枯盛衰えーこせーすいみたいなのが書かれている話だから、ボクは悪役扱いなのかと思いましたが、意外とカッコよく書かれていました。


 でも、ボクが注目を浴びたのは室町時代の義経記みたいです。

 義経記は創作度が高いみたいです。ボクの死後200年ごろから書かれたそうなので、仕方がないのかな?

 それを元に、歌舞伎の義経千本桜や勧進帳などが作られたみたいです。


 そこで色白優男のイメージがついたようです。

 鎌倉幕府の公式文書の吾妻鏡には色黒出っ歯とか書いてあるそうですが、あれは悪口書いてるだけです。


 本人も見ずに適当に言ってるだけです。

 当時だって、会ってしゃべっている人は、そんなに居ません。


 それなのに、知り尽くしているかのように、ボクのことが語られています。

 勝手なイメージ付けて、勝手に英雄にしたり悪人にしたりしています。ボクは何も変わっていないのに、噂だけひとり歩きします。


 当時だって初めて会った人に「こんなにかわいらしいとは思ってなかったです」と驚かれることも少なくありませんでした。いい意味で言ってくれている場合もありましたが、そうでないこともありました。


 とりあえず、『いい意味』と受け取って話しましたけどね。

 嫌味で言われていたとしても、ニコニコしていればたいてい丸め込めます。それで上層部に気に入られて、盆暗どもに嫌われました。


 いつも思うんだけど、『世界はお前中心に動いてんじゃないんだよ。誰もがちやほやしてくれるとおもったら大間違いなんだからな』って言う人に限ってちやほやされたいんだよね。逆恨みもいいところです。


 別にこっちはちやほやされたいなんて思っていません。

 役目があるからそれをこなしてただけです。


 それなのにボクの方がちやほやされてすみません。

 そもそもそういうヤツにちやほやされたいなんて思ってないからな。


『文句があったらボクじゃなくてボクの仲間を通して言ってくれ。ボクのつっよい仲間がお前のことボコボコにすんだぞ』と心の中では思ってました。


 虎の威を借る狐です。

 こんなのが主人になって、ごめんよ、みんな……。とたまに思う。




***




 平家物語に話を戻します。

 平家物語では、平家という一族はこのようにのし上がり、こんなにひどいことをしていました。という感じの話でした。


 日本の半分の土地を荘園として持ち、清盛様や親族は高位に着き、そこから給料をもらい、荘園からの年貢を手にして、税金はほとんど払っていなかったそうです。

 国を動かしていたのは平家、というところからはじまります。


 それで、最後は壇ノ浦で滅びます。

 その後の、生き残った建礼門院けんれいもんいん徳子とくこ様のお話が描かれたりする部分もあるそうですが、人気があるのが『敦盛の最期』『扇の的』『壇ノ浦』らしいです。




***




 平安時代などは、文字を読める人が少なかったです。

 ボクは鞍馬山などで習わされました。


 虎の巻とか読んでたらしいです。

 中国の兵法の極意が載っている書物です。


 ひとりでこつこつ勉学をするには、文字はいいです。

 先生が目の前にいなくても学べます。


 ただ、ボクは実践派というか、いろいろな人に直接教えていただくことができました。文と武を両方習っていた感じです。


 ……武に偏りがちだった面は否めません。

 得意なことを伸ばそうがボクの信条です。


 得意なことは自分でやって、苦手なことはそれが得意な人に任せたいです。




***




 文字が読めない人が多かったので、口伝くでんという口で伝える方法が出ました。平家の人たちの悲しいお話を何が何でも伝えたいという感じでもなかったのかなと思います。


 琵琶法師も、お坊さんが説法をするために行っていたりというのもあったようです。それとは別に、お坊さんの格好をして、楽器の琵琶を弾きながら平家物語を語る人もいたそうです。


 物語を聞かせて、お金をいただく芸人だったそうです。

 日本の古い娯楽のひとつだったのでしょう。


 説法と聞くと嫌がるけれど、おもしろい物語の合間に教えを入れると聞いてもらえるというのがあったのかもしれません。

 平家物語の場合、『おごり高ぶってはいけません』という教えがあるのかもしれません。


 あとは、人間の欲深さなどが目に付きます。

 それを戒めるために考え出された物語なのかもしれません。


 だから、平家物語は吾妻鏡などの鎌倉幕府の公式文書と異なる部分があるそうです。平家物語は娯楽メインです。聞いている人たちが喜ぶ物になっていきました。


 ただし、一概にそうとも言い切れません。

 梶原景時とさか櫓でもめた話はここでも取り上げましたが、義経が屋島攻略をしていた時、吾妻鏡だと景時は範頼兄ちゃんと九州にいたとなっているそうです。


 吾妻鏡は景時が書き直させたかもしれません。

 自分にとって恥だから、そんな事実はありませんでしたとかってことにしそうです。


 兄上の家臣は、まっとうな判断力がない人物が多かったです。

 ただ、勝者の側は、好意的に見てもらえない場合もあります。


 だから悪役にされてしまったということもあり得ます。

 ボクも嫌いでしたが、すでに時が経ちすぎて、誰が嫌いだったかはっきりと覚えていません。


 でも、兄上の家臣はロクなのいませんでした。

 基本的に話が合いません。『なんでもかんでもやめさせたいのか? それともボクのことが嫌いだからボクがしようとすることを全部とめるのか?』と思いました。


 すでに醸し出している空気がボクを嫌っていました。

 『外見がおとなしいボクによくもまあそんな態度ができるなあ、おい』と言いたくなるような態度をいつもされていました。


 おとなし人はそんなこと言わない?

 言わなくても怒るんだよ。


 キュートなので優しくしてもらえることが多かったのに、兄上の家臣の態度はホントにイラっとしました。どこをどうすればここまで盆暗が揃うんだというくらいの盆暗ぞろいでした。


 今となってはそんな昔の話、誰も気にしないのかもしれません。

 でも、人はいつになっても、同じようなことを繰り返すのかもしれません。



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